第6話

 新品のノートを広げるときに、こんなにどきどきしたのはいつぶりだろう、と沙友里は少し緊張した顔でまっさらな紙面を眺めた。

「うーん、どうしよう……」

 規則正しく引かれた罫線は、薄いブルー。何の変哲もない、いわゆる大学ノートと呼ばれるタイプのものである。

 まさか自分が物語を書くことになるなんて、と沙友里は信じられない気持ちだった。なりゆき、と呼ぶのは正しくないだろう。なにせ、言い出したのは沙友里の方なのだから。

「なんであんなこと、言っちゃったのかなあ」

 スマホの画面を意味もなくつけたり消したりして、沙友里はひとりでぼやいた。ここのところ、ずいぶん独り言が増えた気がする。

 新しい世界をつくってみたい。

 それはたぶん、唐突に沸き上がった考えではないのだろうと、沙友里は自分の気持ちを見つめてみる。学校の教室で本を開いていた小学四年生のころの沙友里は、自分の中に「わたしもおはなしをつくりたい」という思いが芽生えていくのを、たしかに感じていた。本を読まなくなってからは、すっかり忘れていたけれど。このところの読書を中心にした生活の中で、呼び覚まされたような気がした。

「呼び覚まされた、て。そんな大げさな」

 早くもショーセツカ気取りなんだろうか、と思ったら、沙友里の頬が熱くなった。


文学少女【公式】:あなたのつくる新しい世界、是非、読んでみたい。書いたら、読ませてください。


 「文学少女【公式】」のメッセージを、沙友里は何度も読み返した。読み返すと、今度は頬ではなく胸が熱くなる気がした。どんなひとが運営しているアカウントなのかわからない。けれど、「文学少女【公式】」は沙友里の「あなたにとって、読書って何?」という問いかけに応えてくれた。

 どんなひとかわからないけれど、このひとに自分が書いたものを読んでほしい。

 沙友里は、どうしてもそう思ってしまう自分の気持ちを止められなかった。

「ようし」

 熱くなっていた自分の頬を、沙友里はぴしゃりと叩く。恥ずかしさはあるけれど、それ以上になんだかわくわくしていた。

 書きたい物語は、実はある。まだぼんやりとしているけれど、書き出したらだんだん固まってくるかもしれない。……と、思っていた沙友里は、新品の大学ノートを一ページ埋めたところで早速行き詰まってしまった。

 窓から見える景色について「花が揺れ、鳥が飛んでいる」と書いたところで「地面で揺れている花と、空を飛んでいる鳥を同じ目線で見ることってできないじゃん」と気がついたり、そもそも花はどんな種類で、鳥の名前はなんだろう、と考え込んでしまったり。スマホでぽちぽちと花や鳥について調べてみたけれど、どれも違うような気がしてならず、沙友里の筆は完全に止まってしまった。

「さゆー、お昼ご飯はー? 冷やし中華つくったよー」

「えっ、もうそんな時間なの!?」

 母親がキッチンから呼ぶ声に、沙友里は目を見張った。今日は結構早起きをして、朝食を食べてすぐに机に向かっていたのだ。まだ一時間も経っていないと思っていたのに。

「……おなか、すいた」

 冷やし中華、と聞いて沙友里のおなかが急に空腹感を思い出したらしい。

「お昼食べたら、図書館に行こっかなー」

 スマホから得られる情報ではなくて、図鑑とか写真集とか、書籍を開いたらまた違うものが得られるかもしれない。そう考えるとまたやる気が湧いてきて、沙友里は急いで冷やし中華を平らげ、かんかんに太陽が照り付ける中、家を出た。

 夏休み中はいつも席が埋まっている学習ブースは、昼頃に一度入れ替わりのタイミングを迎えるらしく、空席がいくつかあった。沙友里は図鑑のコーナーにいちばん近い席に荷物を置いてから、花や鳥、星や気象に関する本を何冊か運んできてデスクに広げた。

 本が何冊も広げてある光景、というのはそれだけで気分がいい。それが図鑑や写真集などの、大判で色鮮やかなものであればなおのことだ。沙友里は俄然「書ける」ような気持ちになって、紙面から情報を吸い上げてはノートに反映させていった。

「ふう……」

 一息ついて、何時だろう、とスマホを見ると、母親からメッセージが入っていた。


 小林芳子:さゆ、帰ってくるとき、マヨネーズときゅうり買ってきてくれない? お夕飯に使いたいから、できるだけ早いと嬉しいなあ。


「もー、おかーさんってば……」

 沙友里は小声でぼやき、デスクいっぱいに広げた大判の書籍を順番に返却用のカートに乗せた。沙友里の母はいつも、できるだけ早いと、などと言っておいて、しばらくしたら「まだ?」と電話をかけてくるのである。

 小走りに図書館の自動ドアまで来て、沙友里はふと、トートバッグが来たときよりも軽いような気がして立ち止まった。中を覗くと、肝心のものが入っていなかった。

「あっ、ノート!」

 すぐに図書館の中へ引き返す。デスクの上はきちんと片付けたはずだが、置いてきてしまったのだろうか。それとも、図鑑などと一緒に返却用カートへ置いてしまったか。

 心当たりを頭の中で勢いよく思い浮かべながら学習ブースへ戻ると。

「……え」

 沙友里が先ほどまで使っていたデスクのそばに、見覚えのある姿があった。クラスメイトの、宮本孝弘だ。

「……あ」

 沙友里に気がついて振り返った孝弘は、手にノートを持っていた。

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