随想録25 水に訊け
―――時間は、好むと好まざるとに限らず、容赦なく過ぎ去っていく。
古きは去り、新しきが押し寄せてくる。
星暦八七八年九月といえば、やはりグロワールの政変が内外における耳目の的であったが。
この月の始め、キャメロット連合王国首都ログレスでは、市内を流れるアイシス川で大型の外輪式旅客観光船と、石炭貨物船の衝突が起きた。
これは大変な規模の事故で、死者約六五〇名という大惨事だった。
原因は、双方の、針路及びアイシス川流域における慣習に対する理解の相違だったとされている。
河川中央部を下ってきた貨物船に対し、遡るかたちだった観光船は相手側の左舷赤燈を認めると、川の南側にある緩やかな流れのなかで相手を待つという、長年の習慣に従った。
結果として、遊覧船側が貨物船の針路を横切るような格好になってしまった。
相手は、アイシス川特有の習慣など、露ほども知らぬ。
「お前、どこに来るつもりだ! なんてことだ! どこに来るんだ!」
衝突の寸前、観光船側の船長が放った叫びが、歴史に刻まれることとなった。
そしてこの驚嘆は、石炭貨物船側にしても同様であったことは想像に難くない。
突如として眼前で反航船が横腹を晒すように自船の針路を塞いだのだから。
貨物船側は後進一杯をかけたが、川の流れもあれば、遠く北星洋の河口からログレスまで影響する潮位変化もある。
間に合うものではなかった。
大型観光船は右舷側に衝突され、そしてあっという間に沈没してしまった。
短距離の路線に、行楽目的の乗客を満載していたので、乗船名簿もない。つまり正確な犠牲者の数も、判然とはしなかった。
事故後、調査のために潜水したダイバーに依れば、
「サロン乗客の多くは、出入口に密集したままの姿で詰まっていた」
という。
この事故がこれほどの犠牲者を出してしまった原因は、実は衝突そのものだけではない。
当時のアイシス川は、汚染されていた。
工場排水及び生活排水を要因とする。おまけにこの日、現場のすぐ近くで火災があり、油類が流れ込んで、汚染を増していたという。
事故に依って船上から投げ出された乗客の多くが、このような排水のなかに溺れ、犠牲となったわけだ。
―――環境汚染。
その萌芽のようなものが、ただし最早くっきりと、産業革命を経た当時の社会には存在した。
この点について言えば―――
オルクセンの社会は、先駆的だった。
「首都の南北市街が河川を挟み込んでいる」という点において、キャメロット首都ログレスとオルクセン首都ヴィルトシュヴァインは共通項を抱く。
しかし、後者の方が、こと衛生面に関して言えば明らかに「優れていた」のだ。
工場区画の集中化。
同地における、排水浄化の義務化。
上下水道の整備。
上水道における水源は、工場及び生活排水の影響を受けない遥か上流から取水し、下水道は逆に市街地のずっと郊外下流域で排出する、という整備方針が功を奏していた。
当時最先端の医学的見地に基づき、コレラや赤痢、腸チフスといった疫病を防ぐためである。
オルクセンの場合、第一次及び第二次産業革命と医学、公衆衛生意識の向上期がほぼ同一であったため、工学的にも最新の手法が使われていた。
本管はオーク族ですら清掃点検のため内部に入れるよう直径が大きく、しかも卵型の断面をしている。そこまでやったうえで、圧力送水により内部を洗浄できるよう整備した。
上下水道とも、多重沈殿層式の浄水場を持っている。
各家庭への水道及び下水道管の引き込みも、市が補助まで出し、このころにはもう、ほぼ完全に普及を果たしていた―――
ダークエルフ族が民族浄化行為を受けてオルクセンへと移住して来たとき、彼女たちはヴァルダーベルクの兵営に当たり前のように存在した水道管の蛇口を見て、
「水の出る魔術の一種なのか」
と思ったという。
ベレリアンド戦争中には、白エルフ族の俘虜兵士たち一部もまた、同様の反応を示した。
科学技術に対して純朴だった彼女たちは、「蛇口さえあれば何処からも水が出せる」と勘違いをしたのだ。
戦争が終わり、俘虜生活から解放されたとき、蛇口を土産に持ち帰ろうとした者までいたという。
蛇口から辿れば引き込み水道管があり、本管があって、更にその先には浄水施設や送水施設があるという構造を、まるで想像できなかったのである。
このように優れた上下水道網は、電信線や送電線の整備と相まって、各地方都市はもちろんのこと、市町村落にも拡大されようとしているところだった。
ベレリアンド戦争のとき、第九山岳猟兵師団に従軍したハンス・アルテスグルック大尉は、貴重な記録でもある克明な陣中日誌を残しているが、その一節に、
「何処でも清潔な水を飲むことの出来るオルクセンの水道が、戦場に来てみてどれほど有難い存在か、ようやくわかった」
というものがある。
エルフ系種族がやった錯誤の、真逆のような感想を抱いたわけだ―――
「我らの役割は、水道管に似ていなくもない」
九月下旬。
つまり、グロワール皇妃オーギュスティーヌのキャメロット亡命が成功したころ。
首都ヴィルトシュヴァイン、ヴァルトガーデン北側。デュートネ戦争凱旋門前。
国軍参謀本部庁舎三階にある会議室に、幾名かの牡たちが集っていた。
兵要地誌局長カール・ローテンベルガー少将。
国家憲兵隊首都管区司令官エミール・グラウ中佐。
そして、外務省電信局技術課長ベルティ・フライヘア。
「水道ですか?」
フライヘアが尋ねる。
「ええ。無垢な情報が水源。分析を施す作業が浄水。そして必要とされるとき、必要とする者のもとへ届ける送水管と蛇口」
「なるほど・・・ 言い得て妙ですな」
各国公使館の電信傍受と暗号解読を受け持つ部門を率いる身としては、同意首肯の至りだ。
この翌年、国軍参謀本部中央情報局、国家憲兵隊本部第二局、外務省情報局と名を変える組織をそれぞれ率いることになる彼らは、ここよりのち毎週一度必ず開くようになる「会合」の初日を迎えていた。
国王グスタフの肝煎りに依る。
ベレリアンド戦争。終戦時の干渉。ヴィルトシュヴァイン会議。グロワール政変。
オルクセンの対外情勢において決定的な役割を果たしたインテリジェンス組織を、グスタフは強化することにした。
―――「情報」こそが、オルクセンの国益を叶え得る。
戦時にしろ、平時の外交、治安維持にしろ。
成功に導くためには、「情報」という存在が欠かせない。
彼らの王は、そのように判断し、結論付けたのだ。
「会合」はその為の一環として開かれることになった。
兵要地誌局が担ってきた、「軍事諜報」。
社会情勢及び法整備とともに国家憲兵隊が背負った、「防諜」と「治安維持」。
外務省電信局に依る、「外交情報」。
彼らは、それぞれの職域が重複しないようになっていたが、このままいけばオルクセン官僚機構特有の、過剰なまでのセクショナリズムが働く懸念がある。
そこで「会合」を開き、三者の手持ち情報を擦り合わせる―――
「まずは、グロワール情勢ですが」
国内最大の諜報機関の長として、自然と議長役を務めることになったローテンベルガーは、目下におけるオルクセン最大の愁眉の急について、幾らか手持ちの情報を開襟した。
グロワール内の兵力配置情報を中心としたもので、シャノワール兵営に集まるグロワール軍の実情を含んでいた。
外務省からすれば、呆れるほど詳しいものだ。
ローテンベルガーは決して情報源を話さなかったが、どうも情報収集上の役割を果たしているのは、グロワール国内の各衛戍地近郊に配した「品の良い女性たち」に依るものらしい。
技術課長は、ぞっとした。
兵要地誌局の短剣と外套を操る長い腕は、そんなところにまで伸びている、ということだ。
これは同時に、彼等の組織が徐々に変容していることも示していた。
戦前以来の兵要地誌局における基本方針は、なにしろ組織の成り立ちが成り立ちであったから、「基礎情報」を重視してきた。
一.基礎的背景(対象国家の位置、国境、面積、歴史及び政治機構)
二.国土の特質(土壌、気候、地形地勢、水利)
三.国民(気質、言語、人口、社会構造)
四.経済(農業、工業、商業、鉱業、漁業)
五.社会基盤(鉄道、道路、橋梁、港湾、電信、水路)
六.現有軍事施設(要塞、衛戍地、兵站)
七.敵軍内情(規模、配置、組織、人事)
八.特別補足事項(政府指導者の経歴、地方特有事情、通貨、度量衡、発電所、道路種類、鉄道種類、河川)
ベレリアンド戦争では、上手くいった部分と、必ずしもそうではなかった部分とがあり、ローテンベルガーはこの反省を取り込みつつ、調査範囲及び分析手段を明確化していた。
職人的な諜報従事者が「たまたま目ぼしい情報を手に入れました」などという前時代的なものではなく、膨大な情報を組織的に入手し、分析をやり、資料に纏め、定期的に更新を図っていくというサイクルを最早完全に組み上げていたのだ。
そのうえで、このような基礎情報を足がかりとして、相手の「意図」を読み取ろうとする段階に突入していた。グロワール軍将校にハニートラップを仕掛けているなどという事実は、この最たるものである。
これは重大なことだ。
オルクセンの軍事諜報能力は、明確に「次なる段階」に進化していた。
グスタフ王や、国軍参謀本部総長ゼーベックの裁可まで受けた、組織拡大がこれを可能にしていた。予算はもちろんのこと、配置将校の数も増えていたのだ。
戦前、兵要地誌局の所属将校は三〇名だった。戦後、これが何と六三名にまで拡大されていた。
彼らは測地測量部、対外情報部、資料管理部に組織整頓され、なかでも対外情報部には西部星欧課、東部星欧課といった各地域別の専門グループが整備されつつある。
そうして、仮想敵の意図を読もうとしている―――
「フライヘアさん」
「はい?」
ローテンベルガーは、告げた。
「私どもは、有り体に申し上げて。貴省の暗号解読技術に深い興味を抱いているのです」
「大胆な手紙を書いたものだ」
キャメロット連合王国、首都ログレス。外務省。
外務大臣ホールドハースト卿の前に立つ巨躯の男は、どこか悪戯好きの子供のような、独特の明るい灰色の瞳を、悪びれもせず煌めかせている。
「しかし。事実は事実です」
彼は、歌うように告げた。
うむ、と呻きつつ。ホールドハーストは、眼前の男が提出した報告書をもう一度眺める。
「―――もし我がキャメロットとグロワールの間に戦争が起きたとき。グロワールに関する情報の提供を命じられた場合、オルクセンの作成した資料を何としても手に入れ、翻訳する他ない。オルクセン当局の手に依る資料のほうが、我々の作る資料より精確に、詳細に、上手くグロワールについて解説しているからだ」
本当に大胆な手紙だ。
つまり眼前の男は、オルクセンという国家が、星欧列商諸国に対して、軍事力、外交面のみならず、情報面でも勝っていると指摘している。
残念なことだが、事実であろう。
各国は、オルクセンの誇る参謀本部制度を大慌てで模倣しようとしているところだ。
だが眼前の男に言わせるなら、それは「器」に過ぎない。
どのように運用するかが鍵なのである。
これは信じられないことだが、現状のキャメロット陸軍にはグロワール内のまともな軍用地図がなかった。デュートネ戦争当時の、ひどく古いものがあるきりだ。
グロワール陸軍も同様らしい。彼らは仮想敵であるはずの、オルクセンの軍用地図一枚すら持っていない。
そんな根本的な「意識」部分から、かの魔種族国家には敵わなくなっているのだ。
眼前の男は、「オルクセン当局から入手したほうが早い」という文章で、これら事実を指摘していた。
そして―――
仮に、いまこの場でキャメロットの情報機関にそれを命じても、
「我らの情報収集手段といえば、各国に散らばる愛国的紳士諸君、そして新聞記者たち。デュートネ戦争以来の、伝統的に重視してきた“アマチュアリズム”から未だ脱却を図れておりません」
「・・・・・・」
「
「・・・なんだ?」
「各国陸軍における軍服図の作成です。まあ、まるで役に立たないものでもありませんが。将軍たちは情報というものを全く理解していない」
「・・・・・・」
絶句するホールドハーストを前に、巨躯の男は肩を竦め、更に畳みかけた。
「過日、モーニングスタンダード紙の連中が、かの兵営におけるグロワール軍の詳報を伝えましたな?」
「ああ。そんな記事があったな」
「あれの出所は、オルクセンです」
「・・・どうして。そんな真似を?」
「木の葉を隠すには、森の中などと申します。彼らはそうやって、情報の取得源を隠匿したのですよ。“誰からも分かる、公然たる事実”に変えてしまった」
「・・・・・・」
「そのうえで各国公使と会談し、自国の主張の正しさを補強する材料としたのですよ。我らの動員は、故なきことではないのだ、と」
オルクセンという国家は、最早情報を収集するだけではない。他国に対してさえ「操る」ところにまで至っている、ということだ。
ホールドハーストは、沈思した。
認めがたいことだが、眼前の男の指摘する内容は正しいだろう。
国家には平時から、高度な教育を受けた専門的プロフェッショナルと、たっぷりとした予算を与えられた情報組織が必要だと男は言っている。
実感として、思い至る経験もあった。
―――ヴィルトシュヴァイン会議。
あのとき、ホールドハーストも乗ったオルクセンの提案は、実に適切だった。
ベレリアンド戦争も同様である。彼らは実に上手く諸外国の報道を操り、自国支持の国際世論を作り上げてしまった。
情報は外交も助ける、というわけだ。
一政治家としても、魅力的な提案であった。
キャメロットの情報機関を強化し、眼前の男に全てを委ねるということは、己が率いる外務省が、情報の集約先になるということだ。
「・・・首相には私から話そう。まずは何処から始める?」
「オルクセンの組織を、模倣するところからですな。それが一番、てっとり早いでしょう」
「わかった。準備に入ってくれたまえ、M」
―――妻に、元気がない。
グロワール政情危機が小康状態に入ったころ、グスタフはすぐにそれに気づいた。
物憂げで、何か強い衝撃を受けた様子であり、食欲も細くなっている。
「どうした・・・ 少し熱っぽいじゃないか」
彼女の額に手をあてると、
「・・・しばらく。ほんのしばらくでいい。ひとりにさせて欲しい」
「うん。しっかりと休むんだ」
グスタフは、彼女から無理に理由を聞き出そうとしなかった。
週末は、分かれて眠りに就いた。
ただ、
「もし、私で役に立てることがあるなら。いつでも呼んでくれ」
「・・・ああ。ありがとう」
内心、突然のことでたいへん心配したが、風邪などの病ではなく、何か心理的なものらしい。ディネルースには自力で立ち直ろうとしている気配もあり、難しいところだった。
ともかくも侍女たちに付き添いを任せ、
「・・・・・・」
週明けの月曜、執務室に降りたグスタフは、しばらく考え込み、やがてダンヴィッツ中佐から予定を確認すると、幸いにも来訪者は午前まで、火急を要する決済書類なども無いという。
ただちに、午後からはスケジュールを入れないよう命じた。
そうして、執事長アルベルトを呼んだ。
「―――わかりました。ただちに」
この何事にも抜かりのない執事長は、グスタフの要望を汲み、準備に取り掛かった。
グスタフは昼から国王官邸の地下へと降りた。侍女たちから、王妃寝室のディネルースが伏せたままであり、食事も摂らぬ様子であることを耳にしたあとだ。
国王官邸地下には、司厨部の調理室がある。
それは巨大極まる空間で、天井近くには明かり取りの窓と、照明とがあり、四〇名からの牡たちが慌ただしく働いている場である。壁には、大小様々な銅製鍋や、おたま、泡だて器、フライ返しなどが掛かり、床のタイル一つに至るまで清潔極まった。
出入り口近くの、コックたちの目を和ませるための椰子の擬木あたりで、グスタフは、
「やあ、ベッカー。邪魔をして済まない」
「何を仰います、陛下」
司厨長オラフ・ベッカーに、彼の職域へと踏み込む真似を詫びた。
ふだんなら、こんな振舞いはしない。
だが、己なりに妻のためになれる方法を探し、久方ぶりに―――実に久方ぶりにエプロンを纏う。
アルベルトに用意してもらった材料は、多岐である。
牛脛。牛脛肉。いちぼ肉。骨つきバラ肉。
鶏ガラ。
玉葱。ニンジン。パセリ。セロリ。カブ。パースニップ。ポワロー葱。クローブ。ニンニク。
「始めようか」
グスタフは、その膨大で、手間のかかる作業へと一日中かかりきりになった。
ノコギリを使って牛脛に挑み、骨や鳥ガラは丁寧に洗う。牛肉は糸で縛り上げた。
野菜は煮崩れぬよう下処理したあと丸ごと使い、巨大な寸胴鍋と向き合い、灰汁を取り、漉し取る作業を終えたときにはもう、一〇時間経っていた。
これでやっと第一段階。
細かく刻んだイチボ肉や、野菜や、トマト、卵黄を混ぜ合わせ、先刻作り上げたブイヨンを冷ましたものと合わせる。肉塊や刻んだ野菜を別鍋に入れ、巨大鍋からブイヨンを移す度に、こんなときはオークの巨躯と力が本当にありがたいなと思う。
丁寧に煮込み、何度も漉し、全てをやり終えたときには、鍋のサイズは当初の一〇分の一の容量に変わっていた。それほど手間のかかる料理だったのだ。時刻も、火曜の朝になっていた。
早朝四時、出勤してきたベッカーたちと会う。
「・・・お疲れ様でした、我が王」
味見を頼む。
申し分ないという。
「あとは頼むよ」
「はい、我が王」
彼等の王が、疲れてはいるが満ち足りた表情で去ったとき、司厨部の見習いコックの一名が、
「陛下が、調理を嗜まれるとは。まるで存じ上げませんでした」
「ふふ―――」
ベッカーは苦笑する。
「普段は、我らに全てを任せてくださっているが。あちらのほうも、一家言お持ちなのだぞ。アルビニー風のジャガイモの揚げ物など、私は陛下から教わったのだ」
「―――今朝のスープは、コンソメの国王陛下風でございます」
火曜、朝。
ようやく起き出したディネルースは、眼前の一皿に何と澄んだスープだろう、と思った。
まるで琥珀のようだ。
豊潤な香りのなかに、ほんの一、二滴、シェリー酒が垂らしてあるのか、そのような良い匂いがする。
国王風という仕立ては、寡聞にして知らなかった。
初めて供されるように思う。
グスタフの好みなのだろうか。
心配をかけて済まなかった、もう何ともないと詫びたとき、ただただ「いいんだ、いいんだよ」と頷く夫グスタフは、なぜか少し目の下に隈を作っていた。
執事長アルベルトが経緯について説明しようとしたが、夫が彼を視線で制したのには気づかなかった。
スプーンを手にとり、含む。
「ああ・・・」
なんと深く、優しい味なのだろう。
きっと、信じられないほどの手間と材料が、この一皿にかかっている。
飲み干したときには、食欲も沸いてきた。
「・・・そうか。良かった」
「うん」
―――軍学校教官時代の教え子の名を、公刊戦史に見出したときには、本当に驚いた。
戦史編纂部への問い合わせによれば、どうやら二度と会えぬようだ。
その点について己や他者を責めようであるとか、今さら悲劇ぶるつもりは毛頭ない。
紛れもなく己自身の大願として、エルフィンドという国家が滅ぶことを望み、実行したわけだし、きっと奴なら最後まで勇敢に戦ったことだろう。
ただ、驚いた。
本当に驚いた。
それだけのことだ。
少しばかり、私に覚悟とやらが足らなかっただけだ。
ひとも羨む安寧と幸福の日々にいて、虚を衝かれたようになってしまっただけだ。
生き残った者として、嘆き悲しめる贅沢に文句など言えるものか。
夫は、相変わらず理由を聞き出そうとはしない。
だがその慈愛に満ちた瞳が向かいにあり、巨躯の全身全霊を以て気遣う様子で、寄り添ってくれる姿が有り難かった。
―――君が話したくなったら。それで心休まるというのなら、いつでも、何時間でも耳を傾ける。
そのような態度である。
まるでこのスープのように、温かい。
「・・・オルクセンの。我が国のスープは、どうしてこんなにも美味いのだろうな」
ディネルースは、感謝するように呟いた。
「うん―――」
夫は、頷く。
「まず何より、水が良いんだ」
(続)
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