第9話 光の導き手

 フィーナの裏切りを知ってから、三日──アデルはランカールの町からイーザイツ港に再度戻ってきていた。

 目的はなかった。ただ何となく気付けばそこに戻ってきていただけだった。彼には他に行くべき場所などなかったからだ。

 アデルはイーザイツ港に着くや否や馬車と馬を売っ払い、ぼんやりと港から海を眺めた。

 この先、どうすればいいのかわからなかった。

 ここ数日で、彼を取り巻く状況は全て変わってしまっていた。仲間と恋人を失い、更に自分は死んだ者として扱われていた。今や彼は、だったのである。


(生きている事をランカールのギルドに訴えかければ何か変わっただろうか?)


 そう自問するも、結局『いや、何も変わらない』と自答してしまう。

 それを訴えたところで。オルテガ達がアデルを裏切り、彼に愛するフィーナをも奪われてしまった事実はもう覆らないのだ。今更自らの生存を訴えたところで、それらが無かった事になるわけでもなければ、元に戻るわけでもない。何も変えられないだろう。


(ここから身投げしてしまおうか?)


 海を眺めつつ、そんな事を考える。大剣を背負ったまま海に飛び込めば、その重みで海底まで運んでくれるだろう。苦しさも束の間で、共に生きてきたこの黒い大剣と死ねるのならば、それも良いのではないだろうか。判断能力を失ってしまった今、それも悪くはない決断だと思えてしまった。

 これから生きていて、自分に何が残せるだろうかと考えた時、もう何も残せないと思ってしまったのだ。

 両親と同じく裏切りを知ったアデルである。今後の自らの人生を想像するのは容易かった。

 それは、誰にも心を開かずにただ細々と、そして淡々と単独ソロで冒険者として生きて、日銭を稼いで生きる。運が悪ければ、いや、どこかで誰かに殺されて生きる苦しみから解放されるかもしれない。だが、運悪く生き残ってしまえば、死ぬまで永遠に死んだ様に生きる未来しか想像ができなかった。

 大きく息を吐いて、目を閉じた。

 そこは真っ暗な世界だ。自分の今生きている世界と目を閉じた世界、どれほど差があるだろうか。未来に光などない人生とこの視界に、殆ど差など無い様に思えた。


(全く……運の良し悪しの基準すらわからなくなってきたな。こんな人生なら、の方がなんぼかマシに思えてくる)


 自嘲の笑みを浮かべて、心の中で軽口を言った時だった。頭の中で、誰かの言葉とそれが繋がった。そして、ふとどこからか声が聞こえてきた気がしたのである。


『私はその御蔭でアデルとこうして出会えて、お話ができました。この出会いを、ケ……えっと、と同じとは、思いたくありません』


 それは少女の声だった。柔らかく慈愛に満ちた、優しい声だ。汚い言葉を人生で初めて遣い、照れて顔を赤らめている少女の顔が頭の中で蘇ってくる。

 ハッとして目を開けると、目の前には光に満ちた大海原が広がっていた。海面に太陽光が反射してキラキラと光り、まるで宝石の様だ。

 そのまま視線を遠くに向けると、海と空の切れ目の水平線が見える。目視できないが、地図の上ではこの水平線の向こうに彼女のいる国があるはずだった。


『もし、で構いません。もし、これから自分の道が見えなくなって、どこにも行く当てがなくなってしまったら……いつでもヴェイユに来て下さい』


 そう言って彼女は、母親から贈られた大切な指輪をアデルに渡してくれた。その指輪は今、紐を通してアデルの首に掛けられている。何があっても失くさぬ様にする為だ。

 アデルは首に掛けられた紐を引き、服の中からその指輪を引っ張り出す。


(アーシャ王女……!)


 その指輪を見ているだけで、涙が溢れてきた。今回ばかりはもう涙を堪えきれなかった。この指輪が全てを失ったアデルにたった一つ残された光の様に思えてならなかったのだ。

  

『もし、アデルに居場所がなくなったなら……ヴェイユ王国が、いえ、私がアデルの居場所になります。だから、困ったら頼って下さいね?』


 大地母神フーラを彷彿とさせる笑顔と共に、〝ヴェイユの聖女〟の言葉が蘇ってくる。

 アデルは嗚咽を堪えられず、膝を突いて俯き、涙を地面に零した。


(今、俺にはもう何も無いんだ。何もかもなくなってしまったんだ……)


 生きる為に一人で戦うだけだった日々に、守りたい仲間ができたと思っていた。守りたいと思っていた恋人もできたと思っていた。彼にとっては、この半年の時間は初めて生活に鮮やかに彩られていたと言っても過言ではなかった。

 しかし、そのどちらをも失ってしまった。

 瞼の裏では、フィーナと過ごした時間が嫌でも蘇ってくる。楽しかった時も、愛しかった時も、少し口論してしまった時も、まるでつい昨日にあった事の様に思い出せてしまう。

 だが──オルテガとまぐわう彼女の姿が、それらの鮮やかな想い出を赤黒く覆っていく。それらの綺麗だった想い出は、最後のあの光景を見て全てを知ってしまった後からすれば、全く別物だった。

 両親が死んでからは当たり前だった一人の生活。パーティーメンバーと出会う前と同じ日々なはずなのに、あったものを失ってから一人になるのでは、全く異なっていた。

 切なかった。寂しかった。どうしようもない孤独感だけが心を覆い尽くし、涙が留まる事をしならなかった。


(命まで救ってもらっておいて情けない事この上ないが……もう一度だけ、あなたを頼らせてもらってもいいだろうか?)


 首から垂れ下がった指輪をぎゅっと握り締めて心の中で呟いた。

 その問いに答える様に、ヴェイユ島の方からふわりと優しい風が吹いてきて、彼は思わず顔を上げる。

 そこには先程と変わらぬ海原があり、太陽が海面を照らしてキラキラと輝かせていた。それはまるで、彼をヴェイユ島にいざなうかの様でもあった。


「アーシャ王女……全てを失った俺に、光を与えてくれ」


 追放された大剣使いは立ち上がって、ヴェイユへの再訪島を決意する。

 島を訪れて、何がどうなるかわからない。アーシャ王女と会えたところで、彼女に何を話せば良いのかもわからない。

 だが、光を失った彼には、光の導き手が必要だった。ほんの僅かでも光があれば、それだけで人は生き長らえる事ができるのだから──。

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