第7話 背信の時
「昴が消えた、だと?」
不意に男の驚いた声が聞こえてきた。昴が進行をやめ、胸の下にある四角い切れ込みに視線を落とす。
どうやら別の部屋に降りられる天板がそこにあり、声は下の部屋から聞こえてきているようだ。
「ボスの声だ……」
「なに?」
「そういえばここ、ボスの部屋の真上かも……」
アザミは血相を変えて天板に頭を突っ込み、天井裏から顔を出した。太陽も物体をすり抜ける違和感を噛み殺して、アザミに倣った。
「うん、そうか。わかった。ああ、こっちは上手くやっておく。姉を殺すと言えば、向こうから出てくるだろうからな。うん、うん……」
部屋はドラマに出てくる大企業の社長室のようだった。
いかにも高そうな絨毯に黒革のソファーが一対、ソファーに挟まれた形で低い木のテーブルが置いてある。周囲には部屋の主の趣味なのか、ロケットなど宇宙関係のフィギュアが飾られていた。声の主は部屋の奥にある高そうな木製のデスクにいた。
スマホ越しに誰かと話している。白髪交じりの金髪に碧眼といういかにも欧米人らしい外見をしているが、話している言語はどういうわけか日本語だった。
「Cherryの話が本当なら、ボスってのがインビジブルのトップのはずだが、電話口は誰だ? インビジブルは日本と関係があるのか?」
アザミの疑問はもっともだ。ここに来て英語ばかり聞いていた。
普通、日本人とアメリカ人がやり取りするなら日本側が英語を話すだろう。英語圏の人間に日本語を使わせている相手がどんな人物なのか、確かに気になる。
考えていると、天井裏にいた昴がひぃと短い悲鳴を上げて震え出したので、太陽達は天井裏に引き上げた。
「ああ、姉さんが始末されてしまう……」
「そこまで盲目的に信じられるのも、それはそれで感心するぜ」
「駄目だ……やっぱり逃げちゃ駄目だ! ここでボスに命を差し出せば、姉さんは……!」
「ちょ……キサマ、ふざけんな!」
今にも天板を開けようとする昴の手をアザミとうさぎが二人がかりで必死に止める。
そんなアザミ達には全く気づくことなく、ボスは機嫌がよさそうに笑い声を上げた。
「いやぁ、いいんだよ。何も勿体なくなんてないさ。あいつはちょっとコンピュータが弄れるだけで、はなから使い捨てなんだから」
「え?」
ボスの声を聞き、昴が動きを止めた。盗み聞きなどされているとも気づかず、階下の男は楽しげに笑った。
「当たり前じゃないか。最初から情なんてない。ただちょっと愛情に飢えているようだったから欲しいものを与えただけだ。洗脳の基本だろう。一人では生きられないよう依存させ、他の情報から遮断し、飴と鞭を使い分ける。都合のいいことに、あいつはあなたの言う弱者だったからね、姉はとっくに死んでいるというのに、姉の名前で送ったメールを姉のものだと信じて慕っていたよ。使いやすくて大助かりだった。そういう意味では捨てるのが惜しいかもな」
昴は目を見開き、拳を握っていた。隣でアザミがやれやれと呆れた様子で首を振る。
「な? 言ったとおりだっただろ?」
「姉さんが、死んでる……? とっくの昔に?」
「これでようやく誰の声を聞くべきかわかったはずだ」
アザミは昴の襟首を掴み、自分の顔に引き寄せた。
「信じるものを失って傷心中のアンタに一ついいことを教えてやるよ。この世界は不平等に出来ている。女、子供、不自由な体、そんなもので簡単に人間は弱者に成り下がる。だがな、そんな世界にも一つだけ、絶対に公平だとアタシが信じていることがある。それは誰にでも強者になる資格があるということだ」
「強者になる資格……?」
「ああ。そこにいるセンパイは自分を虐めてきた相手に復讐して強者になった。そっちのチビは母親を苦痛から救済して強者になった。アンタならいくらでも強者に成り上がる余地はあるだろ。何しろアンタは唯一、この天才PAC様を死に追い詰めた勝者なんだからな」
昴は後ろに控える太陽とうさぎを見比べ、強者という意味についてじっくり反芻し始めた。
少し考える時間を与えようと思ったのか、昴の横にいたアザミがおもむろに立ち上がり、身をかがめながら太陽の隣へ、狭い天井裏を素早く移動してきた。
「ところでセンパイ、アタシのいない間に誰に何を吹き込まれた?」
耳元でそう囁かれ、思わず息を呑む。アザミは何かを確信した様子で、太陽の着るいつもと違う服の裾をピンと引っ張った。
心構えが出来ていればどうとでも誤魔化せただろうに、完全に昴に気を取られていて不意を突かれてしまった。
アザミは予感を確信に変えたようで、忌々しそうに表所を歪めた。
「やはりそういうことか。舐められたもんだぜ。キサマごときがアタシを出し抜けるはずねぇだろ。なぁ、センパイ?」
何も言い返せない。何をしても全て見透かされてしまう。太陽はアザミを騙せると欠片でも思った自分を後悔した。
勝てるわけがない。逃れられるわけがない。
アザミは太陽を強者にしてくれたが、アザミはその遥か上を行く圧倒的な強者なのだ。
(どうしよう? 僕のせいで鳥海さんが影咲さんのターゲットになってしまったら……)
「まぁいい。今回ばかりは事情を説明してねぇアタシにも非はある。何があったのかも記憶を見れば済むことだしな。だがなセンパイ、アタシは心底アンタに失望してんだ。弱者だったアンタに復讐の機会を与え、生まれ変われもしない落ちこぼれを『優』にまで昇格させてやった。その恩を仇で返されるのは我慢ならねぇ。何をしろって言ってるか、わかるな?」
「……Cherryを、生かす……」
アザミは満足げに唇で弧を描くと、昴のもとへ戻っていった。
「決心はついたな?」
「でも……一体どうすれば?」
「安心しろ。これからアンタに繋がった死の運命を断ち切る。そうすればどんな腕利きの掃除屋の弾丸も当たらなくなるし、自殺行為とも言える無茶をしても死ななくなる。心の向くままやってみろ」
指先でボスの部屋に通じる天板をトントンと叩く。昴はごくりと生唾を呑み込むと、恐怖心を鎮めようと深呼吸し、天板を外した。
シュタッ。
昴は一階分の高さを危なげなく降り、殆ど音も立てずに着地した。
驚愕の表情を浮かべるボスと、反射的に昴に銃口を向ける掃除屋の男。ボスは「後でかけ直す」と言って電話を切り、掃除屋にもまだ撃つなと手を上げて合図した。
「
「
昴の言葉を聞いて状況を理解したのだろう。ボスは掃除屋に目配せした。
カチャリと引き金に指がかけられるのを昴は視界の隅で確認する。しかし一切動じることなく、ボスに向き合った。
「
「
「
顔を上げ、キッとボスを睨みつける。赤くにじんだ瞳は怒りで燃えたぎっていた。
ボスは涼しい顔で咳払いすると、それまでの柔和な表情から一変し、嘲笑を浮かべた。
「
「
「
「
昴はシャツにプリントされたさくらんぼを掴み、自分に言い聞かせるように言い放った。
「
昴が窓に向かって駆け出す。後ろにいた掃除屋が背中に銃の照準を合わせ、引き金の指に力を込めた。
バチッ。
太陽の目の中で火花が弾ける。隣にいたアザミは満足げに八重歯を剥き出しにした。
「
駆け出した昴はソファーに足を引っ掛けて転倒する。その瞬間に掃除屋の拳銃が大きな音を立てて弾丸を放ち、昴のすぐそばの絨毯に黒く焦げた穴を開けた。
昴は素早く立ち上がり、驚くほど軽い身のこなしで窓を蹴破り、建物の外へ飛び出した。
「うあああああ!!」
きりきり舞いをする昴のもとへ、アザミとうさぎが駆けつけ、両手を掴む。
二人で翼を懸命にはためかせると、昴の落下速度がかなり緩やかなものになった。
「センパイ、早くしろ! 非力な女二人に重労働させんじゃねぇ!」
「あ、うん……」
太陽も窓の外へ飛び出し、落ちゆく昴の体を引っ張り上げた。割れた窓からボスと掃除屋が身を乗り出し、昴が見えない翼でも得たようにゆっくり降下していく様を見て唖然としていた。
ひらり。
その時、視界の隅に赤い羽根が舞ったのが見えた。羽根につられて太陽が顔を上げると、向かいの建物に深紅の翼を広げた修道服を着た女が立っているのが見えた。
間違いない。終導師の炎華だ。
(なんであの人がこんな所にいるんだ?)
昴にも炎華の姿が見えたらしく、ゆっくりと落ちながら凝視していた。炎華は意味深な表情で口角を吊り上げると、深紅の翼をはためかせて遠くの空へ飛び立っていった。
プーとクラクションが鳴る。タイミングよく一台のトラックが昴の真下へ滑り込んできた。
荷台には壊れた家具を沢山積まれており、シートで簡易的に覆って雨除けにしているようだ。
「あの中に隠れろ! 急げ!」
「は、はい!」
アザミ達はトラックの上に昴を下ろした。
掃除屋の放った銃が昴のすぐ横をかすめる。
悲鳴を上げながら、昴はシートをめくって荷台に滑り込み、中にあったドラム缶へ転がり込んだ。カンカンと嫌な音を立てて銃弾が荷台に穴を開けていく。
昴は思わず悲鳴を上げたが、トラックが角を曲がって掃除屋の死角に完全に入るまで、遂に傷一つつけられることはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます