随想録31 海道④

 エルフィク観光社会長アダウィアル・レマーリアンのもとに、その来客があったのは星暦八〇〇年がまだ三月を迎えたばかりのころだ。

 来客は同じ白エルフ族、出身も同じ北部の者である。

 ただし、レマーリアンがエルドイン州の生まれである一方、相手はアシリアンド州の産だという違いはあった。

「やあ、いらっしゃい」

「お邪魔するよ」

 客の名はカティエレン・タルヴェラ。

 白エルフ族には珍しく、逞しさがある。

 彼女たちの種族に多い金髪碧眼なのだが、骨太というか、肉付きがいいというべきか。声も低い質のもので、また立ち居振る舞いにも豪傑の匂いがあった。

 野卑というわけではないことを、既にレマーリアンはよく知っている。

 屋敷の者に、酒肴は整えさせてあった。

 数種類のチーズ、付け合わせにポテトグラタンをあしらったローストビーフ、蒸したザリガニ、コケモモのジャムを添えたジャガイモとミートボール。

 どれも北部の者の感覚としては、家庭料理の趣がある。ローストビーフに週末や来客用料理の、ザリガニに季節の贅沢を感じられる雰囲気があるくらいだ。

 酒は、古典アールブ語で言うところのアクヴァヴィト。

「おお、おお。馳走だな。ありがとう」

「なんの、なんの」

 気取らぬ仕度がむしろ嬉しそうな、まるで子供のような笑顔を見せるタルヴェラに、レマーリアンとしても頬が緩む。

 それなりに財を成している建設業者であるタルヴェラには、しかし、そんな無垢で、飾らぬ、人懐っこさがある。

 お互い、生まれは貧しい寒村だ。子供のころは、眼前の料理でさえ「贅沢」だった。

「このジャガイモのグラタンの、美味いこと、美味いこと」

「こう、新しいジャガイモを薄切りにさせて、な。潰したニンニクと、たっぷりとしたバターを使わせるのがコツなんだ」

「なるほど、なるほど」

 バター、バターね、とタルヴェラは言葉を反芻し、もう覚え込んでしまったようである。

 その様子が、やはりどこか魅力的である。

 ―――妙な出会いの友誼もあったものだ。

 と、レマーリアンは我ながら可笑しみを覚える。

 それが、これほど馬の合った付き合いになるとは。

 タルヴェラと初めて顔を合わせたのは、占領軍第八軍の軍律審判所だったのだ。まだレマーリアンが贈収賄事件の審判を受けている頃のことだ。隣の別審判で、官用地の払い下げに関するエルフィンド官吏への贈収賄容疑で訴追されていたのが、タルヴェラだった。

 そのときは名も知らぬ相手に、お互い大変だな、という程度の感想しかなかった。

 それが昨年出所したのち、産業界関連の会合の席で、とある仲介者のもと全くの偶然として再会した。

 ―――こいつ、何処かで。

 ―――ああ、あんたか。

 ともに、そんな調子であった。

 友誼は、そこから続いている。いまでは月に一度は互いの私邸を訪れ、気取らぬ会話と食事、酒を楽しんでいた。

 ただ、この日は少しばかり様子が違っていた。

 ふだんは豪傑風で快活なばかりであるタルヴェラに、憂慮の色が滲んでいる。何かに悩んでいる様子であった。

「どうした? 何かあったのか」

「うむ・・・」

 タルヴェラは迷った様子のあと、ひとつ相談に乗ってほしいと前置きし、口を開く。

「―――シルヴァン運河」

 あの巨大工事計画に参入しようかと思っている、というのだ。

 タルヴェラの営む建築会社は、ティリオンを始めとする公共工事でベレリアンド戦争後に急速に伸びた企業である。

 半島全土では、まず復興の需要があり、占領軍駐屯地における将校官舎や兵舎の建築があり、続いてオルクセン式上下水道の敷設や、電信線整備が急速に進められつつある。

 そのような中、自治政府及び占領軍総司令部関係に食い込んで業績を伸ばしたのが、タルヴェラの営む建築会社だ。

 当然というべきか、オルクセンの建設業者と繋がりも出来た。

 ―――シルヴァン運河計画に伴う需要に応えるため、モーリアに来ないか。

 そんな誘いを受けたらしい。

 いまや半島南部地域の旧ドワーフ領やダークエルフ族領域は、オルクセン北部メルトメア州に編入されていたが、受注する気があるなら必要な手続きは先方が取ってくれるという。

 運河建設計画は、土木工事だけをやるのではない。

 多くの技師用宿舎、兵営型労務者用宿舎、来訪者用のホテル、病院、交流施設など。実に様々な工事関連施設を作ることになっている。

「モーリア市は、規模を倍にするようなものだ」

「いい話じゃないか」

 レマーリアンは、そいつは良い、ぜひ受けるべきだ、と言った。

 しかし、

「うむ・・・」

 タルヴェラは、迷っている様子だった。

「どうした? 資金に不足でも? それなら私も幾らか協力できるが」

「いやぁ・・・」

 そいつはそいつで有難いが、そうじゃない、そうじゃないんだとタルヴェラは告げる。

「シルヴァンだぞ? 弄り回すようなものに参加して、同族たちはどう思うか・・・」

「なんだ、そんなことか」

 ―――シルヴァン川は、我らが聖地。

 何をいまさら、などとレマーリアンは思う。

 聖地が、国を守ってくれたか。

 農村を豊かになどしてくれたか。

 我らに金を稼がせてなどくれたか。

 それに、白エルフ族の受けた衝撃でいえば、終戦直後のオルクセン軍首都進駐や、エレントリ館接収のほうが余程凄まじいものだった。

「いまじゃ、大半の白エルフ族は“現実的”とやらになったよ。反対する奴は、そうはいまい」

 おまけに。

 シルヴァン運河協会は、旧エルフィンド領でも宣伝活動に努めていた。パンフレットを配り、講演活動をやり、報道機関に記事を書かせている。

 世論のうけも悪くない。

 復興。農地改革。予備隊発足による治安の回復。

 いまや白エルフ族でさえ―――己のような者でさえ、オルクセンの諸改革は正しいと思っている。

「オルクセン本土に負けぬよう半島全土を弄り回してやれ、こいつはお前さんの持論じゃないか。らしくないぞ」

「うむ―――」

 タルヴェラは、ようやく表情を明るくした。

 己たちの故郷は貧しかった。

 未だに同様の環境にある地域も珍しくない。

 タルヴェラは、アクヴァヴィトの杯を一気に煽り、飲み干した。

「邪魔な山脈なぞ全て取っ払って、北部まで往来を不自由なくする。掘った土は海に放り込んで、我らの土地を広げてやりゃいいんだ」

「そう、その意気だ」



 星暦八〇〇年五月一日のグロスシュタット・トンネル着工と同時に、運河本体工事も本格的に始まっていた。

 運河東部にあたる第一、西部の第二、そして中央分水嶺迂回路に相当する第三工区である。

 早くも五月中には、オルクセン全土で募集された一八〇〇名の労務者が到着。

 時給二〇レニ、最大労働時間一〇時間、二週間に一度の給金、清潔な宿舎とベッド、たっぷりとした食事、応募地から現地までの旅費は全て協会持ちという、当時としては破格の条件だった。

 これは、運河本体工事のどの工区に送り込まれようと、変わりはない。受注建設会社ではなく、協会本部直轄事業として労務者を集めるというのは、これは当初からの計画である。工区間で労務条件に不均衡が出ては、有利なものを提示した社へと片寄りが生じてしまうからである。

 まずはオルクセン国内に三ヶ所の募集事務所が作られ、力持ちのオーク族を中心に職工や労務者が集まった。

 極初期には、なにしろ僻地での大工事であったので、彼らには苦労も多かったというのが正直なところだ。

 立派なものであると記載されていた宿舎は粗末であり、運び込まれたベッドの数は足りず、大部屋に一〇名、一五名と雑魚寝をする有り様だった。

 食事もバターやニシンの缶詰、燻製ヴルストなどに頼らざるを得なかった。とくに新鮮な野菜の不足は深刻で、

「なんだ、なんだ! 大嘘じゃないか!」

 労務者たちの不平不満を招いている。

 だが―――

 計画統括者であるオットー・ベンシェ教授の打つ手は早かった。

 このような事態を放置すれば、あっという間に噂は広まり、最大で一万五〇〇〇名が計画されている次なる労務者など集まるものも集まらなくなる。

 土木工学の泰斗であり、同時に当代一級の技術者で、かつオルクセン国内で過去に行われた首都改造計画や北部鉄道線増設及び複線化、アルブレヒト大鉄橋建設工事などの大規模計画の数々に携わっていた教授は、プランナーとしての才を発揮するだけに十分な経験を有していたのだ。

 アーンバンド西方郊外に自らもまた粗末な事務所を築いた彼の手元には、臨時支出用の直轄費三八〇〇ラングがあり、モーリアとの間に敷設された工事用狭軌鉄道に飛び乗ってあちこちを飛び回り、労務者たちの不満を解消するための策を取っていった。

 オルクセン全土から、続々と資材が届き始めた。

 木造兵営の設計を流用した、労務者用宿舎の建築資材。これが真っ先に到着して、その膨大さと言ったらなかった。扉で二万個、同じ数だけの蝶番、無数の大小木材といった具合である。

 そうして各工区の元請施工会社や、協会手配の建築会社の尻を叩き、各地に一個所当たり最大で五〇〇名を収容できる労務者用宿舎を建てた。

 宿舎が完成すると、モーリアとアーンバンド間の工事用鉄道が毎日往復するようになり、簡易ベッドやシーツ、家具、食材や新たに雇用された料理人たちが続々と到着した。

 総延長一八〇キロメートル分の電信線用電纜、三万六〇〇〇本の電信柱による専用電信線資材も届き始めた。

 各工区の相互連絡、協会本部との通信の為である。

 これが整わぬうちは、コボルト族、現地雇用のダークエルフ族、白エルフ族の魔術通信係を真っ先に配し、各地からの要望連絡を手元に集めるという微に入り細を穿つ配慮までしている。

 魔術通信係もまた、鉄道に乗り赴いたことは言うまでもない。

 モーリアとアーンバンド間は、約二時間で移動できるようになっていた。

「鉄道。要は鉄道なのだ」

 彼が全体計画のなかにオルクセン国有鉄道社直轄事業として第七及び第八工区を設け、この年の頭から真っ先にこれを敷設させた理由はここにある。

 シルヴァン運河計画を成功させるためには、何よりも鉄道による輸送力が必要であり、「生命線」だと看做していたわけだ。

 そうして、まずは測量士や製図士といった協会直轄技師及び施工企業関連者、それに何よりも労務者関連設備を整えていった。

 工区用駅舎、資材置き場、技師用宿舎、労務者宿舎、簡素だが専用の病院、交流娯楽施設、酒保及び売店、来賓用ホテル。なんと新鮮な野菜や牛乳、畜肉を供給するための、大規模農場まで作られた。

 そういった施設は一つの工区毎に寄り集まっており、まるで新たな街が一から、ただし急速に建てられていくようなものだった。

 おまけに実にオルクセンらしく、清潔で整理整頓された街を造ろうとした。専用の上下水道、ラザフォード式舗装道、金属缶使用による廃棄塵芥置き場。

 取材に訪れたとある外国人記者など、

「なんだこれは・・・ 運河を掘るのではなかったのか? 街を作るのか?」

 驚きと困惑の声を漏らしたほどである。 

 労務者用宿舎の簡易ベッド一つ、シーツ一枚、鏡に至るまで用意が整った七月ごろには、運河本体工事で三五〇〇名の労務者が従事するようになっていた。「街」の整備拡張と連動するようにして、数を増やしていったのである。

 そうして、本体工事に取り掛かった。

 円匙や、十字鋤を携えた労務者たちが、大地を掘り、土砂を荷馬車へと乗せ、そして指示されるままに簡易軽便鉄道を敷設する。

 彼らを奇妙がらせたのは、あまり深く掘る必要はないと命じられたことだ。

 どちらかといえば、周辺地の起伏の均すような作業内容である。

 彼らのずっと後方では、本国からやってきた技術者たちが何か大きなものを組立て始めていた。

「なんだ、ありゃあ・・・」

 軽便機関車に押される格好でやってきたに、多くの労務者たちは仰天した。

 軌道に乗っかった台車の上に、まるで小屋が乗っているような格好である。

 それ自体からも煙突が突き出ていて、蒸気で動くようだ。

 何よりも最大の特徴は、車体から突き出た、まるで鉄製の巨大な「腕」の如き代物。先端には、やはり鉄製の爪状のものを備えた、大きなバケツのような器具を備えている。

 それは専用の教育を受けた操縦者が乗り込むと、蒸気機関の唸りと、盛大な排煙を上げ、旋回し、先端部分を大地へと突きたて、掻き揚げるようにして土砂を掘削しはじめた。

 ―――スチーム・ショベル。

 ずっと後年、バックホウなどと呼ばれることになる土木重機の原型にあたる存在だった。

 ただし当時はまだ内燃機関も無限軌道も発明されておらず、簡易的に敷設された軌条のうえでの移動に限定されていて、旋回も全周はやれず、駆動も油圧ではなくワイヤーを用いていた。

 掘削のやり方も後に主流となる、操縦者から見て上から手前へと掻き掘るかたちとは違って、その逆に手前から上へと持ち上げる形式だ。つまりバケツのような部分―――バケットも爪と口が空を向く格好で備えられている。

 シルヴァン運河工事に投入されたのは、最新のモアビト・キルヒ社製三〇トン型スチーム・ショベル。このころとしては、ほぼ最大のものである。これが一二両。着工までに入札が行われ、協会が直接買い上げるかたちで調達された。

 オルクセンでは、初めて使用される機械というわけではなかった。これの小型で極初期のものは、五年ほど前から首都改造計画における上下水道敷設工事などに用いられている。

 スチーム・ショベルは、多くの労務者たちが茫然とするなか、バケットで約〇・三立方メートルの土砂を掘削し、側面まで旋回、後方から軽便軌条を続けてやってきたトロッコへと放り込んだ。バケットの底部がワイヤー操作によって開閉するようになっており、こんな真似がやれる。

 ただこれ一度でも、腕力による円匙掘削と比べれば、驚異的な作業量である。

 オークたちの馬鹿力と頭数を使えば、凌駕することは出来るだろう。

 だが、機械は疲れない。

 故障の可能性は無論あるが、長時間継続して、この量の掘削を続けることが可能だ。

 ―――機械土工。

 シルヴァン運河工事は、これを大規模に投入した、極初期のものになった。

「ふふふ、ふ」

 作業を見守っていたベンシェには、楽しくて仕方がない。

 彼は、最新の機械力を集中して投入することで、約一〇年と見込まれている工事期間を短縮できるのではないかと考えている。

 九年に縮まることは確実なはずだ。

 そこを、約八年でやれないかと思っている。

 と、ルーディング教授などが当今の土木技術を称する言葉には、理由の無いことではないのだ。ベンシェはこの点に関して言えば、必ずしも性格的にはしっくり来ているとは言い難い同僚の思想に、全く同意していた。

 ただし―――

 ベンシェが本当に熱い眼差しを送っているのは、スチーム・ショベルそのものよりも、実はその相棒のような立場にあるトロッコのほうである。

 機械力に依る掘削は、確かに力強い。

 周囲に瞠目を覚えさせるほどの実態効果もある。

 だが、掘削とは土木工事におけるほんの一部分に過ぎない。

 本当に重要なのは、掘ったことによって不要になった土砂―――これを残土などというが、この残土を、どのように処理するか、なのだ。

 適切に、迅速に処分しなければ、ただただ盛り上がった残土がその場に出来上がるだけでなる。やがて人力であろうが機械であろうが掘れなくなってしまう。

 だからこそ、ベンシェは工事用鉄道を敷設した。

 この路線は、将来的には運河の両岸となる部分に線路を走らせる格好になっている。そして掘り進めていく運河の「底」にあたる部分に、簡易で仮設の軌条を敷き、これと連結させるのだ。

 そうやって二〇両や三〇両と大編成にしたトロッコを使って残土を運び、運河建設予定地の東西部分、つまりシルヴァン川河口へ大量輸送する。

 そして、河口部に建設される予定の運河港湾における埋立工事に利用するのだ。

 一部は、運河両岸の築堤や閘門の建設にも使う。

 本当にどうにもならない残土については、東西の河口から艀に載せ曳船に曳かせて運搬、航路に影響のない海上に投棄する。

 この「残土運搬列車」は、始終各工区を行き交うことになる。

 だからこその鉄道。

 そのための複線。

 そして、この大事業を八年で竣工させるための、本当の秘訣。

「うむ、いいぞ。とてもいい」

 ベンシェは、本体工事トロッコ輸送における第一便の出発を、満足気に見守った。



 グロスシュタット・トンネル工事の大部分を担当することになる第四工区の本格着手も、五月一日のことである。

 この日までに、同地でも「街」の造営と、工事用鉄道との連結を主とした作業用連絡路の開進作業が行われていた。

 トンネル工事の協会側統括者はルーディング教授であり、施工担当は同種工事の施工実績を豊富に持つヴェルクニッツ建設である。

 運河本体工事と比べると、「少数精鋭」で始められたと言っていい。

 何しろ特殊な技術を要するので、労務者たちもヴェルクニッツ建設の施工班が常に雇っている者たちや、直接集めた者たちばかりだったのである。

「これほど立派な現場宿舎は見たことがない・・・」

「どうせなら、娼館も作ってくれねぇかな」

「へへ。休みに、アーンバンドへ行けよ。俺たちでも、モテるぜ」

「モーリアがいいな。白エルフ族が、ごまんといるぜ」

 彼らの給金は、運河本体工事の臨時労務者たちよりずっと高額だ。それほど危険な作業でもあるし、またその為に労務者たちの金離れはいい。

 運河計画の開始以来、好況を呈するようになったアーンバンドやモーリアの歓楽街へ行けば、確かにモテた。

 ありがたいことに、工事従事者の身分証明書さえ携えておけば、工事用連絡路線には無料で乗れる。休日に「本物の街」へと繰り出すのが、早くも何よりの楽しみであった―――

 工事用狭軌鉄道が山裾まで分岐、延伸されると、第四工区にもスチーム・ショベルが持ち込まれた。

 トンネル工事の山麗における着手箇所、これを「切り口」などと言うが、この部分は垂直でなければならない。まずはこの切り口を造るため、スチーム・ショベルや作業労務者の腕力を使って「道」を造るのである。

 土砂が掘り起こされ、排出され、幾らか存在した樹々が伐採され、運び出された。材木は工事に丸太なども使うので、専用の作業班がいて、現地利用の加工が施されるものもある。

 辺りに、土の匂いが満ち、また切り倒したばかりの樹木の生々しい香りが漂った。

 切り口を垂直にする作業には、スチーム・ショベルが活躍した。

 そうやって、直径約一〇メートルの切り口部分が、予定日であった四月末には出来上がった。

「さあ、始めようか」

 気負うでもなく、むしろ静かに作業の開始を告げたのは、ヴェルクニッツ建設施工班現場主任のユーリウス・フェルゼン。

 意外なことにまだ若い、精悍さよりも人懐っこさを感じさせるオーク族である。

 フェルゼンは、元々は炭鉱技師であった。

 比較的早い時期に、空気圧搾式削岩機を用いた掘削工法をオルクセンへと取り込み、活躍していたところを、ヴェルクニッツ建設の目に留まり、直轄施工班の長としてスカウトされた。

 社がグロスシュタット・トンネルの施工を受け持つことが決まったとき、当然にして必然、自然な流れのようにしてこの牡は、ヴェルクニッツ建設専務ヴァイデに呼び出しを受けた。

 フェルゼンはちょうど、ベレリアンド半島北部ラムダルにおける鉄道トンネル工事を終えたばかりのところだった。旧エルフィンド国鉄のオルクセン式軌道間隔への変更に伴い、幾つかの場所で必要性の生じていた新規トンネル工事の一つを受け持っていたのだ。

「・・・どうだ、やれるかい? こいつは、下手をすると運河計画全体のアキレス腱、我が社にとっても命取りになる」

「専務。この難工事をやれるのは、オルクセン広しといえども我が社のみ。そして施工担当となれば私の班以上の経験を持つところはありません。最初からその御積りで呼びされたことでしょう?」

「うむ」

 フェルゼンには、土木の現場施工関係者にありがちな荒くれだったところはまるでない。

 だが静かな闘志を燃やし、

「専務。私は、トンネルを掘るために生まれてきたような牡です。削岩機の筒先が、最後の鏡をぶち破る。その瞬間にこそ生きがいを感じております。こいつはきっと、うちでやらせて頂きます」

 そうやって、グロスシュタット・トンネルの現場へと赴いたのである―――

 施工班は、垂直に断ち切れられた花崗岩の中央、そのやや下部付近三メートル四方に、まずは穿孔を施した。

 例の、空気圧搾式削岩機の出番である。

 削岩機が持ち出されると、いよいよ本格的なトンネル工事が始まるのだという感慨が、皆を支配した。

 この日は、着工式を終えたあとのルーディング教授も現場視察にやってきた。

「おお、フェルゼン。いよいよやるか」

「やあ、教授。来ましたね」

 ふたりは、既に知己があった。

 工事の統括責任者と現場施工担当者という間柄に依るものだけではない。

 何しろ教授はダム工事のみならずトンネル掘削の専門家でもあり、最新施工技術の研究者でもあって、ヴェルクニッツ建設の社外顧問も務めていたのである。

 蒸気式の発動機が唸りを上げ、コンプレッサーが作動し、労務者たちが抱えるようにしっかりと保持した削岩機が穿孔を始めた。

 深さ二メートル。直径四センチから五センチ。

 これが多数穿たれた。

 そして、爆薬の詰め込み。

 手動式のサイレンが鳴り響いて、作業班は退避。発破器に電気式導火索の接続が行われ、

「教授。発破ボタンを押されますか?」

「いいよ、いいよ。これは君の現場だ。君がやってくれ」

「はい」

 第一回発破が行われた。

「おい、皆。ズリ出しだ」

「へい!」

 ズリ出しというのは、発破によって飛び散った岩砕を作業員たちが掻きだし、綺麗に取り除いてしまう工程を指す。

 このときは労務者たちが円匙を持ち、手押しのトロッコへと力任せに放り込む内容だった。

 そうやって、またトンネル掘削の先端部―――これを「切羽」であるとか「鏡」などと呼ぶが、この部分に穿孔をやり、爆薬を仕掛け、発破。ズリ出し、という工程を繰り返すのである。

 同日のうちにヴェルクニッツ建設フェルゼン班は、合計して二〇本以上の爆薬発破を行った。

 徐々に、あの直径三メートルの部分が深くなっていく。

 支保工たちが、鉄骨材と仮設板を用いた支保材の組立も始めた。支保工とは、呼んで字の如く「支え保つ作業」だ。掘削部分が崩れぬよう、つっかえ棒と天井を組み立てるのである。

 一〇メートルの全断面を持つトンネルに対し、中心付近下部三メートルの部分だけを掘り進めていくという光景は、事情を知らぬ者には奇妙にも思えるかもしれない。

 だがこの部分をまずは掘り進めていき、そうやって足場を確保すると、次に上部にもう一本同じような孔―――頂設導坑を掘る。

 この上部坑の左右を広げるようにして、また掘る。本格的な支保を入れる。

 次に最初に手をつけた孔をやはり左右下方向へと広げ、上部孔と繋げ、下部支保を組み立てやると―――

 直径一〇メートルの全断面が出来上がるというわけだ。

 ―――先導坑工法という。

 ここより約一〇年前、エトルリアのアルバス山脈鉄道トンネル大工事において、空気圧搾式削岩機の開発及び導入ととともに初めて試みられた、当時最新の工法であった。

 同工法施工の、オルクセン随一の専門家であるフェルゼンは、労務者たちがトロッコへと積み出し、運び出した砕石をひとつ取り出し、眺めた。掘削導坑の中にも潜り、鏡の部分も確かめている。

「どうだい?」

「こりゃあ、あまり良い山ではありませんなあ・・・」

 フェルゼンなどの評する「良い山」、「悪い山」とは、地質の状態を示す。山全体を指す普遍的な表現である場合もあれば、その日その日の地質状態のことでもあった。

 初期掘削により出てきたのは、花崗岩―――正確には花崗岩内部に斑糲岩質の捕獲岩を含んだものだった。

 弱ったことに、風化や雨水の浸透によって軟らかい。脆いと言ってもよかった。

 意外なことのようだが。

 トンネル掘削工においては、一概には言えないものの、硬い岩盤よりも軟らかい岩盤状態のほうが、やりにくい。

 掘りやすそうで良さそうに思えるのだが、岩盤が軟らかいということは、崩れやすいということと同義なのだ。

 すると、支保をうんと入れてやる必要がある。

 この支保工が、意外なほど手間を食う工程で、作業時間も当然かかるし、全体の進捗は低下する。

「しかし、掘削初期の地質が脆いのは、いつものことだろう?」

 教授は尋ねた。

 確かに、このような傾向はどのトンネル掘削でも起こる。表層に近い部分ほど、風化や浸透水の影響が顕著であるからだ。

「まあ、何とかやってみますよ」

 フェルゼンは、言葉を飾るという真似をやらない牡であった。

 既に熟練の域に達していた技術と、他者からは静かだが確かな自信の在り様に見えた姿、そんな彼に従う専属の施工班の手により、翌月末には先導坑は切り口から約二〇〇メートルにまで達し、トンネル全体へと掘削を広げる作業も八〇メートル附近に及んだ。

 これは、先導坑工法の日進量としては、かなり良好な成績であった。約三メートル強という計算になる。

「どうだい?」

「そうですな、教授―――」

 フェルゼンは直近の試料を幾つかを広げた。

「捕獲花崗岩から、粗粒花崗岩に変わってきているようです」

 花崗岩は、元より粒子が大きい。主成分である石英は固いのだが、他の構成物質と熱膨張率が異なるため、これが更に風化や浸透水によるひび割れを招きやすいのだ。

 粗粒花崗岩は、その点でいえば決して「良い山」とは言えなかった。

「うむ・・・」

 ルーディング教授は、自身もルーペを取り出して眺め、呻いた。

「・・・五〇〇。五〇〇メートル辺りまで行けば、どうにか安定せんか?」

「ええ―――」

 頷くフェルゼンの表情は、悪くもなければ、不満そうでもない。

 やはり現状の様子も、トンネル掘削工事ではありがちな状態だったからである。

「やってみましょう」

「頼む」

 教授は、安堵した表情で言った。

「そこまで。そこまでどうにかやってくれれば、きっと君たちを楽に出来る」

「例の新工法ですか?」

「ああ―――」

 教授は、コボルト族ダックスフント種のすらりとした鼻筋で微笑んだ。

「期待していてくれ。先導坑のような部分掘削工法からは想像もつかないような、素晴らしい仕掛けを用意してある」



(続)

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