第6話

 僕と君は同じ部屋で寝ていた。その夜、僕と君はそれぞれのベッドに入った後、少しだけ木の声のことについて話した。

 木の声って、木が会話しているっていうことなのかな? と僕は尋ねた。

「木はみんな一斉に声を出してたから、たぶんみんな自分勝手に思い思いのことを話してるんだと思う。だからもしも会話してるんだとしても、少なくとも私たちがするような会話とは違うものだと思う」

 ふうん。

「ねえ、君は何も聞こえなかったの?」

 うん。何も聴こえなかった、と僕は答えた。君が大木の根っこに登っている間、僕はすっかり森の静寂に浸っていたのだ。まさか君が何かを聴いているなんて、そんなこと夢にも思わなかった。

「不思議だな。どうして君には聴こえなかったんだろう? 大木の根っこに登ると聞こえるのかな?」

 もしかしたらそうかもしれないね、と僕は返事をした。

「ねえ、明日もう一度あの大木のところに行ってみようよ」と君は言った。「そして今度は君も根っこに登ってみるんだ。そしたら、もしかしたら君にも木の声が聞けるかもしれない」

 そうかもしれないね、と僕は答えた。行ってみよう。

「決まりだ」と君は言った。その声はとてもわくわくしているように聞こえた。「そうと決まれば早く寝なくちゃ。おやすみ!」

 おやすみ、と僕は返事をした。君がそれを聞いたのかどうかは分からない。僕がおやすみ、と言ったあとには、誰も話す人はいなかった。君は既に眠ってしまっていたかもしれない。一度眠ると決めてから本当に眠るまでが君はとても早かった。僕にはとてもまねできない早さだった。気づいたら寝ている、ということがよくあった。君は睡眠と何か特別な糸でつながれているのかもしれない。君がその糸を引っ張ると、必ず睡眠が向こうからやってくる。そして君は眠りに落ちる。そういう特殊な回路があるに違いないと僕はよく想像していた。そしてそういうことを考えているうちに、僕もいつのまにか眠っているのだった。



 次の日、朝ごはんを食べて、僕と君は出発した。おばさんには朝ごはんを食べているときに昨日と同じ大木のある場所に行くと伝えた。

 僕と君はまったくの手ぶらだった。なぜなら大木のある場所の近くには川が流れているからだ。近くに川がない場所に行くときには水筒を持って行かなくちゃいけないのだけれど、今日はそれは不要だった。

 君はとてもわくわくしているみたいで、いつもよりずっと速いペースで歩いていた。元々が身軽な君は速く歩くとふわふわと動いているように見える。まるで少しだけ浮いているみたいに一歩一歩が軽いのだ。足に全然力がこもっていないように見える。でも、君は実際には足に力を入れているはずだ。そうじゃないと歩くことは不可能だから。でも、やっぱり君の足には力が入っているようには見えなかった。歩くことに限らず、君のそういう身軽さが、いつも後ろから見ていてすごく興味深いところだった。僕にはその身軽さがないから、そんなに君の身軽さのことが気になったのかもしれない。君は、歩くことでは少しもエネルギーを消費しない生き物みたいに見えた。

「走ろう!」と君は言った。そして君は走り出した。

 僕も君の後ろを同じ速さで走った。身軽ではないというだけで、僕も体力には自信があったから、君が走り出しても平気でついて行けるし、君も僕のことを心配したりはしなかった。だからこそ僕の返事を待たずに走り出したりするのだ。


 走ったから昨日よりも早く大木の生えている場所に着いた。枝葉で空が覆われているから薄暗くて、空気が重たい印象を受けた。

 君は早速大木の根っこに登って、僕の方を振り返った。僕も君の後から登る。

 根っこの上に立ってみると、下にいるときとはずいぶんと景色が違った。それは僕にとって新鮮な気持ちを起こさせる景色だった。いくら大木の根っことはいってもそれほど高さがあるわけではないから、もちろん木に登るときに比べると景色に変わりはないはずなのだけれど、しっかりと両足をついて立っているのに景色が違うということが新鮮な印象を与えたのだろうと思う。僕はしばらくのあいだ、さっきまで自分が立っていた地面の景色を眺めていた。

「ほら、聞こえる」と君が言った。君の方を向くと、君は目を閉じて、少し上を向いたまま静止していた。

 僕は上を見た。だけどそこには大木の幹から伸びる無数に分岐した枝と星よりもたくさんの葉っぱが空を覆いつくす光景があるだけで、何もない。と僕は思った。再び君を見ると、やっぱり君はさっきと同じ体勢のままだ。その表情を見る限りでは、たしかに何かを感じているようではあるのだけれど、でも僕の耳には何も聴こえて来てはいなかった。僕は再び上を見た。やっぱり何もない。

 試しに僕も目を瞑ってみる。あまり期待はしていなかったけれど、でも君が目を瞑っていたから、僕も目を瞑れば君が聴いている音を聞けるんじゃないかなと思った。

 目を瞑って、少し上を向いて、そのまましばらく待ってみたけれど、僕の耳には何も聴こえてはこなかった。何も聴こえてこないのがわかるとなんだか恥ずかしくなって、僕はすぐにその体勢をやめてしまった。

 君は相変わらず同じ体勢でいた。木の声を聴いているのだろうと思う。だけど僕にはそれが聴こえなかったから、しかたなく、僕は大木の根っこに座って、君が目を開けるのまで待つことにした。

 さすがに夜のように暗いとまではいかないのだけれど、大木の下はほかのところよりも少し薄暗くて、下に潜り込んでいるときに辺りを見渡すと遠くの方がある距離を境に明るくなっているのが見えて、なんだかあちらとこちらでは違う世界みたいな、そういう見え方をする。少し薄暗いこちら側の方が、空間がひっそりと静まり返っているような気がする。君はこちら側の、大木の根っこに登ったときだけ木の声を聴くことができる。だから、ひっそりと静まり返っているような気がするという感覚は、あながち間違ってはいないのかもしれないな、と僕は妄想の中で思った。こちら側の世界とあちら側の世界、という妄想。明るい世界と少し薄暗い世界。にぎやかな世界とひっそりと静まり返った世界。僕は立ち上がった。木の根っこから降りる。なるべく静かな足音で歩いて、僕は少し薄暗い世界から明るい世界へと境界線を跨いだ。

 僕は振り返って、少し薄暗い世界を見てみる。さっきまでは「こちら側」だったけれど、今となっては「あちら側」な世界。君が大木の根っこに立って、相変わらず同じ体勢でいるのが見える。僕はしばらく君を見つめていたけれど、君は全然動かなかった。

 だから僕は諦めた。こちらの明るい世界の方が太陽の光のぶん暖かかったので、僕はこちらで昼寝をして君を待つことにした。君はどれだけ長くても昼ごはんまでには切り上げて帰るつもりでいるのだろうと思っていたから特に心配するようなこともなく、僕は心安らかに昼寝をすることができた。目を瞑ると明るさが際立って鬱陶しかったから、近くの木陰に入って昼寝をした。


 どれくらい眠っていたかは分からないけれど、僕は肩に手を触れられて目を覚ました。君がすぐそばに立っていて、僕のことを見下ろしていた。

「帰ろう」と君は言った。どうやら木の声を聴き終わったようだった。

 もういいの? と僕は尋ねた。

「うん、とりあえず今日は、ね」と君は言った。「おなかが減ったから帰ろう」

 うん、とだけ僕は言って、ゆっくりと立ち上がった。昼寝とはいえ寝ていたわけだから、身体がすぐには動かなかった。

 僕らは近くのを流れる川に行って水を飲んだ。それから家に向かって歩き出した。君は、昼寝をしていた僕に気遣ってゆっくりと歩いてくれた。


 木の声はどうだった? と僕は君に尋ねた。昼寝をしていたから君がどれくらいの間木の声を聴いていたのかは分からないけれど、でも僕が昼寝からすっきりとした気分で目覚めたことからすると、かなり長い時間そうしていたのではないかなと思う。

「うん、聞こえた」と君。

 やっぱりまだ何を話しているかは分からないの?

「うん。というかうまく言葉にできないんだ。わかると言えばわかるんだけど、でも、言葉にできないんだよ。もどかしい気持ちだね。こういうのって」

 言葉にできないことは僕にだってたくさんあったけれど、でも君が今言ったことが、果たして僕が共感できる類のそれなのかどうかは分からなかった。だって僕には木の声が聴こえないわけだから、それを聴くことで起こる感覚的な刺激というのがどういうものなのかも当然分からないわけだった。木の声のことを話題にするかぎり、君と僕の間には埋めがたい溝が存在していた。

 それって心地いいことかな、と僕は尋ねた。

「悪い気はしないね」と君は答えた。「でも別に心地いいとか悪いとかいうことではないような気がするな。それは、ただ聞こえてくるものなんだ。そして私はただ耳を澄ますだけ」

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