随想録42 一三日間危機⑦

 ―――二五日。

 東地裂海。

 意外なことのようだが、一〇月ともなると「太陽と青空の海」地裂海も、くすんだような印象を受ける日が多くなる。

 もちろん晴天の場合もあるが、雲がかかり、灰色じみた空の割合が増えた。

 冬季に向かうほど風も強い日が目立ち、波浪も荒くなる。

 この日も同様だった。

「・・・停船せよ、停船せよ。こちらキャメロット海軍HMSロック・ハンプトン」

 基準排水量一五〇〇トン余りの、マストも煙突も一本きりの小さなフリゲートの掲揚索ヤードに旗旒信号が手早く滑らかに揚がり、合成風力にたなびく。同時に、国際VHF通信でロヴァルナ語翻訳に依る同じ内容が繰り返される。

 男たちに「何が起こるか分からない」という緊張の色が増し、潮の香りやペンキ、油の匂いと混淆した。

 ロック・ハンプトンが向かう相手は、三〇〇〇トン級の貨物船マルティカ号だ。

 ロヴァルナの傭船である。

 建造は世界の造船を席巻している秋津洲。船籍は優遇措置の多いニコシア。船主は地裂海東端の沿岸国ルブナーン。

 それらの機微が、現代における船舶の複雑さを表している。

 ロック・ハンプトン号の艦長は、臨検隊の派出を命じた。約一〇名の要員の大半は自艦から出し、指揮官は僚艦の副長に務めてもらうことで打ち合わせ済みだった。

 海上封鎖の発効以降、キャメロット海軍が実際に臨検隊の乗り込みにまで至ったロヴァルナ関連船舶はいない。

 初のケースを執行する役目を、本国の海軍作戦本部及び地裂海艦隊司令部から委ねられた格好だ。

 世界が注目していることは、改めて述べるまでもない。

 海上の出来事であるから、本当の意味での実況放送などやれはしないが、西側諸国の放送局の殆どが事態を伝えていよう―――

 そして世界の人々は、固唾を飲んで見守っていることだろう。

 臨検に伴う些細な言い争いが核戦争の引鉄を引きかねず、ロヴァルナ船舶は銃火器を以て抵抗するかもしれず、船体にも破壊装置を設置しているに違いなく―――つまり、世界は滅ぶかもしれない、と。

 だから、初の臨検相手にマルティカ号は選ばれた。

 傭船である上に、船型が小型に過ぎ、ほぼ間違いなくからだ。

 指導役としてロヴァルナ軍の人間なども一名か二名は乗り込んでいるだろうが、彼らとて他国籍の傭船をまさか自爆まではさせないだろう。

 ならば。

 ―――海上臨検の実行を何処かで示しておいたほうが、外交交渉を有利に運ぶことが出来る。

 キャメロットの断固たる決意を再表明する形となる。

 そんな判断を下した政府首脳が、慎重に相手を選んだ。

「手筈通り、全員常装姿ブルードレスだな?」

「はい、艦長。皮革装備の隅々に至るまで磨かせました」

「よろしい。決して国際慣習法に触れぬよう、慎重かつ丁寧に。我が海軍の、非の打ち所のない様を世界に見せてやれ」

 キャメロットは、海軍というものの使い方、その効果、外交的手段としての発揮に、何処までも練達していた。

 これはロヴァルナなどが例え逆立ちしても、決して敵うものではなかった。



 同日、午後五時。

 オルクセン首都ヴィルトシュヴァイン。

 東方郊外アンターレス湖の畔に、大理石造りの、白亜に輝く広大な建築物がある。

 ―――国際連盟本部。

 通称、「万国宮殿」。

 オルクセンの歴史上、グスタフ・ファルケンハイン王に依る永世中立化政策成功の、一つの象徴である。

 星暦九二九年から約一〇年という歳月を費やして完成した総容積は、四四万立方メートル。正確に言えば国際会議場なのだが、通称通りの宮殿としてみた場合でも、竣工当時でさえ既に星欧第二の規模を誇った。

 第二次星欧大戦の終結後、キャメロットが中心となって国際連盟の憲章が改訂され、規模と機能が拡充されたとき、更に偉観を誇る三階建ての翼館二つの増築が図られ、いまでは建物の全幅だけで六〇〇メートルを超え、加盟六〇ヶ国が全て参集できる大会議場だけでなく、約三〇〇〇のオフィスがあり、容積約八六万立方メートルという巨大極まる存在になっている。

 ユーゴスラヴァ危機の生起を受け、キャメロットなどの提唱により緊急安全保障理事会がこの「万国宮殿」で開かれたとき、西側諸国にとって情勢は万全とは言い難かった。

 まず、国連事務総長のウ・パントは、前任者の航空機事故死に依って急遽選定された、正式には「代理」の地位に過ぎない。

 しかも国際協調を重んじる彼は、キャメロットなどから見れば「ロヴァルナ寄り」の不満足な仲介案を用意、周旋し、むしろ警戒感を買っていた。

 次に、これは全くの偶然だったが、安保理総会の持ち回り議長担当国が、なんとロヴァルナ連邦だったこと。

 ロヴァルナ連邦の国際連盟常任代表ワシーリー・ゾーリンが議長であったが、本国で外務次官まで務めた経験を有する彼は、ロヴァルナ外交官の典型例だった。つまり、傲岸不遜極まり、押しに強く、決して過ちを認めない男だ。

 西側諸国にとって、恐るべき相手だった。

 そして、常任理事国の一角を務めるキャメロット及びオルクセンの国際連盟大使が、細かな事情は異なるものの、それぞれ離任した直後で、臨時の代理が立てられていたこと。

 特別代表だの、臨時大使だのといった言葉は、一見当事者そのものを華麗に見せる。

 だが実際には「臨時」であるという事実は、他国代表との人脈がまるで失われた状態であることを意味し、また本来なら彼らを支えるはずであるスタッフとの関係も、円滑円満とは言い難い。本国との間に、どれほどの権限移譲が行われているかといった部分も影響する。酷い場合だと、いちいちお伺いを立てることになる。

 両手両足を縛られたまま、まるで戦場の一つであるに等しい国際外交の場に放り込まれるわけだ。

 ただ―――

 この点に関して言えば、果たしてキャメロットやオルクセンにとって逆境であったかどうかは意見が分かれるだろう。

 供に、外交巧者の代理が送り込まれていたからである。

 キャメロットは、罹病離任していた前任者に代わって、副総理格のリチャード・ウォールデンが、ロヴァルナ特使との会談後もオルクセンへの滞在を続け、内務大臣から横滑りするかたちで特別代表になった。

 一方オルクセン代表は、彼らが危機の直前、国際連盟事務総長の座を狙っていた為に、ウ・パントと代理の地位を争ったほどの重鎮が送り込まれていた。少し寡黙だが、それだけに根回しに長け、魔種族ゆえの長命長寿により他者に対する観察眼にも、場の空気を読む能力にも不足はない牡が。

「・・・世界は疑問に思っていることでしょう―――」

 議長席に座り、ウ・パント事務総長代理を左隣にしたゾーリンが、嫌味たっぷりにウォールデンを見つめる。

 円卓状に常任理事国と、非常任理事国席とがあり、これを見守る観客のように各国代表席が周囲に広がる巨大な会議場には、緊張と、恐怖と、興奮があった。

「果たして、なにゆえキャメロットは世界を破滅の淵に追いやろうとしているのか。ユーゴスラヴァへミサイルが持ち込まれたなどという妄想を、本気で信じているのか。そのような証拠は何処にもない―――」

 他の常任理事国や、非常任理事国、総会出席の各国席のうち、東側諸国から嘲笑にも似た同意の響きが広がった。

「果たして、証拠など存在するのか。あるいは余程大切な証拠なので、見せたくも見せられないのかもしれません」

 再び、東側の嘲笑。

 彼らの視線の先には、物腰がソフティスケイトされていた故に他者からは弱々しくも見えたウォールデンがいる。

 各国報道陣のTVカメラのファインダーと、映像が中継された先にある世界中のブラウン管では、彼はゾーリンに「打たれっぱなし」に思えた。

 ロヴァルナ代表は、キャメロット以下西側諸国の問いに対し頑なな拒絶の姿勢を示し続け、危機の責任はむしろキャメロットにあると印象付けることに成功しかかっている―――

「・・・代表を変えましょう!」

 中継を見つめる者の中には、遠く離れたキャメロット本国の、マクラーレン内閣の面々もいた。

 タカ派と称される者たちは、ウォールデンの態度に業を煮やしていたのだ。密かに代理の選定まで始める閣僚もいた。

「まあ、見ていろ―――」

 動じなかったのは、老練な首相マクラーレンである。

 彼はウォールデンを信じていた。ウォールデンは党内で重きを成すだけでなく、財界にも顔が利き、首相候補としてはマクラーレンの対抗馬まで演じた男なのだ。

「始まるぞ」

 彼は誰よりも知っていた。

 自らが、特使や臨時代表として選んで送り込んだウォールデンが、「実力者」であることを。

「ゾーリン大使。単純なことを質問させてください。とても単純なことだ。貴方がたはユーゴスラヴァにミサイルを持ち込んだのですか? イエスかノーかでお答えください―――」  

 ウォールデンが、静かに、だが確実にゾーリンを追い詰めるように切り返した。

「通訳すら必要のない、単純な答えだ。イエスか、ノーか」

 西側諸国から、賛同を示す笑い声。

「・・・キャメロット代表。私は貴国の法廷にいるのではありません。私を被告人のように扱うのは止めていただきましょう」

「いいえ、ゾーリン大使。私たちは、国際世論という名の法廷に立っているのですよ。イエスかノーかでお答えいただけるはずです。貴方は、ミサイルの配備を今日何度も否定なさった。私はそのように理解しております。各国代表の皆様も同様でしょう。それが真実であるかどうかを知りたいのです」

「・・・いずれはっきりするでしょう。いずれ。ご心配には及びません―――」

 東側諸国から、やや余裕を失った嘲笑。

 ゾーリン本人の傲慢にも、いささか動揺が見てとれた。

「ここはキャメロットの演説場ではありません。発言の順を守り、オルクセン代表のご意見を伺いましょう」

 ゾーリンの指名を受けたオルクセン代表のオーク族は、唇の端を吊り上げ、哲学者的風貌に微笑を浮かべる。

「・・・我が国は、世界の皆さんと同じく、この危機の原因について知りたいと思っております―――」

 元国際連盟総長。オルクセン初代大統領としても知られるカール・ヘルムート・ゼーベックは、実質的な西側諸国にして中立国として完璧な発言を続けた。

「依って、キャメロット代表に発言時間と機会を御譲りしましょう」

 西側諸国代表席から、賛同と賞賛の声。

 ゾーリンに動揺の色が濃くなる。

 予想していなかった展開だったのだ。

「ありがとうございます、オルクセン代表―――」

 ウォールデンは強く頷き、「決戦」を始めた。

「ゾーリン大使。待ち続けるということが貴国の決断であると仰るなら、私はそれを受け入れましょう・・・地獄が凍り付く、その瞬間まで!」

 場内に拍手が満ちた。

 ―――地獄が凍り付く、その瞬間まで。

 芝居がかってはいたが、それは紛れもなく、歴史に残る言葉だった。

 ウォールデンは、議場の遠く壁際に待機していた随員に頷いてみせた。

 随員たちは、イーゼルと、大きく引き伸ばした写真パネルの幾つかを議場中心に手早く持ち込み、各国代表から見やすい位置に据え付けた。

 ユーゴスラヴァに持ち込まれた、ロヴァルナ連邦軍のミサイル陣地を捉えたものだ。

 高空からのものだけではない。

 キャメロット首相の許可の下、ウォールデンの下に特別機で送られて来た低空偵察写真もある。

 核弾頭保管庫施設、燃料輸送車、ミサイル格納テント、ミサイル起立装置、酸化剤輸送車、核弾頭輸送車―――

 マクラーレン首相が、「偵察能力を敵に知られてしまう」という軍部の反対を押し切り、ウォールデンに委ねた「決定的証拠」の数々。

「それでは皆さん、御覧下さい。これらは去る一四日以来、我が国の偵察機に依って撮影されたものであります」

 会場を圧するほどの、各国代表の騒めき。

 ゾーリンは明らかに混乱していた。

 周囲の随員たちに、何事かを喚き散らしている。

 遠くキャメロット本国では、マクラーレンが、彼にとってウォールデンへの最大限の賛辞をブラウン管の前で呟いていた。

「ウォールデンの奴。二年前の党首選であのタフさを示していたら、いまここに座っていたのはあいつだったのに」

 本会議場では―――

 星欧外交界最大の長老ゼーベックは、両手を組みつつ、ロヴァルナ代表の様子を視界の隅に眺め、むしろ哀れに思っていた。

 ゾーリンは、本国からミサイル配備の事実について、何も知らされていなかったのだ。フルシチョーリフ本人は、最早それをキャメロットの経済代表に認めてしまっているというのに。

 ロヴァルナの外交筋には、ままあることだ。

 だからゾーリンは、ひたすらロヴァルナ流の虚勢を張り、傲慢な態度をとり、決して事実を認めようとしなかった。

 あの国のことだから、きっとそうに違いない、だから機会を捉えた瞬間には協力させて貰おうとウォールデンに申し出た甲斐があった―――

 陛下。

 我が王。

 ちかごろ、ようやく外交という名の魔物に慣れてきたように思います。

 少しは及第点を頂けますかな?



 同じころ。

 首都ヴィルトシュヴァインのケーニヒスガーデン東北端にある王家宮殿では、オルクセン女王ディネルース・アンダリエルが、安全保障理事会のTV中継を見つめていた。

「世界の世論は、これで一気にキャメロットに傾くな・・・」

 各国関係者の中で、少なくとも表面上、ディネルースほど動揺しなかった者はいないだろう。

 危機に際して彼女は、自らの周辺を極力日常通りに置こうとした。

 元々同地に存在した歴代オルクセン王の夏離宮を中心に、新古典主義建築で建てられた広大な宮殿には、本館と左右の翼館、幾つかの別棟が存在したが、ディネルースの居住面積はほんの一部でしかない。

 本館は政府の迎賓館として機能していたし、左右の翼館は美術品や家具、そしてグスタフ王関連の博物館として一市民にも解放されていたからだ。彼女が暮らしていたのは、付属する別棟のみである。

 危機が始まった直後、まずは市民解放を停止してはどうかという意見が当然のものとして出された。

 オルクセンほど整備された緊急時国民保護マニュアルと有事体制を持っている国といえども、市民は食糧や生活必需品の買い出しに殺到し、都市部のスーパーマーケットの棚からは商品が消え、また気弱な者などは「明日にも世界は滅ぶ」と震え、自宅に閉じこもって茫然と座り込んでいるような状態である。

 博物館への来館者など、誰もいなくなるに違いない―――閉鎖という選択は警備面のみならず、市中情勢の点からも当然のことと、誰しもに思えた。

 だが、

「それはいけません。例えひとりでも安息を求め来訪する者があるならば、通常通り開館は続けるように」

 ディネルースは、そんな指示をした。

 彼女のそのような態度を受けてか―――

 習慣的に、宮殿正門で毎日衛兵交代式を行うアンファウグリア騎兵の儀礼部隊も、日常通りだった。

 ディネルースに仕える侍従や侍女、王宮所属の官吏なども誰ひとり欠けることなく、出勤を続けている。「終末の日々」を家族と供に過ごしたい者には希望通りにすると全員に伝え、それでも皆が出仕の意思を示すと、宮殿地下のシェルターを家族ともども使って構わない、遠慮なく呼び寄せなさいと許可を与えた上で。

 この日の午後は、使い慣れたツナギ姿になり、ガレージへ行き、愛車を整備した。

 過日のドライブで気づいたのだが、シフトレバーを操作する度にコンコンと異音がする。操作のタイミングから言ってクラッチペダル側ではない。

 ヴィッセルワーゲン・カレルマンギアのベースになっているのは、第二次星欧大戦中に設計が終わった国民車構想計画の一車種だったから、ギアミッションの変速は単純だが信頼性のある、ワイヤー伝達である。

 ボンネットを開け、そのワイヤーのテンションが高まり過ぎたのだろうとステイ部で緩めてみた。

 具合を確かめる。

「・・・ご機嫌斜めだな」

 まだ異音がした。

 結局のところ、何度かテンションを張ったり緩めたりを繰り返し、問題の個所に油を射すと直った。

 言葉で述べると簡単な作業のように思えるが、テンションの調整部はエンジンとの間の非常に狭いところにあり、締め付けるだけでも中々の苦労があった。ときおり、ヴィッセルの連中は世の整備士にはドワーフやコボルト族しかいないとでも思っているのではないかと、罵りたくなる。

 ―――そういえば。あのひとは何をやるにしても、あのゴツい手で随分と器用だったな。

 ともかくも不具合は直り、満足の吐息を漏らす。

 世の雑事を、幾らかの間は忘れることができた。

「陛下。そろそろ中継が始まります」

 総会の始まる前には、忠実な侍従長が呼びに来てくれた。

 夫グスタフの代から仕えてくれている、コボルト族コーギー種の牡だ。

「アルベルト、今夜の食事は何だ?」

「奥様お好みの、テリーヌでございます」

「そうか。良くしてくれた」

 夕食は、中継を見てからにした。

 夫グスタフを亡くして以来、夕食はひとりで摂ることが多い。たまに友人のイアヴァスリルなどが訪ねて来てくれることもあるが、ごく稀のことだ。

 どうしても誰か外の者と話したくなったら、ちかごろでは魔術通信を使うこともすっかり面倒になってしまったほど、電話などという便利なものもある。

 寂しくないといえば嘘になるが。

 相変わらず夫の最後の命令を守って側にいてくれる巨狼のアドヴィンと、彼の伴侶ウェンドラ、その息子や娘たちもいるので、存外に苦にはならない。

 いまでは中佐になっている警護隊長リトヴァミア・フェアグリン、王妃時代からの侍女などもいる。

「アドヴィン。また、あのひとの遺言の通りになったな。あのひとは、いつかこんな日が来ると書いていた・・・」

「・・・ならば危機を回避もできよう」

「ああ。我らが努力を怠らなければ、という条件付きだがな―――」

 ディネルースは、くすくすと笑った。

 懐かしむようで、恨むようでもあり、何処か寂し気な響きだった。

 既に、夫グスタフの遺言書―――ひとに依っては「預言書」として扱っている代物のうち、今回の危機に関するものだと判断した部分は、機密情報共有対象のラーベンマルク大統領に伝えてある。

 それがディネルースの役目だ。

「まったく。有難くも面倒なものを残してくれた。おかげでドライブも楽しめない」



 ―――二六日。

 星欧中心部より、僅かに早く夜の帳を迎えたユーゴスラヴァのミサイル陣地周辺では、「地獄も凍り付く」光景が繰り広げられていた。

 ユーゴスラヴァ派遣のロヴァルナ軍司令官から核弾頭の移動命令が下り、核弾頭保管庫から運び出された弾頭が大型の軍用トレーラーに載せられ、R一二ミサイルへの装着に向かったのである。

 ロヴァルナ軍参謀本部は、現地部隊へ核ミサイルの最終準備体制完了を幾度か命じており、これが実行に移されたかたちだ。準備を整えておかなければ、もし戦争が始まったとき、在ユーゴスラヴァのロヴァルナ軍は全滅してしまう―――

 移動は極秘だった。

 狭く未整備な部分の多いユーゴスラヴァの道路では、移動の邪魔になるというので、道路脇の街燈や標識、憩いのベンチなどが撤去され、要所要所には民兵が警護についた。

 むしろこの行為が、沿道周辺のユーゴスラヴァ国民に核弾頭移動を「公然の秘密」にした。

 各地で歓声が上がり、ロヴァルナ兵に声援を送る者、両国の旗を振る者、酒や食糧を車列に贈る者が続出した―――

「こりゃ、何て酒なんですかね? 悪くない」

「プラムから作った果実酒の一種だそうだ。土地の者たちには、一番の上物らしい」

「俺たちを歓迎してくれているのか」

「当然だろうよ」

 民も、兵も。ユーゴスラヴァ人もロヴァルナ人も。誰しもが、キャメロットの侵攻近しと見ていた。

 何しろ、連日昼夜の見境なく、キャメロットの偵察機が飛び交っているのだ。

 発砲が厳禁されている環境下、核弾頭の移動は市民たちの溜飲を下げ、愛国心を盛り上げ、熱狂させたのである。

 これは、故国からすれば過酷な環境での、困難な展開と、長い待機生活に膿みかけていたロヴァルナ兵士にも等しく言えた。

 この夜―――

 ユーゴスラヴァ指導者ブロズ・ティトは、突如としてロヴァルナ大使館を訪れている。

 出迎えたのは、在ユーゴスラヴァのロヴァルナ大使イワン・アレクセイエフだ。

 アレクセイエフは、大使と言っても非常に若かった。このとき、まだ五〇にもなっていない。眼鏡の似合う、スマートで、知的な容貌をしていた。

 それもそのはず、ロヴァルナとユーゴスラヴァが外交関係を再構築した際、当初はプラウダ通信の特派員という偽装の肩書を与えられ、一種のメッセンジャーの役割を果たした男である。若さゆえにフットワークが軽く、誠実でもあったので、すっかりティトからも気に入られていた。

 アレクセイエフは、ティトの突然の来訪にも迷惑そうな顔をせず、ロヴァルナ産のよく冷えたビールを出して持て成した。

 彼もまた、ティトの人間的魅力に心酔していたのだ。

 またひとつには、ユーゴスラヴァ指導者の様子に、尋常ではないものを察したということもあった。アレクセイエフには、赴任地の―――特にティトの状況を推察し、本国に伝えるという重要任務があったのである。

「我が国の参謀本部の分析に依れば、状況は非常に切迫している―――」

 一息ついたところで、ティトは切り出した。

「二四時間から七二時間以内に、キャメロットは侵攻してくるだろう。安保理総会で、彼らは大儀名分を手に入れた―――」

 アレクセイエフは息を飲む。

 だが、確かに説得力があった。

 連日連夜ユーゴスラヴァの上空には、偵察機が飛び交っている。ロヴァルナのユーゴスラヴァ派遣軍司令官も、事態の緊迫を伝えてきており、核弾頭の移動が開始されたことを、アレクセイエフも承知していたのだ。

 ティトは、既にロヴァルナ軍司令部を直接訪れ、自動車化狙撃兵連隊や戦車旅団の戦闘準備完了を自ら確認し、更には対空レーダーの始動を強く要請した後でもあった。

「私にはもう、忍耐の限界だ。明日二七日を以て、対空砲の射撃を許可する。いまは強く出るべきだ。これらの点について、フルシチョーリフ閣下に伝えて頂きたい」



 このとき。

 あれほど強気だったロヴァルナ連邦首相フルシチョーリフは、動揺していた。

 首都マスクワ郊外の別荘に閉じこもり、来訪してくる側近たちと激論を交わしつつ、本心から信頼のおける者にだけ弱音を漏らしている。

 主な相手になったのは、ミサイル関連の技術者で長男だったセルゲイである。

「本当に・・・ 核戦争になるかもしれない」

 彼は、父のぽつりとした呟きに、愕然とした―――

 ロヴァルナ連邦首都マスクワ時間、午後九時。

 キャメロット連合王国首都ログレス時間、午後六時。

 在ロヴァルナのキャメロット大使は、突如としてロヴァルナ外務省から呼び出しを受け、たいへんな長文のフルシチョーリフ首相書簡を受領した。

 宛先はキャメロット首相マクラーレンになっていた。

 文面は、充分に検討が重ねられたとは思えないほど乱れており、翻訳し、暗号化してテレタイプ送信の全てを完了するまで三時間を要したほどである。

 だがそれ故に事態を打開する、新たな提案であると思われた。


「親愛なるマクラーレン首相閣下。

 貴方がたは我々に対し、戦争も辞さないと脅しをかけておられます。ですが、よくご存知のはずです。ユーゴスラヴァを攻撃すれば、我々の軍は壊滅してしまうでしょう。だがそっくり同じ苦しみを、西アスカニアで貴方がたは味わうことになる。

 我々は一時の興奮や、くだらない激情に身を任せてはいけないのです。

 戦争が一旦始まれば、もはや貴方と私だけでは引き留めることなど出来ません。

 我らは、結び目のある縄を両方から引き合っているようなものだ。強く引けば引くほど、もつれも結びもきつくなり、解くことなど出来なくなってしまいます。

 私は二つの戦争を経験しました。閣下もご同様でありましょう。

 核戦争は、その経験からの想像すら越えてしまう。

 戦争が始まれば、両国の街は溶け、村は焼け、国民たちは跡形もなくなってしまうでしょう。

 そこで私は提案します。

 どうかユーゴスラヴァには決して侵攻しないと宣言をしていただきたい。さすれば私は、同地に配備したミサイルを撤去する用意があります―――」


 書簡を一読したマクラーレンは、吐息をついた。

 それは、奇妙なほどの同情と共感だった。

 碌に推敲も重ねていない文面から、フルチョーリフもまた己が側近たちに囲まれ、ときに味方ではなく敵となる彼ら相手に苦労しつつ、懊悩し、それでも核戦争を回避しようと急遽送信してきた内容に違いない、と思えたのだ。

「私は、この書簡を検討に値すると見る」

 マクラーレンは、危機勃発以来、官邸に詰めたままの閣僚、軍幹部たちに告げた。

「しかし・・・ これは時間稼ぎなのではありませんか?」

 国防参謀総長が懸念の色を浮かべる。

 眼前の机上に広がる偵察写真の数々には、ユーゴスラヴァのミサイル基地が急速に発射準備を整えつつある様子が写っていた。

「彼らが発射準備を整えれば、取返しのつかない事態に陥るかもしれません」

「だが、フルシチョーリフも難しい立場に置かれているのではないか?」

「それは我々も同様です」

 議論は容易に決着を見せようとせず、日付が変わっても終息しなかった。

 朝を迎えたころ―――

 意外なことが起きた。

 最初の書簡に続いて、のだ。

 それは余りにも第一の書簡と調子が変わっていた。

「ユーゴスラヴァのミサイルを撤去する代わりに、イスマイルの我が軍のミサイルを撤去しろ、だと・・・?」

 イスマイルには、かねてよりキャメロットの準中距離弾道ミサイルが一六基配備されている。

 当然というべきか、標的はロヴァルナだ。下腹から直接彼らの本土を狙うような格好である。

 フルシチョーリフがこれを不満に思っているという情報は、以前からキャメロットも知っていた。「西側諸国がロヴァルナを狙うミサイルは堂々と配備されているのに、我らがそれをやれば、まるで悪魔であるかの如く罵ってくる」と。

 この準中距離ミサイルを撤去しろ、というのだ。さすればユーゴスラヴァのミサイルを撤去する―――

 遠因は、マクラーレン自身にあるように思えた。

 彼は東西の緊張緩和を政策の一つに掲げており、既に旧式化しているイスマイル配備のミサイル撤去検討を談話として仄めかしたことが過去にあったのだ。

 だがこれを外交交渉の材料として突きつけられると、当然ながら軍部としては認められない。

 マクラーレン自身にも俄には受け入れ難かった。

 キャメロットが、同盟国を見捨てる形になってしまう―――

「ロヴァルナは、態度を硬化させてきたぞ」

「駄目だ、話ならん」

「僅か一日のうちに要求事項の変わる相手に、一体何を交渉しろというのだ」

 マクラーレンもまた、困惑した。

 側近たちの中には、最悪の予想を立てる者も出た。

「・・・フルシチョーリフは、弱気になったことで軍のクーデターに遭ったのではありませんか?」

「・・・・・・有り得ると思うか?」

「はい。最初の書簡がフルシチョーリフ本人のもの。二番目の書簡が、彼の名を騙った軍部のものだと思えば、全てに合点がいきます」

「だとすれば、これは危険ですよ、首相閣下。いつミサイルが発射されてもおかしくない」



 ―――二七日、午前六時。

 エトルリア半島のサンタンジェロ空軍基地から、この日の高空偵察任務に就くキャンベリーPR.一〇型偵察機が飛び立った。

 パイロットは、最初にR一二ミサイル基地の撮影に成功した、あの第五八飛行隊隊長のピーター・ロス少佐だ。

 少佐はこの朝、ちょっとしたトラブルに見舞われた。

 本国と比べれば基地施設に難のあった将校用食堂のキッチンで、燃料供給のガス配管に故障があり、験担ぎになっているベーコンエッグを食べ損なってしまったのである。

 代わりに下士卒食堂のものなら提供できると申し出られたが、

「いいよ、いいよ。戻ってきてから食わせてもらう」

 好物ではないブラックプティングがメニューだと聞かされて、そのまま空に上がった。

 偵察の対象は、「第二号」と作戦上の呼称が与えられていた、ユーゴスラヴァ西部の準中距離ミサイル基地である。

 この日は、それまでの偵察とは、のっけから様子が違っていた。

 偵察コースの約三〇キロ南海上に、少佐の機体とは別に離陸していたヴィンディケーター戦略爆撃機の電子偵察型が三機いたのだが、ロヴァルナ軍の対空ミサイル部隊がレーダーを始動させていたため、二種類以上のレーダー信号を傍受して困惑していたのだ。

 危機勃発以来、双方陣営とも極力相手に情報を与えまいと、電波は発信していない。

 その沈黙が、突如として「おしゃべり」に変わったのである。

 電子偵察機のクルーたちは、分析用のテープ装置とスキャナーを始動させた。

「機長、こいつはビックシガーですよ」

 ビックシガーとは、ロヴァルナの防空ミサイル射撃管制レーダーに与えられた符丁である。

 電波の傍受と分析は、心電図の読み取りや、バードウォッチングの鳥の囀りを聞き分ける作業に似ている。

 熟練した医師やバードウォッチャーが、それぞれの波の性質を見分けるように、発信相手の種類や方向を特定した。

 エトルリア王国沖に浮かぶキャメロット海軍の電波収集艦もまた、前夜からこの兆候をはっきりと捉えていた。

 彼らは来るべき空爆作戦の情報収集の為にも、これらロヴァルナ軍のレーダー信号傍受と分析に努めていたが―――

 ロス少佐には、まるで知らされていなかった。

 戦略偵察は、秘匿性の高い任務だ。 

 ときに味方にさえ情報は伏せられるし、行動自体が伝えられもせず、通信も限定される。

 目標付近に接近した、午前九時三〇分―――

 ロス少佐の機体のミサイル警報装置が、耳障りな警告音を立てた。

 ロヴァルナ側の防空指揮所が、敵味方識別装置に反応しなかった同機を「標的第三三号」と名付け、二基の防空ミサイルを発射した瞬間だった。

 キャンベリー偵察機は、元々は亜音速のジェット爆撃機を改造したものである。

 高空飛行能力こそあったが、その機動性は戦闘機や専門に設計された偵察機には及ばない。

 ロス少佐が最後に目撃したのは、回避運動にも食い下がり、複雑な機動を描いて追尾してくる防空ミサイルが、街の電柱ほどの大きさにまで迫ってくる光景だった。

「・・・やれやれ―――」

 撃墜される直前。

 くぐもった音を立てる酸素マスクの中で、少佐は呟いた。

「朝飯を食いそびれたな」


 

 ユーゴスラヴァのロヴァルナ軍第一七防空連隊レーダー指揮所では、当直士官や、レーダー係たちが真っ青になっていた。

 彼らは任務として、キャメロット側全ての航空機の監視を担当していた。

 しかし「標的第三三号」の符丁を振られた目標がディスプレイから消え、二〇分経っても再補足できない―――

「なんだと!? いったい誰の命令で撃ったんだ!」

 確認のため有線電話機を取り上げた士官は、愕然としていた。

 防空ミサイルを発射したのは、ロヴァルナ軍部隊であったのは事実だ。

 だが、ロヴァルナ軍司令部は、撃墜の命令など下していなかった。

 現場の、たった二名の当直士官が連日の緊張状態に耐えかね、「これ以上の挑発には耐えられない。我らだけで責任を取ろう」と、撃墜に踏み切ったのである。

 撃墜現場でが、早くもユーゴスラヴァ軍部隊や民兵たちが残骸を発見し、歓声を上げ、市民たちまでが一緒になって快哉を叫んでいた。

 ―――キャメロット偵察機撃墜。

 防空レーダー部隊のレーダー係は、これで戦争になる、核戦争になってしまうと、真っ青になり、体の震えが止まらなくなった。

 回避に向かっていると思われた核戦争の危機は、全ての関係者のあらゆる努力を水泡に帰すが如き冷酷さを以て、一挙に現実味を帯び、最悪のかたちでひとびとに圧し掛かった。

 しかも―――

 後に「暗黒の土曜日」と呼ばれることになる一日は、であったのだ。


(続)

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