随想録44 一三日間危機⑨

 ―――何かがおかしい。

 最初に命令の異常さに気づいたのは、サイトA発射管制室の当直士官バールケ大尉だった。

 ドワーフ族出身で短躯の彼は、発射準備手順開始を下令し、発射担当者たちの動きを監督しつつ、ふと管制室の壁にある状況表示盤を見上げたのだ。

 石油樹脂製のボード五枚を、それぞれ背後から蛍光灯を使って照らし浮かばせることができるよう作り上げられたもので、一つ一つは病院の手術室の表示や、大規模建築物の非常口表示と似ている。縦一列に並んでいて、下から順に青、緑、黄色、オレンジ、赤色に塗り分けられていた。

 国家防衛準備体制の現状を示すものだ。

 ユーゴスラヴァ危機の生起以来、オルクセンの国家防衛準備体制は上から二つ目の「第二段階」に置かれていた。六時間以内に戦争可能な準備体制に軍を置き、かつ、それは核戦争を予期させるもの、という意である。

 バールケ大尉がこの状況表示盤を見上げると、「第二段階」のままであった。

 これは奇妙なことである。

 核戦争に突入したのなら、状況赤―――「第一段階」に引き上げられていなければおかしい・・・

 次に疑義を抱いたのは、発射担当者のひとりであるベーテル上級軍曹だ。

 彼はコボルト族シュナウザー種の、髭のように見える鼻筋の体毛を震わせながら、発射手順の実務を担っていた。

 TM-六一巡航ミサイルの発射手順には、様々なデータの入力が必要だ。

 それは高度、方位、飛翔時間、上空爆発か地上爆発かの選択、搭載核弾頭の核出力設定などから成る。過去に収集された、精密な測地測量及び天文測量と、複雑極まる数学的計算値の集まりであり、ミサイル本体のジャイロスコープ、慣性航法装置、地形照合レーダー航法装置といった存在のフル活用とも言える。

 ベーテル上級軍曹が、三名の部下たちとともに目標箇所の入力を行っていると―――

 彼は、標的のうち三つまでが東側陣営諸国であり、ロヴァルナ連邦領内は一個所でしかないことに気づいた。

 管制室で有事にのみ開封される核攻撃命令書の詰まったキャンバス製鞄には、三つの封筒が収まっている。当直士官が「赤い電話」によって通知された作戦計画番号に従って、そのうち一つを開封、中身の封密命令書を使用するわけだが―――

 当直士官バールケ大尉が知らされ、復唱によって確認した作戦計画番号「OPE三一一」は、三つの作戦計画のうち、全面核戦争を想定した最も剣呑な内容であった。

 目標は、東アスカニア、ポルスカ、チェヒ=モラヴィニア。

 これもまた奇妙なことであった。

 直接の脅威となっているロヴァルナに打ち込むならともかく、これでは東側諸国全てを核戦争に巻き込むかたちとなってしまう。チェヒ=モラヴィニアなど、オルクセンとは国境すら接していない。

 これではオルクセンの国是が否定する、核の先制使用ではないか・・・

「大尉、これは・・・ こいつは、何かが妙です・・・!」

 ベーテル上級軍曹が上ずった声で叫び、

「ああ・・・ああ! 群司令部へ確認を取ろう!」

 大尉は頷いた。

 既に発射準備は最終段階に入っていた。管制室から約一〇メートル離れた掩蔽壕ブンカーでは、一枚当たりの重さが九〇トンもある強化鋼製扉が油圧装置の力に依って開き、巡航ミサイルの格納台兼発射台が展開を始めている。

 発射すれば。

 発射してしまえば、「世界は滅ぶ」のだ。

 大尉は、敢えて規定を無視するかたちで、群司令部への直通電話から受話器を手に取り、本当に命令は正しいのか確認することにした。

「・・・・・・そんな! おい、みんな! 発射準備を止めろ!」

 なんと、命令は誤報であった。

 ―――原因は、この前日、オルクセン空軍の上層部にあった。

 空軍参謀総長パウルス大将が、核戦争への備えを整えるにあたり、普段の訓練では使用しないことになっている「赤電話」が、本当に手順通り作動するのか試しておきたいと言い出したのだ。

 そしてこの確認は、日常的に実施されていた発射手順訓練を利用するかたちを取って実行に移されることになった。

 ―――しかも、抜き打ち・・・・で。

 この余りにも備に入り細を穿ちすぎた「配慮」が、第四九八戦術ミサイル群では人的事故を招いてしまった。連日連夜の緊張、疲労、困憊から、群司令部当直士官は「訓練」の言葉を付け加えることを失念。

 そして発射手順確認訓練では使用しない「赤電話」を用いた。

 結果として、まるで実戦と変わらない命令の下達が行われ、状況が状況ゆえに、当初は当事者たちすら誰も内容を疑わなかったのだ。

「なんてこった・・・」

 発射準備作業の全てを中断できたあとで、ベーテル上級軍曹は呟いた。

 もうとっくに夜食の時間を過ぎていたが、食事などどうでも良いといった気分だ。喉も通らない。何も食いたいとは思えない。誰もが同様らしく、レンジで温められたベーコン入りポテトサラダが、まるで冷え切ったまま休憩室で山になっている。

「なんてこった・・・ なんてこった・・・ 俺たちは、世界を滅ぼしかけちまった」

 ベーテル上級軍曹は、がっくりと自席で項垂れ、慄然としていた。



 二七日午後五時五九分。

 四隻のロヴァルナ潜水艦のうち最後の一隻―――ヴァレンティン・ザヴィツキー艦長率いるB五九もまた、ついにオルクセン海軍に発見されていた。

 空母グスタフ・ファルケンハインから発艦したレシプロ双発のVf五二対潜哨戒機と、キャメロットのペッターズ社製ポーウィス対潜ヘリコプター、それに陸上基地より飛び立ったNe一〇七アオローラ対潜哨戒機が、オルクセン領ヴェゼティ島を中心にした海域に濃密な哨区を形成しており、これに引っかかった格好である。

 ディーゼルエンジンで海上航行中だったB五九を最初に発見したアオローラ対潜哨戒機と陸上の司令部は、この潜水艦に「シャルロッテ一九」というコードを割り振った。

 オルクセン海軍の艦艇、もしくは哨戒機乗りたちは、哨戒直中に他国潜水艦を発見すると一等功労章という勲章を貰えた。本来なら一定距離の無事故飛行であるとか、戦術や兵器の発明考案に対し与えられる物で、日常的に胸の部分に略綬を着けられるようになる。

 幾らか副賞扱いの賞金を貰うこともでき、通常なら歓声の一つでも上がるところだが―――

 このときは誰もそんなことをする者はいなかった。

 緊張を覚えてもいたし、怖くないと言い切れる者も皆無だったが、そればかりでもない。彼らは「冷静」だった。

「機長より。これよりC一九の撮影を開始する」

「機首見張り、撮影開始します」

「レーダー手より。C一九は潜航中」

「機長より。潜航中であることを視認」

 B五九は、西に向かって針路を取り、重く垂れこめて雨を降らせている雲の下に逃げ込もうとしていた。艦橋見張り員やレーダー、あるいは逆探装置が哨戒機を発見したのだろう。ただちに急速潜航を図った。

 アウローラ哨戒機のクルーたちには、司令塔に数名の人影が見えた。それほど低空を飛んだのだ。

 彼らが円形の軌跡を描くように旋回し、二度目の航過をやったときにはもうロヴァルナ人たちの姿は見えず、甲板までが海水に浸かり、三度目の航過時には完全に潜航してしまっていた。

 オルクセン側は、外交上の通告に従い、浮上して国籍及び艦名を明らかにするよう求めるため、演習用の爆雷を投下。

 そのころにはもう、空母グスタフ・ファルケンハインの艦載機である対潜ヘリコプターも駆け付けていた。

 対潜ヘリは、通常二機で一組をつくった。

 キャメロット製のポーウィス対潜ヘリコプターは非常に優れた機体であり、吊り下げ式のソナーを使った対潜哨戒と、爆雷や魚雷による対潜攻撃をやれる。ただし一機で同時にこれを務めさせるにはペイロード不足で、一機が哨戒、もう一機が対潜攻撃という「ハンター・キラー」方式で運用していた。

 このときは対潜弾の使用は艦艇及び固定翼哨戒機に任せ、二機ともが吊り下げ式ソナー運用機だった。吊り下げ式ソナーを展開、もしくは巻き上げている間はソナーを使えないから、より完璧を期そうとしたわけである。

 ロヴァルナ潜水艦は浮上しなかった。

 深く深く潜航して、逃走を図った。

 だがオルクセン海軍によって濃密に形成された包囲網は、B五九の存在をくっきりと捉え続けた。

 隔壁扉を閉鎖しているのだろう、ガチャンといった重い金属音。

 聴音ソナーのハイドロフォンを通すと、まるで巨大な怪物が水を吸い込んでいるように聞こえるスクリュー音。

 信じられないことだが、乗員の叫び声や、艦内を駈け回る靴音をはっきりと聞いた、という者までいた。

 オルクセン海軍のソナー担当は、艦艇配置の者にしても航空機のクルーにしても、たいへん優秀だった。聴覚の優れたコボルト族たちが中心になって、さらに専門教育を施され、選抜された者たちが受け持っていたからだ。

 いまや魔術通信や探知は彼らの種族内でさえ廃れかかっていたが、九六〇年代のコボルト族は種族の能力をそんな道に活かしていたのである。

 やがて、空母グスタフ・ファルケンハイン打撃群から分離していた三隻の駆逐艦が到着した。

 ミサイル防空駆逐艦メーヴェ。

 護衛駆逐艦イルティス、アルコナ。

 彼らはB五九が潜航しているだろうと目された箇所の周囲をぐるぐると旋回するように進み、まず誰何の合図として五発の演習用爆雷を投下した。

 イルティスの日誌は、以下のように記録する。

「反応なし。潜水艦をソナー探知。浮上せず。僚艦アルコナ、更に五発の演習用爆雷を投下」

 B五九の艦内では―――

 艦長のザヴィツキー中佐が周囲に怒鳴り散らしていた。

「戦争だ。間違いない、戦争だ! 我々が航行している間に戦争が始まったに違いない!」

 彼は他の三隻の潜水艦長たちと同じく、本国からオルクセンに依る外交通告などまるで知らされていなかった。

 耳を塞ぎたくなるほどの爆発音と衝撃に揺さぶられながら、ザヴィツキー艦長は徐々に冷静さを失っていった。

 爆発力は、音響警告弾などとは比較にならない。

 本物だ。

 この攻撃は本物に違いない。

 潜水艦長にとって、強制浮上させられること以上の屈辱はない。

「ロヴァルナ海軍の名誉。祖国の栄光を守らなければならない!」

 ザヴィツキーは、完全に誤解していた。

「我らはここで死ぬことになるだろう。だが奴らも道連れだ! 全て沈めてやる、必ずだ!」



 首都ヴィルトシュヴァイン。ケーニヒスガーデン北西。

 ヴァルダーベルク馬術学校経営者にして退役陸軍少将イアヴァスリル・アイナリンドは、女王ディネルース・アンダリエルからの呼び出しを受けた。

 公式上の扱いはともかく、謁見を賜るだとか、拝謁仕るといったほど堅苦しいものではない。

「一緒に食事でも摂らないか」

 そんな誘いを受けるのは良くあることだったのだ。

 ディネルース曰く、「ヴァスリーの奴は、暇な私の話し相手になってくれている」。

 ユーゴスラヴァ危機の発生以来は、とくに。

 また、イアヴァスリルは自身の営む乗馬学校の厩舎で、王室が式典などに使う乗馬の日常的飼育を委託されてもいる。つまり、ディネルースのための馬だ。

 たいへん意外なことのようだが、近頃のディネルースは式典に参加するというような、必要に駆られた場合にしか馬に乗らない。

 いまでも立派な乗馬術を維持してはいるから、馬が嫌いになったわけではないだろう。

 ディネルースはその理由を誰にも語ったことはないが。

 イアヴァスリルは、どことなく察していた。

 ―――愛する者に、先立たれることを恐れておられるのだ。

 オルクセン移住後、最初の愛馬であったシーリ。

 そして、今は亡きグスタフ王。

 魔種族の長大な寿命ゆえに、他者を看取ることを重ねてられてきた。しかも、決して自らは望まぬことであろう。

 到着すると、女王は国営放送のテレビニュースを観ているところだった。居室のソファに座り、足元には巨狼を二頭、つがいで寝そべらせている。

「よく来た、ヴァスリー。何か飲むか?」

「では、姐様お勧めのエイリッシュ・アードリックを」

「ふふ、わかった」

 ディネルースは手ずからデキャンターからカットグラスへ琥珀色の液体を注いでやり、自らはシェリー酒の逸品イザベリア・クリームを整え、

「不思議なものだ。近頃は、とろりとろりと酔う酒を嗜むようになって、な。あのひとの好みが移ったのかもしれん」

 そんなことを口にした。

 ブラウン管に中継放送されていたのは、ベレリアント半島ティリオンの抗議集会だ。

 反戦反核派の若い白エルフたちが集まり、盛んに平和を訴えている。

 一部では収拾がつかなくなっており、ついには警官隊の大規模介入と、主催者一部の検挙、発砲と流血騒ぎになっているらしい。

「酷いものですな・・・」

「ああ―――」

 大統領や私の声明も火に油だ、とディネルースは自嘲する。

「エレンミア王女にも鎮静化を呼びかける声明を出させてもいいのだが。政府としても私としても、それは面白くない。それに、だ―――」

 ディネルースは、杯を傾けた。

「・・・ヴァスリー。ベレリアント半島の核シェルターの普及がどれほどか、知っているか?」

「さて・・・?」

「公共施設で八〇〇ヶ所。集合住宅などで一一〇〇ヶ所だ。ベレリアントで民間用シェルターの建設が始まったのは、昨年でな。まだまるで数が足らん」

「・・・では・・・地下鉄駅構内その他を使っても・・・」

「うん。もし核戦争になったら・・・ 彼女たちの殆どは収容などできない。ティリオンに確保されている非常時備蓄食糧も、一七万食程度に過ぎないらしい」

「・・・・・・」

「ロヴァルナやユーゴルラヴァが核弾頭ミサイルを使えば、着弾まで僅か五分。元より、シェルターが全国民分あったとしても、退避すらままなるまい」

 皮肉な話だ。

 本当に皮肉な話だ。

 平和運動をやっている連中が、ひとり残らず、真っ先に、頭上から核の洗礼を浴びる予想が立てられているとは。

 だが、ディネルースの言葉にしては、皮肉が利きすぎている。少なくとも他の誰よりも彼女の為人を知るイアヴァスリルにとってはそのように思えた。

「・・・私は、もう望みのままに振舞わせておけと大統領府に伝えた」

 ディネルースは、グラスを覗き込むような姿勢をしていた。

 中身を眺めているのか、淵を見ているのか。間近にいてもよくわからなかった。

「いいか、ヴァスリー。明日―――」

 彼女はいった。

 イアヴァスリルはその口調、響き、表情に慄然とした。

 なぜ、己が呼ばれたのか。

 なぜ、国民のあるがままに振舞わせておけなどと女王が口にしたのか。

 薄々分かってはいたが。

「明日、私たちや国民が朝陽を拝むことができたなら・・・ それは奇跡というやつだ」



 二八日、日曜。西星欧時間午前九時。

こちらはマスガヴァリートクワ放送です・マスクヴァ―――」

 キャメロット連合王国やオルクセン連邦といった西側諸国は、この朝、突如として発せられたロヴァルナ連邦公共放送の海外通信波を受信した。

「これより、党第一書記にして閣僚会議議長ニキータ・フルシチョーリフが、キャメロット連合王国政府首相ハロルド・マクラーレンに対する書簡を読みあげます」

 それはユーゴスラヴァにおける全ての攻撃兵器組立中止と、解体、ロヴァルナ連邦への返送を告げるものだった。

 ―――唐突な。あまりにも唐突な、危機の終息である。

 原因は、フルシチョーリフが「このままでは本当に核戦争になる」と信じ切ってしまったことにあった。

 あれほど強気だった彼をそこまで動揺させ、決断に至らしめた存在は、幾つかあった。

 一つには、キャメロットやオルクセンといった西側諸国があくまで戦争への備えを崩さなかったこと。

 分けても、キャメロット特使ウォールデンによる、

「我らは二度と食事を供になど出来ないくなる」

 という発言だった。

 フルシチョーリフは、同志的存在であるフェーミンから齎されたこの言葉を「事実上の開戦予告」だと捉えたのだという。

 これは皮肉なことだ。

 実際には―――確かにキャメロットは翌三〇日の開戦を計画していたが、それはユーゴスラヴァに限定されたものであり、全面核戦争の覚悟というには程遠かった。ウォールデンとしては、あくまで「駆け引き」の一貫として口にした言葉に過ぎない。

 そしてこの判断を、ユーゴスラヴァ指導者ティトからの書簡が補強した。

「二四時間から七二時間以内にキャメロットは侵攻してくる」

 というあれだ。

 ティトは、フルシチョーリフに強気の対応を求めるためにこの書簡を発したのだが、これもまた皮肉なことに、魁偉なロヴァルナ連邦首相にまるで正反対の判断を導かせてしまったのである。

 皮肉と偶然、焦燥の重なりが、フルシチョーリフに核戦争回避の決断をさせたことになる―――

 彼は、泡を食い、恐れ戦き、慌てふためいていた。

 正規の書簡のかたちを取らず、マスクワ放送による海外通信という声明発表手段を採らせたのも、このような焦燥や恐怖からだ。

 書簡にしていたのでは、また六時間かかる。

 それでは、間に合わない・・・・・

 だから放送を使った。

 自ら公用車に乗り込み、放送局に乗りつけ、その場で従来放送を中断させて原稿を読み上げた。

「こんな・・・ こんなことが・・・」

 放送を受信し、翻訳を受け取ったとき、キャメロット首相ハロルド・マクラーレンは、深く安堵するとともに、虚脱した。

 彼が、己たちが回避に成功した核戦争への恐怖を心底から自覚したのは、この日の午後になって首相官邸階上の居住部分へと戻ったときだ。

 ―――体重が二キロも減っていた。

 長年連れ添ったマクラーレンの妻は、

「あなた。ダイエットは結構ですけれど。次はもっと健全な方法を選んでくださいな」

 そんな言葉で、夫を迎えたものだった。

 そしてこの安堵と虚脱は、全世界に共有されていたと言える。

 星欧で。

 ロヴァルナで。

 道洋で。

 多くの、膨大な数の市民たちが、近隣住民や友人、家族たちと快哉を叫んだ。



 ―――だが。

 一三日間危機における「世界が核戦争に最も近づいた瞬間」は、実はこのあとに起きた・・・・・・・ことは、長い間、誰にも知られることは無かった。

 危機発生より一五日目に当たる、三〇日。北海。

 ロヴァルナ連邦海軍潜水艦B五九は、既に三六時間に渡ってオルクセン海軍に追尾されていた。

 バッテリーは限界に近づき、艦内の二酸化炭素濃度は急上昇。

 とくに高温多湿となった機関室周辺では、多くの男たちが「まるでドミノのように」倒れている。

 何度も何度もオルクセン海軍の駆逐艦に補足されて「爆雷攻撃」を浴びた結果、元よりあれこれ怪しかったディーゼルエンジンの冷却用配管一部が破損し、ゴム製のシール材は割け、電気式コンプレッサーの幾つかがオシャカになっていた。

 船体全長の中央付近にある発令所では、ザヴィツキー艦長が完全に取り乱していた。

「核魚雷だ! すぐに発射するんだ! 魔種族どもを一隻残らず沈めてやる!」

 彼は定時連絡前に潜航を余儀なくされたことから、まるで周辺状況を掴めていなかった。

 核魚雷の使用は、本国からの特別な指令がない限りやれない建前になっていたが―――

 実際には「ありとあらゆる障害を排除し」という潜水艦隊司令部の事前命令が降りていたうえに、艦長と魚雷担当士官の同意があれば発射可能であった。

 ただし、B五九の場合は、少しばかり事情が異なった。

「艦長。これは戦争などではありません。国際習慣上の、浮上を促す合図でしょう」

 必死の説諭を試みていたのは、B五九の副長ワシリー・アンドレアノフ中佐だ。

 アンドレアノフ中佐の立場は複雑だった。

 艦の指揮権は、あくまで艦長にある。同階級にあるとはいえ、彼は副長に過ぎない。

 ところが中佐にはもう一つの肩書があり、潜水少艦隊の参謀長でもあったのだ。

 部下でもあり、上部組織の派遣したスタッフでもある。これは確かに複雑な身である。

 自然な流れとして、ザヴィツキー艦長は核魚雷の使用同意を中佐にも求めた。

 そして、艦長、魚雷担当士官が攻撃に賛成するなか、中佐ただひとりが反対意見を述べたのだ。

「艦長。潜航前、傍受していたオルクセンの放送は民間放送を普段のままに流していました」

「・・・・・・」

「これは戦争などではない。決してそうではないと、私は信じます」

 ザヴィツキー艦長もようやく落ち着きを示し、彼らは二人で相談して浮上を決めた。

 真っ先に実施したのは、通信アンテナを展開し、本国の海軍本部に事態と座標を知らせることだ。

 司令塔の、あるいは甲板のハッチから這い上がった乗員たちを驚かせたのは、夜間にも関わらず煌々としたサーチライトの光に囲まれ、彼らは四隻ものオルクセン海軍駆逐艦の作り出した包囲環のど真ん中に浮上した格好になっており、上空にはヘリコプターまで飛び交っていたことだ。

 多くの乗員が、欠乏していた新鮮な酸素を、喘ぐように、まるで溺者のように吸い込んだ。とある士官など、安堵と肺一杯に刷った空気の感動とに甲板から転げ落ちそうになったほどである。

 オルクセン海軍艦艇の甲板には、見すぼらしいまでの姿になった己たちと比べて、糊の効いた制服を着こんだ、憎たらしいまでに艶々とした魔種族たちが並んでいた。

「国旗を。国旗を掲げろ。乗員整列!」

 ザヴィツキー艦長が号令を下し、疲労困憊と敗北感に打ちひしがれた乗組員に発破をかけた。

 彼が掲げさせたのは、白地に青いラインの入ったロヴァルナ海軍旗ではなく、真紅の国旗だ。祖国の誇り、栄光、己たちの名誉を象徴する存在だ。

「いいか。我らは敗北したのではない。負けたのは機械力であって、我ら乗員一同ではない。堂々としろ。背を伸ばせ。顎を上げろ」

 そんなことを叫ぶ下士官もいた。

 オルクセン海軍艦艇のうち一際大きな防空駆逐艦が、発光信号を送ってきた。

「我、オルクセン海軍駆逐艦メーヴェ。汝、救助を要するや?」

「我、ロヴァルナ海軍艦艇。挑発行為をただちに中止せよ」

 ザヴィツキーは応えてやった。

 何度も艦名の誰何を受けたが、そこまで親切に教えてやる気にはなれない。

 ときおりオルクセン海軍哨戒機が航過して、五〇〇〇万燭光もある照明弾を投下した。いちばん近い物は二〇〇メートルばかり離れたところで閃光を放ち、すっかり塗装のあちこちが剥げた潜水艦を照らし出す。

 やがて本国からの指令を受信した。

 振り切って現場海域を離脱、帰還せよという。

「言うは易しってやつだな。どちらを向いても魔種族どもの艦艇だらけだ」

 ―――だが、やってみせるさ。

 ザヴィツキー艦長は、白い呼気を吐いた。

 彼はまだ知らない。

 後日、帰還した彼ら四名の潜水艦長を待っていたのは、艦隊司令部からの弾劾、叱責、罵りであることを。

「ロヴァルナ海軍の名誉を汚した」

 というのが、その理由だ。

 流石に処刑まではされなかった。

 最後まで祖国の栄光を護ろうとした彼らにとって、理不尽な扱いではある。

 だがそれはずっとマシな扱いでもあった。

 何故ならこの翌年、ロヴァルナ参謀本部で西側のスパイとして逮捕されていた某大佐は、最初から結果の分かり切った裁判にかけられたうえで、処刑されているからだ。処刑方法さえ正確には判明していない。

 皮肉なことに、彼らの奮闘を最も評価したのはオルクセン海軍だ。

 空母グスタフ・ファルケンハイン打撃群は、ここから更に約一週間後になって母港に帰還している。

 打撃群の司令官だったギースラー少将は、ずっと後年、ロヴァルナ連邦が崩壊した約三〇年もあとになって、ロヴァルナ海軍の潜水艦が核魚雷を搭載していたこと、そしてB五九は発射寸前まで至っていたことを知る―――

「・・・もし撃たれていたら、私たちは躊躇いなく反撃していたことでしょう」

 少将は、取材に訪れたオルクセン国営放送の記者に証言している。

「私の座乗していた空母グスタフ・ファルケンハインには、当時五発の核弾頭がありました。二四時間体制で、常時二機に核を積み、甲板に待機させ、いつでも発進できるようにしていた。そして足元の海中には、巡航ミサイルや中距離ミサイルを満載した原潜がいたのです。撃たれていれば、核戦争になっていた。それだけは間違いありません」

 彼は取材陣に、幾つかの手紙を見せた。

 危機当時、空母群の出港や指揮官名は報道されていて、グロスファーヘンの艦隊司令部には多くの国民から激励や、批判や、反戦平和を訴える手紙が届けられていたのである。

 帰港後の彼はその全てに目を通し、印象に残った物を保管していた。

「ギースラー少将。貴方はいま、歴史の渦中にいます。祖国を護れるのは、貴方様なのです。きっと後世まで語り継がれるに違いない―――」

 その、オルクセン南部地方の一農家から届けられた手紙は、次のように結ばれていた。

「我らに、それを語り継ぐ文明社会が残されていたならば」



 ロヴァルナ潜水艦の事例を見ても分かる通り、「一三日間危機」は一三日間に収まってすらいない。

 東西の緊張が解消されるのは、国連での討議を経て、ユーゴスラヴァから全てのロヴァルナ製「攻撃兵器」が撤去解体された約一か月後のことである。

 後世の、キャメロット及びロヴァルナ両大国による「外交努力と叡智によって解決された」という評価も、正確なものとは言い難い。

 その実態は、即時性を伴わない通信連絡手段により相互不信が増大し、相手の意図を読み切れず、また自国組織の末端まで把握しきることさえ出来ていなかったと評していい。

 緊張の連続や、制度の不備、技術の未発達から、幾つもの現場で「人為的ミス」も起きた。

 ―――核戦争を回避できたのは、全くの偶然。

 何かが一歩間違っていたならば。

 誰かがボタンを掛け違えていたならば。

 現場のミサイル発射管制官が、潜水艦の乗員たちが、規定を無視してでも「確認」をしなかったら。

 世界は滅んでいただろう。

 危機は、幾つかの結果を生んだ。

 キャメロットのハロルド・マクラーレン首相は、偶発的事態の発生を防ぐため、ロヴァルナ連邦と交渉し、即時性のあるテレタイプ通信機を両国間に置いた。後世、「ホットライン」と呼ばれることになる緊張緩和策の始まりである。そうして、力尽きるようにウォールデンへと首相の座を禅譲することになる。

 ロヴァルナ連邦首相フルシチョーリフは、危機の回避には成功したものの、国内政治権力闘争としては「弱腰」の烙印を押され、やがて失脚。

 ユーゴスラヴァ指導者ティトは、自身の頭越しに大国だけの意向で全てが決した結末に怒り狂い、独自外交路線を選んだ。西側諸国さえ積極的に訪問し、経済関係を結んだ彼の政策は一定の成功を見せ、複雑な背景を抱えるヴルカン半島を約半世紀の平和に導く。

 そして、オルクセン連邦は―――

「・・・世界はいつ滅んでもおかしくない」

 ラーベンマルク大統領は、空母グスタフ・ファルケンハイン打撃群の帰還した日、そんな言葉をタルヴェラ財務大臣に呟いた。

「全ては生存のために。我ら魔種族の生き残る道を、より鋭敏に探らなければ、ですね」

「そう。その通りだ。世界はあまりにも脆い。つまり、我ら魔種族の生存圏も」

 例え核戦争が起こったとしても。

 オルクセンを―――正確には魔種族全てが生き残る道を。

 オークも。コボルトも。ドワーフも。大鷲も。巨狼も。ダークエルフ族も。そして勿論白エルフ族も。

「―――タルヴェラ。お前さん、本気で白エルフ族初の大統領を目指すのか?」

「・・・そのつもりですが」

「シュヴァーデンの奴のあとではいかんか? まずは首相を目指せ。我ら魔種族の寿命は長い。焦るな」

「・・・・・・」

「それさえ認めてくれるなら。誓約してくれるなら―――」

 ラーベンマルクは魁偉な容貌で笑い、彼女に葉巻を勧めた。

「一体、我らが何を目指すべきなのか。その指針となるべき存在を。女王陛下と、私と、奴とが。歴代大統領の全てと、ゼーベック老やシュヴェーリン老が何を抱えているのか。お前さんにも共有できるのだがな」



 ―――星暦九六九年七月一六日、オルクセン領バルジバル島。

 赤道に近い、アフェルカ大陸の東に浮かぶオルクセン唯一の海外植民地には、壮大な光景が広がっていた。

 幾つものロケット発射機。

 コンクリートと鉄筋と分厚い強化ガラスで作り上げられた、発射管制塔と計画管制塔。

 巨大なロケット組立塔に、オークの背丈以上の高さと鉄道車両並の全長を持つ無限軌道に支えられた、稼働式発射台モバイル・ランチャ

 数十機のサーチライトで煌々と照らされたその発射台は、半日以上をかけて移動し、既に高さ一一八メートルある打上げ塔へと寄り添う位置についていた。

 一八層もある赤い打上げ塔からは、液体燃料や酸素を供給するホース、電源ケーブルなどが無数に走っている。

「大冒険の始まりまで、三時間三六分。順調にいけば五名の宇宙飛行士たちは、あの三九A発射台から全知的生物の夢へと旅立つのです―――」

 オルクセンの国色―――白と黒のツートンカラーに塗装されたロケットは、巨大極まる代物だった。

 三段の多段式構成で、全高は一一六メートル。最も太い辺りで直系は一〇メートルを超えていた。

 従来からオルクセンの宇宙開発に使われていた前世代機など、このロケットにとっては補助エンジンに過ぎない。

「そして光り輝くロケットが、静かに発射の瞬間を待っています」

 国営放送の名物アナウンサーであるオーク族が、オルクセン本国へ、このバルジバルへと客船や旅客機を用いて遠路駆け付けた観衆へ、そして全世界へと語り掛けた。

 まったく、人間族の国々は西も東も首をかしげていた。

 オルクセンはいったいどうして、これほどの情熱を以て、まるで形振り構わぬほどの態度で、宇宙を目指すのだろう、と。

 きっと、己たちとは根本から異なる魔種族たちにしか分からない、複雑怪奇な理由があるのかもしれない―――

 そんな思いで、この「星紀の中継」を半ば面白半分で、もう半ばは純粋な熱狂で見守っている。

 コンピュータの塊のような発射管制室では、静かに準備段階が進行していた。

「打上げシーケンスの確認を」

「確認開始」

「五六一を確認」

「宇宙船の電源オン」

「電源オン。点灯確認」

「了解。五六〇を確認」

「各部署。クルーの出発許可を・・・」

 発射まで三時間四分。本国と二時間の時差がある午前六時二六分。

 オルクセン宇宙開発局のインシグニアつき大型バンに、すっかり準備を整えた五名の宇宙飛行士たちが乗り込んだ。

 白エルフ族の「船長」。

 ダークエルフ族、オーク族、ドワーフ族、コボルト族の宇宙飛行士。

 クルーたちは、もちろん当事者の能力により選抜された者たちばかりだったが、意図的にオルクセンの主要種族全てが含まれるように構成されていた。

 体格としても生物学的構造としても今回の旅に同行することが諦められた巨狼族と大鷲族については、将来の課題である。

 代わりといっては何だが、ロケットの先端にあるカプセルに収められた司令船と着陸船には、それぞれ「ウォルフ」、「アドラー」と名付けられていた。

 ずっと未来のため、白銀樹の種子を打ち上げることまで研究している学者たちは、いつかオルクセンの全種族が旅立てると信じている。

 ロケットを作り上げた亡命アスカニア人の科学者たちも、同様だろう。

「さて。管制室」

 打上げ塔のエレベーターを経て、約四〇分かけてロケット先端の司令船に乗り込んだ船長は、クルー全員に異常がないことを確認してから、インカムを通じて呼びかけた。

「なんだい、アルテミス一一号?」

「いやね。大した事じゃないんだ―――」

 空軍パイロット出身の白エルフ族ヘルヴェア・オストエレンは、核爆弾を抱えて空を飛ぶよりは余程建設的な任務だと思っている。

 愉快だ。

 本当に愉快だ。

 現女王の名をつけた宇宙港から飛び立ち、全てを無事終えたらなら、偉大なる堅王の名を着けた空母が遠く洋上まで迎えに来てくれるのだ。

 その光景は、己の存在を含めて、全魔種族融和の象徴にもなるだろう。

 この四日後、全知的生物初の他天体着陸を果たすことになるヘルヴェアは、のちのちにまで語り継がれるジョークを、笑声を含みつつ口にした。

「我らが目指すのは、どの月だったかな? この惑星には一二も月があるからね」



 一三日間危機後のオルクセンは、冷戦期に最大で七五〇発の核弾頭、二隻の空母、一八〇基の弾道ミサイル、六隻の攻撃型原潜、四隻の戦略ミサイル原潜を保有した。

 彼らはこれより約半世紀、伝統的な中立政策を維持。

 ついに東西冷戦を乗り切ることに成功した。

 その安全保障政策が大きく転換するのは、国際情勢の変化に伴い、国民投票による圧倒的賛成を経て北星洋条約機構への加盟を決定する星暦一〇二二年のことである。

 投票に参加した最も遠方の国民は、一二ある月のうち一つに築かれたグスタフ・ファルケンハイン基地に勤務する、宇宙飛行士や技術者、学者たちであった。



(続)

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