随想録33 海道⑥

 ―――「シルヴァン運河計画は“戦争”だった」

 そんな記述や感想が、当時の関係者の記録及び証言、回想などには多く見られる。

 オルクセンにとって紛れもない国家事業であったこと、それゆえに膨大な数の者たち、資金、物資などが注ぎ込まれた故である。

 施工期間としても、約八年。

 オルクセンが過去に経験した対外戦争は、デュートネ戦争で約五年間、ベレリアント戦争で約七か月である。それらよりも長期間に及んだのだ。

 この表現は、必ずしも好意的なものばかりではない。

「戦争だったかどうかは分かりませんが、競争であったことは事実です」

 と、のちに語ったのは、第四工区グロスシュタット・トンネルの施工班長だったユーリウス・フェルゼン。

 彼の「競争」という言葉の指すところは、工区内のみならず、各工区間に及ぶものだ。

 ―――グロスシュタット・トンネルが完成しなければ、フヴェルゲルミア・ダムは施工できない。

 ―――工期を縮めるには、フヴェルゲルミア側からも掘るしかない。

 ―――ダムが作れなければ運河は完成しない。

 ―――トンネルやダムを施工するためには、運河予定地側で工事用鉄道を造る必要がある。

 ―――運河側の排出土を利用して河口に港を造る。

 ―――港を拡幅しなければ、大量の物資を運ぶ船舶輸送の荷揚げがやれない。

 ―――これら工事の為には、無数の技術者、労務者が必要となる。

 ―――そのためには、まずは「工事村」を造らなければ。進捗に合わせて、「引っ越し」も要する。

 ―――では、物資を運ぶための、あるいは「工事村」を造るための労務者も欠かせない・・・

 エトセトラ、etc。

 シルヴァン運河計画という途方もない大プロジェクトは、その各工程、工区が、複雑に絡み合っていた。

 それはまるで幾つもの「歯車」が絡み合った、巨大な機械のようであった。

 何処かで歯車の一つが狂えば、たちまちのうちに別の個所に影響を与える。その一つ一つが、どれほど小さなものに思えたとしても、だ。

 例えば、だが。

 このシルヴァン運河工事で多用された建築資材に、コンクリートがある。

 コンクリートは、セメントと骨材、水を混ぜて作る。

 これを捏ね、施工する作業を「打設」といい、現地でしてのける場合を「現場打ち」などと呼ぶが。

 労務者の誰かがこの作業に遅れを生じさせてしまえば、忽ちのうちにその影響は他工程に及ぶ。

 急かされて作業を終えていた型枠工はコンクリート班を罵り、必須のものである乾燥のための時間が後ろへ伸び、そのコンクリート製仮設構造物に収めるはずであった爆薬の集積と保管が遅れ、発破の予定が延期され、そのあと掘削に従事する計画であったスチーム・ショベルと作業員が待ちぼうけを食わされ、夜間実施されていたショベルの整備工たちは別現場へ先に回り、ぎりぎりになった修理部品の発注書が予期せぬ曜日に機械メーカーへと届く―――といった具合である。

 このような複雑な影響が、工区内のみならず、各工区で絡み合っているわけだ。

「あのころ、オルクセンの海運量は増加の一途を辿っていました。また、他国の大規模事業が予算超過となった原因の多くは工期の遅れでしたから、工期厳守は至上命令でした」

 と、フェルゼンは回想する。

 なかでも、グロスシュタット・トンネルを担当する第四工区、ダム本体工事及び迎え掘りを施工する第五工区の進捗状況が周囲に与える影響は大きい。

 自然、施工を請け負うヴェルクニッツ建設及びアデナウアー社から、厳しいものとなる冬季においても工事を続行したい、という話が出た。

「本当にやれるのか」

 と、懸念を示したのは第五工区のフォルクナー少佐だ。

 少数精鋭の調査班で冬営するのとは、まるで規模が異なる。

 選抜された二三〇名もの牡たちが、シルヴァン川上流の僻地に数カ月も滞在し続けるのだ。

 降雪も予想されるから、ようやく断崖絶壁に切り開いた工事村は使えない。

 ―――果たして可能なのか。

 不安を抱いて当然である。

「冬を迎えるまでに、トンネル本坑から横坑を掘ります。この横坑を居住区として整備し、歩荷隊を使って、物資も事前集積に努めますから」

 ぜひやらせて欲しいと、アデナウアー社の現場責任者は願い出た。

 直営作業班を中心に、「冬営組」はあくまで志願者を募ったうえでのものとする―――

 いずれにしても本坑と並行するようにして、運河用導水坑は掘らねばならない。これを利用するわけである。

 フォルクナーは、ルーディング教授やシルヴァン運河協会本部へ連絡を取り、実現に尽力した。

 報せによると既に第四工区でも冬営希望があるといい、冬営の許可自体は素直に降りそうであったが、協会側が懸念したのは、やはり第五工区の置かれた過酷な自然環境である。

 つまり第五工区を支える山間道は、冬季には断絶してしまう―――

 協会内の協議が難航しているうちに、季節は星暦八八〇年の九月下旬を迎えた。

 シルヴァン川分水嶺域の山中では、もう冬の気配が濃厚に漂い始めている。

 許可を待っていたのでは準備が間に合わないと判断し、アデナウアー社は冬営の仕度に着手した。

 このとき彼らが払った努力は、並大抵のものではなかった。必要経費については何とかしよう、どうしてもカバーしきれなれば後日ねじ込めばいいと腹を括って、歩荷ぼっか隊の強化から手をつけた。

 オルクセン全土から集められた腕力及び脚力自慢の「山岳補給隊」は、約四〇〇名という規模になり、現地雇用のダークエルフ族も参加している。

「やあ、隊長さん」

 あのクヴィンデア村副氏族長ウルフェン・マレグディスも、旧エルフィンド側ヘレイム山脈越えルートの担当として参加した。彼女は胆力もあり、計画の初期から携わっていた者として、いまでは工事関係ダークエルフ族たちの代表のようになっている。

「おお」

 もう調査隊長ではないのだが―――などと野暮なことを、寡黙なフォルクナーは口にしなかった。

 ちょっと不器用にも見える、だが嬉しそうな笑みをちらりと浮かべただけである。

 第五工区歩荷隊がこの時期に成し遂げたものは、ちょっと信じられない記録の数々だ。

 冬季ともなると、最も困難が予想されるのは、飲用水の確保である。歩荷たちはこのために、分解された合計二台の蒸気式揚水ポンプを運んだ。谷底から水を汲み上げるためのものだ。

 横坑を宿舎とするなら、安全の為には火も使えない。冬営生活には照明も調理も換気も電気を使うことになって、ファーレンス社電気部門製の二六五キロワット水力発電機が、やはり分解、現地組み立てで持ち込まれた。

「最新のフィラメント式電球を使え」

 と言ってきたのは、協会本部側である。

 坑内に、煌々とした白熱球が灯ることになった。それまで主流であったアーク電燈と違って、実用的なフィラメントが考案されたばかりの白熱球なら扱いも容易であり、騒音もせず、また温かなものである光は、健康にも良いと信じられたのだ。

 遠く秋津洲の竹材をフィラメントに用いた白熱球は、まだオルクセン国内でも製造数は限られたもので、後年のものと比べるとずっと高価だったが、これが惜しげもなく大量に使用されることになった。

「協会本部の在り様には、本当に助かった―――」

 フォルクナーは、日誌に記している。

「特に、ルーディング教授が手配すると宣言したものは、必ずやってくる」

 冬営を許可するから、壊血病の発生を防ぐためにライムジュースを多用せよと命じてきたのも、協会である。

 このため、海軍が当時やっていた方法を参考に、樽詰めのライム果汁が幾つも届けられた。

 緊急時の備えに加えて、栄養及び衛生上の適切なアドバイスを与えるため、医師の常駐も決まっている。医師はそれまでも居たが、改めて冬営への備えとして、屈強な軍医がやってきた。

 飲料水確保のため、揚水ポンプと給水管の敷設も始まった。

 給水管は、思慮なく敷設するだけでは冬季の間に凍結してしまう。

 まず深さ一メートルの溝を谷底まで掘り、それから直径五センチの鋼製給水管を二本、埋設することになった。これほどの準備を施しても凍結は免れない場合も想定されたから、直接給水するだけでなく、坑道内に大きなタンクを用意して貯水するようにした。

 ―――シルヴァン川沿いの大斜面で!

 ―――断崖ばかりの場所で!

 たいへんな作業だ。

 しかも、本来の仕事である迎え掘りや、他の冬営準備と並行してこの「水道工事」をやったのである。

 当然ながら、一々手作業で掘ってなどいられない。

 埋設に要する一メートル掘削のために、緩燃導火索と発破用火薬が用意された。

 命がけの仕事だった。

 通常、直接着火用の導火索は長さ一メートル。約一三〇秒で燃える。

 これを二メートルに延ばし、倍の二六〇秒にして最低限の退避時間を確保した。

 何度かの発破が順調に済み、ふたり組の担当労務者が着火したとき―――

 彼らの頭上で、落石が起きた。

 元より、断崖大斜面の退避は容易ではない。命がけの退避をやり、安堵したところへ巨大な岩塊が転げ落ちてきたのである。

 一溜りもなかった。

 二名の労務者のうちひとりは、頭蓋に落石の直撃を受け即死。

 もう一名は、衝撃に吹き飛ばされるようにして谷底へと滑落し、後刻、やはり死亡が確認された。

「・・・・・・・」

 フォルクナーは、言葉も無かった。



 ―――労務者の犠牲に頼った、前時代の如き土木は行わせない。

 シルヴァン運河計画の始まったとき、協会長オットー・ベンシェ教授が「宣言」した決意である。

 しかし―――

 シルヴァン運河が建設された星暦八八〇年当時、土木工学はまだまだ未発達だった。施工のために投入された科学技術も、安全管理のための概念も。

 犠牲者は、例え当事者たちがどれほど意を凝らそうと、発生した。

 第四工区トンネル施工班長ユーリウス・フェルゼンの言うところの「競争」、世間一般が後に評した「戦争」のような環境である以上、尚更のことだ。

 いちばん多かったのは、発破関係の事故である。

 ―――第二工区、中央分水嶺迂回路。

 八八〇年六月九日、ロザリンド渓谷底部面にて過早爆発。九名の施工班が死傷。施工班長は「遺骸も発見されず」。

 同年一〇月五日、スチーム・ショベルが不発発破薬の雷管を叩き、爆発。ショベル操縦者一名死亡、周辺作業者三名重傷。のち重傷者のうち一名死亡。

 同年同月一一日、仮保管中の装薬一二トンに落雷。爆発。七名の労務者が死傷。

 同年一一月三日、第二回「大発破」のため北側斜面に仕掛けられた約二〇トンの火薬のうち、最後の個所を装填作業中に全体が原因不明の爆発。作業員二三名死亡、四〇名が重軽傷。

 ―――第四工区、グロスシュタット・トンネル掘削。

 一〇月二九日。不発と思われた導火索式発破再実施のため、二名の作業員が手動着火を試みたところ、最初の導火が再燃。避退が間に合わず、二名とも爆死。

<i676703|36800>

「あいつは・・・ あいつは、弟の進学費を稼いでやろうと山に来たんですよ・・・ それが、それが・・・」

「・・・・・・」

 重圧に逃げ出したくならなかったのかと聞かれれば、勿論あると、後年、第四工区施工班長ユーリウス・フェルゼンは語る。

 これは、各工区の技師、施工班長たちにとって大なり小なり等しく抱かれていた感慨であろう。

 発破関係以外の事故も、当然ながら発生していた。

 工事用鉄道車両に挽かれてしまった者。

 落石により転落した者。

 落盤、斜面崩落に埋まった者―――

 なかでも斜面崩落は、当時の土木工学、構造力学、地質学、施工技術などには未発達の部分を含んでいたため、原因すら理解できなかった事故も多い。

 崩落を防ぐための土留工、法面工などと呼ばれる技術は、まだほんの原始的なものだった。

 シルヴァン運河工事では、このころ最も効果があると信じられた最新工法―――現場打ちコンクリートによる土留めがまるで効果を発揮せず、ロザリンド渓谷には施工斜面ごと円弧滑落してしまった例まで存在した。

 土木工学上、施工箇所のみならず、深部や周辺地質の解析及び計算も重要であると判明するのは、何とここから約八〇年も後のことだ。

 技術的にも、アンカーロックボルトや薬液注入に依る地盤改良といった手法が発明され、確立されるのは、遥か後年のことである。

 第一工区では、若い技師のひとりが責任感に耐えかね、自裁を選んだ。

 むろん、協会側も施工側も、手を拱いていたわけではない。

 発破作業には、導火索の改良と、直接着火よりも確実性が幾らかあった電気式発破器を徹底利用することで、不発を防ぐ努力が続けられた。このため工事後半には、関連事故の発生率は随分と減っている。

 シルヴァン運河工事で初の利用が試みられた手動式サイレンも、徹底導入が図られている。事前退避を確実なものとするためだ。

 対象地質によって、一体どれほどの量を仕掛ければよいのか当時はまだ手探りだった装薬量も、経験値の蓄積により改善が進み、直接雷管を仕掛けた装薬と、追加で装填する増量火薬による調整技法が出来た。

「効率的にトンネル掘削を進めるための発破技術も生まれました」

 これは、あのルーディング教授が発明したものだ。

 “ギガント”による全面掘削工法には、当初、単純な一斉点火が使用されていた。

 グロスシュタット・トンネルにおける発破が何度か行われるうちに、発破薬それぞれが互いの威力を相殺してしまい、これでは効率が悪いことが判明したのだ。

 そこで教授は、電気式発破器の機能を改良し、まず中央部を点火、炸裂させ、次に周囲を爆破できるようにした。

 僅か数秒の差である。

 だが、このほんの瞬く間の時間差が、絶大な効果を生んだ。切羽を発破するとき、まず中央部が吹き飛べば、周辺部はその内側に向かって集束するように爆破出来る。これで発破の効率が向上したうえに、何よりも大切な周囲の岩盤を傷つけないことも分かったのだ。

 ―――時間差発破という。

 一一月には、トンネル掘削先端で湧水が観測された。

「最初は焦りましたよ。でも、大なり小なりの湧水は、何処のトンネルでも有り得る。見分けるコツがありましてね、湧水が透明なら余り心配は要らないんです。だが、こいつが濁ってくると、山は“悪く”なる―――」

 幸いにも、グロスシュタット・トンネルでの湧水は二日経っても三日経っても透明なままだった。

 湧出量も、急激な増加は示さない―――

「これならいける。我々のやっている工法は間違っちゃいないんだと。ようやく内心で確信が持てたのは、切り口から約一キロに到達したころでしたな」

 もちろん、この証言を残すフェルゼン自身も、彼の部下たちもズブ濡れとなり、しかもそれは手足の指先が凍えるほどの冷水であったが、掘削は継続した。

 同月には、当時の世界記録となる日進量七メートルを達成している。各国から視察団が訪れ、なかでも広大な国土の改造を欲していたセンチュリースターからは、海を渡って多くの土木技術関係者がやってきたほどだった。しかもフェルゼンたちはこの記録を、翌月に自らの手で塗り替えている。

 意外な影響は、むしろトンネル掘削現場そのものではなく、第四工区の「工事村」で起きた。

 ヴェルクニッツ建設の「工事村」は、各工区のなかでも最大級のもので、最盛期には一〇〇〇名近い牡たちがいた。

 当然ながら衣食住の確保は最優先課題で、彼らは村専用の井戸まで掘った。飲料水確保のためである。

 ―――この井戸が、枯れた。

「これは、水の流れが変わりましたな」

「うむ・・・」

 トンネルを掘削したことによって、地下水脈の流れが変わってしまったのだ。

「掘ってみなければ、分からないからな・・・」

 そんな影響の発生は、ずっと後年になっても起こり得ることだったから、当時としては予測がつかなかったのも無理はない。

 結局のところ、短期的には別の井戸を再掘削し、根本的対策としては遠くアーンバンドから水道管が延伸されることになった。

 この水道管延伸作業は、既に第二工区―――中央分水嶺迂回路の工事村用に実施されていたから、冬営の開始までに間に合ったものの。

 この間、第四工区の飲料水は一時不足を来し、現場の苦労を増した。



 シルヴァン運河計画における最大の悲劇は、同年一二月に起きた。

 ―――第四工区における、雪崩の発生である。

 当初から積雪による工事村の使用不能を予測して、横坑を掘って居住地を作っていた第五工区の迎え掘り現場と違って、グロスシュタット・トンネル担当の第四工区では山麓に切り開いた土地に工事村を築いていた。

 時代が時代であったし、「掘っ建て小屋に毛の生えたようなもの」である。

 この工事村が、新雪の表層雪崩に襲われた。

 硬い地盤、もしくは固まったそれまでの積雪の上に大雪が降ると積み重なり、これが一挙に崩れてくる現象だ。

 新雪表層雪崩は恐ろしい。

 雪の中には多量の圧縮された空気が含まれており、これが崩れると、まるで爆発的な暴風が猛り狂うようなもので、進路上の何もかもを破壊しつくしてしまう。

 ダークエルフ族たちは、同様の現象を「スクム」と呼んでいた。「泡」とでも訳すことが出来る。辺り全面を包み込んでしまうから、そんな由来の古典アールブ語から来ているのだという。

 一二月二七日深夜、この現象が第四工区工事村を襲った。

 同工事村には、冬営を迎えるまでに用意されていた、コンクリート製の雪崩止め壁が一応は存在した。ところが「スクム」はこの防壁をあっさりと突き破り、あっという間に工事村の三分の一までを蹂躙し、四階建てであった技師宿舎を破壊、更には労務者宿舎三棟を完全に倒壊させた。

 推定死亡者七八名という、大惨事になった。

 犠牲者数が「推定」であるのは、あまりの損壊に身元の判別もつかなかった遺体が多く、公式には行方不明となった者も死者に数え上げられたからである。想像もつかなかった場所にまで押し流され、雪中に沈み、発見回収が翌年の春季となった死体まで存在した。

 幸いと称すべきか―――

 第四工区ヴェルクニッツ建設施工班長ユーリウス・フェルゼンは、無事だった。

 この日、新設の水道管の一部が凍結し、給水が停止したというので、報せを受けたフェルゼンは深夜にも関わらず様子を見にいっていたのだ。

 第四工区の給水管は、件の事情に依り急な敷設となり、第五工区のように埋設処理されていなかったのである。この為の凍結と思われた。

 何かあれば夜でも構わないから直ちに報告するようにと部下たちに命じていたフェルゼンは、報せを受けると起き上がり、カンテラをぶら下げて凍結破裂した鉄製管の確認に向かった。

 ―――そこを雪崩に遭った。

 表層雪崩の起こす激流の周縁付近に埋まった彼は、無事だった部下たちに掘り起こされ、九死に一生を得たのである。

 彼の困難は、むしろ事故後に生じた。

 現場救助の指揮、死体の回収、遺族への手配―――

 事故そのものへの対応も、辛苦を極めた。

 そのうえ、事態が落ち着くと、多くの臨時雇用労務者たちが離職と離脱を希望したのだ。

「元より年末年始です。冬至祭休暇には流石に全現場休止休養となる予定でした。労務者たちも一時帰省する。大量離脱していく彼らは、もう戻っては来ないと腹を括りました。誰にも―――私自身にさえ、彼らを押しとどめることなど出来ません」

 ヴェルクニッツ建設冬営班は、約二五〇名。

 そこへ約八〇名の犠牲者を出し、更には離脱者を生じたのである。

「これで、もうグロスシュタット・トンネルは御終いだと。ほとほと弱り果て、嘆息するしかありませんでした」



 雪崩事故は、迎え掘りの第五工区にも影響を及ぼした。

 彼らからすれば「お隣さん」で起きた凄惨な事故の一報が伝わると、現場労務者たちが激しく動揺したのである。

「こんなところに居ては命が幾らあっても足らない」

「いまに皆、死ぬことになる」

 そんな囁きが、あちこちに広がっていた。

「なんだお前ら、その顔は!」

 豪傑風の牡であったアデナウアー社の現場主任は、怒鳴り散らすこともあった。

「俺たちは皆、埋まっちまう・・・ ここは行き止まりだ。切り口が塞がっちまったら、仕舞いだよ。そんなのは御免だ」

「だから仕事を辞めちまおうってのか! 安心しろ、この居住区はそんな軟じゃない!」

 労務者代表への懸命の説諭に、どうにか場は収まった。

 だが、対策が必要なのは確かだ。

 アデナウアー社は、冬営継続者に対し、滞在日数に応じた報奨金を出すことにした。

 一日一日、現場に留まり続けるほど給金が増すようにしたわけである。

 流石に、協会本部の補填を要する―――

 このころ、第五工区の協会側責任者フォルクナーは、クヴィンデア村の協会事務所に居た。

 彼は報せを受けると、直ちに現場代表の案を是とする一文をつけ、更にはこの許可には緊急性を要する見解も付帯させ、ルーディング教授へ電信を打っている。

 そうして自身は、ともかくヤールマルスクの尾根を越え、現場へ向かおう試みた。

<i676701|36800>

「無茶だ、隊長さん!」

 ウルフェン・マレグディスが、必死の制止をした。

「この時期に、ヘレイムなど越えらない。それは、貴方がいちばん分かっているはずだ。それに仮に越えられたとしても、積雪で吊り橋も渡れない」

「・・・・・・」

「ともかく、落ち着け。な?」

「・・・うむ」

 フォルクナー自身もまた、このころ疲労疲弊していたと言える。

 ウルフェンはそれを良く知っていた。

 協会が村に設けた前進基地の、彼の部屋の明かりは毎晩夜の一〇時ごろまで灯っている。

 ときおり心配になって差し入れに訪れると、そのようなフォルクナーの机には、未決と既決の書類棚があり、いつも部下たちの作り上げた書類で一杯だ。他にも、ウルフェンには内容の想像も及ばぬ工区からの電信連絡や魔術通信を文書に起こしたもの、現場の地図、施工図面、びっしりと何かが書き込まれた数冊のノート。そんなもので溢れていた。

 そもそも、彼のような軍出身者がこの計画に携わっているのは何故か。第五工区のフォルクナーだけではなく、第二工区など他工区にも陸軍関係者は大勢いて、海際の第一及び第三工区には海軍の者たちがいる。

 それは、この計画が軍事上に置いても重大な意味を持っているからだ。

 海上輸送を使えば、多量の物資、兵員、兵器などを運び得ることは、ベレリアント戦争ではっきりしている。

 だからシルヴァン運河計画は、どれほど困難な情勢になろうと決して諦められはしない。

 フォルクナーに関していえば、彼は任務を放棄したりはしないだろう。

「隊長さん。貴方は真面目過ぎる。少し休め」

「・・・・・・」

 微かに震えていた彼は、無言で頷いた。

 フォルクナーには、何か温もりが必要だった。

 この素晴らしい牡でさえ、限界がきていたとも言える。

 ―――が起きた。

 それは、非常に寡黙なふたりの間でさえ、何か切っ掛けさえあれば、きっと将来そうなるに違いないと互いに思えていたことだ。

 だからウルフェンは驚きもしなかったし、怖がったりも、恐れたりもしなかった。

 口に出して確認しあったことが無いだけで、その機会が訪れただけである、と。

 不意に己が手を掴んだ彼に目を瞠りはしたが、ただただ好ましい動悸ばかりが高まり、これでいいのだ、これでいいのだと思う。

 部屋の明かりは、彼女が手を握り返したあとで、フォルクナーが消した。 



(続)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る