随想録38 一三日間危機③
―――一〇月一九日。
オルクセン連邦もまた、国家防衛準備体制を準戦時状態に置いた。
オルクセンの国家防衛準備体制には五つのランクがあり、「二」に相当する事態であると政府宣言したのだ。ちなみに最高度の防衛体制を意味する「一」は、完全な戦時だ。
ここまで高度な防衛準備体制の発令は、オルクセン連邦史上初のことだった。
常備軍三二万の陸軍兵力には更なる予備役の動員が始まり、国営ラジオはその旨を早朝から呼びかけた。陸軍にとって想定作戦の主力となるのは一二個の装甲師団で、六個の装甲擲弾兵師団と二個の降下猟兵師団、一個の降下猟兵大隊がこれに次ぐ。むろん、国境部の擲弾兵師団や山岳猟兵師団、国家憲兵隊の国境警備隊も臨戦態勢となる。
この過程で、オルクセン最強と称されていた部隊も動き始めていた。
―――アンファウグリア装甲師団だ。
当時、既に同師団はかつての衛戍地ヴァルダーベルクに主力を置いていなかった。そちらには装甲擲弾兵大隊が一個と、儀礼用の騎兵連隊一個がいるきりで、師団司令部と主だった部隊は首都ヴィルトシュヴァインの更に西北西郊外に移駐していたのだ。
戦車連隊二個、装甲擲弾兵連隊一個、装甲野戦砲兵大隊三個、機械化騎兵偵察大隊一個、装甲工兵大隊一個などからなる同師団は、「オルクセン最強の戦車師団」との誉れが高い。
師団全体となると、保有する戦車の数だけで三〇〇両近かった。
所属将兵の全ては、伝統的に未だダークエルフ族のみで構成されている。
「師団長」
「おう」
アンファウグリア装甲師団長ラエルノア・ケレブリン少将は頷く。
師団は、参謀本部の命令に従って出発準備を整えつつあるところだ。
既に、四輪駆動の汎用野戦指揮車や偵察用オートバイを先導に、続々と営門を通過していく戦車部隊もいる。
ステレオ式測距儀、高性能の無線機とベンチレーターつきの、丸みを帯びた砲塔。
堅実なトーションバー式の足回りと、空冷四サイクルV型一二気筒のガソリンエンジンを組み込み、時速約五〇キロメートルで走行可能な車体。
そして、砲塔から長く突き出るような、キャメロット製の五一口径一〇五ミリ戦車砲。
―――mPz六一。非公式通称「シュヴェーリンⅡ」。
オルクセン陸軍が正式採用したばかりの、新型戦車だ。のちに生まれることになる「
このころのオルクセン軍のドクトリン―――国境部に張り付けた兵力により遅滞戦闘をやり、その後ろに待機させた装甲戦力により機動防禦を実施するという戦術思想に従って、火力と速力を重視。装甲については余り褒められたものではなかったものの、まず西側諸国において一級の戦車だと評せた。
師団には、部隊試験用の先行量産型約五〇両がいる。
非常に良く似た見かけの、ただし幾らか砲がほっそりとした車両の別グループもいて、そちらは同系譜の現主力戦車であるmPz五二だ。
部隊出発の第一陣は、深夜に移動することになっていたから、準備を急がねばならない。
目的地は、ヴィルトシュヴァインから西へ二七キロ。グルンヴァルトという街だ。正確にはその東側郊外。
連邦道路一二号線及びアウトバーン三〇号線を使って自力で移動することになっていて、師団の野戦憲兵隊や地元警察の交通規制援助を受けながら、一部は今夜出発する。
「手間をかけさせたな」
「いえ・・・」
ラエルノアは、入室してきた師団長副官から領収書の束を受け取った。
彼女には、出発を前にどうしても済ませておきたいことがあった。
衛戍地周辺の居酒屋やレストラン、ビアホールの類へ部下をやって、師団将兵のツケがあれば全て会計を済ませておくことだ。
本来なら各将兵の―――なかでも下級兵士の未処理会計だから、それぞれが精算すべきものである。
だが給料日前の兵に、無い袖は振れない。
かといって、ツケを残したまま衛戍地をあとにするなど、誇り高きダークエルフ族としては看過できないことも確かだ。
ラエルノアはこの日、自身の預金をありったけ引き出し、現金化したものを持ち込んでいた。その一部を副官に託し、師団司令部の本部中隊に一両ある、本来は師団長公用車であるセダンも自由にさせて、衛戍地周辺の店という店を巡らせたのである。
「一部には、なかなか受け取ってもらえない店もありましたが。とくに居酒屋クライストのご店主など、皆が帰ってきてから受け取ると強情で」
「クライストの親父さんらしいな」
ラエルノアは微苦笑する。ヴァルダーベルクの、部隊創設以来の御用達であるあの店の主人なら、さもあらんと思えた反応だったからだ。
だが、これでもう後顧の憂いはない。
―――帰ってきてから。
ラエルノアは、もし本当に第三次大戦が始まったら、文字通りの意味でアンファウグリア装甲師団は「帰ってくること」など不可能であると知っていた。
機動防禦戦術など、所詮は絵空事に過ぎないのだ。
国家の防衛に怠りは無いという、内外へのアピールに過ぎない。
己たちは、時間稼ぎのための捨て駒にすぎない。
捨て駒の役目は、自らの更に後方に位置取ることになる陸軍の地対地戦術核ミサイル部隊や、空軍の戦術核運用部隊が「パイ投げ」をやるための余裕を作り出すこと。
仮に―――万が一にも有り得ない想定だが、東側が戦術核を使用せず通常兵器ばかりを投入して侵攻を図った場合でも、勝敗はかなり怪しい。
ラエルノアは、闇夜に蠢く魁偉な戦車群を見つめた。
―――あの戦車では、
mKP六一で幾らかマシになったが、砲塔左右から突き出したステレオ式測距儀には、故障が多い。
機動性を重視した結果、装甲が薄く、密かに手に入れたエレッセア運河動乱での鹵獲車両を使った実験では、いともあっさりと撃ち抜かれてしまうことも分かっていた。
ガソリンエンジンを使っているため、炎上もしやすい。
東側最新鋭の戦車であるT-五四の一〇〇ミリ戦車砲はおろか、その一世代前の八五ミリ戦車砲を相手にした場合ですら怪しい。
おまけに、将来においてはどうやら必須の機能となるであろうNBC防護機能が備わっていなかった。化学兵器や生物兵器、そして核兵器の発する放射線類への防禦性能が無いということだ。
このためオルクセンでは車体設計から改めた次期主力戦車の開発を計画中だったが、ようやく試作一号車の製造が始まったばかりで、現状は如何ともしがたい。mPz六一は、いわば「繋ぎ」の役割に過ぎないのだ。
―――だが、アンファウグリアは怯まない。
渇いた顎の名を持つダークエルフ族戦闘集団の役割は、創設のころから何も変わっていない。
―――全オルクセン軍の尖兵となり、祖国に仇なす敵あらば、蹴散らすこと。
驚くべきことに、師団全将兵は、いざ開戦となれば己たちの頭上から
それでも怯まない。
己たちが一分一秒でも長く時間を稼げば、祖国を、銃後を、あの居酒屋クライストの店主のような市民たちを守ることが出来る。
それが、八〇年前、存亡の危機にあった己たちを受け入れてくれた祖国への報恩だ。義務だ。誇りと矜持である。
「健気だねぇ、我が師団は」
くっくと喉を鳴らしたラエルノア・ケレブリンは、自らもまたこの夜のうちに四輪駆動汎用野戦指揮車に飛び乗り、衛戍地から出発した。
同夜のうちに移動を開始したオルクセン軍の兵力は、約九万名。戦車六〇〇両。軍需物資は七〇〇〇トンに及ぶ。
同日同夜。
ベレリアント半島中部、リヴィル市近郊。
かつてこの半島を舞台にした統一戦争の際には、後備第一旅団が困難な戦闘をおこなったネニング平原の北端である。
その西方近郊に、オルクセン空軍リヴィル基地はあった。
恐らく世界でも屈指の、秘匿性の高い空軍基地だ。
なにしろ駐留する飛行隊二個、整備及び補給隊、基地管理隊から成る第九戦術航空団のほぼ全てが、地下に潜ってしまっている。滑走路を除く発令所や格納庫などが、硬い岩盤の下約三〇メートルにあった。
その総面積は、約二万二〇〇〇平方メートル―――
オルクセンは、九五〇年代の中盤にはもう、こんな基地を幾つも拵えるようになっていた。
想定される東側の核攻撃に対して、部隊の生存性を上げるためである。
第九戦術航空団第四飛行隊に属する空軍パイロットであるヘルヴェア・オストエレン大尉は、同夜、パイロット待機室の一角でビリヤードをやっていた。
白エルフ族。
彼女の種族には珍しい、濃いブラウンヘアと栗色の目をし、全体的に線の強さがある。
ヘルヴェアは、まだ数の少ない白エルフ族出身の戦闘機乗りだったが、少なくとも同僚内で彼女の出自を問題視する者はいなかった。
実際のところ彼女は文句なしに一級の腕を持つパイロットであり、それは技量や身体能力だけでなく、精神面にも及んでいる。
そうでなければ、軍は彼女に最新鋭戦闘機を―――それも核兵器運用能力を持つ
キューが球を突く音は疎らであり、談笑も何処か空虚だった。
ソファに座り、無言で雑誌を読む者。
盛り上がらぬ様子でトランプをやっている連中もいる。
家族を含めた外部との連絡は、電話も、手紙も、魔術通信さえ禁じられていた。
軍が核兵器運用部隊に対して定期的に実施している心理テストで、毎期それなりの数のパイロットたちが入れ替わってしまうのも、納得の光景だった。
「・・・皆、意外と神経が細かいんだな」
そっと小声で、ヘルヴェアは仲のいい同僚に囁いた。
「あんなものを見ちまったらな」
空軍士官学校同期である、コボルト族シェパード種の牡が応える。
ふたりとも、灰色をした、厚手のコットン製のフライトスーツを着たままだ。
―――政府が準戦時体制を発令した、この日。
リヴィル基地では、一定の温度管理が施された地下核兵器格納庫から、核弾頭付きの航空爆弾を取り出した。
地上整備車の引く台車に乗せられ、常時二機が地上待機を続けることになったドラッヘ戦闘爆撃機に装着した、尖った先端部に締まった尾部を持つ自由落下型航空爆弾には、ふだんの訓練用模擬弾を示す青い帯は当然というべきか施されていない。
―――M五八戦術核弾頭。
熱核兵器型。核出力は最大で一・四五メガトン。
ヘルヴェアを含む、第四飛行隊の選抜パイロットたちは、交替制で二四時間の待機任務に入っていた。
「何の躊躇いもなく核を使える奴はいないよ、ヘルヴェア」
「それはそうだがな。ここだけの話にしておけよ」
「ああ。わかっている」
軍が核兵器運用部隊のパイロットに求めているのは、例えどのような目標地を指定されようが、冷静に、冷徹に、最後の瞬間まで投下の操作を行える能力だ。僅かな迷いの気質を見せただけでも、他部隊への転属か、地上勤務に回されてしまう。
一九時。
ヘルヴェアの番が回ってきた。
核待機アラートでは、機体まで交替させるわけではないから、狭くるしいコックピットのシートは生暖かい。
石油樹脂製のフライトヘルメットを被る前に、これから待機時間中は望むべくもない頭髪を掻きあげるという贅沢を味わった。
ヘルヴェアは、愛機であるハイネマンHe三五Dに惚れ込んでいる。
西側諸国で初めてダブルデルタ翼を採用した、オルクセンの国産機。水平尾翼は無く、シルエットにすっきりとしたシャープな印象を加味している。
二〇〇〇メートル以下の滑走路で運用出来る、高い離着陸性能。
元々は、亜音速での飛来が予想されるジェット爆撃機を迎え撃つために生まれた軽量な要撃機で、格闘性能も優れている。
ただし、操るパイロットには高い技量を求められた。
なかでもD型は、戦闘機としての能力を減じる代わりに核兵器運用を含む対地攻撃機能を持たせた戦闘爆撃型で、訓練中の事故も多い。
「パイロット殺し」
「寡婦製造機」
「大地に突き刺さるエイ」
悪評も多いが、ヘルヴェアは気にもしていない。
腕さえ確かなら、まるで空と己が一体になったかのような気分さえ味わえる機体だったからだ。
救命胴衣、不時着時の生存用キットなどの詰まったハーネス、耐Gスーツなどで着ぶくれた彼女のフライトスーツの胸元には、「
能力があり、胆力も充分で、搭乗機種に惚れ込んだ彼女も、もし実際にその中身を開封する瞬間がやってきたら、刹那の間といえども息を飲まずにはいられなかっただろう。
命令書の投下目標地は、マゾフシェ。
正確には、諜報活動によって判明している、マゾフシェ近郊のポルスカ人民共和国陸軍施設であった。
核出力の点から言って、かの国の首都そのものを破壊する命令と称しても、過分ではない。
オルクセン連邦という国家の場合、準戦時体制となると大統領に対し、国家指導に必要な緊急指揮権が与えられる。
戦時経済措置の発動。
軍の動員のみならず、一般市民のうち地域防災団や防空監視団、地域自警団に属する者の招集と配置。
報道統制―――
政府は、この日あるに備え、各市区町村役場を司令部とする戦時国民体制の構築を図ってきた。
防空演習や避難訓練は定期的に開かれていたし、「戦時及び災害の備え」と称した分厚い手引書の無料配布、一般家庭にさえ及ぶ核シェルターの設置と非常食の備蓄の推奨などがその柱である。
早くも二〇日には、戦時国家経済統制法の発動を布告。
小麦、ライ麦、オーツ麦といった主要穀物及び肉類、牛乳などの食糧、各地のガソリンスタンドでの給油を配給制に切り替えた。
この時点ではオルクセンの物流は何ら支障なく機能していたが、ミサイル危機の発表によって何十万何百万という国民が、食糧や日用必需品を求めて買い出しに走っていたからである。
軍が動員され、東部国境へと大挙移動していく姿は、各地の道路や鉄道、軍民共同空港などで頻々として市民に目撃され、頼もしさを覚えると同時に、不安も感じさせていたのだ。
同時に政府は経済団体、卸売商団体、輸入業者などに布告を出し、在庫の増加を図るよう命じている。
国家制義務教育学校の多くは休校になり、子供たちは親元へと戻った。
身よりのない子供については、学校の寄宿舎や、慈善施設で、懸命の保護が取られる。
新聞、ラジオ、テレビ、果ては各地の映画館におけるニュースフィルムに至るまでが、国民の冷静な判断と行動を呼びかけ、国家の統制に従うように求めるコマーシャルフィルムを頻繁に流した。
「楽観の感情は持たないこと。急速に高まった緊張は、日々悪化すると考えよう。だが我が国民は冷静さを失ってはならない。不意を打たれないため、事前にやれることがある。我が国の軍、官、民における防衛体制を信頼しよう」
各地では、公共施設や大規模商業施設、地下鉄構内などに築かれた戦時中の防空壕の封印が解除され、備蓄の長期保存ビスケットや食糧の缶詰、医薬品の数量確認が実施された。
食料やガソリンの配給に必要となる配給証明書は、二カ月分が各自治体の防災金庫に予め印刷されており、国民ひとりひとりが持つ身分証を携えて役所に向かえば、交付手続きをとってくれる。
街では、赤星十字社が中心となって献血のための臨時施設が作られ、市民の多くが積極的に応じた。戦時ともなれば、軍用も民間用も輸血用血液の不足が予想されるためだ。
滞在外国人を奇妙がらせたのは、街角の電話ボックスに若干の混雑ができ、ひとびとが電話帳の末尾を確認し、さっと立ち去る光景だった。
これはオルクセンの場合、電話帳のいちばん後ろの頁に、警報の種類が一覧となって掲載されていたためである。
―――空襲警報。高低のつけられた一分間のサイレン。
―――警報解除。一分間の連続サイレン。
―――防災警報。二五秒の繰り返しサイレンが五秒間隔で。
「我々は、世界を統治するひとびとの賢明と叡智とに期待する。どうか核兵器だけは使用されぬことのないよう―――」
まだ統制の図られていなかったカフェでは、市民のひとりが用意した携行型トランジスタテレビジョンが、国営放送のアナウンスを伝えていた。
「だが不幸にも、もし核兵器が使用されたとき。我々は国家の指導と、日頃の準備の成果を信じよう。それで何割かは生き残ることが出来る」
―――
オルクセンにおける政府の公式発表や報道などの論調は、諸外国人から見れば何処か淡々としていた。
彼らは決して「全員が生き残れる」とも、「戦争は回避できる」とも告げなかった。
そうあって欲しいと希望を込めた声明を出すことはあっても、「最悪の場合に備える」という基本方針は変わらなかったし、「やれるだけのことをやり尽くして尚、誰も彼もが助かるなどという願望は捨てろ」という具合であり、「だからこそ手を尽くそう」という姿勢で、これはもう異常なほどだった。
各家庭では、まるで普段の通りだと言わんばかりに、地下シェルターの確認や、備蓄用品の再検討が図られている。
政府発行の緊急時パンフレットには、数ページに及ぶ避難設備用の長い長い推奨備品リストが付属していて、市民たちは日常的にこれらに従った準備を、それぞれに可能な範囲で実現してきた。
ベッド、ソファ、マットレス、シーツ、寝袋。
着替え用の下着、衣類。
食糧品、医療品。不足するかもしれない栄養分を補うための、サプリメント。
建物が倒壊した場合などの、自力脱出用工具類。
仮の入浴施設、排泄用具。
心の拠り所となる書籍や、時間潰しのための娯楽品。
そして、オルクセン国民にとって何よりも欠かせない食糧と水―――
もちろん、不安顔の市民たちも多かった。
オルクセン国民の多くは、新たな情報を求めて、新聞や、ラジオや、テレビ番組にかじりついた。
極力普段通りの生活を送ることもまた大事であると、職場に向かう市民も多い。
地下鉄や路線バス、市電の車内では、皆が皆、朝刊や号外を広げ、あるいはトランジスタラジオを持つ者の周囲に集まってボリュームを上げてもらうよう願い出るといった光景が、あちこちで見られた―――
そのひとりのダークエルフ族は、動きやすい秋用の外出着を纏い、「U」と看板のある地下鉄駅への階段を降りると、よほど地下鉄には乗り慣れていないのか、かなり迷った様子で路線図を眺め、二駅分の乗車券を買った。
ケーヒスガーデン西駅から、ヴァルトガーデン東駅までだ。
発券機の前で購入方法を尋ねられたドワーフ族の少女や、乗り込んだ地下鉄車両に居合わせた客たちは、彼女の顔を見て、しばし茫然と信じられない思いを味わった。
「馬鹿な。本当に?」
「地下鉄に乗っているわけがないでしょう・・・」
囁き合い、何度もそのダークエルフ族の姿を確認し、ようやく己たちがよく知る存在だとわかり、一斉に立ち上がって会釈した。
前代未聞のことであった。
当然だろう、乗り込んだ彼女自身にも突発的な行動であったからだ。
専用車の後部座席に座って移動中に、街角の市民の姿を眺め、その顔を見ているうちに、どうしても直接話を聞きたくなったのだ。停車したところを飛び降り、唖然とする運転手を残し、警護の者を振り切って降りてきた。
彼女は戸惑う周囲の者のなかから、目のあった者と握手を交わし、
「こんにちは」
「・・・ご、ご機嫌麗しゅう、女王陛下」
挨拶した。
たちまち周囲に、車内に居合わせた乗客一〇名ほどの環が出来た。
「女王陛下」
「女王陛下」
「はい、はいはい。さあ皆さん、座って、座って。少し皆さんの御話を聞かせて貰えませんか?」
「・・・もちろんです。はい! もちろんです」
ディネルース・アンダリエルが最初に会話を交わしたのは、煉瓦職工だというオーク族の牡であった。
「どうです? 皆さん。こんなご時世ですが、気力は充分ですか」
「はい!」
「配給券は届いていますか?」
「はい、女王陛下。今朝」
「それは良かった」
「皆さんも?」
「はい」
「良かった。地区自警団は機能していますか?」
「はい!」
「女王陛下! うちの息子は海軍で、空母グスタフ・ファルケンハインに乗っております」
「まあ、それは大変。うちのひとは、ああ見えて私や回りを困らせてばかりでしたから」
失笑。
「どうです皆さん。正直なところを聞かせて下さい。政府や軍を信じて、ついてきてくれますか?」
「はい! もちろんです!」
「もちろんです!」
同日。ログレス時間一七時。
連日繰り広げられているキャメロット政府閣議では、偵察機情報によってユーゴスラヴァに新たなミサイル基地が発見されたことが報告された。
しかも、だ。
「新たに見つかったのは、R一四中距離ミサイルです。既に九つの発射台が完成しており、射程も搭載可能量も、R一二準中距離ミサイルとは比較にならない」
「つまり?」
「星欧大陸の全てに加え、キャメロット全土も射程に入っているということです」
しかも最初に発見されたミサイル基地では発射準備が急速に進んでいることが分かり、また秘密諜報部は他に三つの準中距離弾道ミサイル基地が存在することを割り出していた。それぞれに据えられた発射台は八基―――
キャメロット首相マクラーレンは、臓腑に響くような重い衝撃を受けていた。
彼はこの夜、キャメロット海軍地裂海艦隊に依る海上封鎖の開始を告げる宣言を、全世界に向けて発することになっていたが、早くも海上封鎖の効果に不安を覚え始めていたのである。
彼は自らの執務室に籠ったあと、封鎖宣言とは全く別の演説原稿に目を通している。
「―――国民の皆さん。世界の皆さん。心は重いのですが、私はユーゴスラヴァからミサイルを取り除くため軍事行動を決断しました。空軍は既に実行に移りました」
それは、全面空爆を選択した場合の演説草稿であった。
国家が―――ましてや世界の半分を采配する覇権国家が、何か一つの選択肢に頼り切るということはない。常に別の可能性も検討されている。
マクラーレンには、例え今すぐにでも、あるいは海上封鎖宣言の発信後にも、直接的な軍事行動に入る選択肢が用意されていた。
そしてそれは、自国を守る結果に繋がると彼と彼の周囲が判断したのならば、いつでも果敢に、迷いなく、成さねばならぬことなのである。
同じころ―――
ユーゴスラヴァ。ザフムリェ地方の県都モスタリ郊外。
キャメロットに発見された最初の準中距離ミサイル基地では、ロヴァルナ連邦の戦略ロケット軍第七九ミサイル連隊が、全ての設営作業を終え、ユーゴスラヴァに送られた連邦ミサイル部隊のなかで初めて、戦闘可能態勢を整えていた。
苦難に及ぶ準備作業の連続であったといってよい。
ロヴァルナ連邦指導者ニキータ・フルシチョーリフが、一体いつユーゴスラヴァへの核ミサイル配備を決断したのかは、はっきりしない。少なくとも、この年の四月から五月ごろであったらしい。
第七九ミサイル連隊に出動命令が下ったのは、八月のことである。
連隊が衛戍していたのは、ロヴァルナの西部だ。
ミサイル、その運搬車両、ブルドーザーやクレーンといった建設車両、兵営用のプレハブ小屋などを送り出すだけで八月の大半は潰れた。
その合計重量は、約一万一〇〇〇トン。
「演習かと思っていた」
「家族でさえ連絡を取ることは許されなかった」
部隊は徹底した情報管制下、まずは鉄海沿岸へ一九本の特別列車で到着。タリウス半島の港湾都市ヘルソスポリで五隻の貨物船と一隻の客船へ積み込まれている。
しかも彼らの動きは、もっとずっと規模の大きな、ユーゴスラヴァ派遣部隊のほんの一部に過ぎなかったのである。
ロヴァルナ連邦軍は、ユーゴスラヴァ軍事援助のために実に八五隻もの船舶を用意した。
戦略ミサイル連隊は五個。
そのうち三個連隊が準中距離弾道ミサイル装備で、残り二個が中距離弾道ミサイル連隊だった。
他にミサイル連隊を警護する自動車化狙撃兵連隊が四個、空軍の巡航ミサイル連隊が二個、ラグ二一戦闘機連隊一個、アリューシャン二八軽爆撃機連隊二個、ヘリコプター連隊一個。陸軍の対空師団二個―――
合計で五万名の兵士と、二三万トンの軍需物資だ。
船舶輸送は、苦難に満ちたものだった。
戦術核ミサイルの運搬には一万八二五トンの木材輸送船が使われたが、これは同船が船種ゆえに貨物船としても大きな船倉を持っていたためである。
それでもR一二ミサイルの、鉛筆のようなシルエットの長大な弾道体は収まらず、「斜めに立てかける」ように積み込まれた。
タリウスの港湾では、兵士の一部は故意に冬季装備を携えた。キャメロットのスパイが潜り込んでいた場合、北方へ向かうと誤解させるためだ。
真夏の船倉内は蒸し暑く、換気も十分ではなかった。船内の気温は四〇度を超え、湿度は九〇パーセントに達している。
マルマリア海峡及びダルダニア海峡の通過時や、他国艦船と遭遇したときには、船倉のハッチ全てを閉め、兵士たちは息を潜め、発覚の危険が去ってから僅かな隙間を作って新鮮な空気を求めるといった具合だった。
大陸国ロヴァルナの兵士たちである。航海中、彼らは船酔いに苦しみ、体重は平均して五キログラム減ってしまった。目的地ユーゴスラヴァに到着してからも、約三割の者が二日から三日ほどは作業に従事できないほど衰弱した―――
そのような果てに整えられた、ミサイルの発射態勢だ。
「キャメロット人たちが俺たちの全貌を知ったら、震えあがることになるだろう」
同連隊で青年同盟の指導役を務めるアレクサンドル・ニコライエフは、そんな冗談を仲間たちと述べあった。
彼らの心の拠り所は、ロヴァルナから持ち込まれた、祖国の大地の土だ。
これを盛り土のようにして兵舎近くに置き、見栄えを重視して長い旗竿を用意して、祖国の赤旗を立てた。
―――この夜。
ロヴァルナ首都マスクワではフルシチョーリフ首相が、ボリショイ劇場でオペラを鑑賞していた。
周囲に余裕を示すための、この男一級のパフォーマンスである。
演目は首相の好む「ボリス・ゴドノフ」だ。
「流れよ苦き涙。泣け神の子らよ。やがて敵が来て、いまよりもなお暗い真の暗黒がやってくる」
皮肉なことにこれを演じていたのは、以前から予定されていたキャメロット王立演劇場の訪問団であった。
訪問団にはキャメロットの経済団体も加わっていて、フルシチョーリフはそのうちの一人、実業家ウィリアム・ノックスと密かな会合を持った。
キャメロット政府へのメッセージを伝えるためである。
「私には封鎖に従う意思も、ユーゴスラヴァのミサイルを撤去する意思もない。ロヴァルナ連邦船舶が捜索を受ければ、それは重大な結果を招くだろう。そんなことになれば私は我が海軍の潜水艦にキャメロット艦艇の撃沈を命じるだろう。北海など、他方面でも同様であり、キャメロットに従う所謂西側諸国の艦艇も例外ではない―――」
首相は強い口調で告げた。
そうして付け加えた。
「キャメロットがどうしても戦争をというのであれば。地獄で会おう」
(続)
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