第4話 無駄死に

 東京郊外――

 人気のないベッドタウンは眩しいほどの夕焼けに染まり、家々は長い影を落としている。夏至の近い今の時期は午後六時半を過ぎても空が明るく、部活帰りの高校生がふざけ合いながら下校する姿が散見された。


(懐かしい……)


 どこにでもある、淡くくすんだ色合いの住宅街。

 いつもこの街並みを見ながら登下校していた。まさに近くにいる高校生達と同じ制服を着て。

 特段いいとも悪いとも思ったことのない街並みに胸がいっぱいになった後、不意にここにはもう帰れないという寂しさに襲われた。


「死亡予定時刻まではあと一時間くらいあるな。予定者の現在地は……あっちか」


 アザミはタッブレトに表示されたマップ上の赤いピンに向かって歩き出す。

 死亡予定者の現在地は受注した本人にしか知らされないはずだ。またハッキングされていると気づいて太陽は密かに肩を落とした。


 着いた場所は住宅街にある公園だった。

 滑り台に鉄棒と砂場があるだけの小さな公園。時々犬連れの老人が散歩の休憩をしに訪れるだけの、寂れた場所だ。

 生け垣で程よく目隠しされた公園のベンチに一組の男女が肩を寄せ合って座っていた。石田と片桐だ。


「私達、付き合って一ヶ月記念だね」

「そうだな。一ヶ月、おめでとう」

「おめでとう。二ヶ月記念も三ヶ月記念も一緒にお祝いしようね」

「ああ。半年記念も一周年も、一緒に祝おうな」


 物音を立てないようにしてベンチ裏の生け垣の後ろに回り込むと、二人がちょうど唇と唇を重ねた。夕空に映えるシルエットを見て、太陽はビニールのこすれるような声を上げて悶絶した。


「つ、つつ、付き合ってる!?」

「シッ! 声がデカい! 予定者にはアタシらの声は聞こえるんだぞ」

「ご、ごめん……」

「しかし、付き合って一ヶ月でこれか。どうにもきな臭いな」


 アザミはタブレットを取り出すと何やら手早く操作する。

 すると石田のスマホがブブッと振動した。石田は画面を確認すると、不思議そうに周囲を見渡した。


「どうしたの?」

「なんか、誰かがAir dropで猫の画像送ってきたんだけど。ほら」

「あ! マンチカン! 可愛い~!」


 二人が石田のスマホを覗き込んでいる間もアザミの手は忙しなくタブレットを弄っていた。何やら操作が完了したらしく、『ダウンロード中』の文字の下でバーが伸び始める。


「今、何したの?」

「あいつにウイルス送った」

「ウイルス!? っていうかデータ送れるの!?」

「電波の使用周波数が違うだけで、仕組みは大体同じだからな。あーあー、やっぱり。見てみな、こいつのLINEのログだ」


 アザミはそう言ってテキストファイルを開いて太陽に見せる。内容は恋愛漫画にでも出てきそうな男女の甘いやり取りだ。


 世界で一番君を愛している。

 どんなに美しく咲いた桜よりも君は綺麗だよ。


 恋愛経験のない太陽は、現実にこんな歯の浮くような言葉を使う人がいるのかと驚愕した。しかし、耳まで熱くなるような羞恥心さえ吹き飛ぶ単語が目に飛び込んできた。

 石田がやり取りしている相手とは片桐とは全く別の女性だった。


「二股かけてるな。今日も普通にやり取りしてるみてぇだし」

「酷い……。っていうか、なんでわかったの?」

「付き合って一ヶ月っつったら楽しくて仕方のない時期だろ。中高生でもねぇのに、近所の公園をデートの場所にするか? 普通」


 確かに説得力はある気がする。それを十二歳の少女が言っているのは妙だが……。


「別の会話を見た限り、あいつは他の女にも手ぇ出してるし、サークルのレギュラー枠を取るために同期のラケットに細工したり、上級生に媚売ったり、まぁ好き放題やってるな」

「そんな……」


 石田はそろそろ帰ってレポートやらないとだからと言って立ち上がる。片桐は猫のように額をこすりつけて、まだ一緒にいたいと甘えた。石田はやや面倒くさそうに笑いながら、少しだけ付近を散歩することで手を打つことにしたらしい。嬉しそうに飛び跳ねる片桐に手を引かれる形で、石田は公園から出ていった。

 身を隠す必要のなくなったアザミ達は、生け垣の後ろから出た。


「それで? アンタはこう言ったんだったな。自分が死んだことで石田の人生はメチャクチャになったはずだ、と。確かにメチャクチャだ。女を自分の玩具だと弄び、自分がいい思いをするためならこすい手段も厭わない。倫理観が破綻した正真正銘のクズになった」

「違う……こんなはずじゃ……」

「なのに今日死ぬ運命にあるのは片桐という女の方。石田は明日も明後日も、当面の間生き続ける。遊びの女が一人死んだくらい気にするものか。せいぜい何日か死んだ相手のことを想って、あとは忘れるだけ。アンタが死んだ時と同じだ。人生に何の影響も与えやしない」

「違う……こんなの、有り得ない。石田は後悔して、反省して、自分を責めて、それで、それで……!」


 アザミの手が太陽の胸ぐらを掴み、引き寄せる。深い闇を封じた双眸が太陽を睨んだ。


「いい加減認めろ! アンタは無駄死にしたんだ。自分は悲劇のヒーローだと見当違いの妄想に取り憑かれて、意味もなく命を投げ出したんだ! アンタが他人の人生を変えられる? 自惚れんのも大概にしな! アンタはクズ以下のミジンコなんだよ! いてもいなくてもおんなじ、空気以下の存在なんだよ!」


 断崖絶壁から突き落とされたような気分だった。下へ下へ、底なしの暗闇へ落ちていくような深い絶望が体を満たした。


 三年前のあの日、相手に仕返し出来るなら死んでもいいと思った。しかし全くの無意味だった。自分の命はそれだけ軽く、誰にとっても取るに足らないものだった。


「どうして……? なんで僕ばかりが苦しむ? 僕は死んで、あいつは生きてて、なのになんであいつばっか好き勝手やって許されるんだ!? 地獄に落ちるべきなのはどう考えたってあいつだろ!? 何が違うんだ!? 石田と、僕……同じ学校に通う、同じ高校生で、同じ男で、何の違いもないはずだろ!?」

「簡単な話だ。アンタが弱者で、石田が強者だったからだよ」

「僕が、弱者……?」

「世の中には二種類の人間がいる。強者と弱者、食う側と食われる側の人間と言っていい。弱者は強者を見上げるが、強者は強者しか見ない。見てる世界が根本的に違う。だから弱者が弱者である限り、強者を貶めようと何かしたところで気づかれもしない。アンタだって踏んだ蟻の数をわざわざ確認しねぇだろ」


 アザミは翼を広げてふわりと舞い上がり、錆びた滑り台の上で脚を組んだ。


「ま、窮鼠きゅうそねこむとは言ったもので、弱者にも一杯食わせる可能性は万に一つあるものだが、アンタは何の策もなしにゲームの盤上から降りたからな。0.00数パーセントあった可能性は完全なるゼロになってしまった」

「そんなこと言ったって……じゃあ、どうすればよかったんだ?」

「知るか、そんなの。過ぎたことを考えて何になる? 自叙伝でも書くつもりか?」

「大体、自殺が負けって言うなら影咲さんだって。自殺したから死神になったんだろ?」


 アザミの表情が一変、憤怒に染まる。威嚇するように黒いコウモリの翼を広げ、滑り台を蹴って降りると、太陽をはっ倒して馬乗りになった。


「キサマとアタシを一緒にすんな。アタシは死神になるために自殺したんだ」

「し……死神になるために?」

「考えてもみろ。死神は予定者以外の人間には見えない、声も聞こえない。一人につき一本、魂を刈り取る大鎌が与えられる。大声で歌いながらだって人間の命を奪えるんだ。しかも運命を見られるから未来のことも知っている。どう考えたって生身の人間より強いだろ」

「でも、死亡予定者以外の魂を刈り取ったら物凄く重たいペナルティが与えられるよ。塵になって二度と生まれ変われないとか、そんなレベルの」


 アザミは笑い飛ばすように鼻を鳴らし、啖呵を切る。


「だったら運命自体を変えればいい」

「そんなの出来るわけない。運命は最初から決まってるから運命なわけで……」

「何言ってんだ、落ちこぼれ。アンタはこれまで何人もの死亡予定者を生存させてきただろ」


 ハッとした。確かにアザミの言う通りだ。死ぬ予定だった人が生き残った、それは間違いなく運命が変わったことを意味する。

 実際、太陽が仕事を請け負う中で、運命が捻じ曲がったようだと思う現象も多々起きた。自分の粗相によって不必要な干渉をしてしまった時はともかく、ドナーが見つからず死ぬはずだった心臓病患者が急にドナーが見つかって助かったり、くも膜下出血を起こすはずの人が何も起こさずに死亡予定日を終えたりした。魂を集める死神にとっては悪夢のようなことが幾度もあった。


「だからアタシはアンタをブラザーに選んだんだよ。経歴を見て驚いたさ。劣等生で片づけるにはあまりにも仕事の失敗率が高い。生前の奇妙な不幸体質と関係があるのか知らねぇが、少なくともアンタには運命を変える何らかの力があるのは確かだ」

「でも、どんな風に運命が変わるかなんて、僕には……」

「んな重箱の隅をほじくるようなことはいいんだよ。本来変えられないはずのものを変えられてる、それだけで十分だ」


 アザミは太陽の背中に手を伸ばした。すると鳥のような灰色の翼が引っ張り出された。


「こいつを見てみろ。今のアンタは神だ。死神という名の神になったんだ。神がたかが人間一人を怖がる理由がどこにある? アンタが今も石田に振り回され続けているのは、アンタの心がいまだ弱者のままだからだ」

「僕の心が、弱者だから……」

「変わりたいか? だったらアタシの手を取れ。そして強者となる道を選べ。自分の意志で、心で、アイツに復讐し、全てを奪ってやると望め!」


 アザミは太陽から降りると、誘うように太陽に差し出す。


 石田に復讐する、本当にそんなことが出来るのだろうか?

 石田のことは憎い。許せない、復讐したい。

 出来ることなら、自分が犯してきた罪の重さを思い知らせてやりたい。


 目の前にいる少女は犯罪の臭いのする力を持っていて、言動も明らかに異常だ。信頼していいのかよくわからない。


(でも、なんでだろう? 信じてみたくなる。縋りたくなる)


 アザミの言う通り、運命が変えられるというのなら。いや、今の自分から変われる可能性が万に一つでもあるというのなら、賭けてみてもいいかもしれないと思えてくる。

 太陽は唇を真一文字に結ぶと、勇気を奮うように体を起こし、アザミの手を取った。


「僕は変わる。石田に必ず復讐する」


 アザミは満足げに犬歯を剥き出しにすると、太陽の手を引いて立ち上がらせた。


「なぁに、アタシの予想が正しけりゃあ運命は変わるさ。これ以上ないくらい理想的な形にな」


 いつの間にか夕焼けに染まっていた空はすっかり闇に閉ざされていた。公園の青白い街灯に照らされた黒髪の死神は目を爛々と光らせ、舌なめずりした。


 片桐葉月の死亡予定時刻が迫る――

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