6

 男が完全に覚醒するまであと少し、といった所だろうか。些か名残惜しい気もするが、このまま早く起こしてしまおうと、今度はハッキリとした声を掛ける。


「待っているって、お前が言ったんじゃないかっ」


 ぱちり、と音が聞こえた気がした。男は覚醒すると同時に弾かれたように飛び起き、絵に描いたようなびっくり顔でこちらを凝視する。その目があまりにも大きく見開かれているものだから、翠玉を思わせる瞳が眼孔からこぼれ落ちてしまうのではないかと心配になるほどだった。

 まるで、そのまま時が止まってしまったかのようだった。全く、自分で呼んでおきながら何をそんなに驚いているのか。呆れもしたが、そのあまりの驚きように、こちらから話しかけることは少し躊躇われた。


「本当に──来て、くれたんだ」


 若干の居心地悪さを感じ始めた頃になって、ようやく男は口を開いた。驚き顔のまま、からがら絞り出したような声だった。

 逆に言うと、この男に声を掛けられて応じない人などいるのだろうか。そちらの方が疑問なくらいだったが、まぁ昨日の自分の態度から考えるとそう思われても何もおかしくはないか、と内心思わず苦笑いを浮かべる。


「まだ、名前を聞いていなかったからな」


 その言葉に、男の目は更に見開かれる。いや、さすがに落ちるだろう。むしろそこまで開いていて、どうして落ちないのか。不思議なものだ。


「名前、を?」


 先ほどまでは愕然としているようだったが、今はなんだか拍子抜けしたような、言うなら「ぽかん」とした顔をしている。

 ……何か、私は変なことを言っただろうか。それとも、この男はまだ寝惚けているのだろうか? どうやら、こちらの怪訝な顔を見てハッとしたらしく、男は両手のひらを顔の前で合わせると頭を下げる。


「ごめん、すっかり教えた気になってたよ」


 なんだか取って付けたようにも聞こえるが、あえて問い詰めるようなことでもないだろう。男は膝をこちらへ向けると居ずまいを正し、私を見上げると自分の胸元に手を当てた。


「僕は夕魔。犬飼 夕魔いぬかい ゆうまだよ」



  ※ ※ ※



 夕魔がもたれていた倒木に二人、並んで腰を掛けた。お喋りがしたい、と言っていた割にはしばらくの間口を開くことはなく。ひどく穏やかな静寂の中、私はただぼんやりと木漏れ日がゆらゆら煌めくのを眺めていた。


「──きっと、来てくれないだろうなぁって思ってた」


 そんな中でぽつりと落とされた言葉はとても繊細で、ささやかな環境音にさえ溶けてしまいそうだった。


「君のこと、怒らせちゃったから」

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虚匣 -明けの明星- Kei @6Kei9

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