第8話

「説明が難しいな、見たことない服だよ」と君は言った。「手足の袖が長くて、黒っぽい服だった。何枚か重ね着をしているみたいだったよ。一番上の服は胸元が開いていて、おなかの辺りに丸いボタンがあった。で、胸元のところは下の服で覆われていて、白くて首元までぴったり閉じてて、折れ曲がった触角みたいなのがのどぼとけの下ぐらいのところから生えてて、それが一周ぐるって――」

 そこから、君の説明はいよいよ要領を得なくなっていった。君が言っていた触角というのを、そのあとジェスチャーでもう一回示してもらったところ、それを言葉で説明するのは確かになかなか難しいし、できたとしてもかなり長い説明になるのだな、ということが理解できた。

「それで、首元から、真っ赤なのがデロン、てなってた」

 結局君が一番印象に残ったのはそれだったらしい。それは見たところ、服と同じように布でできているように見えるとのことだった。首元から垂れた真っ赤な布。あるいはそれは服の一部なのかもしれないな、と僕はその姿を頭の中に想像しながら思った。君はその赤く垂れた布がどれほど際立って印象的なのかを僕にも知らしめたいらしくて、その部分の説明は特に熱の籠った口調になった。僕はうつむいて君の話をきていたけれど、その声を聴くだけで、僕は君の表情が想像できた。君はその部分の説明を、身振り手振りを混ぜながら何度も繰り返した。

 ふうん、で、結局その男はどういう感じだったわけ? と、僕はしびれを切らして質問した。

「おばさんと話をしてるみたいだったから、たぶん危ない人じゃないとは思うけど」

 君は、迷っているみたいだった。その気持ちは理解できた。もしも僕が最初に見ていて、そして君に伝えるという立場だったとした、君と同じようになっていただろうと思う。その人間は、明らかに危険だ。僕らの知らない人間だから。僕らは、知らない人だって同じ人間なのだから基本的にはみんな安全だ、みたいな価値観の世界には生きていなかった。僕らとおばさんの三人だけが内側の人で、あとは、みんな外側、つまり森の外の世界の人間たちだった。そして森の外の世界というのは、僕らを拒絶して弾き出した世界だった。僕らは追われる身として、そこからおばさんにつれられて逃げてきたのだ。そんな世界から、安全な人間なんてやってくるわけがない。それが自然な発想だった。僕にとって、僕らと彼らとの関係の認識は、水と油よりももっと強く反発しあう、水と火のような関係だった。水が火を消してしまうか、火が水を蒸発させてしまうか、そのどちらかだった。明確な境界線を保ったまま交わらないもの、一度交わりかけてもすぐに再び分離してしまう相容れない者同士、なんていう生ぬるい関係ではないと思っている。

 だけど、君は、その男がおばさんと話をしている、と言った。多分それが君を迷わせる原因だったのだろうし、そのことは僕の心も迷わせた。おばさんは、僕らを連れて森の外から逃げてきたのだと僕らに言った。森の外は危険だと言ったのはおばさんなのだ。それなのに、そのおばさんが、「外」の人間と話をしている。これはいかにも怪しかった。僕は自分の心の中で、おばさんへの信頼が揺らぎ始めるのを感じた。そしてそれは君にしても、同じことだっただろうと想像する。

「どうしよう」と君は言った。「出て行っちゃ、まずいよね?」

 たぶんね、と僕は答えた。いま出ていくと、たぶんまずいことになる。僕らがいないからこそ、おばさんはその男と話をしているのだ、きっと。おばさんは、僕らに何か嘘をついているのだ。すくなくとも何かを隠している。

「おなか減ったなあ」と君は言った。こんなときにそんなことを考えられるところが君の僕とは違うところだった。もちろん僕だっておなかが減っているけれど、わざわざ、おなかが減ったな、なんて考えないし、考えたとしても口には出さない。だって、いまこの状況でおお腹なんて減らしている場合じゃないだろう。

 しょうがないよ。とだけ、僕は言った。

「でも、おばさんは私たちがもうすぐ帰ってくるってわかってるはずでしょ。それなのに男の人と話をしていたってことは、あの男の人は危険な人じゃないんじゃないかな」

 かもしれないね、と僕は言った。あの男の人は安全な人間なのかもしれない。でもそうじゃないかもしれない。だから今はとりあえず身を隠しておくべきだよ。

「うん」と君は言った。

 僕らはとりあえず、もっと遠くから家を観察できる場所に移動することにした。辺りは一面落ち葉の海だったから、とてもゆっくりとそれらを踏みしめて歩いた。踏まないなんてことは不可能だったから、踏むけれどもなるべく音をたてないように。ときどき落ちている木の枝は拾って脇にどけた。この前の雨の影響で湿っているとはいっても、それでもさすがに枝を踏んで折ると甲高い音が鳴るに違いなかった。そうしたら、おばさんたちに気づかれてしまう。枝を脇にどけるときも、拾ってぽいっと投げ捨てるんじゃなくて、腰を曲げながらそっと地面に置いた。

 家の周りには場所によってはかなり見通しのきく方角があって、どこもかしこも僕らが隠れていた岩のように視界が遮られている、というわけではなかった。だから別の角度へと移動するのに家との距離を保ったままでは、体を隠せない場所がどうしても存在していた。だから、僕らはいったん完全に体を隠せる距離まで離れて、それからぐるりと回り込んで、また家に近づいて行った。

 結果的には僕らは家の周りを九十度くらい回って、灌木の茂るところまできた。僕らは灌木の背丈に合わせて姿勢を屈めながら、灌木の真裏まで近づいた。その場にしゃがんで、枝の隙間から家の方を見透かそうとした。けれど、灌木には枝が結構ぎっしりと生えていて、向こう側がまったく見えないというほどではないにしても、観察したりするにはあまりにも視界が不充分だった。

 しょうがないから、僕らは灌木の下に潜り込むことにした。落ち葉の絨毯の上に寝そべって、肘で体を引きずりながら、少しずつ灌木に体を突入させていった。

 灌木は、根元の幹の部分を中心として全方角に対してだいたいまんべんなく枝を伸ばしている。僕らは家とは反対の方角から頭を突っ込んで、その中心の幹の部分の手前辺りまで頭を進めることができた。それ以上進むのはさすがに危険が大きかった。どうしてもところどころで体や、特に着ている服が枝に引っかかって揺らしてしまうからだ。だからこれ以上は進めないと判断した。でも、観察をするにはそれで充分だった。視界は充分に窓と、その奥の人物を捉えていた。

 生い茂る葉の隙間から目を見開いている。今度は僕も見ることができた。僕らの視界の先には家の窓がある。小窓とかではなくて結構大きなちゃんとした窓で、下から見上げる格好になっていても中の人物の顔を見るのには問題なかった。僕らはその窓越しに中の様子を窺うことができた。

 たしかに、一人の男が家の中にいた。家の中で男とおばさんは話をしているようだった。話し声はもちろん聞こえなかった。おばさんはこちらに背を向けていて顔が見えなかった。おばさんのいる方を向いている男の顔だけが見えていた。リスが自分の逃げてきた方向へ振り向くときのように、僕の視界は自然と男の顔に引き寄せられ、凝視していた。

 男の表情を見る限り、この男はおばさんとかなり親しい間柄のようだった。平均的にやわらかくリラックスした表情が多い。男が口を開いて何かをしゃべっている時間と、口を閉じて話を聞いている時間は、だいたい同じくらいだった。だから、おおよそ対等な関係なのだろうと推測する。友達だろうか。

 男が片手を上げた。どうやら帰るらしい。おばさんと一緒にドアまで歩いていく、その途中で二人の姿は窓枠の外に消えた。

「帰るみたい」と君は言った。「どうしよう。しばらく待ってから帰った方がいいよね」

 うん、でも、どうしようか。僕は少し迷った。しばらく待つといったって、三十分も待っていると、逆に怪しまれる。昼食に帰ってくるのにあまりにも遅すぎるからだ。かといって五分くらい待つのでは、あまりにも、ちょうど良すぎる。

 すぐに帰ってみようか、と僕は提案した。すぐに帰って、おばさんがどういう反応を示すか、見てみようと思った。

 玄関は、さっきの岩のある方角にあった。僕らはそちらへ再び戻って(窓から誰もみたいなから姿をさらしても平気なので、近道をした)、木の陰から玄関を見つめた。二人が家から出てくる。男はおばさんに別れを告げて、家から離れていく。

 家から離れていくのだけれど、それって結局森の中なのだ。そのことに、僕は気づいた。この家からはどの方角へ歩いても、ずっと遠くまで森が続いている。ときどき獣道があるだけで、森の外へ出るために人間に用意されている道はない。ほんとにただの森があるだけなのだ。そのことは僕らの長年の探検から証明されている。あの男は、歩いて森から出るんだろうか。はたしてそんなことは可能だろうか。僕にはわからないことだけれど、わからないから、すごく気になった。あの男は森の外まで、一体どうやって帰るのだろう。

 でも、僕は男が森の中に姿を消すのを見つめているだけで、その疑問のことを君に話したりはしなかった。無言は君も同じで、何を考えていたにしても、とにかくその考えを口に出すことはなかった。僕らは一言も喋らなかった。

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