第10話

 僕の後から君も立ち上がって、僕はそのまま自分たちの部屋に入った。君はおばさんの片付けの手伝いをするみたいだった。いつからか、君にはそういう習慣が出来ていた。小さい頃は食事が終わると二人で自分たちの部屋に戻っていたのだけれど。いったいいつからそういうふうになったのか、僕には思い出すことができなかった。

「おいしかったね、お昼ご飯」。片付けを終えて、部屋に戻ってきた君は言った。

 そうだね、と僕は言った。君は、きっとおばさんが何事もなかったかのように、あの男の存在がまったくなかったものであるかのように、僕たちの前でいかにも自然にふるまっていた、というその話題について、僕に牽制を仕掛けたのだろう、と僕は感じた。だけど、僕としても、そのことを言及するわけにはいかなかった。僕らは昼食のあと自分たちの部屋に入ったけれど、僕らは現在おばさんと一つ屋根の下にいるわけで、この状況で、そんな話は危なっかしくてできなかった。

 どうしてタヌキの肉は野草と一緒に煮るとあんなにおいしいんだろうね、と僕は君に牽制し返した。こんなにも心の籠らない言葉は滑稽だった。

「さあ、どうしてだろう。でも、おいしいよね。おばさんはあまりおいしくないっていうけど、でも私たちからすればおいしいよね」。君は、おばさんは、の部分を特に強調してしゃべる。

 僕と君は互いにしばらく見つめ合って、そしてこらえきれなくなってくすくすと笑った。僕も君も、このときには笑わずにいられなかった。心の底の方からこみ上げてくるような笑いだった。だけどそれは、緊張の糸が切れておかしいというのでは全くなくて、逆に、この緊張から逃れられないことに気づいて、僕らは笑ったのだ、と僕は思う。それは程度としてはささやかなものであったけれど、種類としては、狂気的な笑いだった。

 僕らの部屋にはベッドが二つある。僕のベッドと、君のベッド。あまり広くはない部屋の端と端に、二つのベッドは置かれている。僕らはお互い自分のベッドに腰掛けて向かい合って話すというのが多かった。

 君が自分のベッドから立ち上がって、そして僕の隣に座った。僕の耳元で、君はささやく。「おばさん、何も言わなかったね」

 うん、と、僕は頷いた。二人ともいつのまにか真剣な表情だった。

「やっぱり、森の外の人間かな、あの男の人。」

 たぶん、と僕もヒソヒソ声。

「そしたら、たぶん危ない人だ」

 どうだろう、と僕は言った。絶対にそうだとは言い切れない。だけど、ごく現実的な事実として、僕もあの男の人を危険な人物だと思っていた。それは、一つには僕らが今まで暮らしてきた暮らし方の価値観に照らし合わせた結果であったし、もう一つは単純に、あの男が僕らからとても近い位置に突然出現したという驚きからだった。僕らにとって、あの男が危険だという考えをまったく排除してしまうということは絶対にできないことだった。その考えはいちど頭に浮かぶと、どれだけぶんぶんと振り回しても平然と僕にしがみついている、みたいな、そういう類の考えだった。

 もし本当にそうだったらどうしよう、と考え始めるとき、その考えを笑って済ませられるときと、まったく笑えなくなってしまうときの二種類がある。それは結構両極端に、厳然と存在していると僕は思っている。

 たとえば、君がさっき、木の声が聞こえるようになった、と言ったとき、僕は、君は本当に木の声が聞こえているのかもな、と思った。そして僕はそこから、例えばこんなふうな「もし本当にそうだったら」を考えることができる。――もしかしたら君はそのまま木とすごく仲良くなって、僕とあまりしゃべってくれなくなってしまうかもしれない、もし本当にそうなったらどうしよう、もしその未来が本当に存在していたらどうしよう、と考え始めたとしても、僕は不安にはならない。君が僕としゃべってくれなくなるのはちょっとは悲しいことだけれど、君のそばにいられなくなるわけじゃないから、僕は取り乱したりはしない。

 だけどあの男の人のことになると、僕はそんな楽観的な態度ではいられなかった。あの男の人が本当に森の外の人間で、おばさんは僕らよりもあの男の人と仲が良くて、おばさんはあの男の人の命令で、僕たちを監視しているのかもしれない。そう考え始めると、僕はそのことを考えるたびに戦慄する。恐ろしい、怖い、とても心配になる。不安で顔がひきつる。そんなぐらいに、男の人のことは怖かった。もし本当にそうだったらどうしよう、という考えに取りつかれてしまうのは、とても危険な思考だ。まだ何も始まっていないのに、本当にその通りになってすべてが終わってしまったかのように感じてしまう。そして、そんな気分になってしまう。そうなるとそこからはなかなか抜け出すことができない。今の僕みたいに。


「ねえ、きいてる?」と君がヒソヒソ声で言った。以外に耳元で聞こえて、僕はびっくりした。

 きこえてる、と答えたけど、嘘だった。僕はいま君が何を話していたか、全然聞いていなかった。そしたらたぶん危ない人だ、ってさっき君が言ったのには、どうだろう、って返事をしたから、たぶん、そのあとにまた君は何かしゃべってたんだろうな、という推測。

「逃げる?」と、君は言った。それが、たぶん、二度目のセリフ。さっきもそんなことをいってたんだろうか、僕の耳元で。それは、とても非現実的な響きをもった言葉だった。逃げるといったって、森はどこまで行ったって森なんだ。僕らは森の外へはいけないんだ。だから、逃げるなんてない。

 まだ待とう、と僕は口にした。いってから、僕ははっとなった。それは、とても裏腹な言葉だった。逃げるなんてことは少しも考えていなかったのに、まだ待とう、だなんて。まったく考えていなかったのに、口から出てきた言葉。自分が自分では思ってもみなかった意外な言動をとって、僕は驚いた。どうしてそんなことになったのか理解できなかったからだ。意志と行動に整合性の取れない、とても不安定な状態だ。僕は焦って、真剣に、自分の心に耳を澄ました。そして僕は気づく。僕が思ってもないことを言ったのは、君に「逃げる?」と言われたからなんだな。僕は逃げるなんて考えていなかったのに、君に逃げるって尋ねられたから、僕は迷ったのだ。僕の中で、僕と君は一心同体だから、僕と君で意見が食い違うと、僕は混乱してしまう。だから、まだ待とう、なんて言ったんだ。

「じゃあ、どれくらい待つの?」と君は聞いていた。それは少し前のこと。その質問に対して、僕はしばらく沈黙していた。ねえ、と君は催促する。

 本当に、逃げる? と、僕は質問し返した。

「だって、危ない人だったら、逃げないとだめでしょう」と君は言った。それはもっともな論理だった。

 だけど、まだ危ない人かどうかはわからない、と僕は言う。

「わかってからじゃ遅いよ」と君はいった。僕を急かすようなその口調。そういう言い方をされると、僕はたいてい君の意見に流されてしまう。それでもこのとき、僕はしばらく迷ったのだ。僕は、目の前の君のベッドを見つめていた。たぶん、虚ろな目だっただろうと思う。君のベッドを見つめていると、僕はこの家に詰まった思い出をいくつも思い出した。僕ら三人の、何気ない日常。ご飯を食べたり、薪割りをしたり、この部屋で、君と二人でおしゃべりしたり、他愛のないこと。それらの光景は、今この状況に置かれた僕からすれば、とても魅力的な日々。もう一度あの日々を取り戻したい。それが最も喜ばしい結末だと思う。だけど、どうやらその未来を手に入れることは不可能なようだった。この家に留まるとしても、僕はこの先ずっとあの男の人の存在という不安を抱え続けなければならない。そこに平和はない。僕は、僕の記憶たちをできることなら守りたいと思った。いや、できることなら、その記憶によって守られたいと思った。だけど、いま僕らに立ちはだかっている問題のことになると、僕のそれらの平和な記憶たちはたちまち雲散霧消して、僕はまた現実に引き戻されるのだった。僕の目の前にある君のベッド。

「ねえ、逃げよう?」と、僕の耳元で君がささやく。

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