第11話
うん、わかった。逃げよう、と僕は言った。僕は結局また君の意見に流された。
だけど、逃げると言ったって、いますぐ部屋の窓から飛び出して逃げるわけにもいかなかった。いま何も考えずに飛び出していったって、あとあとしんどい思いをする。食べ物だって、いつでもおなかいっぱい食べられる保証はない。森の中はたしかにたくさん食べものがあるけれど、タヌキを捕まえるのはそんなに簡単なことじゃない。
それに、もうすぐ雪が降る季節だ。寒くなると、火がなくっちゃ生きていけない。凍え死んでしまう。
僕らは逃げるための計画をヒソヒソ声で話し合った。計画といっても、行動に関する決定としては、いつこの家から逃げ出すかという日程を決めたくらいで、あとは何を食べて暮らしていけるか、とか、どうやって火を確保するかといった、既に知っている生活に必需的な知識の確認をしただけだった。調理をしたり暖をとったりするための火を起こすのだって、もっとも大きな栄養源であるタヌキを捕まえるのだって、この家ではおばさんがやってくれていることだから、僕らだけで本当に必要なすべてを賄えるものなのか、分からなかった。だけど、やるしかなかった。おばさんはもう、僕らの味方ではない。それは僕らの勘違いかもしれなかったけれど、でも、そう考えておいて損はないはずだった。おばさんはもう僕らが期待する以上に僕らを守ってくれることはない。あの男の人のことを僕らに秘密にしているおばさんは、少なくとももはや絶対的な存在ではない。僕らに対して秘密にしているということは、僕らよりも重要なことがおばさんにはあるということだ。そしてその重要なもの――あの正体不明の男の人――は、森の外の人間で、僕らとは敵対的な存在だった。
僕は逃げ出す日を、花が咲く季節まで待つべきだと言った。いま逃げ出すと、すぐに雪が降る季節になる。雪が降るととても寒くて、自力での暮らしを始めたばかりの身にはきっととてもつらいものになるに違いないと考えていた。それは、当然そうなるだろうと予測される結果だった。生き延びられればまだいいほうで、それどころか、寒さに凍えて死んでしまったとしても全然おかしくはないのだ。だってとても寒いのだから。それは悲劇なんかですらなくて、他よりもずっと高い確率で予想される可能性、つまり当然というやつだ。
だけど君の意見は違った。
「今すぐに逃げるべきだよ」と君は言った。「次に男の人が来る前に逃げないと。じゃないと、私たちの命が危ない!」、君は押し殺した声だけど、とても真剣な表情で、僕に訴えた。さすがに命の危険までは考えていなかった僕は君の言葉にすこし面食らってしまった。果たしてそうだろうか、というのが僕の率直な意見だった。あの男の人が危ない(いまの段階では少なくとも「怪しい」)存在であるとは僕も思ったけれど、あの男の人が僕らの命まで奪ってしまうとは、うまく想像のできない未来だった。それに、もしあの男の人が僕らの命まで奪いかねないほど危険な存在であるとしたら、僕らは既に八方塞がりじゃないかとも思った。逃げなくても、あの男の人のせいで命が危ないし、逃げても、寒さのせいで命が危ない。僕らはいま、こんなにも肉体的に健康なのに、そんな僕らに待ち受ける未来が「死」だけだというのだろうか。それはなんとも違和感のある説だった。それとも、なにか第三の策が残されているのだろうか。
夕方になるまで議論(あるいは口論?)をしたけれど、結局君は自分の意見を曲げなかった。君は最後には「君が逃げなくても私一人で逃げるからね」と言い出した。僕ら二人で協力したって生きるか死ぬかわからないところを、君一人でなんて、と僕は思った。だから、結局、二人で逃げる、という結論に至らざるを得なかった。まったく、こういうとき、僕は議論に勝ったことがない。それは君が折れるということを知らないからだ。君はいつも自分の意見ばかり主張して、僕の意見には耳を貸さない。いつだって反論の嵐だ。だけど、それでいいと思っている。僕ら二人にとって、より重要なのは、僕ではなくて、君だった。なぜかは分からないけれどそんな気がする。物心ついたときから、僕の中にはそういう感情がずっとあった。だからもしものことがあっても、君だけ生き残れば、僕らにとっては成功だと思っている。もしも二人で逃げだして、僕が死んでしまったら、君はいったいどうするつもりなのだろう、と思った。君はきっと死んだ僕の肉を食べられないに違いない。でも生き残るという観点からすれば、食べなければ、生きられないのだ。だから、君は逃げ出すのには向いてないと僕は思う。まあもっとも、僕が死ぬとすれば多分寒さでだから、飢餓とは無縁のままで死を迎える可能性が高いと思うけれど。いや、でも、寒くなると食料も乏しくなるから、案外餓死というのもあり得るのかな、などと、君との議論が決着したあと、僕は一人で考えていた。君は一時間か二時間くらい前から、夕食の準備を手伝いに台所に行っている。もう日は暮れかかっていて、僕は一人でベッドに仰向けになっていた。時間が経つのがとても早くて、いま空が赤みがかっているのもいつの間にかのことだ。空を見て、もうそろそろ夕食の時間だなと思った。僕はベッドから立ち上がった。窓まで歩いていって、内側に開く透明なガラスの窓を開けて、外側の木戸を閉めてから、また透明な窓を閉めた。部屋は真っ暗になった。僕は足の感覚を頼りにバランスを取りながら、記憶を頼りに出口まで歩いた。
僕が食卓を覗くと、君は既にテーブルの前の椅子に就いて、夕食が運ばれるのを待っていた。おばさんは火にかけた寸胴の中身を木のへらでかき混ぜていた。それは昨日の晩ご飯のときと同じもので、一度にたくさん作って、そのあと何日間かはそのスープが続いた。もっとも新しく作るにしてもいつも同じ味のスープなので、昨日の残りか新しいものかというのは大した違いではなかった。僕は君の隣の席に座った。
「いい匂いだね」と、君は言った。それはスープの匂いで、肉と野草を水で煮た匂いだった。
うん、と僕は答える。ここから逃げ出して、自分たちの力で生きていく未来の困難に比べれば、いまのこの状況はまるで天国のようだった。君と僕はこうして雨風をしのげる家の中で、テーブルの前に座って、料理が運ばれてくるのをただ待っていればそれでよかった。おばさんがスープをお椀によそっている。例えばお椀にしたって、僕らがここを出て行ったあとは、自分たちで作るしかないものなのだ。木でできていることは確かだから、まず木を切る。その後切った木を削ってお椀の形に成型する。それは、途方もない労力を要する作業だった。そんなことをしている間に雪の降る季節が来て、僕らは寒さで凍えて死んでしまうに違いない。死んだ僕らの傍らには作りかけのお椀が転がっている。あるいは、切りかけの木が生えているかもしれない。何であれ現実的なことを考えると、悉くうまくいかず、失敗するイメージだけが浮かんでくる。――そういう心持の中では、毎日食事にありつけることのありがたみが身に染み入ってくるのだった。僕らは逃げ出して、今と同じ食事を食べられるようになるまでに、一体どれくらいの月日を要するだろうか。あるいは、そんな日はこの先何十年もやってこないかもしれない。もちろんそのときまで生きていられる保証もない。
食卓に、具だくさんのスープを注いだお椀が置かれる。湯気が立っていて、中にはタヌキの肉と野草が入っている。お替りは自由。僕と君は勢いよく食べ始めた。おなかがすいていたのだ。おばさんに全面的に養ってもらっている今この状況でも、食べ物が毎日有り余るほどある、というわけにはいかない。タヌキの肉を食べられるのは多くても十日のうち七日くらいだ。それだけ多く食べられるのも、おばさんのタヌキを取る腕がいいからなのだ。タヌキのとり方を教わっておけばよかったな、と食べながら今更後悔する。罠を仕掛けることとか、その罠をどうやって作るかみたいなことに関しては漠然と知識があるけれど、どういう場所に仕掛けるのがよいかとかいうことは全然知らなかった。今からでも聞いておくべきだとは思ったのだけれど、逃げ出そうとしてるのがばれるんじゃないかと思うと、怖くて聞けなかった。
僕が一人であれこれ考えて、逃げるのに失敗するんじゃないかとか、もし逃げることに成功したとしてその後どうしようとか心配したり、おばさんは僕らの企みに気付いているんじゃないかと不安になったりしているのに対して、君はいつもと変わらないように見えた。いつもどおり夕飯前になるとおばさんの手伝いに行って、夕飯ができると、いつもどおり、あるいはいつにもまして、おいしそうにご飯を食べている。君の表情はとても純粋に見える。本当に平和な日常のなかで、美味しいご飯と仲の良い家族に囲まれて、幸せそうな表情に見える。
「おいしいね」と、君は僕に向かって言う。
うん、と僕は答える。その声は、自分でもよくわかるほど暗かった。
「どうしたの?」と君は僕に言った。「気分悪い?」
気分が悪いかって、いいわけはない。君も知ってるはずだ。それなのに君はそんなことを聞く。芝居上手なのか、それとも本当に忘れてしまっているのか。君なら、どちらの可能性もあり得るな、と思った。僕はうまい言い訳を探す。
君が台所に行ってからすこし少し寝ちゃってさ、そのとき悪い夢を見たんだ、と僕は答えた。
「そう。ならいいんだけど。顔色が悪いから心配しちゃった」
ありがとう、だいじょうぶだよ、と僕は言った。
「悪い夢を見たのはきっと体が冷えたからよ。昼寝でも、寝るときはしっかり布団を掛けなきゃだめよ」と、おばさんは言った。
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