随想録43 一三日間危機⑧

 ―――二七日午前六時。北海。オルクセン領ヴェゼティ島西北沖二四キロ。

 ニコライ・シャムコーフ艦長率いる潜水艦B一四は、オルクセン海軍に発見されていた。

「航空機発見!」

「急速潜航!」

 忌々しい、定時連絡め!

 シャムコーフは内心毒づきつつ、艦橋見張員たちとともに艦内へと滑るように梯子を降り、浮力タンクに勢いよく海水が流れ込むゴウッという大きな音を耳にした。

 金属質の何かが転げまわり、陶器が割れる嫌な響きも。

 きっと、狭い調理室で鍋や皿が床一面に飛び散っているのだろう。貴重な飲料水の代わりに、シロップ漬けのフルーツコンポートばかりはたっぷりとあり、三食全てに出ていた。そのフルーツコンポートも辺りにぶちまけられており、熊のような体格をしたコックが、魔女の婆さんへの罵りの言葉を叫んでいた。

 緊急的な潜航開始を知らせる耳障りなブザーとともに総員配置についた乗組員たちが、あちこちでメーターを見やり、バルブやレバーを操作している。誰も彼もが荒い息使いをし、焦れるような思いとともに、頭頂部や首筋にぞわぞわとする緊張感を覚えている。

 奇妙なものだ。

 例え外部を一切見ることの出来ない潜水艦乗組員といえども―――あるいは、そうであるからこそ、彼らは「上」が気にかかって仕方なかった。

 ―――潜れ、早く潜れ!

 二四時間に一度の本国との定時連絡中に、数機の哨戒機が現れた。

 秋季以降の北海には昼夜の別がたっぷりとあるからと、バッテリー充電のための浮上航行を試みたのが運の尽きだった。発見されやすい夜明け以降を定時連絡に指定している本国も良くない。オルクセン海軍は、そのようなものを見逃してくれるほど甘くはなかったというわけだ。

 受信が切れる直前の通信は、奇妙な内容だった。

「それ以上、先に進むな」

 というのである。

 ―――一体、何が。

 シャムコーフの艦は、浮上航行やシュノーケル航行中にオルクセンの国営ラジオ放送を受信出来ていたので、ユーゴスラヴァ情勢が緊迫していることを知っていた。

 いつ本国から「一時間以内に戦闘準備を完了せよ」という、規定の指令を受信してもおかしくない。それは、身の毛もよだつような、世界最後の日―――開戦命令を意味する。

 いや、指令を受信できるならまだいいのだ。

 本当に弱るのは、「開戦命令」を受け取ることが出来ないまま、オルクセン海軍やキャメロット海軍の艦艇と遭遇した場合である。

 そして、もし攻撃を受ければ―――

 シャムコーフは、自らのみの判断だけで、核魚雷を撃つしかない。

 これはひとり彼だけの苦悩ではなく、この時代の、全ての潜水艦艦長に重く圧し掛かっている痛痒だった。陣営の東西すらも問わない。

 情報通信技術の革命は大幅に進んだようでいて、未だ前時代の影を引きずっていた。

 例えば衛星通信は、既に論理的には確立されていて、テレビ衛星中継を代表とする実用化に向けた準備も進んでいたが、未だ通信衛星の打ち上げが足りていなかった。

 それでも、水上艦艇はまだいい。彼らは、陸上の通信局並か、あるいはそれ以上の能力と装備がある。人員も用意できた。

 一方、深く潜航した潜水艦は、事実上、通信手段が皆無となってしまう。

 B型潜水艦には、今回の任務に際して専属五名の「通信解析班」が乗り込んでいて、彼らが通信の暗号化や解読、他国放送の傍受なども担っていたが、人的余裕はそれきりである。

 おまけにロヴァルナ海軍潜水艦の場合、本国と日に一度の交信に成功したとしても、全ての情報を与えてくれるという保証がなかった。

 実際問題として―――

 オルクセンは北海警備の強化に臨んで、各国大使館に対して「潜水艦の領海侵入があった場合、誰何の意図として演習用爆雷五発を投下する。この音響を受けた場合、浮上すること」という外交通告を行っていた。中立国としての立場上、東西陣営全ての国に対して実施された通告だが、事実上、ロヴァルナ海軍を対象としていたこと言うまでも無い。

 ところが―――

 この通告の存在は、ロヴァルナ海軍潜水艦には、本国から知らされなかったのだ。

 権力維持の手段としても「全てのカードを手元に握っておきたがる」フルシチョーリフの性格も影響した。

「これ以上西に進むな」という命令は、戦争の勃発を恐れたフルシチョーリフの判断に依ったのだが、彼はこの理由までを「前線の勇士たち」に知らせる必要性を感じていなかった。

 そして―――

 彼らと対峙するオルクセン側は、核魚雷の存在に気づいていない。

 ラーベンマルク大統領は、北海で自国海軍やキャメロット海軍とロヴァルナ潜水艦の軍事衝突が起こった場合、事態がコントロール不能な領域までエスカレートする可能性を恐れたものの、側近ビットブルク統合参謀本部長から、

「海軍作戦本部を無視して空母群の行動に直接介入した場合、むしろ我が艦艇たちを危険に晒す可能性があります」

 と指摘され、これを受け入れて以降、外交の場に意識の殆どを注ぎ込んでいた。

 結果として、余りにも偶発事故の起こる危険性が高いまま、シャムコーフ艦長のB一四はオルクセン海軍に発見された。

 最初に遭遇したのは、空母グスタフ・ファルケンハインの艦上対潜哨戒機二機であった。

 双発のレシプロ機で、どこか愛嬌のある小型鯨類のようなシルエットをしていて、しかし相対した潜水艦にとっては脅威以外の何者でもない性能をした奴だ。

 従来、対潜哨戒機は固定翼機にしても回転翼機にしても、哨戒任務を行う機と対潜攻撃を担う機とを分け、二機一組でペアを組ませるしかなかった。機体が小さくなりがちな艦載機は特にそうだった。

 ところがオルクセンの開発したこの機体は、それを一機で完遂できる。

 強力な磁気探知機を備え、ソノブイを用いつつ、ロケット弾を吊り、対潜爆雷も積めるという高性能ぶりである。

 しかも―――

 空母グスタフ・ファルケンハイン打撃群から分離した、駆逐艦コルモラン、ファザーン、護衛駆逐艦エーベルの三隻が相次いで現場海域に到着。

 彼らは「ロヴァルナ潜水艦を強制浮上させよ」という、ギースラー少将の下令を受けていた。北海にはキャメロット海軍本国艦隊の三つの空母群と、自国の戦略原潜二隻がおり、積極的な対潜活動を展開することによって、これら友軍への盾となった格好である。 

 オルクセン海軍の対潜哨戒Vf五二、通称「追跡者フェアフォルガー」は、対潜哨戒の中でも磁気探知を得意とした。

 太く愛嬌のある胴体の尾部に、引き込み式の磁気探知機MADのブームを持つ。巨大な鉄の塊といってよい潜水艦は、磁場の乱れを生み出すから、これを探知する仕組みだ。とくに沿岸域では、極めて有効な探知手段であった。

「アルファ編隊、MADスイープ始め」

 数機を並べ、まるで海面にモップをかける掃除夫のように飛行する。

 空からの援護まで受けたオルクセン側は、一度食らいついたB一四を決して見逃さなかった。

 シャムコーフは自らのB一四を、ソナー探知の受けにくい、オルクセン艦艇の航跡波内へ持っていこうとしたが、この目論見は失敗に終わってしまった。

 磁気探知データを受信した三隻の駆逐艦は、シャムコーフの艦を強制浮上させるための「狩り」を始めた。   

 なかでも護衛駆逐艦エーベルの行動は果敢だった。のちに「勇敢に過ぎる」、「蛮勇だ」と称されたほどの行動を示している。

 対潜哨戒機の支援の下、シャムコーフ艦長が上げさせたB一四の潜望鏡を発見。

 彼が急速潜航を叫ぶ中、突進し、直上を航過して、B一四の艦橋上部から突き出た通信アンテナのうち一本を圧し折ったのである。

 そうして、音響警告弾を投下した。これは陸上で用いる手榴弾とまるで変りがなく、甲板に持ち出した弾薬箱から乗組員が手に取り、ピンを抜いて海に投擲した。

 コルモラン、ファザーンは訓練用爆雷を投射し、彼らの頭上低空を支援の対潜哨戒機が飛び交う―――

 低威力の、炸薬量の少ない訓練用爆雷とはいえ、浅海面では猛烈な衝撃をB一四に齎した。

 しかも、完全にB一四の位置を把握したオルクセン海軍は、徐々に包囲環を狭めていった。

「・・・艦長! このままでは―――」

 副長が叫び、シャムコーフは臍を噛んだ。

 金属製の樽の中に閉じ込められ、周りから巨大なハンマーで叩かれているような。そんな鼓膜と神経を搔き乱す強烈な音響と衝撃とが艦を揺さぶっている。

 海軍本部とも、他の僚艦たちとも連絡は途絶。

 シュノーケル航行中に発見されてしまったから、酸素の補充も不十分だった。バッテリーの残量は、長くない―――

 シャムコーフは浮上を決意した。

 彼は、ヴェセティ島の南西約三〇キロ付近にザヴィツキー艦長のB五九がいることを知っていた。

 ―――きっと、他艦も続いているに違いない

 苦渋の決断ではあるものの浮上し、自らのB一四にオルクセン海軍の目を引きつけ、囮になろうとしたのである。

 つまり彼はこのとき、作戦の開始早々にB一三〇が機関不調で引き返し、ついでB三六が既にオルクセン海軍に発見されて強制浮上させられていたことまでは、把握していなかった。

 浮上してみると、三隻のオルクセン海軍艦艇に取り囲まれる格好になっていた。

 一隻残らず、砲をB一四に向けている。

 確認のためだろうか、カメラを構えている水兵もいた。

 ロヴァルナ潜水艦の艦橋側面には、個艦番号が白く大きく記されている。

 きっと、明日の報道でも大きく扱われることだろう。ロヴァルナ連邦海軍にとって、一種の恥辱ともなろう。

 ―――明日があれば、だが。

「いまに見ておれ、魔種族ども」

 艦橋上にロヴァルナ国旗を掲げさせつつ、シャムコーフは呻いた。

「オルクセン海軍コルモランより発光信号。汝、補助を必要とするや否や?」

「必要なしと答えろ!」

 ザヴィツキーの奴なら。

 俺たちの中で、最も攻撃的な性格をしたザヴィツキーの奴なら。

 注いだ杯は、最後まで飲み干す奴なら。

 きっと上手くやってくれるさ。



 ―――午前九時。

 キャメロット連合王国首都ログレスの首相官邸ブラウニング一〇では、ハロルド・マクラーレン首相が大変な苦境下にあった。

 まず、前夜以来、フルシチョーリフから届いた「第二の書簡」について討議を重ねていた。ロヴァルナとの妥協や妥結、何らかの合意が可能だと思わせた「第一の書簡」とは打って変わり、あまりにも紋切り版型に思える新たな書簡は、閣内及び軍幹部たちの意見を真っ二つにした。

 交渉を重ねよう、いやこのようなものは信用できない、連中はユーゴスラヴァの軍備を急速に整えている、取返しのつかない事態に陥る前に空爆に踏み切るべきだ・・・

 しかも―――

 在キャメロットのロヴァルナ大使館を監視していた保安局MI5から、大使館職員たちが機密書類の焼却を図っているらしい、という報告が寄せられた。

 大使館の暖炉に繋がる屋上の三本の煙突から、一本の例外もなく、盛んに煙が立ちのぼっているという。

 歴史的に顧みても、機密書類の焼却は極めて緊張度の高い行為であることは言うまでもない。

「一体どういうことだ、彼らは戦争になると思っているということか?」

「間違いありませんでしょう。ログレス警視庁アルバニー・ヤードのチームは、ここしばらく大使館職員たちがログレス市内の様子を探っていたと報告してきている。核戦争を恐れてすっかり人通りが無くなり、震えきった情勢を本国に知らせているはずだ」

「彼らの本国から何らかの指示があった可能性もあります」

 だとすれば、書簡の信憑性が地に落ちる。

 時間稼ぎを図った文書なのではないか。

 そこへ齎されたのが、偵察機撃墜の報だった。

「・・・・・・・」

 マクラーレンでさえ顔を強張らせ、一時、会議を中止させたほどの事態である。

 彼が一縷の望みをかけたのは、搭乗していたパイロットの生存だ。キャメロットの偵察機が東側に撃墜されるのは初めてではなく、約二年前にも発生していた。そのときロヴァルナ上空で撃墜された機体のパイロットは生存していて、ロヴァルナのスパイと東西アスカニア国境で交換するかたちで生還も果たしている。

 今回もまた、無事でいてくれさえいれば―――

 だが希望も虚しく、ユーゴスラヴァ上空で撃墜されたピーター・ロス少佐は、死亡したらしいことが分かった。

 こうなると、対処しなければならない懸案は多かった。

 ロス少佐本人への事後昇進や叙勲の手配。遺族への配慮。記者発表文案の検討―――

 だが何よりも、果たしてロヴァルナ及びユーゴスラヴァへどのような対抗措置をとるか、という問題が一番の急務である。

 無論、最も強硬な手段は空爆の実施ということになる。

 限定的な空爆は、ミサイル危機への対処としても今後の偵察ミッションへの脅威の除去という観点からも、解決策にならない。

 ―――ならば、全面空爆以外に選択肢はない。

 そして空爆の実施は、ロヴァルナの対抗措置を招き、西アスカニアやオルクセンへの侵攻を呼び、戦術核の使用というかたちになり・・・

 報復のため、キャメロット他西側諸国は戦術核を使用。

 星欧だけには留まらない。九五三年以来、華那人民共和国と国民党政府とが睨みあったままになっている華国大陸、麗湾島、それに道洋におけるキャメロットの同盟国秋津洲も巻き込んだ、全面核戦争に至るだろう―――

 危機発生以来、何度も繰り返されて来た想定への回帰となってしまう。

「首相、御決断を」

 軍幹部たちは、空爆案を支持した。

「ロヴァルナとユーゴスラヴァは、いよいよ交戦を覚悟したのだと思います」

「全く新しいゲームが始まったと思わなければなりません。偵察任務に就くパイロットたちの安全を確保するため、ユーゴスラヴァ国内全ての対空ミサイルを排除しなければ」

「まずは、あの忌々しい国の対空能力を奪い去ることです」

「無論、ミサイル基地も攻撃する必要があります」

 翌週月曜にあたる二九日に、爆撃機と戦闘機を使ってユーゴスラヴァを空爆する。

 第一撃に投入される作戦機は約五〇〇。約一〇五〇回の任務。

 当初は、室内のほぼ全員がこの意見に賛同した。

 だが、マクラーレン一人が彼らを現実へと引き戻した。

「諸君。私は初期段階の心配などしていない。我が軍は、私がゴー・サインを出せば見事にユーゴスラヴァの諸目標を破壊、撃滅してくれるだろう―――」

 彼は室内を見渡した。

「私が心配しているのは、第四、第五の段階なのだ。一度空爆を始めたら最後、我々は核戦争への吊り橋を渡ることになる。そして第六の段階は存在しない。その段階へと進める者は、この室内を含めて誰もいないのだ」

 首相は、私たちは自国民のみならず、同盟国全て、ひいては全人類に対して責任を負っているのだ、と発言を締めくくった。

 そうして、軍に対し、偵察機が「墜落」したのではなく「撃墜」されたのだという確証を要求した。

 外交交渉には、昨夜の国連緊急安全保障理事会を見ても分かる通り、「証拠」が必要である。

「それでは―――」

 国防参謀総長は懸念を示した。

「偵察任務を続けるパイロットたちの安全を、一体どうやって保証してやるのです?」

「うむ―――」

 マクラーレンは追い詰められていた。

 ついには、一つの言質を側近や軍幹部たちに与えざるを得なくなった。

「もし・・・ もし、もう一度偵察機が撃墜されるようなことが起こったら。そのときは、全面空爆の実施命令書にサインする」



 ―――「冷たく暗く激しい雨の中、ただただ座り込んでいた」

 オルクセンのコボルト族ミュージシャンであるロベルト・ツィマーマンは、この日、そんな文章を自宅アパルトメントの一室でメモ用紙に書きなぐっている。

 秋から冬にかけてというもの、星欧には雨の日が多い。

 重く垂れこめた灰色の雲。

 冷たく降り注ぐ雨に、何もかもが濡れそぼち、アスファルトや石畳の道路は黒々とする。

 雨は、夕刻前には上がった。

 代わって雲間に現れたのは、まるで血のような色をした夕日だった。

「・・・・・・」

 連日、ミッテ区の大統領官邸で緊急会議に臨んでいた財務大臣カティエレン・タルヴェラは、流石に疲労を覚え、一時東郊外の私邸に戻っていた。泥のように眠り込んでしまった仮眠と、入浴、食事を済ませ、トランク一杯に着替えを詰めてもらい、公用車で再び官邸へと向かおうとしたとき、その夕日を見た。

 ―――世界は、本当に滅んでしまうのではないか。

 既に、キャメロット偵察機撃墜については知らされていた。

 報道もそれを伝えていたし、街からは往来も消えている。一市民に至るまで自宅に閉じこもっているのだ。 

 昏く感じるほどの赤い夕焼けに、終末を想起せずにはいられなかった。

「やあ、タルヴェラ。すまんな、もう少し休ませてやりたかったのだが」

 官邸に戻ると、執務室でラーベンマルク大統領が葉巻をふかせているところだった。

「いえ・・・ よい匂いですな」

 本当に質の良い葉巻は、葉の刻み具合から巻き方まで手作業だけの芸術品で、喫煙者にはうっとりするような、甘い匂いがする。

 自らも嗜みのあるタルヴェラは目を細めたが、

「ああ。一本どうだ。女王陛下からの御下賜だよ、これは」

 ヒュミドールの蓋を開けてみせたラーベンマルクの返答には、驚きを隠すのに苦労した。

 どうやら南星ラヴァーナ産らしい葉巻が下賜品である点にではなく、大統領が葉巻を勧めて寄越した点に、だ。

 ラーベンマルクとタルヴェラは、ユーゴスラヴァ危機の勃発まで、政治的関係が悪化するばかりの間柄だったからだ。

 かつてはそうではなかった―――それどころか、彼の「金庫番」とまで呼ばれ、大統領就任に一役買ったほどの側近だったのだが、ラーベンマルクが自らの後継に現総理のシュヴァーデンを推すようになり、これに対抗するかたちでタルヴェラが政権与党の党内基盤を固め、同郷出身の財界関係者から資金を集めはじめると、もういけなかった。

「ちかごろでは廊下ですれ違っても、挨拶すら交わさないらしいぜ」

 官邸詰めの記者たちは、そんな噂を交わしているという。

 あながち間違いとまで言えないというのが、タルヴェラ本人の自覚でもあったから、どれほど関係が悪化していたか分かる。

 危機前には、そう遠くない日に閣僚から外されるのではないか―――そしてその日こそがラーベンマルクに依る次期大統領候補シュヴァーデンの公表日であり、タルヴェラが公然と反旗を翻す日に違いない、とされていたほどだ。

「・・・では、頂きます」

「うん」

 あらかじめ人払いがしてあったのだろう、執務室には誰も来なかった。

「タルヴェラ、今日は何を食った?」

「・・・何です、藪から棒に」

「いいから、教えろよ」

「・・・郷土料理を。牛乳のプティングが食いたくなりましてね」

「いいな。俺も何故だか、生まれ故郷のオバツダが食いたくなってな」

「オバツダ・・・?」

「カマンベールチーズに、玉ねぎとパプリカ粉を混ぜたものさ。こう、パンにこってり、たっぷりと塗るんだ。パンは小麦の多いものがいいな。一口でがぶり。そうやってワインかビールを流し込む」

 疲労しきったラーベンマルクが、ほんの一瞬だが、実に楽しそうに見えた。

 こんなときのオーク族は、まるで子供のようだ。

 落ちくぼんだ瞳が、瞬く間に生き生きとし、だが、やがて陰鬱なくすみが戻ってきた。

「・・・無性に食いたくなって、な」

「・・・わかります。私もそうでした」

 互いに、掛け値なしの本音であるように思えた。

 世界が滅ぶかもしれず、最後の晩餐に何かを口に入れるなら。臓腑だけでなく、心も満たすような物を食べたい。豪華か、質素かどうかは関係ない。一朶の後悔もないような、そんな物を、だ。

「間もなく来客がある。ちょっと珍しい客だ。私ひとりでは押しが弱くてな。付き合ってくれ」

「はい」

 ラーベンマルクの言うところの「客」は、意外な相手だった。

 まず、オルクセン新聞協会会長にしてオストゾンネ紙社主のフランク・ザウム。

 もうひとりは、オルクセンで国際的な文化交流を担っているオルクセン協会の会長。

 なるほど、「押し負ける」相手ではあるなと、タルヴェラは得心が入った。

 オルクセンの歴史上、唯一の「陸軍最高司令官」。陸軍元帥。いまでも軍に顔も利く、紛れもない重鎮。

 薄く細いチョークホワイトの縦縞が入った紺のスリーピース姿は、文化交流関係者というより、犯罪組織のトップのように見えた。

 しかし、一体、何の用で―――

 政府側には、他に外務大臣が同席していた。

「・・・パストラールという店を知っているか?」

 未だ矍鑠としたオルクセン協会の会長―――アロイジウス・シュヴェーリンは、いささか唐突にも思える前置きをした。

「ええ。もちろんです。ヴィルヘルミーナ通りから少し入ったところにある、海鮮料理の美味い店ですな。ひとに依っては、ひどく肩肘の張る店だという評判もありますが」

 ラーベンマルクが応じる。

「なら話が早い。いまの時期なら牡蠣料理を中々食わせる。ここにいるザウム君とは、ベレリアント戦争以来の仲でな。週に一度は昼食を供にしている。件の人物は、やはりパストラールの客だった」

「・・・それが、ロヴァルナ大使館員だった、と?」

「ああ―――」

 元帥は頷いた。

「知っての通り、オルクセン協会は中立政策の担い手として、ロヴァルナや東側とも付き合いがある。あちらからはバレエ団の、こちらからはオーケストラや白エルフ族歌劇団の相互交流といったところだな。そこで何度か見た顔だったので、すぐに会食するようになった」

「本当の身分と依頼を明かされたのは、今日ですか?」

「うむ―――」

 男の正体はロヴァルナ軍参謀本部情報総局の職員で、フルシチョーリフの個人的なメッセンジャーを務めることになった、というのだ。

 この男は、かつて第二次星欧大戦中にフルシチョーリフの部下だったことがあり、個人的な友誼と、信頼と、信奉の関係にあるという。

 つまりフルシチョーリフにとって最も困難だった、戦中及び戦後の政治権力闘争を供にしてきた、同志的結合関係にある。

 このような者が、非公式な外交ルートの担い手となるのは、ロヴァルナに限らず良くあることだ。

 メッセージの内容は、キャメロットがユーゴスラヴァに侵攻しないことを宣言し、かつイスマイル配備のミサイルを撤去するなら、ロヴァルナはユーゴスラヴァのミサイル及び核兵器一切を撤去、もしくは現地解体する。そしてこの交渉内容を、キャメロット政府筋へと直ちに伝えて欲しいというもの―――

「わかりました。直ちに在オルクセンのキャメロット外交関係者に伝えましょう。幸い、いま国連にあちらの政界の大物がいます」

「うむ」

「・・・元帥」

 ラーベンマルクは、にやりとした。

「なんじゃ?」

「件の人物の正体を、ご存知なかったわけではないのでしょう? 我が国の防報部が―――あのエミール・グラウ大将率いる国家憲兵隊が、このような人物の調査を漏らしていたとは思えませんし。貴方ほどの御方が、何も知らされていなかったとも思えない」

「・・・さあて、な―――」

 老元帥は韜晦した。

「いずれにしても。ときに横紙破りも有用なものだ。とくに、このようなときには、な」



 ―――二七日午後九時。

「・・・二番目の書簡も、フルシチョーリフ本人のものに違いないということか」

 在オルクセンのキャメロット大使館からテレタイプ通信装置で届いた、極秘メッセージ。

 ロヴァルナ軍参謀本部情報総局将校がメッセンジャーとなり、オルクセン連邦政府を経由、キャメロット国連特使ウォールデンが伝えてきた打診。

 実際のところ政府首脳らにとって、内容そのものに驚きはなかった。

 フルシチョーリフ首相名に依る「第一の書簡」と「第二の書簡」の内容をなぞり、要約したものに過ぎなかったからである。

 この新たに届いた「メッセージ」にとって重要だったのは、内容ではなく、二つの書簡が間違いなくフルシチョーリフ本人からのものだと、確認できたことにある。

「おそらくだが―――」

 ざっと目を通し、マクラーレン首相は告げた。

「フルシチョーリフにとって、信頼のおける人物はそう多くはないのではないか。その数少ない一人に、自らの本心を託してきたわけだ」

「すると・・・ 事態の解決には、イスマイルからのミサイル撤去が必要だということになりますな」

「それは認めるわけにはいかん」

 ともかくも。

 投げられたボールは、いま、キャメロット側の手元にある。

 これを何らかの声明、もしくは回答書簡として、先方に打ち返さなければならない。

 断固、拒絶の姿勢を示すべきだ。いや、これは唯一の解決の道だ、真っ向から否定してしまうのは不味い―――

 議論は堂々巡りの様相を呈した。各自の意見は鋭い刃のように対立し、緊張に包まれ、ある者など疲労の余り倒れそうになったほどだ。

 しかも、残された時間はそう多くない。

 週明け月曜には、キャメロットとしてはユーゴスラヴァへの空爆に踏み切るしか道はないのだ。在ユーゴスラヴァのロヴァルナ軍が急速に戦備を整えつつあることはもうはっきりとしていて、それ以上事態を長引かせれば選択肢を失うばかりになる。

 外務省は、回答案を用意していた。

 イスマイルからのミサイル撤去など認めない、解決策はユーゴスラヴァからの核兵器撤去のみであるという、「完全拒絶案」に近いものである。

 マクラーレン首相は、この内容に不満だった。

「いいか。フルシチョーリフを追い込み過ぎないことだ。何か巧い手を考えろ」

 四五分かけて、首相官邸の一室に缶詰にされた外務省官吏が、第二の回答案を作り上げた。

 それは直ちに首相と全出席者に提出された。

 たいへん長い文章だったが、要点をつまめば、フルチョーリフの「第一の書簡」を容認する内容になっていた。「第二の書簡」については一切触れないかたちで。

 これは非常に「巧い手」だったといえる。

 核戦争回避のため、速やかに問題の解決を図りたいというフルシチョーリフ書簡の基本姿勢を認め、ただちにミサイル基地の建設を中止すること。国連の場で効果的解決方法を討議し、ユーゴスラヴァのミサイル及び核兵器を撤去もしくは解体すること。そしてこの交渉のため、安全保障理事会出席中のウォールデン特使に全権限を委ねる、という内容だった。

 正式なタイプを打たせ、在ロヴァルナのキャメロット大使館に送信されるとともに、訓令電が作られてウォールデンへの指示が成された―――

 信じられないことだが、キャメロット政府とロヴァルナ政府の間に直接通信可能な手段は存在しない。

 長い時間をかけて翻訳し、暗号化し、電信にして送信。これをまた平文に戻して正式の外交書簡にし、互いの大使が相手に届ける、という手間暇かかる方法に頼る他なかった。

 キャメロット首都ログレスと、ロヴァルナ首都マスクワの間で、最短で三時間。長文ともなると六時間を要した。

 このような通信事情は、外交関係のみならず、政府と軍―――例えば海上封鎖中の艦隊との間にも存在し、しばしばマクラーレンを悩ませていた。

 世界規模の核戦争危機に際し、通信能力がまるで追いついていない、という懊悩である。

 だからこそ、首相は交渉の実際をウォールデンに委ねることにした。事態を説明し、方針を伝え、権限を与えて。

「奴なら、胆力もあれば融通も利く」

 マクラーレンは、ウォールデンに同情した。

 世界の全てを背負って、交渉に臨むようなものなのだ。

 ―――午後一〇時。

 ウォールデンは、オルクセン首都ヴィルトシュバインの高級レストラン「パストラール」で、例のロヴァルナ大使館員と極秘会談の席を持った。

 仲介役を務めたのは、オルクセン協会会長シュヴェーリンと、新聞協会会長フランク・ザウムである。

 会談の直前、シュヴェーリンはザウムに釘を刺すことを忘れなかった。

「ザウム君。分かってはいるだろうが、こいつに関する記事は書けんよ。当分の間は、な」

「心得ております」

 ザウムは、さも残念だという風に肩を竦めてみせ、同意を示す失笑をした。

 会談そのものは、ウォールデンと大使館員「X」―――参謀本部情報総局アレクサンドル・フェーミン大佐との二人で行われた。

 季節のベレリアント半島産サーモンを使った前菜。

 農家直送の新鮮な卵と、玉葱のクリーム煮。

 雷鳥のロースト。栗とクランベリーのソースを添えたもの。

 個室に運び込まれた「パストラール」とっておきの料理を前に、ウォールデンは玉葱料理をもう一つ余計に持ってくるよう給仕に命じて、フェーミンを驚かせた。好物らしい。

「・・・まるで最後の晩餐のようですな、特使」

「実際に、最後の晩餐になるかもしれませんからね」

 きつい冗談だ、そんな顔をフェーミンは浮かべた。

 彼は、どこか骸骨のようにも思える痩せぎすの男で、神経質で、繊細だった。

 ウォールデンは、マスクワへの送信が始まったばかりであるマクラーレン首相書簡の内容を伝えた。

「・・・すると。イスマイルやエトルリアに配備されている、貴国のミサイルはどうなるのです?」

「このような、特異な状況―――まるで恫喝のような状況の下では、我が国が交換条件に応じることはあり得ません。断じて」

「・・・・・・」

 フェーミンは明らかな失望の色を浮かべた。

 それでは交渉にならない・・・

「ですが―――」

 ウォールデンは、素晴らしい雷鳥にナイフとフォークを使いつつ、このような秘密交渉の場が持たれた核心部分に触れた。

「マクラーレンは、以前よりそれらのミサイルを撤去したいと考えていました。旧式に過ぎるからです」

「・・・・・・」

「危機が無事に解決したのち、三カ月・・・ そう、三カ月ほどのち、従来方針通り、これらのミサイルは撤去されるでしょう。ただし、この条件が外部に漏れた場合、全てはご破算となります」

「返答はいつまでに?」

「・・・どれほど伸ばしても、月曜の朝です」

 それはきつい、殆ど時間がないではありませんかと、フェーミンは本心から慨嘆した。

「どうしてそれほど急がれるのです・・・ まさか・・・?」

「・・・左様。それ以降、我らは二度と食事を供になど出来ないでしょう」

「・・・・・・わかりました。ともかくも、本国に伝えます」

 フェーミンはそこで席を立ったが―――

 ウォールデンは、デザートを平らげ、食後のコーヒーまで飲み干してから引き上げた。



 ―――まもなく、二九日に日付も変わろうかというころ。

 オルクセン東部パラストブルク州。ヤークト・メサー空軍基地。

 同地は空軍基地といっても、いまはもう使われていない補助飛行場のひとつである。

 大戦中には、主に東側に備える防空戦闘機部隊が駐留していた。しかし九六〇年代ともなると、ジェット戦闘機が使うには滑走路が短すぎるという理由から空軍機の「分散配置」からも漏れ、一三日間危機勃発後も静かなものだった。

 では、重要な基地ではなかったかというと―――

 そうではない。

 まるでそうはなかった。

 ヤークト・メサー基地には、以前からしばしば空軍の戦術輸送機が飛来することがあった。輸送機は、資機材を降ろしていくことが多い。

 ずいぶんと長期間、建設工兵部隊が駐留している時期もあった。

 周辺用地が購入され、森林の一部が切り開かれ、建設用重機が唸り、コンクリートプラントが座った。

 やがて彼らが去ってからも、入れ替わるようにして赴任してきた地上部隊が―――使用されていない補助基地にしては過大なほどの規模の部隊が、常駐するようにもなった。

 基地に隣接する住民数約一万五〇〇〇のタルリーズン村では、雇用も生まれる、物品の買い上げや歓楽街の消費もあると、軍の駐留を歓迎したが―――

 やがて、基地の立ち入り禁止区画や巡回といった保安が、異様に厳しいことに驚くようになった・・・

 それもそのはず。

 ヤークト・メサー基地は、核弾頭付き巡航ミサイルの発射基地だったのだ。

 MF-六一巡航ミサイル。通称「戦棍シュトライトコルベン」。

 全長約一四メートル、直径約一・四メートルの太い胴体に、肩翼式の主翼を持ち、T字の尾翼がある。弾頭に搭載されているのは、航空爆弾型にも使用されているM五八戦術核弾頭で、ブルーベアード型原爆の約七五倍の核出力があった。

 最大射程は、約二四〇〇キロメートル。

 ヤークト・メサー基地に駐屯していたのは第四九八戦術ミサイル群といい、三二基ものTM-六一を扱っていた。

 核兵器の投射手段としては、既に準中距離弾道ミサイルや中距離弾道ミサイルに主力が移っていたオルクセン軍が、敢えてこれほどの数の巡航ミサイルを配備したのには、無論理由がある。

 TM-六一シュトライトコルベンは、弾道ミサイルと比べれば小ぶりである。分厚いコンクリートと強化鋼で出来た、たいへん頑丈な掩蔽壕式の発射サイトに格納できた。

 それでいて、第二次星欧大戦の末期、どさくさに紛れてオルクセンへと亡命してきたアスカニアの科学者たちに開発させたミサイルのうち一つだったから、性能も良かった。大戦中に使用された世界初の巡航ミサイルの、直系の子孫ということになる。

 固体燃料式ブースターを初期加速のために用い、航空機と変わらないジェットエンジンを巡航に使うというシステムは、常時発射態勢を維持できる。

 扱いの大変面倒な液体燃料をメインにしたロケットエンジンを積むIRBMやMRBMと比べれば、即応性と生存性が極めて高いと言えた。

 この特徴は、TM-六一を報復用核兵器として扱わせるに十分な価値だったのだ。

 八基の発射サイトと、二つの発射管制室を持つ「サイトアントン」に、この夜の当直として詰めていた発射担当官のひとり、コボルト族シュマイザー種のベーテル上級軍曹は間もなく交替時間を迎えるところだった。

 一当直当たり八時間。

 毎日変わるパスワードを告げるセキュリティチェックから始まり、群司令部と繋がる赤い電話機の置かれた管制室に入り、一〇メートル離れた格納庫兼発射サイトにある巡航ミサイルのエンジン整備や、誘導システムの調整、発射手順訓練などをして過ごす。

 ベーテルにとって、TM-六一巡航ミサイルは「冴えない見た目」をしていた。

「銀色の、大きなヴルスト」

 などと仲間内で呼びならわしていたほどだ。

 とても、約二〇〇〇キロ以上を最大時速一〇五〇キロで飛び、半径五キロ圏内の目標を完全に破壊し、何万何十万という生物を一瞬で蒸発させる代物なのだとは、信じられないときがあった。

 任務も、厳格な精確さを要求されはするものの、何処か淡々とした日常を過ごしているようでもあり、ベーテル自身としては「休養地に配属になったようなもの」である。

 核兵器を扱う八時間の当直中といえども、一分一秒の例外もなく緊張状態にあるわけではない。

 静かにトランプゲームやドミノをやって時間を潰すこともあれば、家族への手紙を書いたり、技能試験や昇進試験の自習にあてることもできた。

 管制室に隣接する休憩室には、ヴィッセル社家電部が「テストを頼む」と願い出てきた最新式の電子レンジがあった。これで軽食なども温めることもでき、冷めた食事とは無縁でいられた。ミックスジューサーやコーヒーメーカーも、素晴らしいものが備え付けられている。

 そんな日常だったのだ。

 ―――だが、ユーゴスラヴァ危機の勃発が全てを一変させた。

 危機が始まったとき、軍に属する者としては当然の感情として、ロヴァルナの振舞いに強い憤りを感じた。

 魔種族の己たちが、ましてや核兵器を担当する己たちが言うのも奇妙なことだが、「悪魔の所業である」と。

 誰しもが、恐怖を覚えた。

 怖くないと言う者がいたら、そんな奴は大嘘つきだ。

 だが、国防の最前線を務める者としては、震えてばかりにはいられない。

 真っ青になったり、真っ赤になったり、茫然としたり、憤慨しても、それはしばしのことで、やがて誰しもが状況を受け入れた。

 ―――成すべきことを成せ。

 それが、この国を護るのだ。

 しかしながら、二七日深夜、発射管制室の赤い電話が鳴った・・・・・・・・とき、誰しもを再び恐怖が襲った。ベーテルも例外ではなかった。

「はい、当直士官バールケ大尉であります。はっ・・・・・・ はい、認証コードを復唱します。オットー・・・パウラ・・・エミール・・・ドライ・・・アインス・・・アインス・・・ 最終確認作業、完了」

 直属上官の若い大尉が、受話器を置いた。

 手元の、小さな黒革の手帳に記された認証コード一覧と、命令の整合は既に終わっている。

 大尉は真っ青になっていた。 

 だが、やるべきことを―――教育されてきた行動を、してのけた。

 管制室の中央にある机には、キャンバス製の鞄がある。これを開け、中から封密命令書を取り出し、封を切ったのだ。

 大尉は素早くこれを一読し、周囲を見渡し、命じた。

「サイトA、〇一から〇四。発射命令。訓練にあらず。繰り返す、これは訓練にあらず。目標設定作業及び発射準備始め」

 ―――馬鹿な!

 ベーテル上級軍曹は、自らの持ち場である目標設定装置のコンソール席で、体の震えが止まらなくなった。

 だが。

 だが、しかし。

 己たちに「世界最後の日」の命令が下ったという事実は、国土の何処かに、この豊穣の大地の何処かに、既に「敵」の核攻撃があったことを意味する。

 ベーテルは、有能な職業軍人であった。

 祖国を愛する国民のひとりでもある。

 彼は、必要な作業を始めた。

 ベーテルを含む発射管制官たちが訓練通りの能力を発揮できたならば。約五分後には、四発のTM-六一が放たれる―――



(続)

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