第9話
──その人と最初に出会ったのは、今から一年前のことだ。
確か、同じ講義を受けていたのがきっかけだったと思う。
隣に座った彼は、はじめ、落ち着きなく周囲を見回していて、「どうしよう」と叫ぶ心の声が、こっちにまで聞こえてきそうだったのを覚えている。
一方的に親近感のようなものを感じた。
だけどそれも一瞬のこと。
講義終わりに、取り出したスマートフォンで誰かと話しているのを見て、「ああ自分とは違う人間だった」と少し落胆した。
──そんな、身勝手な期待を引きずりながら立ち上がり、教室を後にしようとした時だった。
「あ、あの……」
躊躇いがちな声に振り返ると、呼び止めたというのに、何故か視線を逸らしている彼がいた。
「何か?」
尋ねると、俯きながら彼が答える。
「チャックが、開いてます……」
「ああ、悪かった」
俺は肩に提げていたリュックのチャックを締める。
「いや、そうじゃなくて……いや、それもなんですけど、その、他のチャックが」
「ああ、悪かった」
俺はリュックのチャックを開け、中に入っていたペンケースのチャックを締めた。
「いや、それじゃなくて」
「ん?ああ……」
俺は彼の羽織っていたパーカーのチャックを締めてやった。
「え、な、何するんだよ!?」
「チャックを締めてほしいということだと思ったのだが」
「違う!いや、違くないけど……俺が言ってるのは、ズボンの、チャック!」
「締まってるが?」
「お前のだよ!」
ああ──と納得した瞬間、今度は俺の方が、彼にチャックを締められた。
ズボンのチャックをだ。
さすがにこれは──と思い、俺は彼に注意した。
「初対面でこういうのは……ちょっと」
「もういい、何でもいいや……うん、ごめん、俺が悪かった。いきなりお前とか言ったのもごめん」
何故か疲れた様子の彼は「呼び止めて悪かった」と、手を振って去ろうとする。
──何だったんだ今の……いや、その前に、待て。
言わなきゃいけないことがあるな――気が付いた俺は、声を上げた。
「ありがとう」
彼は立ち止まって、俺を振り返る。
それから、ぽりぽりと頬を掻きながら、微妙な顔で言った。
「あー、うん……どういたしまして?」
「少し驚いたが、実はそんなに嫌じゃなかった」
「それはそれで困るけど……でも、うん、またな……えっと」
「貴之だ」
「……いきなり下の名前言うか?」
呆れたように彼が笑う。
彼の名前も聞いてから、俺は踵を返して言った。
「これも何かの縁だ。いつかまた──どこかで会おう」
「それ、一生会いそうにないやつだろ。明日もこの講義あるからな?」
「……そうだったな」
「じゃあ……また」
「また」
実際、彼とはそれから先――明日どころか、一年先の今まで付き合う仲になる。
俺の最初の友人──これが、「芦原みずき」との出会いだった。
〇
【○月26日 日曜日】
「……来てしまった」
何度か訪れた、そのアパートの前で思わず呟く。
時刻は夜――23:00。
友人の家を訪ねるには、非常識な時間だ……日頃、「ズレてる」とか「変な奴だな」とか言われる俺でも、それは分かる。
それでも、来てしまったのだ――みずきの家に。
――灯り……点いてないか。たぶん、まだ帰って来てないな。
二階の端のみずきの部屋は、外から見る限り、暗いままだ。無理もない。みずきの「バイト先」は都内だし、電車でここまで一時間はかかる。
「仕事」が終わったのは21:00頃だと思うが、そこからなんやかんやしたら、帰宅は今くらいの時間になる……だろう。弟の幸弥にも聞いたら、さっき「もうすぐ家に着きます」と返事があった。
……なんて、冷静になって考えられたのは、アパートの前まで着いてからだ。
「配信」を見て、家を出た時は夢中だった。
――「Vine☆girl」の定例生配信。
女装インディーズアイドル「Vine☆girl」が、毎週日曜日の二十時からやってるネット配信だ。
視聴者(十五人くらいしかいないが)のおたよりに答えたり、よく分からんゲームをしたりする……いつもはそんな内容だが。
今日の配信は、様子が違ったのだ。
いつもの三人に加えて……見たことがないメンバーが一人。いや、俺にとってはよく見たことがある奴だが。
番組の最後――いきなり、そいつが顔を出したのだ。
『彼は我がVine☆girl初の研究生です』
『来週の日曜から毎日一週間、彼も含めた……私達は、合宿生配信をします』
そう、そこで発表された「彼」こそは――俺の友人「みずき」だった。
本人の口からは聞いてない。
だが、この前、みずきと出かけた時に、俺はそのことを悟った。だから……俺は知っていた。
――こんなに早く、出てくるとは思わなかったが。
あのグループに、みずきがどうして入ったのかは想像がつく。和臣だ。
和臣に……近づきたいから、みずきは、あのグループに入ったのだ。
生温い夜風が頬に触る。俺は目を閉じて、さっきの配信で見た「みずき」を思った。
――緊張、していたな。相当な覚悟があって、みずきはあの場にいたんだろう。
配信のみずきは、ジャージ姿にマスクで顔の半分を隠し、髪の長いカツラを被って、化粧をしていた。傍目には女に見えるし、別人に変身したように見えた。
だけど、俺には……初めて会った日に教室で、落ち着きなく周りを見渡していたみずきが、その姿に重なって見えた。
……そう思ったら、いてもたってもいられなかった。
気がつけば、俺は自分の家から車を飛ばして二十分。こうして、みずきの家まで来ていたのだ。
今のみずきはスマホがないから、会うしかないしな。
――そんなのは、口実かもしれないが。
「……インターホン、鳴らしてみるか」
とにもかくにも、俺はみずきの部屋の前まで行ってみることにした。
側の階段を登って、何度となく来たその部屋の前に立つ。廊下に面した窓の向こうは暗かった。
「……帰ってなかったか。まだ」
「貴之?」
「……っ!」
ふいにした背後の声に振り返ると、そこにはみずきがいた……いつもの。
俺はとりあえず――挨拶した。
「……ただいま」
「それは俺の台詞な」
「貴之ん家じゃないだろ」と言いつつ、みずきが俺を退けて、ドアノブに鍵を差し込む。俺はその背中をじっと眺めながら言った。
「……いきなり来て悪かった」
「いや……それは、まあ。いいけど。いや、よくないけど」
「驚かせたか?」
「むちゃくちゃビビったわ」
ノブを回して、ドアを開けるみずき。声は呆れていた。
俺は、みずきから一歩後ずさって言った。
「……帰る。すまなかった。迷惑だったよな」
「さっきも言ったけど」
くるりとみずきが俺を振り返る。
「急に来てビビったし、よくはないけど……なんか、理由あるんだろ。こんな時間にうちに来たの。だから、入れよ」
「……いいのか?」
開け放ったドアの前で、みずきが頷く。
だが「その代わり」と俺に条件を加えた。
「なんとなく、はナシな。何でもいいから、なんで来たのか言えよ。さすがに、こんな時間に来といてそれは怖すぎる……」
理由――なんだろう。
「顔が見たくなったんだ」
「……え」
みずきが目を丸くする。
もっとも……俺も同じ顔をしていたと思う。
――驚くほど簡単に、心が言葉になったから。
だけどそれは、気をつけないといけない。
「さっきまで、すごく……緊張してただろう。怖い思いをしたと思うから、それで、みずきのことが気になって……」
「……貴之?」
怪訝な声のみずきに気が付いた時には、少し遅かったかもしれない。
それでも俺は、何とか取り繕おうと試みる。
「っていう夢を見たんだが……」
「なんだそれ……」
「はあーあ」と大きなため息を吐いたみずきが、俺を部屋の中へと手招きする。
もう一度「いいのか?」と訊いたら「いいって」と、みずきは俺の背中を押した。
俺は、みずきに押されるがまま玄関に入る。背後でドアがガチャリと閉まった時、小さな声で……みずきは俺にこう言った。
「……ありがとう」
何のことだ――なんて、とぼけるまでもなかった。
「貴之、お前……知ってるだろ」
「……」
部屋に上がり、みずきが出してくれた麦茶を啜って、すぐのことだった。
「……何のことだ」
「俺がVine☆girlに入ったこと」
「……」
コップを置く。
テーブルを挟んで俺の前に座るみずきは、首を振って、さらに続ける。
「幸弥くんから聞いた」
「……何のことだ」
「貴之が幸弥くんの『バイト』が何か、本当は知ってること」
「……何のことだ」
「それってつまり、あの時、俺が『幸弥くんと同じバイトをしてる』って知った貴之は、俺がVine☆girlに入ったって察したってことだろ?」
「……何のことだ」
「もう無理あるだろ!それ」
「……」
こつん、とみずきに頭を叩かれる。俺は観念した。
「……黙っていて悪かったと思う」
すると、みずきは「いや」と答えた。
「……俺が逆の立場だったとしても言えなかったと思うから、仕方ないだろ。友達が女装アイドルしてて、自分だけがそれに気付いてるとかさ……」
「俺、似合ってるかどうかも微妙だし」と、困ったようにみずきは笑う。
自分に自信がない時、自嘲気味にこんな風に笑うのは、みずきの癖だ。
──考えるよりも先に、俺は口を開いた。
「みずきは、かわ──」
「……ん?」
みずきが俺を見つめて瞬きを繰り返す。少しの沈黙。
それで、俺は自分が何を言いかけたのか気が付いた。
──まずい、この言葉は……。
「悪い。今言いかけた言葉は取り消す。みずきは……いつもと何も変わらない野郎だった」
「いや取り消すなよ……気持ち悪いだろ、何か」
眉を寄せたみずきが俺を睨む。だが仕方ない。
「それ」をみずきに、一番最初に伝えるべきなのは──和臣だ。
幸弥に「度し難いヘタレ」と言われようが、こればかりは譲れない。
──みずきの和臣に対する「想い」の全部を、俺は覗いたのだから。
頑として黙っていると、「とにかく」とみずきが口を開いた。
「貴之は、さっきの……配信見て来てくれたんだろ」
「……ああ」
「じゃあ知ってると思うけど」と、みずきは側に置いたカバンから、ホチキス留めにされた紙二、三枚の束を机に置いて見せた。
『Vine☆girl真夏の強化合宿SP~二十四時間生配信見れますか?~(仮)』……そう銘打たれた表紙を眺めていると、みずきは俺に説明してくれた。
「来週の日曜から一週間。事務所のビルで合宿することになった。一日十二時間……起きてから寝るまでのほぼ全部を配信するっていう企画」
「……正気じゃない」
「貴之もそう思うってよっぽどだぞこれ……」
みずきが後頭部を掻いて、ぶつぶつ呟く。大変だな──俺は、せめてもの励ましにと、みずきにこう言った。
「だが俺は全時間、一秒も欠かさず見守るつもりだ」
「やめろ」
呆れた顔で肩を竦めるみずき。俺は「しかし」と食い下がった。
「幸弥の様子が気になる」
「それは……まあ、そうだよな……」
「だから見る」
「そっか……ああ、そうだな」
みずきは首を捻りつつも、頷く。
見られるのは恥ずかしいが、幸弥のことがあるなら仕方ない……と納得したんだろう。
それから、みずきは俺に言った。
日曜日から配信が始まるから、準備とかのために、今週の土曜日から事務所に泊まること。
携帯ショップの予約を金曜日の夕方に取れたので、そこでスマホを新調できること。
だから、自分の「目覚まし時計」役だとか、そんなのは気にしなくていいこと。
「貴之が心配してくれてるのは……もう、伝わってる。けど、本当に大丈夫だから」
「そうか……」
──何と言えばいいんだろう。
雲を掴むような、また、分からない感情が胸を占めていく。
みずきの力になれそうにないことが残念なのか、それとも。
心のままに口に出そうにも、俺はこの感情を伝えられる言葉を持ってなかった。
──だが、表情には何か出ていたのかもしれない。
「まあ……その」
また頭をぽりぽりと掻きながら、みずきは俺に言った。
「……死んでるかどうか、確認にしに来てくれるのは、助かるわ」
「……っ!」
光を与えられたような気分だった。
一も二もなく、俺はみずきの手を取って「そうする」と約束していた。
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X年○月×日
今日、同じクラスの伊瀬に話しかけられた。
俺に「つまんな」って言った奴はそいつだった。
でも不思議と怒りはなくて、話したらたぶん、良い奴なんだと思った。
伊瀬は友達にしてくれと言ってくれた。
友達ってよく分からないし、俺みたいな奴と伊瀬が友達になって、それこそ本当に「つまんな」って思われるのは怖いけど。
俺だって本当は友達が欲しかった。
誰かと一緒にいたかった。
俺みたいな奴でも、一緒にいていいと思える人が欲しかった。
今はまだ、本当に伊瀬と友達になれるのか分からないけど、伊瀬が言ったみたいに、暗いことは忘れて、明るい方に自分を連れて行きたい。
明日、伊瀬が今日のことを忘れていませんように。
なかったことになりませんように。
友達になれていますように。
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次の更新予定
毎日 21:00 予定は変更される可能性があります
推しより好きと言ってほしい とんそく @tonsoku
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