第12話
うん、気を付けるよ。今日はいつのまにか寝ちゃってたんだ。僕はそう答えた。
僕らとおばさんの三人での最後の食事は、平穏のうちに終わった。昼食のときと同じく、おばさんは何も言わなかったし、僕らからも何も言うことはなかった。僕らの心は既におばさんからは離れてしまっていた。もう、前みたいにおばさんを信じることができなかった。考えてみれば、些細なことのようでもあった。僕らの知らない男の人がいた。そして、おばさんはそれに対して何も言わなかった。それだけだ。だけど、それが僕らには決定的なことだった。それは僕らからおばさんに尋ねられる類の出来事ではなかった。僕らの関心は、あの男が森の外の人間だったのかどうかということだ。もしそうであれば、彼は僕らにとって危険な人物であるはずだった。おばさんが僕らにそう教えたのだ。もし森の外の人間ではあるのだけれど安全な人間だというのであれば、おばさんが嘘を吐いていたことになる。どうしてそんな嘘を僕らに対して吐き通さなければならなかったのか、僕には理解できない。また、森の中に僕らと同じような生活を営んでいる人間がいるという話は聞いたことがなかった。だから、絶対に確実なのは、おばさんは僕らに話していない秘密なことをもっているということ、そして、その秘密が、今、僕らのすぐ近くに存在している、そういうことだった。秘密とは、具体的にはあの男の人のこと。あの男の人はおばさんの秘密で、僕らが見つけてしまった秘密だった。だけど、見つけはしたけれど、僕らはその秘密の正体までは暴けてはない。彼がこの家の中でおばさんと親しそうに会話をしていたこと。その秘密がずっと僕らの近くに存在していたのか、それとも最近になって接近してきたものなのかは分からない。今日初めて知ったのだからわかりようがない。唯一確かめる方法は、おばさんに直接尋ねることだけだった。だけど、そんな危険を冒すわけにはいかなかった。そのラインを跨ぎ越えるには、おばさんのことを、とても怖い存在として新しく認識しなおさないわけにはいかなかった。だけど、僕らにとっておばさんは優しくて、そしてなにより育ててもらった恩のある人だったし、その家族同然に親しいおばさんの人物像を怖いおばさんの人物像によって破壊するなんて、僕らにはできなかった、ということなのだろう。だから僕らはこの家から逃げるのだ。もしも僕一人だったら、まだ迷ったままだったと思う。そして結局、誰の目にも明らかなはっきりとした異変が起こるまで僕はこの家に留まり続けたに違いない。だけど、僕には君がいた。君という存在が僕の隣にいて、僕を引っ張っていた。君は僕に、今すぐに逃げなきゃだめだといった。ほんとにちょっとのささやか感情の変化だったけれど、おばさんと最後の夕飯を共にした後では、なんとなく、君がそう主張したことの理由がわかる気がしていた。逃げるなら今しかない。いま逃げないと、状況は少しずつ変わり始める。少しずつ歪んでいく絵から目を離せなくなってしまう。ぬかるんでいく地面に足が埋もれていって、そのうち抜け出せなくなる。そうなる前に逃げなくちゃ。君が言ったのはたぶんそういうことだったのだろう。
新しい世界――その認識が、僕を高揚した気持ちにさせている。それと不安とか心配の気持ちが入り混じって、いま、とても複雑な気持ち。わくわくと、どきどき。いま僕の目の前にいる君は、はたしてどんな気持ちだろうか。
夕飯のあと自分たちの部屋に戻ってすぐに、僕らは家を飛び出した。窓から、まず君が外に出て、そのあとから僕が外に出た。持ち物は、二人とも肩から提げた空の水筒だけだった。僕が出てくるのを確認したら、君は突然走り出した。急いで僕もあとを追った。なんで君がそんな急に走り出したのかもわからなかったし、どうして走らないといけないのかもわからなかった。どちらかというと、しばらくはゆっくりと足音を立てずに進んだ方がばれるまでの時間を稼げていいと思うのだけど。でも君が走り出しちゃったから、そんなことはもう関係ない。たぶんおばさんにばれただろう。だから再び立ち止るなんてことはできなくて、結局のところ全力で走って逃げるしかなかった。どうして君が急に走り出したりしたのか君が立ち止まってから聞いてみよう、と考えながら、僕は君についていった。
平らな土地はすぐに終わって、僕らは急な斜面を登ることになった。そこからは岩をよじ登ったり、反対に飛び降りたり、とても足を滑らせて落ちないよう木をしっかりつかみながら登ったり、時には反対に滑り降りたり、このときばかりは身体の大きさを理由にしてゆっくりと進むなんてことはできなかった。もう日は暮れていて、月明かりが、高い木の葉の隙間からこぼれてくるだけだったから、あんまり君と距離を開けすぎると見失ってしまうし、たとえどれだけ距離が離れても、君は立ち止まってはくれない、と、君の背中を見ていてそんな気がした。だから僕は結構一生懸命になって君について行った。君はなんといっても身軽だった。君は森の中をとても速いスピードで進んでいった。もしおばさんが追いかけて来ていたとしても絶対に追いつけっこない速度だったし、もうずいぶん進んだから、もういい加減止まってもいいだろうと思ったけれど、君は一向にスピードを緩めなかった。後ろから見ていて、君はまるで何かにとりつかれてるみたいに一心不乱に進み続けていた。僕は、君の心のことが少し心配になったのと同時に、君のその野性的な肉体の躍動に、これからの生活に向かっての頼りがいみたいなものを感じていた。
ずっと進んでいくと、川が流れているところに出た。ここは、まだ僕らの知識にある場所だった。かなり大きな川で、渡るとほとんど全身がずぶ濡れになってしまうことは避けられなかった。君がこの川を渡るのか、それとも進路を変えるのか、僕は見守っていた。すると、君は木を登り始めた。空を覆う大きな木で、僕ら二人が手をつないでも一周回りきらないくらい幹が太い木だった。君が登っていくのをみて、僕もその木に登った。高いところまで来ると、そこから、君は今度は川に向かって伸びる枝の方に向かってするすると進んでいった。それは、ちょっと危険じゃないか、と僕は思った。川の水は僕らが歩いて渡れるほど浅かったから、もし枝が折れるとずぶぬれになるうえに、怪我までしてしまいかねない。だけど、君に迷いはなかった。君は、枝がぎりぎり君の体重を支えられるところまで進んだ。枝は大きくしなって、もう少しで折れてしまいそうに見えた。まだ大丈夫だというのは僕も経験的に分かっていたし、君も枝から伝わる感覚から大丈夫と踏んでいたのだろうとは思う。だけど落ちたときのことを考えると、やっぱりそれを見ている僕らするとかなり危ない行為だと思えた。君はいったんそこで静止して、対岸を見据えた。
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