随想録32 海道⑤

 星暦八八〇年六月四日。

 オルクセン国軍参謀本部参謀総長カール・ヘルムート・ゼーベック上級大将は、ベレリアンド半島を訪問していた。

 本国からは、既にオルクセン規格への改修もほぼ完全に終わったアルトカレ線を利用している。

 旅程の途上、モーリアで下車し、シルヴァン運河の建設予定地を視察した。

 この旧ドワーフ領首都には、運河建設計画のための特別線専用駅舎が設けられていて、同地で乗り換えた格好である。

 モーリアは、市域を倍にするほどの規模で拡張されつつあった。

 常設のものは市のシルヴァン川を挟んだ北側、仮設のものは南側郊外の地という基本的な区画の整理が成されたうえで、機械修理工場が三つ、水力発電所が一つ、訪問者のための真新しい大型ホテルがひとつ。

 現地業者なのだろうか、ちょっと眼つきの鋭い白エルフ族が出入りしているところを、あるいは資材置き場や建築現場で働く白エルフ族労務者などを見たゼーベックは、計画通り旧エルフィンドへも経済効果が及んでいるのなら、結構なことだと感心した。

 彼女たちの手により、技師の官舎、交流クラブ、通称「工事村」と呼ばれる労務者用宿舎なども急速に形作られている。

 労務者用宿舎は、ゼーベックには少しばかり興味深かった。こう言っては何だが、俘虜収容所や占領地用兵舎と似ていたからである。どうも、図面や構造を流用したらしい。

 モーリアからの出発便には奇数の、到着便には偶数の列車番号が割り振られており、彼が乗り込んだのは午前一〇時二〇分発五号列車だ。

 あまり大きな列車ではない。

 軌道七五〇ミリの、いわゆる軽便鉄道だ。

 土曜午前と日曜を除く毎朝六時半ごろになると、モーリアやアーンバンドに築かれた「工事村」から労務者の出勤が始まり、この工事用鉄道がほぼ三〇分に一度発着する。

 これは、信じられないほどの運行管理精度だ。

 工事区間のあちこちで、本線から伸びた仮設軌道は進捗に合わせて敷設され、撤去され、また敷設されといった仮設を繰り返していることを思うなら、尚更のことである。

 ダイヤグラム、通標、信号といったオルクセン式鉄道管理に加え、上下それぞれ専用の工事計画用軌道本線を据えている効果が大きい。

 軽便鉄道は労務者や技師たちを運ぶだけではなく、計画に必要な物資や器材を運び、工事により排出された土砂も運ぶ。

 信じられないことだが、国有鉄道社の者たちはこの大工事を実現させるために、一〇〇両の機関車と、三〇〇〇両に及ぶ土砂運搬用トロッコ、貨車などを持ち込んでいた。

 副官三名を連れたゼーベックが向かったのは、モーリアから東に約一〇キロ。

「・・・・・・」

 すぐに視界に入ってきた稜線に、やがて現れた黒々とした樹々に、そして到着した目的地であるV字型を描く大渓谷に、思わぬところが無いといえば嘘になる。

 ―――ロザリンド渓谷。

 約一二〇年前、ゼーベックもまた、この古戦場にいた。

 当時は先王のもとで、いまで言うところの兵站総監のような役割を務めていたのだ。

 そのころの制度では彼の隷下にあった、野戦医療体制に属していた一介の少年兵が、現王グスタフ。当時としては希少な魔術療術兵だった。

 多くの将星やその配下将兵たちが喪われていくなか、前線でひとり気を吐いたのが、いまも無二の盟友であるアロイジウス・シュヴェーリン。

 僅かな生き残りが、現モナート軍司令官テオドール・ホルツ、内務大臣のボーニン、陸軍大臣のローン、いまは西部にいるコンラート・ラング、第一師団長ミヒャエル・ツヴェティケンなどである。

 ベレリアンド戦争までは、もうひとり生き残りがいた。

 ロザリンド会戦では、ちょっとした理由から前哨戦段階で先王の不興を買い、後方に控えていた、アウグスト・ツィーテン。

 ―――ツィーテン。

 あの古強者は、愛すべき頑固者は、ゼーベックにとっても友だった牡は、もういない。

 ゼーベックには、それが残念でならない。

 不幸な、誰にも抗えぬ事故だったとはいえ、あいつが生きていてくれたなら。

 戦後著しいオルクセンの発展に、儂にはついていけぬなどと戸惑いつつも、きっと誰よりも喜んだことだろう。

 少しばかり、歴史も変わっていたかもしれない。

 グスタフの最側近である彼は、いま盟友アロイジウス・シュヴェーリンが務めているベレリアンド半島占領軍総司令官職が、本当は亡きツィーテンのために用意されたものであったことを知っている。

 ネニングの冬営戦をやっているころ、王から、そのような構想を漏らされたことがあったのだ。

 直後、ツィーテンは陣中に没し、王の腹積もりは秘されたまま変更されたわけであるが―――

 オルクセンという国家にとって「後方」にあたるベレリアンド半島を、寡黙だが着実に任務を果たすツィーテンに任せ、周辺国への防衛という「前線」をシュヴェーリンに委ねる。

 グスタフ王の初期構想が実現されていれば、確かに歴史の機微はいま少し現在のものとは変わっていたかもしれない。

 ゼーベックは、ロザリンド渓谷西側の丘のひとつに作られた、シルヴァン運河協会の工事区画監督事務所に到着した。

 協会本部長のオットー・ベンシェ教授、協会本部側の工区監督である陸軍工兵科の少佐、工区での実作業を請け負う施工会社の責任者などが出迎えてくれた。

「これは・・・」

 彼らの案内を受け、現場事務所の丘からロザリンド渓谷全体を見渡したときには、流石に目を瞠った。

 南北両側から、切り立つようにそびえ立った渓谷の断崖。そのV字型の底部では既に大きな面積で堆積土が掘削されており、七本もの仮設軽便軌道が走っている。

 無数にも思える労務者。この区間だけで、約三二〇〇名が従事していた。

 盛大に煙を吐き、常に往来している、大編成の工事用鉄道車両。土砂排出用のトロッコだけではない。ショベルや蒸気式発動機に給炭するための、石炭輸送列車の姿も見える。

 怪物の如き唸りをあげる、スチーム・ショベル。二〇台近くいた。

 何よりもゼーベックの耳に悲鳴を上げさせたのは、現段階で二〇〇基以上が連日稼働しているという空気圧搾式削岩機である。斜面や、底部に張り付いた作業員がこの削岩機を使って、大地に数知れぬ穿孔を施し、発破の準備を進めている。

 全長約一五キロメートル。

 かつての古戦場にして、中央分水嶺迂回路にとって最大の難所とされているロザリンド渓谷は、科学と文明、技術、そして無数の汗と努力に依って、「図面通りの渓谷」に作り替えらえようとしていた。

 ゼーベックは、約一二〇年前、この場所を防禦地に選んだ白エルフ族たちに対し率直に感服していた。

 防禦に適した緊要地形であるだけあって、ロザリンドは「狭い」のだ。

「計画ではこの渓谷に、底部幅で約九〇メートルの中央分水嶺迂回路を通すわけです」

 ベンシェ教授が計画図面を示しながら、告げた。

 弱ったことに、ロザリンド渓谷は他の計画地域より標高がある。

 この標高分を掘り取ってしまい、ここから先の迂回路部分と同じ高さにし、更にはその底部を拡幅するわけである。底部幅を確保するためには、狭まったような地形になっている南北両側の山脈も削ることになるわけだ。

 しかもこの場所には巨大な鉄製閘門を築くことになっていたから、その部分はうんと深く掘る。閘門には大量の導水管やバルブ、揚水機、管理施設等も必要になるため、その敷地面積も確保しなければならない―――

「施工の要となっているのは、爆薬と機械力です。渓谷斜面にも、また底部となる予定地も、穿孔を施して発破。そうやって崩したところへ、スチーム・ショベルを投入。掘削し、工事用鉄道で排出しています」

 現に。

 ゼーベックはこの日、北側斜面―――つまりツェーンジーク山脈側にあった巨大な一枚岩が発破される光景を見た。

 五〇以上の穿孔が施され、なんと二二トンもの爆薬が仕掛けられて、人力式のサイレンが鳴り、作業員及び機材が避退すると、世の全てを吹き飛ばしてしまうように思えたほどの発破音が渓谷中に響き渡り、大斜面がガラガラと音を立てて崩壊した。

 科学により引き起こされた、神ならざる者の手による地滑りだ。

 発破は、ちょうどゼーベックが運河関係者たちと昼食を摂っている最中に行われたのだが、彼の座った椅子が衝撃に飛び上がったほどである。

 当然ながら、こんな手法を採っているから工事用鉄道軌道などは、頻繁に付け替えられる―――

「いったい、運河計画全体では、どれほどの火薬が必要になるのだ?」

 ゼーベックは尋ねずにはいられなかった。

「そうですな―――」

 ベンシェ教授は、首を傾げる仕草でちょっと考え込み、答える。

「あくまで概算になりますが。約三万トンといったところでしょうか」

「三万トン・・・」

 戦争でもやる気かと、唖然とした。

 既に、西のノグロスト港には続々と運河計画用の輸送船が到着しており、その中には火薬輸送専門の船などというものもいる。

 その大型船は、たった一隻で四五〇〇トンもの工事用爆薬を積んでいた。一箱当たり装薬二五キログラムとなる厚紙被覆筒型発破薬二五〇本入り木箱で、一八万箱だ。

 これは港の専用倉庫に収められ、引き込み線を使って火薬輸送列車に積み込まれ、各工区へと運ばれ、コンクリート製の火薬庫に保管されるわけである。

「ノグロスト線は既存の鉄道線を使っているわけだろう? そんな危険な積み替えを何度もやっているのか?」

「ご心配なく、閣下。三本軌条と呼ばれる方法を使っていて、工事鉄道線は直接乗り入れられるようにしています」

 既存のオルクセン規格軌道の内側に、もう一本、レールを敷く。このレールと片側のレールが軽便鉄道線の間隔と同じで、つまり工事用鉄道線と在来鉄道線の境界にあたるモーリアでは、面倒な積み替えや乗り換えを要さない。

 この仕組みは排出土の運搬などにも利用されていて、ノグロスト港の拡張工事や、エレッセア島で計画中の港湾工事における排出土再利用、そして洋上投棄をやりやすくしている―――

「・・・見事なものだな」

 ゼーベックは頷いた。

 彼は、自ら希望し、このロザリンド渓谷から「土産」を持ち帰っている。

 そうしてそれを携え、ベレリアンド半島の視察行へと戻った。

 この日はアルトリアで一泊し、翌五日になってティリオンの半島占領軍総司令部に盟友アロイジウス・シュヴェーリンを訪ねた。

「おお、おお。まだくたばっておらなんだか、ゼーベック」

「どやかましいわ・・・ 元気そうで何より」

「うん、お主もな」

 久方ぶりの再会ではあったが、オルクセン屈指の闘将の様子は相変わらずであった。

 シュヴェーリンは、ゼーベックの来訪目的を知っていた。

 公式には半島占領軍の視察だが、実際にはティリオンを中心とした旧エルフィンドの治安状況を直接確かめに来たのだ。

 この夏、グスタフ王は旧エルフィンド各地を行幸するつもりでいる。

 かつてグスタフ自らが述べた構想通り、エレントリ館に滞在し、諸都市も訪れ、もはや残り四個師団のみとなった占領軍や、予備隊の視察などもやり、エルフィンド併合への空気を社会へと醸成する役割を果たす腹積もりなのである。

「治安は、良さそうだな?」

「ああ。予備隊の発足以来、急速に改善された。もう、野盗の類もおらん。海上部隊も良くやっておる。エルフィンド警察もな」

「・・・そうか」

「物流も、物資の不足も。驚くほど改善された。市井の末端に至るまでの治安の回復は、これに合わせてのものだ。儂自ら、確かめもした」

 元帥は、にやりと笑う。

「嫌な顔をしやがる。何をやった?」

「なに。散歩のついでに、そこらの、占領軍向けを謳う床屋に入ってみただけだ。剃刀を使わせた」

「大胆な事を・・・」

 頸動脈でも切られたらどうする、そんな真似だった。

 だが、これほどの安心材料もない。

「うむ。ならば帰る」

「もう帰るのか?」

 連れない奴だ、いま少し話でもしていけ、陛下の御様子はどうだとでもいった顔を、シュヴェーリンは浮かべる。

「直接伺え」

「せめて、少しばかりはいいじゃろ?」

「・・・ご夫婦仲は良好。ちかごろはアドヴィンに子が出来て大喜びされておる」

「そうか」

 元帥は、ただそれだけでも嬉しそうだった。

 世にこれほどの慶事は無いというほどの、まるで子供のような顔をする。

 ゼーベックは友の内心を慮ってやり、王が相変わらず多忙を極めておられること、とくにキャメロットで起こったビーコンズフィールド首相の下野と、気質の合わない野党指導者の復権には手を焼かれておられることなどには、まるで触れなかった。

「ああ、帰る前に土産を渡しておこう」

「なんじゃ? ワインか」

「残念ながら、違う」

 微苦笑するゼーベックが取り出したのは、布に包まれた花崗岩だった。

 少しばかり大きさがあり、レンガほどのサイズだったが、どうということのない石ころに見えた。

 呆気にとられる友を前に、正体を告げる。

「ロザリンド渓谷の、一二〇年前にエルフィンドの連中が築いた胸壁の石材だ。もう、私が帰るころには残りは跡形も無くなっているだろう。私も一つ持ち帰る。葡萄畑の、石垣にでもさせてもらうつもりだ」

「・・・そうか」

 シュヴェーリンは、しばしそれを見つめたあと、無言で表面を撫でた。慈しむようですらあった。

 そうして、本人にしてみれば感謝代わりの言葉を述べた。

「惜しむべからざるかな、国家の手入れ。この庭の如く―――じゃな」

「うむ」



 シルヴァン運河計画にとって、周囲から最も注目を浴びた場所はロザリンド渓谷だった。

 なにしろ、オーク族にとって「忘れがたき地」である。

 運河協会は、「運河週報」と呼ばれる刊行物を出していた。いまで言うところの広報誌の一種だったが、週刊報道紙も珍しくなかった当時としては新聞という扱いだった。

 計画の進捗を記事にしており、精緻な木版画をふんだんに使って誰からも分かりやすくし、誇張や個人崇拝を慎重に排し、事実を正確に伝えた内容である。

 この種の活動に秀でたアドルフ・ルーディング教授が熱心に発行を勧め、協会長オットー・ベンシェ教授もまた必要性を認めた結果、協会広報部の手に依り出版、販売されることになった。

 この運河週報は、実に良く売れ、国王グスタフなども購読していたが―――

 なかでも一番受けの良かった記事が、ロザリンド渓谷に関するものだ。

 ひとびとは、新しい号が出るたびに、特集記事のなかで形を変えていく渓谷の姿へと、熱狂した。

「ロザリンドという地そのものが、国威発揚著しいオルクセンの“敵”になり、“戦争”をやっているように思えた」

 というのは、当時を振り返ったオーク族作家パウル・バウマーの言葉だ。

 無理もない。

 ロザリンドの「大掘削」はその後七年に及んだし、最盛期には同工区だけで六八台のスチーム・ショベル、三〇〇台の空気圧搾式削岩機が稼働し、約六〇〇〇名の作業員が従事、一日一六〇本の工事用列車が発着、七四〇〇万立方メートルの土砂が排出されたほどの規模だったからだ。

 だが―――

 この時期、シルヴァン川運河計画全体のなかで、最大の苦労を味わっていたのは第五工区であったと言える。

 つまり、フヴェルゲルミア・ダム本体工事とグロスシュタット・トンネル迎え掘りを担当していたアデナウアー社の持ち場である。

 元より、同工区の環境は過酷であった。シルヴァン川の大渓谷をオルクセン側と旧エルフィンド側で挟んで、ろくな足場もない。

 現場への往来は、オルクセン側から全長一六・六キロ、幅僅かに五〇センチという歩道を通うしかないのだ。現地には前進基地を置ける開豁地はなく、現場事務所はエルフィンド側ヘレイム山脈ヤーマルスクの尾根の下に、ほんの少しばかり存在した棚状地に置かれた。

 星暦八七九年に「第一陣」として現地入りした者たちは、まずこの工事用歩道を造り、ヤーマルスク側との空中索道を据え、続いて細く小さな吊り橋を架けるという、たいへんな苦労をやっている。

 膨大な物資は、作業員たち自らか、オルクセン全土から集められた山岳地の歩荷ぼっかたちが背に負って運んだ。現地雇用の、ダークエルフ族も幾らか。

「フヴェルゲルミアには怪我はない」

 などと言われ始めたのは、もうこのころからの事だったらしい。

 これは、いささか穿った表現である。

 安全な現場、というような意味ではない。

 こんな、登山者さえ寄り付かない、住民の姿すら見られないような僻地である。一〇〇〇メートル級の山岳の連なりでもあるから、転落、滑落すれば「それまで」。オーク族の巨体なら、もうたった一名だけで幅一杯の歩道は断崖を縫うように手掘りで作られたし、開通してからも転落防止のための索一つない。

 そんな場所を、分解した蒸気式発動機、コンプレッサー、削岩機、鋤や円匙、ハンマーや鏨といった工具ひとつ、食糧ひとつ、各自のテントまで担いで赴いたのだ。大きな器材は、現地で組み立てた。

 アデナウアー社は、募集労務者も含めて九六名を「第一陣」に送り込んだが、このうち一七名はその場で荷物を纏め、初日のうちに現場を去った。

「こんなところにいては、命が幾つあっても足らない」

 というのだ。

 これもまた、無理からぬ感情である。去った者たちを安易に責めることなど、世の誰にも出来はしない。

 早くも、前途の多難を思わせた。

 協会側の工区責任者ヴィルヘルム・フォルクナー少佐と、アデナウアー社の現場監督は嘆息したものだった。

 本格着工までは、準備工に明け暮れた。最初のうちはテントに寝泊まりである。

 そこで丸太小屋を造り、索道を渡して、吊り橋を架け、どうにかあのスペジュルの岩近くにあったコボルトの額ほどの棚状地に機材と資材の置き場を用意して―――という作業を、一日一日、蟻の群れが巣を作るようにして進めたのである。

 そうやって、星暦八八〇年五月一日の、あのトンネル迎え掘り初日を迎えた。

 どうしてこれほどの苦労をやり、迎え掘りなどやらなければならないのか。

 グロスシュタット側から掘るのならば、それに全てを任せてしまえば良いのではないか。

 ―――問題は、工期である。

 人跡未踏とも思えるフヴェルゲルミアにダムを造るには、まずトンネルを掘り、全機材及び資材で三〇〇万トンとも試算されていた、膨大な物資を搬入しなければならない。

 つまり、ダムは、トンネルを掘ってからでなければ造ることが出来ない。

 仮にグロスシュタット側からのみ、最新工法の先導坑式掘削で掘り進めれば、日進約三メートル。設計全長約一〇キロのトンネルを掘れば、最大で約三三三三日を要する。

 つまり、約九年が必要となる計算だ。

 そこからダムを造れば、一体何年かかるのか。

 ダムが完成しなければ、ここから導水する計画である運河も出来上がらない。

 ―――だから、迎え掘りをやる。

 例え遅々とした手作業であったのだとしても、掘れた分だけ工期を短縮できるのだ。

 山岳地においては厳しいものとなる冬季においてさえ、冬営をやり、工事は続行する―――

 フォルクナーは、毎日欠かさず現場に立ち会った。

 朝早くに起き、労務者たちと変わらぬ食事を摂り、しわだらけのツイードの上下を気にもせず。

 トンネル工の本格着工から四カ月経った九月ごろには、現場宿舎の生活も随分と改善されていた。作業班はトンネル工事と並行して、宿舎用敷地の拡張、建築も実施していたからだ。

 鶏も飼うようになった。パン焼き釜が出来て、ともかくも焼き上げたパンも食べられる。肉類は相変わらず、保存の効く塩漬け肉や燻製のヴルストに頼っていたが。

 朝食は、パン、ひとり当たり卵が二つ、焼いたベーコンかヴルストといった具合である。

 八月の頭には、全員を喜ばせた出来事もあった。

 本国から国軍大鷲軍団の大鷲四羽が飛来し、現場では貴重極まる存在だった火酒と生野菜とを届けてくれたのだ。

「全オルクセンは、諸君らと供にあり」

 国王グスタフ・ファルケンハインの、メッセージが添えられていた。大鷲軍団は、今後交代でモーリアに常駐し、諸物資のうち空中輸送可能なものを届けてもくれるという。

 労務者たちは歓声をあげ、早速この日の夕刻には、ひとり当たりは僅かな量であったものの、酒とサラダが振舞われた。

「やあ、フォルクナーさん」

 この日もまた、現場へ視察に赴いたフォルクナーに、アデナウアー社の現場監督が手を振った。

「切羽に、今日は何名だい?」

「鏡には三〇名ですね」

「うん」

 計画通りである。これほど過酷な環境で、怪我や病での欠員が無いことは驚異的であった。

 オーク族の、頑健さの成せる技とも言える。

 意外なことに、直営班の士気は高い。

 グスタフ王の勅語や、協会側の配慮及び手配りの結果だと言いたいところだが、そうではないことをフォルクナーは知っている。

 危険な作業である以上、労務者たちには相場の二倍という高額な日給が支払われていた。根本的には、この高額手当が現場の支えになっているのだ。

 手掘りを中心とした掘削推進量としては驚異的な、切り口から二四〇メートルというところまで到達していたのも、この点に依る部分が大きい。

 昼には、この日の発破が実施された。

「・・・・・・」

 ズリ出しにより運ばれた岩を手に取り、フォルクナーと現場監督は無言になった。

「・・・とうとう、出ましたな」

「ああ。完全にぶち当たったな」

 数日前から、既に傾向はあったのだ。

 掘り出された岩は、白く鈍く輝いている。

 ―――石英層だ。

 とてつもなく硬い。

 支保工をやらずに掘り進められるというメリットがあるほどであったが、これは同時に第五工区の手掘りを中心とした作業の、推進量を鈍化させることも意味していた。



 一方、第四工区。

 グロスシュタット・トンネル工事の大部分を担う、ヴェルクニッツ建設側では。

 一〇月上旬に、先導掘削工法により切り口から五〇〇メートル地点へ到達していた。

 直接施工班の作業員のなかから一際屈強な牡が進み出て、トンネルの先端、つまり切羽の部分で大ハンマーを振るう。

 ドン、ドン、ドン・・・

 重い反響が坑内に伝わる。

「どうだ?」

 出来得る限りの坑道燈が集められて確保された視界のなか、ルーディング教授が、周囲からは一体この小さな体の何処にこれほどの情熱が潜んでいるのだろうと思わせる、いつもの調子で尋ねた。

「こりゃあ、いいものですな」

 施工班現場主任のユーリウス・フェルゼンは、にやりと微笑み、請け合う。

 切羽の色は黒っぽい。ほんの微かに、白い縞模様がある。

 ―――片麻岩。

 これは正式には鉱物や元素組成による分類ではないものの、ツェーンジーク山脈の場合、かなり硬いものだった。

「・・・よし。やろう」

 教授が告げ、牡たちの手によって準備工が始められた。

 既にここまで延ばされていた簡易的な軽便鉄道の軌道が更に進められて、切羽の直前まで据えられる。

 この軌道の上に乗るかたちで―――

 予め、機械工たちが教授の指示のもと、ずっと後方で組み上げていた何か巨大な陰影が、規則的な調子でフェルゼンの吹き鳴らす金属笛の響きと共に、労務者たちに押されて、前進してきた。

 その姿は、奇妙というべきか、奇怪というべきか。

 それは、鉄骨で出来上がった一種櫓状の「台車」であるといえた。

 二層のデッキ構造になっている。そしてそのデッキの先端部に、六基ずつ、つまり合計一二基の削岩機と、これを操作する一二名の坑夫が乗っかっている。

 ルーディング教授は、自らが考案したこの仕組みを「巨大なるものギガント」と呼んでいた。

 ギガントは、切羽に辿り着くと一二基の削岩機で一斉に穿孔を始めた。

 他の労務者たちは、切り口に設けられた蒸気発動機とコンプレッサーから鉄管を通じて送り込まれた圧搾空気管を支えたり、削岩機の先端を導いてやる、加熱防止のため削岩ドリル先端から吹き出す水を送り込むといった、補助役を務める。

 つまり、一気に一二個の穿孔を施せる。

 直径四センチから五センチ。深さ約二メートル。

 第一段を掘り終えると、軸受けの部分で角度を変えることの出来る削岩機で、また別の孔を。

 一時間ほどかかって、約九〇個の穿孔を施した。

 そうして、火薬を仕掛ける。

 この間にギガントは、約五〇メートルほど後退させてある。

 作業員避退。

「いいな? 全員いるな?」

「異常なし!」

「教授、いますか?」

「いるよ、君に踏まれそうになっちゃいるが」

「ふふふ。では、点火!」

 発破。

 ガス抜きにしばし待ち構えたあと、

「よし、トロッコ前進!」

 ギガントは、一種の門型になっており、脚の部分をトロッコが潜り抜けることが出来るよう組まれている。

 そうやって切羽付近へと送ったトロッコと労務者とを使って、ズリ出しを施すわけだ。

 ―――全面掘削工法。

 ルーディング教授が考案した、まさしく世界初、かつ最新鋭のトンネル施工技術だ。

 当然ながら、従来の先導坑掘削よりも、遥かに大きな日当たり推進量を発揮できる。

 何しろ、先導坑に続いて頂設導坑を掘り、それを左右に広げて、次に下部を広げてというあの面倒な手順がまるで必要ない。

 おまけに、岩盤は固い。

 しばらくは支保工を後回しにしても、施工を続けられそうであった。

 懐中時計を眺めていた教授は、実に楽しそうに告げる。

「前進、穿孔、後退、発破、ガス抜きとズリ出し。この一工程が三時間。一工程辺り二メートル。こいつを三交代二四時間で繰り返せば。ふふふ、さてさて・・・」

 幾ら掘れるかな?


 

(続)  

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