アイオーン・レーテー

東雲 蒼凰

第1話

 スッキリとした晴天が続く、梅雨と呼ばれる時期。


 市街地から遠く離れた、滅多に人の子が寄り付かない山奥に来訪者を知らせる鈴が鳴った。


「一体どんな物好きが」


 俺は寝床から這い出てカラカラに乾いた地面を踏む。


「私共で確認して参ります」


「構わない。自分で見にゆく。最近体を動かしていないからな」


 隣に現れた眷属を手で払い、地面を蹴った。蹴ると同時に変化し、大鷹となって上空から来訪者の姿を探す。緑と茶の森の中で鮮やかな衣を身に纏った訪問者の姿は直ぐに見つかった。


 あれは人の子か。何故この様な場所に。肝試しにでも来たのか。いや、人の子が肝試しをするのは夜中か。


「おい」


 人のする事などどうでも良いが、ふと気になった。だから、鷹の格好から人型に変化して人の子の隣に舞い降り立ってしまった。


「え」


 目を白黒させて俺を見る人の子の様子を見て、出方を間違えたと分かった。


「今、いきなり」


「そこの茂みにいたんだ。気付かなかったか?」


 半袖の、白いワンピースを着て何をするでもなくぼうっとしていた幼き人の子が驚きで目をまん丸にしていた。時折森に迷い込む猫の様な目だ。


「いや、空から」


「気のせいだ」


「嘘付いたら針千本飲まなきゃいけないらしいよ」


「空から舞い降りてきた」


 外傷は痛くも痒くもないが、内側から来る痛みには弱い。針を千本も飲まされては気が滅入ってしまう。正直に話せば胡散臭そうな目で見られた。


「怪我するよ、木から落ちたら。ヤンチャね」


「怪我などする訳なかろう」


 どうやら、俺を人外の存在であると認識していないらしい。まあ、そうか。普通人の子は俺らの様な存在とは会わずに生涯を終えるらしいし、実際に存在するなんて思っていないのだろう。


「自分を過信しすぎるのは良くない事だよ」


 説教など、憎らしい。腹が立つ。イライラとした表情で睨むとふっと微笑を浮かべて問うてきた。


「ところで、何でこんな偏狭な地にいるの」


 こっちの台詞だ。ここにいるのは、ここに住んでいるからであるし、偏狭な地呼ばわりされた事が妙にカンに触った。事実であったとしても、だ。


「そんなの俺の勝手だろう。お前こそ、何で此処に」


「何でかな。何故か、ふらりと来てしまったんだ」


 長年風雨に晒されてきた、表面がツルツルになった木に凭れて人の子は笑った。


「人のいない、静かな場所を無意識に求めていたんだろうな、多分」


 微かに、人の子から病魔の匂いがした。


 人の子は葛葉と名乗った。柊木葛葉。植物に溢れた、生命漲る名前でしょ、と笑う葛葉の顔は何処か作り物めいていた。本心からの笑顔ではない。


「良い名じゃないか」


 プラプラと葛葉の髪に掴まって遊ぶ小物を指で弾きながらそう返すと葛葉の顔が少し歪んだ。


「でもね、私もうすぐ死ぬんだって。心臓の病気。若いのに可哀想って近所の人に言われるの。私は充実した楽しい日々を送っているのに可哀想、って。決めつけないでよ、って思っちゃう」


 頬を掠めた新緑の葉を右手で追いかけ、手の届かない上空に舞い上がったのを悔しそうに見ている。


「重い話しちゃった。初対面なのにごめんね」


 空を掴む手を広げてここではない何処かを見る葛葉。俺は人の子の様に繊細な感情を持っていないので迂闊に感想を述べない様にした。ただ隣に立って話を聞くだけだ。


「ねえ、またここに来ても?」


 風に優しく揺れる木の葉の音に目を閉じながら葛葉は問う。俺は一言返した。


「ああ」




 それから数日葛葉はやって来なかった。そもそも、来訪者、ましてや人の子がこの森に来る事自体滅多にない事なのだ。それなのに、俺は葛葉を待っている。そんな状況が不思議だった。


 そして、これこそが梅雨だ、と感じさせる様な優しい雨が降り始めた日。


 葛葉と出会った場所で立っていると少し痩せた葛葉がやって来た。病魔の匂いがきつくなっている。


「久しぶり」


 傘をさして手を振ってくる葛葉を俺は無言で睨んだ。


 何故、もっと早くにやって来なかったのか。


 そんな、幼子の様な文句が口から出かけ、きゅっと唇をきつく結ぶ。阿呆らしい。何を思っているのか。


「ああ」


 ぞんざいな挨拶をすれば、満面の笑みを向けられた。そして、傘を傾け俺を中に入れた。


「風邪、ひくよ?」


 人の子の様にやわではない、雨に打たれたって雷に打たれたって隕石に打たれたって何ともない。それより、葛葉の方が風邪をひくのではないか。


「肩が濡れてしまうぞ?」


 俺が入った分だけ葛葉の体は傘の外に出る。見れば、葛葉の肩に雨粒が当たり、服に水分が吸われている。


「全身、濡れているよ?」


 ね、と笑われて拒絶出来なかった。やろうと思えば雨粒など避ける事ができる。しかし、それをすれば葛葉との関係が崩れてしまいそうで出来なかった。関係と言えるほど何かしたわけでもないけれど。


「家族、いるの?」


 傘に落ちる雨粒の音を聞き、隣から感じる葛葉の温もりに微睡んでいると、ふとそう問われた。


「知ってどうする」


「どうもしないよ。ただの好奇心。教えてくれないかな、冥土の土産に」


「教えなければ、死なないのか」


 素直な感情が口をついた。言ってしまってから何を言っているんだと冷たく笑った。人の子の命は有限。ただ、葛葉のそれが短かっただけだ。教えても教えなくとも、葛葉は運命に従って定められた日に死を迎える。


「さあ。分からない」


 一瞬ひどく冷めた瞳をした葛葉は腕時計を見て焦り始めた。


「あ、いけない。そろそろ戻らないと怒られる」


 傘、置いていくねと俺に押し付け、葛葉はパタパタと走って去っていった。俺は地面に落ちた傘を拾い、葛葉が消えた方向に目を凝らした。


 傘には葛葉と、葛葉を巣食う病魔の匂いが付いていた。


 それからしばらく葛葉は姿を見せず、何度も人里に降りて葛葉に会いにいってやろうと思った。眷属に止められてしまったが、それほどに葛葉との触れ合いが楽しみになっていた。




 一月が経った、暑い日。


 我慢出来なくなり、俺は眷属の眼を掻い潜って人里へ出掛けた。月や太陽の光ではない、強いそれに目がチカチカする。数分歩いてめまいを感じ、かたくひんやりとした壁に凭れ掛かる。鼻の上の方を摘んで目をほぐし、獣じみた瞳を細めて葛葉の姿を探す。傘から感じた葛葉の気配を辿ってここまで来たは良いものの、思ったより人の子が多過ぎてクラクラしてしまった。


「お兄さん、大丈夫?」


 飴ちゃん、いる? と年老いた人の子が俺に何やら甘いものを渡してきた。無理矢理俺にそれを渡し、そして腕にかかった葛葉の傘を見て目を大きく見開いた。


「葛葉ちゃんの知り合いかい? もしかして、ここに会いに来てくれたのかい?」


 ぐいぐいと来られて気圧されながら頷くと年老いた人の子はしわの刻まれた優しげな顔をとても嬉しそうにさせて笑った。


「葛葉ちゃんの病院の場所は分かるかい? ちょっと分かりづらい場所にあるけど」


「分からないな」


「じゃあ、おばあちゃんが案内してあげよう」


 葛葉に似た雰囲気の人の子に、葛葉の縁者であるのだろうか、と予想を付ける。自らをおばあちゃん、と言っていることから考えて葛葉の祖母にあたる人の子か。


「ああ」


 その人の子が案内したのは、葛葉にまとわり付いていた病魔の匂いがあちこちから漂う場所だった。思わず顔を顰めると年老いた人の子は小さく笑った。


「あれあれ。来慣れていないもんにはきつい場所かね。出直すかい?」


「いや。傘を返したいし、あまり来れぬので出直さない」


「そうかい」


 何故か甘いものをもう一個渡してきた。


「多分、あの子はもう長くないよ。だから、今のうちにたくさん話してやって」


 あのアホな孫め、老いぼれより先に死ぬなんて何考えているんだ、と小さく呟いたのが聞こえた。


「ほれ、食べな」


 下を向いて歩く人の子の声は震えており、硬い地面に涙をいくつも落とした。俺はあえて気づかないフリをしてありがたくその甘いものを貰って口の中で転がした。


 結論から言えば、その日は葛葉と話せなかった。深く深く眠っており、瞼は綺麗な茶の瞳を柔らかく覆い隠していた。年老いた人の子は俺を案内するとすぐに折り返し、去っていった。その日、傘は葛葉の隣に置いてただ葛葉の、正気のない顔を見つめた。帰り際、恐る恐る葛葉の柔らかそうな髪に触りすぐに引っ込め、換気のために開け放たれた窓から大鷹になって飛び出し、森に帰った。


 何なんだ、この手は。髪をすくい、何をしようと考えていたのだ。


 眷属の文句を聞き流し、自分の中に湧き上がった、焦ったい様な、辛い様な、泣きたい様な感情の分析を始めた。しかし、答えは出なかった。


 どうして、俺はあの人の子をあそこから連れ出してしまいたいなんて考えたのか。


 大きくため息をついて寝床に転がった。満月のはずだが、雲に隠れて見えなかった。




「……た……い……」


 真夜中。


 闇を揺蕩う意識が急上昇し、耳に届く声を捉えた。遠く、遠くから響く声。その声は葛葉のものに似ており、引かれるように声の方へ歩く。夢遊症の者のように力無い足取りで草を踏み、土を踏む。


 大きく開け、月明かりが優しく地を照らす窪地に葛葉が立っていた。酷く薄らとした姿で俺を呼んでいる。


「来たよ、いないの? おーい」


 キラキラと輝く茶の髪が何とも眩しい。


「ここにいる」


 葛葉の方へひとっ飛びで向えば、葛葉はとても嬉しそうな顔で俺を見つめ、笑った。


「ようやく会えた。久しぶり。なかなか会えなくて寂しかった。元気にしてた?」


 月の粉をまぶしたような黄金色が踊る葛葉の姿に、ここにいるのは葛葉の魂であると気付く。そして、木の影からこちらを覗き、早くしろ、これは特例だ、と口を動かす者を確認して確信した。


「それはこちらのセリフだ。全然会いに来ず、何をしていた」


 葛葉が何か言おうと口を動かす。その前に俺は葛葉を抱きしめた。葛葉が戸惑う様に体を捩らせている。しかし構わず込める力を強くし、葛葉を逃さぬ様に腕の中に閉じ込めた。


「人の子は、これに何と名をつけるのだ」


 月を見上げ、窪地に落ちる月光が少なくなっているのを恨めしく思う。葛葉は小さく笑い、言った。


「変人とかじゃないかな。いきなり人に抱きつくのは」


 ふ、と窪地に影が落ち、月が雲に覆い隠された。気付けば、葛葉はまるで霧の様に掻き消えていた。代わりに、葛葉に返したはずの傘がそこに落ちていた。




 眷属以外のものと触れ合わなかった事で人肌が恋しかったからか、それとも、葛葉に恋慕していたのか。それは長い時間が経ってしまったのでもう分からない。それは分からないが、どれだけ時間が経とうとも、葛葉が残した傘を見ては胸が締め付けられ、自然と涙が出てしまう。


 しかし、この地を守る者としていつかけじめをつけなければならない。いつまでも葛葉という傷を心に抱えていてはいけない。この地の守護神として堂々とあらねばならない。葛葉から見て変人であったとしても。


 とても寒い冬の日。


 ちらちらと雪が舞う夜に決心を固めて眷属を呼んだ。もし、俺が決心を曲げてこの傘を持ち帰ろうとしたら代わりに処分して欲しい、と言い含めて。


「良いのですか」


 眷属が心配そうに顔を覗き込んできた。


「ああ」


 俺は目を瞑り、何も考えない様にした。そして、上空に舞い上がり、手に持った傘を一瞬で灰にして森全体に散らす。


 真っ白な雪と共に降った灰は地面に落ちるとポピーの花になって咲き乱れた。雪が積もる地面に真っ白なポピー。森に住まう動物たちが季節外れのポピーを興味深げに嗅ぎ、そして食んだ。とても甘く美味しいポピーはあっという間になくなってしまった。


「これで良いんだ」


 大きく息をついて心の中に溜まったものを吐き出した。そして、葛葉と出会った場所に一輪だけポピーが残っているのに気付き、気になって花弁を一枚口に入れてみる。甘さが口いっぱいに広がり、くらくらとした。残りも食べ、ポピーが手元からなくなり、朦朧としていた意識がはっきりとした。


「俺は、何をやっていたんだ」


 何故、こんな場所にいるのか分からず、戸惑いながら自分の住処に大鷹の姿になって舞い戻った。








 いつもの様に森をぶらぶらと飛び回り、大木の上で休憩をしていると声が聞こえてきた。


「ママ、その栞頂戴よお!」


 駄々を捏ねる幼い少女とその母親らしき人物が見ているものを何気なく見て、息が止まりそうになった。


 手には美しいポピーの花を押し花にした栞。


 知らないはずなのに胸が苦しくなる。ポピーなんてありふれた花を見て、どうしてこんな気持ちに。


「貴女がもっと大きくなって、この栞の持ち主の話を理解できる様になったらあげるわ。それまではこのシャカシャカで我慢しなさい」


「あーい」


 母親が手渡した、音の鳴るものを嬉しそうに振る幼児。


 ふと、幼児が首を上げて俺を見やった。


「あ、不思議な鷹さん」


 人の子には見えぬはずの姿を認め、幼児は俺を指差した。

 幼児の母親は指差す方を見るが、俺の姿はやはり見えず首を傾げた。


「鷹なんていないわよ?」


「いるよ?」


 じい、と俺を見る、猫の目の様な瞳に心の奥がざわめいた。

 この目を、俺は以前どこかで……。

 俺は羽を震わせて空へと逃げた。


 きっと、この感情は……


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