第15話 王女の本音

「そんな事があったんですか……」


 アーシャ王女はアデルの話を聞いて、辛そうに眉を顰めていた。

 もちろん、アデルとて町に戻ったら自分を裏切った奴と行為の真っ最中だった、とは言っていない。ただ、何となくそういう状態だったという事だけは伝えた。

 いずれにせよ、オルテガによって、アデルは完全に自分の居場所と大切な人を失くした事には変わりはなかった。


「戻ったら……フィーナと何処か遠くで暮らすつもりだったんだ。ランカールから遠く離れた場所で細々と冒険者稼業をやって、俺の両親みたいに慎ましやかに生きて、そのうち子供でもできて……それで、いつか余裕ができたら、またヴェイユ島にこれだけ返しにこようって、思ってたんだ……!」


 彼女の指で光る指輪をちらりと見るアデルの瞳から涙が流れた。


「俺が、何をやったって言うんだよ。あいつらの為に体張って、命張って、怪我をして戦果を叩き上げて……それでSランクにまで上り詰めたのに、その途端にこれかよ。挙句に、フィーナまで……俺はもう、何を信じればいいのかわからない!」

「アデル……」


 静かに男泣きするアデルを見ていられなくなって、アーシャはそっと彼の肩に手を置いて、そのまま抱き寄せた。ふわりと甘い香りがアデルを包む。


「王女……?」

「泣かないで下さい、アデル。お友達に泣かれては、私も辛いです」


 戸惑うアデルを他所に、そのままアーシャ王女は優しくアデルの背中を撫でた。

 それはアデルにとって不思議な感覚だった。彼女にそうされているだけで、先程までの傷口が徐々に塞がり、痛みが引いている様にも思えたのだ。

 

「すまない、アーシャ王女……」

「どうして謝るんですか?」


 アーシャ王女は柔らかく微笑みながら、彼の背中を撫でていた。

 その心地よい感触に、アデルの心がぽかぽかと温まってくる。どうやら〝ヴェイユの聖女〟は心の傷をも癒してしまう魔法を使える様だ。


「もう俺はどうすればいいのかわからないんだ……」


 そのままアデルは弱音を吐いた。こうして誰かに弱音を吐いたのは、彼の人生でも初めての事だった。

 生きる指針も、大切なものも、その全てがあやふやになってしまった。それが今のアデルだった。

 もう冒険者はやりたくなかった。虚無に依頼を熟すだけになるというのがわかっていたからだ。かと言って、彼には他の生き方もわからない。


「せっかくこうして王女殿下が面会してくれているのに、俺にはどうすればいいのか……あんたに頼るべきじゃないのはわかってる。でも、今の俺には……あんたに何を伝えれば良いのかすらわからないんだ」

「頼るべきじゃないなんて言わないで下さい。私はアデルのお友達です。困った時にお友達に相談するのは、何も変な事じゃないんですよ?」


 不思議な少女だった。

 アーシャにとってアデルは、一度会っただけの冒険者に過ぎない。アデルの認識では、それだけの存在だった。しかし、何故か彼女はアデルを友達と呼ぶ。彼にはそれが理解できなかった。


「それにこの前、私がなんて言ったか覚えてますか?」


 アーシャが体を離して、アデルを覗き込む様にして嫣然えんぜんと笑う。

 それは以前会った時に別れ際に見せた笑顔と同じだった。大地母神フーラを彷彿とさせる、白銀髪の聖女の笑み。そして、その笑顔を見てアデルは彼女の言葉を思い出す。


『もし、アデルに居場所がなくなったなら……ヴェイユ王国が、いえ、私がアデルの居場所になります。だから、困ったら頼って下さいね?』


 彼女は別れ際にこう言っていた。

 その言葉を思い出して、再び涙が溢れる。それは、先程の悔恨の涙ではなかった。

 ただ有り難くて、何かに感謝する時の気持ちからくる涙だった。おそらく、神の奇跡で救済されれば、こんな涙が流れるのだろう──アデルは何となくそんな事を思うのだった。


「本当に……俺の居場所になってくれるのか」

「はい、もちろんです」


 アーシャはにっこりと頷いた。


「でも、どうして俺なんかの為に……」

「前にも言いませんでしたか? わからないです」


 困った様に笑って、アーシャは首を少しだけ傾げて続けた。


「でも、私がそうしたいんです。私がアデルにこの国に居て欲しいって思っていて……だから、そう言いました。半分は私の我儘ですね」


 相変わらず彼女は微苦笑を浮かべたままだった。

 だが、おそらく大地母神フーラが困り顔で笑うとこんな感じだろうと、アデルは思わされた。


「それに、私はよくこの容姿から大地母神フーラ様の生まれ変わりだって言われるんですけど、全然そんな事ないんですよ?」

「どういう事だ?」


 まるで自分が考えていた事を言い当てられた気がして、ぎくりとする。


「アデルが思っているより……ううん、皆が思ってるより、私は性格が悪い女だって事です」


 言っている意味がわからずアデルが首を傾げていると、アーシャは恥ずかしそうに笑ってから、少しだけ俯いた。その表情は笑顔を被ってはいるが、ほんの少しだけ翳りがある。


「だって……私、アデルがそうして傷付いているのに、その女の人に傷つけられているのに……嬉しいって思ってます」

「え? 嬉しい?」


 その言葉はアデルの予想していたものとは異なってた。

 アーシャは一瞬だけアデルを見て「はい」と頷くと、また顔を伏せた。


「こうして、私のところに来てくれて、とっても嬉しいって。その人と一緒にどこか遠くに行かなくてよかったって……思っちゃってます。アデルが傷ついているのに、本当はそうして傷付かない方がアデルは幸せだったのに、私はそれを嬉しいと感じてしまっているんです。ひどい女じゃないですか?」

「そんな事……」

「そんな事ありますよ。アデルが傷ついてるのに、私はアデルの気持ちよりも、無意識に自分の気持ちを優先してしまっていました。大地母神フーラ様なら、きっとこんな事は考えません」


 幻滅しましたよね、とアーシャは付け加えて、苦々しい笑みを浮かべた。


「だから、アデルも『俺なんかがどうして』だなんて言わないで下さい。私だって、ただ偶然王家に生まれて、ただ聖魔法を扱う力が人より長けていて、容姿が少し特徴的だっただけなんです。聖人でも女神の生まれ変わりでもありません」


 私もアデルと何も変わらないんですよ、とアーシャは付け足した。

 おそらく彼女は昔から〝大地母神フーラの生まれ変わり〟だの、〝ヴェイユの聖女〟だのと言って讃えられてきたのだろう。そしてその希望に沿う様に行動もしてきたし、皆の願望を叶え続けてきた。

 しかしその実、彼女はその人々が自分に抱く幻想──それは彼女にこうあって欲しいという願望でもある──と本当の自分との乖離に苦しんできたのではないだろうか。

 そこで、アデルはアーシャがどうして自分を特別視するのかの理由が少し見えた気がした。アーシャにとって、アデルは初めて自分という人間を素で見せられる者だったのだ。

 アデルがその様に考えていると、次の瞬間、王女の口からとんでもない言葉が小さく飛び出してきた。


「ただ、気になる男性が傍に居てくれたらいいなって……そう考えちゃうだけの、女の一人に過ぎないんです」


 おそらくこれは、アーシャとて言葉にするつもりはなかったのだろう。無意識にぽそりと心の言葉が漏れてしまったかの様な独り言だった。

 アデルがぽかんとして彼女を見つめていると、王女は怪訝そうに顔を上げて、そのぽかんとしているアデルに気付く。


「えっ……? あッ!」


 そこで、王女は自分の口を慌てて押さえた。


「その……今、私……なんか言ってました?」


 浅葱色の瞳を泣きそうな程潤ませて、ちらりと上目遣いで訊いた。


「いや、まあ……割とはっきりと」

「ッ~~~~────!!」


 アデルの言葉を聞いてアーシャが息を詰まらせたかと思うと、顔を両掌で覆って、その林檎の様にまっかっかに染まった顔を隠した。


「えっと……その」

「アデル!」


 何とかしようとした発したアデルの言葉を、王女は唐突に遮った。

 アデルは慌てて「はい!」と返事をする。先程の兵長の様に敬礼までしそうになった程だ。


「今、こっちを見るのはダメです……見ないで下さい」


 彼女は顔を覆ったままそう言った。


「どうして……?」

「だって、今きっと顔赤いですから……」


 指の隙間から、ちらりと浅葱色の瞳を覗かせて言った。

 そこには白い顔をまっかっかにして、浅葱色の瞳は今にも雫が零れ落ちるのではないかと思う程潤んでいた。


「嫌だ。あんたのその顔を見るなってのは……あまりに酷だ」

「アデル、いじわるです! どうしてそんな事言うんですかぁっ」

「そりゃ見るだろ!」

「どうしてですか!」


 アーシャが恥ずかしさのあまり、怒って少し身を乗り出した。

 顔を真っ赤にしたアーシャの顔がアデルの鼻先からほんの少しの距離にあって、胸がどきりと高鳴った。


「だって……今のあんたの顔は、きっと大地母神フーラよりも可愛くて、綺麗だ」


 心の声が漏れてしまったのは、アデルも同じだった。

 お互いに一気に顔に炎が灯ったかの様に真っ赤になり、慌てて互いに明後日の方向へと視線を向ける。

 それから暫く沈黙が続いた。


「えっと……今のはナシ、にしてください。私もよくわからないので……」

「え、あ、ああ……じゃあ、俺のもナシで」


 それから二人は気分を落ち着けるまでの間、気まずい時間を過ごしたのだった。

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