第9話

 おばさんは、男の姿が見えなくなるまで見送ってから、再び家の中に入っていった。それから六十秒くらい数えて、僕たちは家のドアを開けて、まさにいま帰ってきたふりをした。

 ただいま! と僕と君は言った。玄関のドアを開けるとすぐに僕らの生活スペースがあるのだけれど、違和感はなかった。椅子の位置は同じに見えたし、それ以外のものも、壁にかかっているタヌキの毛皮も、瓶の中の干したキイチゴも、おばさんの立ち姿も、曲がったりずれたり減ったり歪んだりしてはいないみたいだった。部屋全体を見渡したときの印象として、今朝家を出たときから何一つ変わっていないように思えた。部屋の中にある匂いも同じだった。すべて記憶にある日常的な匂いばかりだった。あの男はとても短い時間しかこの部屋にいなかったのかもしれないし、あるいはあの男は無臭なのかもしれなかった。もしかしたらずっと昔から毎日のようにここを訪れているということなのかもしれないけれど、そんなことは考えるだけでぞっとする。この部屋にある日常的な安心できる匂いの中のどれかがあの男の匂いだと思うと、全身の毛が逆立つような嫌悪感を覚える。

「あら、お帰りなさい」とおばさんは言った。おばさんは火にかけた鍋の前に立っていて、鍋の中身をかき回している。おばさんはいつもと変わらないように見えた。「ちょうどよかったわ、昼ご飯の支度ができたところよ」

 ――そんなわけないじゃないか、と僕は思った。さっきまで男としゃべってたんだから、昼ご飯の支度はきっと三十分前には既に済ませてあったはずだ、と僕は思った。

 僕らは食卓の席に就いた。いつもと同じ席を選んで椅子を引く。床と椅子の脚がぎー、と擦れる音が食事時には似つかわしくないほどけたたましいと感じる。僕は席に座って、両肘をテーブルについて、背中を丸めた。

 ふと気づくと、自分の表情がいつもより暗くなっているような感覚があった。自分の顔は見えないけれど、でもなんとなくこわばっているような感じだった。僕は慌てていつも通りふるまおうと努めた。表情を元に戻そうとする。何も考えちゃいけない。考えると顔に出るから、おばさんの前にいる間は何も考えないように。さっき遊んでいたときのことを考えよう。僕は自分の気持ちを隠蔽することに必死だった。表情はもういつもと変わらないくらいまで戻っているだろうか。



 昼食は結局、いつもどおりのメニューで、いつもどおりの他愛ない会話が交わされて、すべてがいつもどおりに終わった。平和な時間だった。おばさんも目立っていつもと違うところはなかったし、僕らが見ていたことにも気づいていないようだった。もちろん確証はないけれど、でも少なくとも、おばさんは何も言わなかったから、もし気づいていたとしても、気づいていないということにしておいてくれるみたいだった。僕はとりあえず安心して、席を立った。

 僕は、さっき見たことを忘れようとしていた。なぜかは分からないけれど、僕の心の衝動的な部分が僕の頭からその記憶を消し去ってしまおうとしているように感じた。なかったことにしよう、そういうことなのかもしれない。あの光景さえ見ていなければ、全てがいつもどおりの幸せな日常になるのだから。だから、何も見ていないことにしよう。もちろん、そんなことは不可能だった。僕はなによりも明確に男の姿を捉えたし、ものすごく鮮烈な印象とともに認識してしまった。そのときの驚きが、もう頭のなかにこびりついている。これを無理やり頭から引き剝がそうとすると、頭の皮まで一緒に剝がれてしまいそうだ。忘れられない。その記憶は、もう既に僕の一部だった。

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