第8話 砕かれた決意

 翌日の朝一の船便で、アデルはヴェイユ島を発った。アデル達の暮らす町・アンゼルム大陸ライトリー王国のランカールに着いたのは六日後だった。船旅で三日、イーザイツ港に着いてからランカールの町に戻るには、更に三日掛かるのだ。

 本来であればもう一日早く着けたかもしれない。だが、アデルは自身を死んだ事のままにしておきたかった。オルテガ達に生存を知られたくなかったからだ。

 オルテガ達に生存を知られる事なく、フィーナだけをこっそりと連れ出して逃げる──彼としてはやられっぱなしで気に食わない事だが、戦えば命を失う恐れもあるし、万が一フィーナを人質に取られたらそれこそ何も手出しができなくなる。それだけは避けたかったのだ。その為、ギルドのツテや面が割れている場所は避けなければならず、普段より遠回りして移動しなければならなかった。

 ランカールの町の門をくぐってから、フードを深く被ってスカーフで鼻から下と覆って隠す。正体が割れやすい大剣も町の外に隠してある馬車の中に置いてきた。これで暫くは正体を隠せるだろう。

 アデルは顔を隠したまま、フィーナが借りている部屋まで急ぎ足で移動する。おそらく自分が死んだと聞かされて、傷心しているに違いない。すぐにギルドの依頼を受ける事もしないだろう。その間に彼女を説得して──と考えていた矢先である。

 フィーナの部屋に窓から近付いていこうとした時、中から彼女の声が漏れていた。それは、アデルの思考を停止させるものだった。

 無論、その声はアデルの知っている声だ。知っているが、自分以外が聞いていい声ではないはずの声だったのである。

 彼女の部屋から聞こえてきた声は、咽び泣く声でも悲しみに暮れる声でもなかった。それは、快楽を必死に堪える声。しかし我慢できずにその快楽が漏れ出ている声に違いなかった。


(おいおい……冗談、だろ?)


 現実を受け入れたくない思いで一杯だった。こんな事があるはずがない。そう信じたかった。

 だが、せめて相手が誰でどういった状況だけなのかは知りたかった。中を見ても良いものなど何もない。それは彼もわかっている。

 しかし同時に、確認しない事には何も決められない──アデルはそう意を決して、気配を殺しながらカーテンの隙間から中を覗き見た。


(そんな……バカな……)


 そこには絶望的な光景が広がっていた。フィーナと体を交えていたのは、〝紅蓮の斧使い〟オルテガだったのだ。

 フィーナは彼に跨り、身体を激しく上下させていた。自分との時よりも艶めかしく、そして激しい行為が室内では繰り広げられていたのである。

 シーツはびしょ濡れになっており、二人の汗がしたたり落ちて、更にそのシーツを濡らしていく。おそらく一晩中ずっと同じ事を続けていたであろう事は想像に容易い。

 その瞬間、一気に胃の中のものが逆流してきて、アデルはその場で嘔吐した。


(そんな……フィーナ、どうしてお前まで……ッ)


 アデルはがくりと崩れ落ちて、その場にへたり込んだ。中の二人は行為に夢中で、外の物音にすら気付かなかったようだ。

 オルテガに裏切られた時よりもショックは大きかった。人生で初めてできた恋人に、誰よりも信じていた人に裏切られる事の辛さを、彼はこの時に初めて知ったのだ。

 アデルは手を突いたまま、自らの吐瀉物をぼんやりと眺めていた。深い悲しみと胸の痛み、そして絶望感に支配され、何も考えられなかったのだ。

 地面からは自らの吐瀉物の臭いが漂い、二人の行為の声が壁越しに聞こえてくる。フィーナはアデルの名を口にしながら、何度も何度も泣きながら謝っていた。「アデル、ごめんなさい、ごめんなさい」と謝罪の言葉を述べながら、合間には彼でさえも聞いた事がない嬌声を発している。

 その謝罪の意味は、考えたくなかった。


「なあ、フィーナ。俺がついていながら、あいつを死なせてしまった償いをさせてくれ。俺があいつの分もお前を幸せにしてやる。だから、フィーナ。教えてくれ。俺のとあいつの、

「嫌! そんな事、訊かないで!」


 冷静沈着な普段のフィーナからは想像がつかない程、半狂乱になって彼女は乱れていた。そして、アデルに謝罪の言葉を述べて涙しながら、がり狂っている。

 アデルの知るフィーナは、冷静で落ち着いていて、少し大人びた女性だった。それ故、性行為でもここまで乱れた事はない。それはただアデルが未熟だったのか、それともオルテガがただただ長けているのかはわからない。

 ただ、狂っているとしか思えなかった。恋人が死んだと聞かされ、どうしてこんな状況になるのか想像もつかなかった。

 アデルの知るフィーナは、このような不義理を働く人間ではなかったのだ。


『アデル……おいで』


 記憶の中のフィーナは、いつも両手を広げてアデルを優しく包み込んでくれた。

 彼女の胸の中は暖かくて、自分が今孤独を感じていた事を自覚した瞬間でもあった。そして、その孤独を癒してくれたのは、彼女だった。

 今思い出しても、それは幸せな時間だったはずだ。彼に初めて生きる喜びを与えてくれた時間と経験だったはずだった。

 しかし──もうその時間も喜びも、二度と帰ってこない。それだけは明白だった。

 胸がこれでもかというくらい痛んだ。人生で初めて泣きたくなった。恋人から裏切られるのがこれほど辛いとは、考えた事もなかったのだ。

 ただ、何とか今だけは堪えた。ここで涙するのは、あまりに見っとも無いと思ったからだ。

 自分の中のなけなしのプライドで必死に涙を堪えつつ、考えを巡らせる。

 彼女との幸せな想い出までもが偽物だったのだろうか。彼女と交わした愛の言葉も、向けてくれた笑顔も、口付けも、そして二人で重ねた時間さえも、嘘だったというのだろうか。それとも、彼女も最初からオルテガと共に自分を騙して遊んでいたのだろうか。

 アデルはそのどれもが理解できなかった。少なくとも、彼の記憶にあるフィーナは自分を愛してくれていると思っていたし、そうとしか思えなかったからだ。

 しかし、今目の前に行われている行為がその全てを否定する。二人の行為が、お前達の愛は偽りだったと告げてくるのだ。


(どうして……こんな事になるんだよ)

 

 アデルが絶望するその間も、二人の体を重ねる乾いた音と快楽に悶える声だけが頭に流れ込んできていた。

 彼には何も成す術がなかった。フィーナが無理矢理犯されていたなら、対応も違っただろう。乗り込んでいって、何が何でもオルテガを殺していたに違いない。

 だが、このやり取りを見聞きした限り、彼女も望んでの行為である事に間違いないだろう。どういった流れでそうなったのかはわからないが、フィーナはアデルの死を知り、オルテガに心と身体まで開いてしまったのである。

 そうであれば、そこにアデルの意思は必要ない。もう怒る気力もなかった。途方もない絶望の前では、怒りさえも無力だったのだ。

 そして絶望は彼の思考を奪っていく。もう、全てがどうでもよくなってしまっていた。

 フィーナの事も、仲間の裏切りの事も、どうでも良かった。否、どうでも良いと思いたかった。正面から向き合うには、今の彼にとってあまりに過酷だったのだ。

 アデルは何も考えられない頭でふらふらとした足取りで馬車まで戻ると、そのままランカールの町を後にした。

 もうここには、アデルにとって大切なものなど、何もないのだから。

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