第5話

 もちろん、森の外が僕たちの心のなかで重要な位置を占めていたことには変わりがなかった。だけど、おばさんから僕らの病気の話を聞いてから、森の外のことを考えるたびに、僕らの病気のことが浮かんできた。それを考えないでいることはできなかった。だってそれが、僕らが森へ来た理由で、僕らが森の外に出ていけない原因だったから。おばさんにそう聞かされたから。僕らの病気が、僕らと森の外との関係を形作っていた。僕らは、森の外の世界にとっては拒絶された存在なのだ。その考えから逃れることはできなかった。でも、そのことを考えずにいることは不可能だった。僕らの会話ってたいていが森についての話題だったし、森のことを話すと森の外のことを考えずにはいられなかった。そして森の外のことを考えてしまうと、僕らの病気について考えないわけにはいかなくなった。そういう考えが一度浮かんでしまうと、それって全然楽しくなかった。君だって僕と同じだっただろうと思う。それだから、君だって森の外の世界のことをあまり話さなくなったのだ。君って案外僕と一緒で、というかむしろ話のジャンルによっては僕よりもずっと、ナイーブな性格なんだ。


 僕らは、たしか今年で十二歳になる。季節の十二周目が回ってきている。今は雨の多い季節、僕らが生まれたのは雪が降る季節らしい。だから、僕らはまだ十一歳ということだ。雨の多い季節はそろそろ終わろうとしている。君は雨の多い季節のことが好きだ。なぜなら水溜まりを踏むのが好きだから。君は水溜まりを見つけるたびに、それを力いっぱい踏む。そのしぶきが僕にかかっているなんてことは、君の意識にはないみたい。君って、好きなものを前にすると周りが見えなくなっちゃうタイプだ。


 僕らは岩をよじ登って、僕らとおばさんの住む家の庭に出た。君が先に岩を登って、僕を待たずにすたすたと玄関のドアに歩いて行った。僕はその背中を追いかける。

「ただいま!」と君は元気の良い声で言った。おかえり、と玄関の奥からおばさんの声。僕も君の後から家の中に入った。

 ただいま、と僕も言った。

「おかえりなさい」とおばさんの声。おばさんは台所でスープを温めている最中だった。鍋の下にくべられた薪から火が立ち上っている。火ってすごく明るいから、いつも無意識にそちらを見てしまう。火の根元にある薪は、真ん中のところが既に灰になっていて、ひび割れて黒ずんでいる。

 僕はテーブルの席に就く。君はおばさんのそばに歩み寄って、おばさんとおしゃべりをする。

 僕よりもずっと、君は喋ることが好きだ。遊びから帰ってくると、君はいつも決まっておばさんにその日に見たものとかあったこと、とにかく思い出せる限りの全部を話題にしてひたすらしゃべり続ける。おばさんはいつも昼食の準備中だから、けっこうぞんざいな相槌しか打たなかったりするのだけれど、君はそんなことはすこしも気にならないみたいだった。

「今日はね、一番大きな大木のところまで行ったんだ」と君は話し始める。

「あらそう」

「それでね、大木の下って暗いじゃない?  で、昨日に雨が降ってたから、根っことかも濡れてて滑りやすくて危なかったんだけど、でもそこに登ったんだ。そしたらね――」

「ちょっと、これテーブルに運んでちょうだい」おばさんが君の話を遮った。君が話し始めている間に、おばさんは棚から器を三つ取り出して、そこに鍋のスープを注いでいた。君はいったん喋るのをやめて、器をテーブルまで運んだ。おばさんは鍋に蓋をして、スプーンを三本持ってテーブルに来た。

「それじゃあ、食べましょうか」とおばさんは言った。

 そして僕らの昼食が始まる。いつもこうだ。メニューも同じ。僕らの食事は、たまに干し肉とか焼いたキノコとかもあるけど、ほとんどいつもスープだった。おばさんが森で獲ったタヌキの肉とか、近くに生えている食べられる野草とかをいろいろ鍋に入れて煮込んだだけのスープ。あんまり味はないけど、でもまずくはなかった。おばさん曰く、森の外にはもっとおいしいものがたくさんあるらしかった。でも、僕とか君は物心ついたときからこればかり食べているし、こればかり食べている分には、このスープに不満は感じなかった。

「それで。話の続きを聞こうかしら」とおばさんは君に言った。

「そう、それでね、大木の木の根っこに登ったんだけど、それでいい景色だなあって周りを見てたら、なんか変な音が聞こえてきたの。最初それが何の音か分からなくて、ちょっと怖かったんだけど、でもね、ずっと聞いていると、あのね、それはね――木の声だったの」

 君がそう言って、僕もそのことを思い出した。そういえば君は木の根っこの上で、そんなことを言ってたな、と。でもそれってどういうことだろう。木の声って何だろう。僕は考えてみた。もちろんわかるわけがないのだけれど、何かヒントになりそうなものとか、あるいは何か僕らも知っているようなもののことを君が木の声って呼んでいるだけなのかなとか、そういういろいろな可能性を考えてみたりしていた。でも特に思い当たるものはなかった。とすると、君が言っているのは本当に文字通り、木が発している声を聴いたということなんだろうか。君って、そんな不思議なことをいうような人間ではないと思っていたけど。でも、僕が知らなかっただけで、君にはもともとそういう妄想的な性格があったのかな、とかあまり関係のないことばかり考えていた。木の声は、どんな声って言ってたっけ。

 それってどんな声だっけ、と僕は聞いた。

「向こうにいたときいったじゃん」と君に言われた。

 忘れちゃった、と僕は言った。

「私も気になるわ」と、おばさんも君のその話に興味を示したみたいだった。

「あのね、大きくてね、すごく遠くから聞こえてくるみたいなんだけど、でも、はっきりと聞こえるの」

「なんて言ってたの?」

「それは分からなかった。私たちの言葉とは違ったから。でも、なにかしゃべってるみたいだった。それは確か」

「へえ。不思議ね」とおばさんは言った。

「それでね、いろんな木が声を出しているの。たまに何も言わない黙っている木もあるんだけど、ほとんどの木からは声が出てた。木はおしゃべりが好きなんだよ、きっと」

「そうなのね」とおばさんは言った。

 でも、声が聞こえたって何喋ってるかわからなかったら意味ないね、と僕は笑って言った。

「確かにそうね」とおばさん。「お勉強したら、聞き取れるようになるかしら」

「わかんない」と君は言った。君だけが真面目な顔だった。君は僕とかおばさんがおかしいと思うことで笑わないし、僕やおばさんが真面目な話をしているときに急に笑い出したりする、ちょっと感覚のずれた子だった。もちろん僕らとはずれているというだけで、どちらが正しいとか間違ってるとかいうことではないのだけれど。でも三人の間では、二対一だから、たいていは君が間違ってるっていう空気になることが多かった。

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