第4話

 一日が、ものすごく長く感じられた。夏は明るい時間が長いこともあって、余計にそう思うのかもしれないけれど、いちばんの原因は「気軽に出かけられないこと」だ。

 ボーダートークでのやりとりで、梨都菜が「やることないんだもーん」と言っていたように、沙友里もだんだん何もできない夏休みに退屈してきたのである。

 いつもなら、隣県でひとり暮らしをしている姉の亜沙子がそろそろ帰省してきて、一緒に買い物に行ったり映画を観たりひたすら朝まで喋ったりするのだけれど、今年は帰ってこないので余計につまらない気持ちだった。

「はー」

 沙友里は学習デスクのシャープペンを放り出して、頭をがくん、と後ろにやって天井を眺めた。宿題はまだ残っているけれど、予定よりも早いペースで進んでいるので、この調子なら余裕で片付く。ノートも問題集も閉じた沙友里の手は、自然、読みかけの本に伸びた。

 今年の夏は、とてもたくさん本を読んでいる。沙友里がこんなにも読書に夢中になったのは、小学生以来のことだ。あのころは、寝る間を惜しんで本を読み、学校の休み時間も全部読書に使っていた。小学校の図書室は「青い鳥文庫」がたくさん揃っていて、片っ端から借りてきては読んでいた。

 本をたくさん読むと読解力がつきやすい、というのは一概にはいえないことらしいけれど、沙友里の場合はそれが当てはまったようで、国語の成績もよかった。同級生たちが嫌がっていた漢字テストも、特に苦に思わなかったし、漢字についてはむしろ、授業で習うよりも先に本の中で知ることの方が多いくらいだった。

「さゆりちゃん、また百点!? すごーい!!」

 返却された国語のテストを横から勝手に覗き込んで大げさに叫んだのは、「けいこちゃん」だった。細く釣り気味の目をした女の子だったことを、沙友里はよく覚えている。小学四年生の終り頃だった。

「えーっ、ほんとー? 見せて見せてー!」

「あたしもー!」

 けいこちゃんが叫んだことで、周りの子たちがわっと沙友里を取り囲み、かわるがわる答案用紙を覗いていった。ただすべての回答に丸がつけられて「100」と書かれているだけの紙なのに。

「はい、皆、席について!」

 ぱんぱん、と手を叩いて、当時の担任の先生がいさめてくれたとき、沙友里は心底ホッとした。今も昔も、人の注目を浴びるのは好きではないのだ。

「小林さんはいつも本を読んでいるから国語も得意になったんですね。皆も、小林さんにおすすめの本を教えてもらって読んでみるといいですよ」

 先生がこう言ったとき、沙友里のホッした気持ちがすぐに消え失せて、胸がどきどきしだした。沙友里はサッと頭を下げて、顔を伏せた。教室の全員が沙友里のことを見ているように思え、そこには純粋な感心もあれば、妬みの入り混じる羨望のようなものもあった気がした。

 そんなことがあってから、数日後のことだったと思う。いつものように、沙友里が休み時間に教室で本を読んでいると、机の前に誰かがスッと立った。本から顔を上げると、けいこちゃんが真顔で沙友里を見下ろしていた。

「ねえ、さゆりちゃんって、なんでいつも本ばっかり読んでるの?」

「え……」

 その質問は思いがけないもので、沙友里はすぐに返事ができなかった。なんで、と言われても、というのが今考えても出てくる答えなのだけれど。

「先生に褒められたいから、本を読んでるの?」

「えっ」

 沙友里は、驚いてかたまってしまった。そんなことは、考えたこともなかった。褒められたくて本を読む、とは、それはどういうことなのかと、逆に沙友里が尋ねたいくらいだった。

 かたまったままの沙友里を見て、けいこちゃんはふいっとどこかへ行ってしまった。

 沙友里は特にけいこちゃんと仲がよかったわけではないが、仲が悪かったわけでもない。それはその後も変わらなかったし、読書が原因で誰かとトラブルになるようなこともなかった。ただ、沙友里には、けいこちゃんのあの一言がものすごくショックだった。

 それからだ。本を読む量が減ったのは。

 けいこちゃんは中学進学と同時に遠くへ引っ越して行って、今はもうどこにいるかも知らない。

「あー……」

 沙友里は顔をしかめた。嫌なことを思い出してしまった。高校二年にもなって小学四年生の頃のことをいつまでもぐだぐだ気にしているなんて、バカバカしいと思うのに。

 本に集中できなくなってしまって、沙友里は栞を挟んでデスクに置くと、ベッドにばたん、と倒れこんだ。冷房の直風を受け続けていたらしいタオルケットが、ひんやりと気持ちいい。

 はあ、とため息をつきながら、意味もなくスマホをいじる。ボーダートークには、何の通知も入っていなかった。なんとなく、「文学少女【公式】」のトーク画面を開く。

「あなたにとって、読書って何?」

 沙友里は、声に出して呟きながら、そう打ち込んだ。しばらく眺めて、はは、と乾いた笑いをもらす。ただの開発中アプリ公式アカウントに対して「あなた」も何もないもんだ、と思いながら。そして、打ち込んだ文を消そうとして。

「あっ」


さゆ:あなたにとって、読書って何?


 間違えて、送信ボタンを押してしまった。

「マジかー……」

 うつぶせに寝転んでいた体を仰向けに転がして、沙友里は呻いた。やってしまった、と片頬をぺちぺち叩く。

「……ま、いっか」

 きっと、いつもの文学作品の一節問題だと思うだろう。その作品はわかりませんでした、正解を教えてください、と返ってきたところで、間違えて送信したのだと詫びればいい。

「さゆー、スイカ切ったけど食べるー?」

 キッチンから、母の声が聞こえてきた。食べるー、と返事をして、沙友里はスマホをベッドに放り出すと、部屋を出た。

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