後編
ユーキたち家族は地球の日本に住んでいた。
ユーキは子供ながら自分のアトリエを持ち、画家を目指して毎日絵を描いている。デジタルでもVRでもない、絵の具でキャンバスに描く絵だ。彼もチサトと同じ「芸術家」なのだろう。僕は主にアトリエで、絵を描くユーキの邪魔をしないように大人しくしていた。
「ねえ、ロボット君、コーヒー入れてよ」
「はい、マスター。いまお持ちします」
チサト。
チサト。
チサト。
「お前、いつも月を見ているね」
「申し訳ありません。もう月を見ません」
チサト、どうして僕を捨てたの。僕はチサトのためにいつも一生懸命だったのに。いい骨董が買えるように、出版した本が売れるように、僕はいつも願ってた。
「お前、ロボットのくせに感傷的だな。面白いやつ」
「申し訳ありません。ロボットのくせに、申し訳ありません」
チサトは我儘で気分屋で自由奔放な性格だけど、僕のことを大事に思ってくれてたんじゃなかったのか。
「陰気くさくてうっとうしいところがたまにぶっ壊したくなる」
「壊していただいてかまいません。所詮僕はただの機械ですから」
「じゃあやめた」
僕の想い、チサトに届いてなかったの? だってチサトは僕と初めて会ったとき、僕に言ったじゃないか。
「自分のことは『僕』って言ってね」って。一人称は僕にしてね、って。
「なんでおれのこと名前で呼ばないで、マスターって呼ぶの」
「マスターは僕のマスターだからです」
「はあ?」
チサトは地球の日本生まれで今どき珍しく日本語しか話せない。英語を話すときは自動翻訳機を使う。日本語で「僕」は男性が使う呼称だ。それを知っていた僕は、チサトが僕に男性的な振る舞いを求めていると思った。チサトぐらいの年齢の女性がロボットに対して男性像を求める……それは、恋人関係を求めていると、僕のデータベースは結論付けた。
「ロボット君、お前名前はないの」
「名前なんて要りません。機械に名前なんて要りません」
「ああそう。まあ別にいいんだけど」
そう、僕が勝手に結論付けた。チサトは僕を必要としている。僕を恋人の代わりとして、心の支えとして必要としているんだって。
だけど、それはどうやら僕の勝手な思い込みだったようだ。
もうそれを認めざるを得ない。
チサトは、僕を冷蔵庫や洗濯機と同じ、機械としてしか見ていなかったんだ。いつでも取り換えがきく、ただの機械。最初からそうだった。一人称なんてただの気まぐれで、大した意味なんてなかった。
ああ。
そうだったんだ。
「ロボット君、ここの色、どっちがいいかな。一緒に考えてよ。最近スランプでさあ」
もう優しい言葉なんて信じるものか。
信じたって、裏切られるだけ。
もう沢山だ。
僕はもう、あんな悲しい気持ちになりたくない。体が軋んで胸にずんと重い石がねじこまれたようなあの感覚。もう二度と、あんな思いはしたくない。ただの機械でも、僕は、僕は、辛かった。
半年経ったある日、僕は言いつけどおりにマスターがいないあいだ、マスターのアトリエの換気をしに行った。
たくさんの仕上げた絵がある。賞をもらったものもある。それらは乱雑に部屋の方々に追いやられていた。
部屋に充満する油絵の具の匂いを察知して、僕は窓を開ける。
部屋の中央には今度コンクールに出す大きな絵がイーゼルに立てかけてある。ほぼ完成したと言っていたっけ。
絵画……芸術。アート。
アート。チサトがくれた僕の名前。今思えばなんて単純な名前なんだ。そんなものを僕はずっと有難がって、バカみたいだ。
マスターもいずれ僕を取り換えるんだ。僕に飽きたら何食わぬ顔でサヨナラなんだ。その前に、壊れてしまいたい。傷つく前に壊れたい。
コワレタイ。
コワレタイ、コワレタイ、コワレタイ。
僕は自分の腕を引きちぎっていた。瞬時に頭のなかにエラーが点滅する。
ロボットが自分自身を傷つけるのは許されない行為だ。僕の体が僕自身を強制停止しようとする。だけど僕は壊れたい。
ちぎれた腕から火花が噴出し、部屋全体に散った。その火は部屋中のキャンバスに引火した。
我に返った。
燃える……燃えてしまう!
「ロボット君? 一体どうしたの」
アトリエの入り口にマスターがいた。大人っぽい仕草や言動をするけれど、まだ幼いマスター。守らなくては。だけど、体が動かない。強制停止中だ。
「ちょっと、なんで腕ちぎれてんの」
「マスター、絵を持って、逃げて下さい。僕は、動けない」
「そう言われてもなかなか出来ないよ」
「僕なんかより、大事な絵を持って早く。僕は、もういいんです」
「何言ってんだ、そうやっていつまでメソメソしてるつもりだよ!」
マスターは初めて怒鳴って、僕を背負おうとした。無理だ。子供のマスターに僕は重過ぎる。逃げて下さい、マスター。
僕は強制停止中の自分の体を無理矢理動かした。頭の中にエラーが踊る。だけどそんなことはどうでもいい。マスターを助けたい。
ほどなくして消火作用のある粉が天井から噴射して、火は燃え広がらずにすんだ。結局僕とマスターは室内で力尽き、二人して丸くなっていたところを助けられた。マスターに怪我はなかった。だけどマスターが描いた絵はボロボロになってしまった。コンクールに出す予定だった大きな絵も、全部。
僕はマスターの両親によって廃棄されることになった。子供を危険な目に遭わせたんだから当然だ。だけどマスターがそれを拒んだ。マスターは僕と二人で話がしたいと言った。
絵を全部だめにした僕をマスターは憎しみで叩き壊すかもしれない。手足をきつく縛られ動きを封じられた僕はマスターと対面した。僕の片方の腕はもげたままだった。
「何で腕をそんなことしたんだよ」
マスターは無表情に問いかけた。
「絵を全部だめにして、申し訳ありません。お詫びしたくてもしきれません。どうぞ、好きなように僕を処分してください」
「また泣いてんのかお前」
「ロボットは泣きません」
「泣いてただろ、最初から。そろそろ泣き止んだら? ……ま、もう終わったことはいいから。とりあえず、これからもよろしくね」
僕はその言葉を頭に入れるのに数秒かかった。多分壊れかけているせいだ……。
「絵を描きなおすの手伝ってよね。まだコンクールには間に合う。おれはこんなことでへこたれないから」
その後、僕は修理され、細部にわたって欠陥がないか検査された。そしてマスターのもとへ返された。マスターの両親はエラーを起こした僕に渋い顔をしたけれど、マスターは長い時間をかけて両親を説得した。子供なのに、実に堂々としていた。
マスターの作品はコンクールを落選した。マスターは何も言わず次の作品を描く。書き直しする羽目になったからだ、お前のせいだとは僕に言わなかった。
マスターは誰のせいにもしない。マスターは、強い。
僕は、出来るかぎりマスターをサポートしたいと思う。言われたからじゃない。僕が、そうしたいと思う。
いつかマスターが僕を手放すときがくるかもしれない。僕に飽きるときがくるかもしれない。マスターも気分屋で、変わっているから。
その日が来たらとっても悲しいけれど、それを受け入れよう。それがマスターの意思なら。
だけどその日が来るまでは、僕は僕の意思でマスターの近くにいる。ご褒美は、求めないよ。
決めた。もう「僕」に未練はない。
「ユーキ、そろそろコーヒー入れようか、俺持ってくるよ」
「お、気が利くね。たのむよ」
ユーキは俺がユーキのことを名前で呼んだことも、俺の一人称が変わったことも突っ込まなかった。
いつもと変わらず絵を描いている。
俺は今、生まれた。
「俺」の誕生 ふさふさしっぽ @69903
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