随想録22 騒乱の都
「権力者にとって、愛されることと恐れられること、一体どちらが望ましいのであろうか。
結論は容易ではない。
だが、ひとつだけ言えることがある。
そのどちらにもなれない者は、権力者になどなるべきではない、ということだ」
―――ヴィルトゥ・フォルトゥーナ(フロレンツの政治思想家、外交官)
―――単に、「
市中を東から西に流れるミルヒシュトラーセ川の半ばに位置し、この島へと繋がる大橋があのフュクシュテルン大通りの終末点だ。通りはここで、シュロスプラネーテンと名前を変える。
ヴェルダー島は、たいへん面白い場所だ。
まず、ヴィルトシュヴァイン市庁舎。装飾過剰と称する者もいる、荘厳なバロック建築。高さ八五メートルの尖塔があり、これは市内最大の時計台でもある。
大噴水と芝生が目に映える、遊歩庭園。一区画丸ごとという、たいへんな規模だ。
ヴィルトシュヴァイン警視庁。古い時代の城塞である。いまでも重厚な石造りの姿をとどめている。
そしてこの三つの周囲に、中洲一杯に広がるようにして、大図書館、戦争博物館、歴史博物館、産業技術博物館、美術館といった教養施設が集中している。
三本の通りと、川蒸気の船着き場が四個所あり、交通の便もいい。
世の森羅万象に対し興味の尽きぬ者にとって、仮に一日中居たとしても回り切れぬほどの場所と空間の群れと言えよう。
立て襟のシャツ、フロックコート、同色仕立てのゆったりとしたズボン、トップハット、細身のステッキという姿のそのオーク族の牡は、懐中時計で時刻を確認したあと、島の北寄り東岸にある戦争博物館に寄った。
まず興味深く眺めたのは、ベレリアンド戦争でエルフィンド降伏調印の場となった鉄道車両だ。
国王グスタフの肝煎りで、軌条付きの新たな展示室が増築され、内陸水運の艀と起重機まで用いヴェルダー島へと運び込まれ、展示が始まったこの年の頭には、国内外でちょっとした話題になったものだった。
元は鹵獲車両だったという、キャメロット式の食堂車がベースになった会議室車であり、椅子やテーブルの類まで含め内装は調印時のままにしてある。
牡は、いままで何度も機会はあったのだが展示後の姿を実見するのは初めてで、
「ほぅ・・・」
と、小さく満足の吐息をついた。
彼にしてみれば、あの戦争で己が負った役割の成果が、具象化した物のように思えたのだ。
館内や庭に飾られている、旧オルクセン時代の甲冑や武具、デュートネ戦争のころの国産兵器、オルクセンが過去の戦役で得た鹵獲兵器の類については、充分に詳しかったので眺める程度にし、彼はそのまま隣にある自然史博物館へと移動した。
何とも有難いことに割安の共通入館券があるから、それを入口の係に見せるだけで済む。グスタフ国王が、王室費から学会に補助を出しているのだ。おかげで入館料は庶民にも手軽なもので、国の宝である子供たちなど、無料である。
大理石と、ガラス張りの天井で出来上がった自然史博物館の壮大なホールには、天井から吊るすかたちで、巨大な骨格標本が展示されていた。所謂、「前星紀の怪物」の一種だという。
この場合の「
どうやら星の降る前にも高度な文明が存在したことは、各地の遺跡や文献などから世界の学者たちの間では定説になりかかっているから、眼前の骨格標本についてはそれより更に前の時代のもの、ということになる。
魔種族とされている己が抱く感想としては妙な言い草になるが、ちょっと信じられないほどの怪物だった。
全長三四・八メートル。鋭い牙を持つ巨大な顎があり、その直後に鰭が二枚。体は蛇のように長い。骨格だけで三・五トンあるという。
学名、ハイドラコス・ハルラニ。
三〇年ほど前、センチュリースター南部連合で、オルクセンの学者が発掘した。
世に「大海蛇」、あるいはリヴァイアサンやベヒモスと呼ばれている怪物の標本だと唱える古生物学者もいる。あるいは生き残りが今でもいて、それが船乗りたちの目撃談の正体なのだ、とも。
自然史博物館、最大の展示物だ。
ホールから眺めるだけでなく、正面の大階段から二階へと登って、回廊状になった部分からも眺めてみる。
なんど目にしても、俄には信じられない存在だった。
「・・・古生物学にご興味が?」
声がして、振り向く。
彼と似たような服装をした、人間族の紳士だった。
オルクセン語の発音は見事である。単に勉学して身につけたというものではなく、低地オルク語に幼少期から慣れ親しんでいたというような。そんな流暢さがあった。
手早く紳士の様子を確認する。
その手には、黒檀のステッキ。銀の装飾。
間違いない、連絡のあった相手だ。
「ええ。たいへん興味深いです」
オーク族の牡は、
ふたりはその後もしばらく、周囲からはまるで日常会話にしか思えない内容で互いが目的の相手であることを確認しあい、名乗りをした。
「シェンメル。ハウプトマン・シェンメルといいます」
「リング。ヘンリー・リングです。いやあ、お話できて良かった。たいへん良い経験をさせて頂きました」
「こちらこそ」
ふたりは握手して別れたが、彼らを疑うような者は誰もいなかった。
怪しい素振り―――例えば小包や手紙を渡し合うというような真似は、まるで無かったからだ。
彼らが専門にしている職業は、世間が想像するよりずっと地味で、危なっかしいようなことは滅多になく、堅実な内容をこそ重視する。今日のものでさえ、かなり珍しい行為だ。
オーク族の牡は、ゆったりとした足取りで自然史博物館を後にし、遊歩庭園の脇に停車していた箱型の辻馬車に乗り込んだ。
馬車は、目的地など告げずとも、「シェンメル氏」が馭者にそっと頷き乗り込んだあと、静かに滑り出した。
「如何でしたか、中佐」
車内で待機していた、ちょっと厳つい顔の牡オークが尋ねた。
私服姿だが、国家憲兵隊の曹長である。
ベレリアンド戦争中は上級軍曹だったところを、自己の能力と、上官の推薦で昇進していた。
「うん。先方の意思は確認できたよ」
シェンメル氏は、とても面白い真似だった、もう少し遊んでいたかったなといった表情で頷いた。
「ふふ―――」
「中佐?」
「いや、なんでもない」
先方が送り込んできたメッセンジャーも、彼と同様の様子だったことを思い出していただけである。
文書にも、記録にもしない。
だが、互いにそれなりの地位にある者同士で「会合」を持つ。
今回の件については、それで意思確認をやりあおうという、「約束」であったのだ。
先方が誰であるか、彼は知っていた。
有能な現責任者である将軍の片腕的存在で、「ガーネット・リング」と呼ばれている連中のひとりだと、事前に目を通した資料にはあった。
リングなる偽名はこれに因むのだろう。
大胆な奴だ。
あの顔。あの様子。拙いものを装うことも出来たであろうに、流暢な低地オルク語。
きっと彼も「楽しんでいた」に違いない。
「さあ、ローテンベルガー少将のもとへ報告に行こう」
シェンメル氏―――内務省国家憲兵隊首都管区司令エミール・グラウ中佐は、歌うように上機嫌で告げた。
グロワール第二帝政皇帝デュートネ三世が逝去したのは、星暦八七八年九月一二日のことだ。
死因は、膀胱炎である。
享年、七〇歳。
グロワール帝は、まだ年若いころから漁色家として知られており、荒淫がたたり、悪性の持病となっていたものである。
この前月末、病身を押して軍の視察をやろうとしたところ、激しい腹痛を覚えて倒れた。
診断の結果、鶏卵大の結石が出来ていることが分かり、症状を改善させるには摘出を試みるしかなかった。
しかし、侍医団による二度の摘出手術の甲斐なく容態は悪化。三度目の手術を前にした一一日、危篤状態に陥った。
一時意識を回復し、
「私は、それほど悪い皇帝ではなかっただろう?」
と侍医に尋ね、これが最後の言葉になった、という。
痩せこけ、年老い、憔悴した皇帝の言葉には何処か縋るような響きがあり、諦観と無気力も感じさせ、悲哀な末路ですらあった。
「どうしてあのひとは、せめて演習場で死ななかったの!」
デュートネ三世より一八歳若い皇妃オーギュスティーヌは、絶叫した。
帝が、軍演習の視察に際して無理にも騎乗を試み、出発もままならず斃れたことを、半ば責めるような様子である。
あるいは、
―――英雄デュートネの名を継ぐ者なら、馬に乗ることぐらい平然とこなせ!
というような意味合いを含んでいた。
少なくとも、周囲からはそのように聞こえた。
苛烈な性格である。
若いころ、帝が一目で見初めたのも無理ないと評されたほど麗しい乙女であった皇妃は、年齢を重ねてなお美しかったので、激発すると夜叉のように見えた。
「二本の角が生えた皇妃」と呼んだ臣下もいる。
これには、少しばかり弁解を要するかもしれない。
オーギュスティーヌは、初めからこのような性格をしていたわけではなかった。
夫は、控えめに表現しても「ロクデナシ」だったのだ。少なくとも、世間からの評価は。
―――呆れ返るほどの女好き。
真摯でいてくれたのは、成婚後半年でしかない。
女優。踊り子。高級娼婦。臣下の妻。ブルジョワ階級の娘。好みに合えば、女なら誰にでも手を出す好色家だった。
宮殿に高級娼婦が出入りする、信じられないような光景も珍しくなかった。
聖星教の影響が強い国家イザベリアから嫁ぎ、貞操な宗教観を持っていた皇妃にすれば、我慢できないほどであった。何度も大喧嘩をやり、抵抗している。
―――不安定な権力基盤。
ありとあらゆる政治派閥が入り乱れるグロワールという国で、あちらを支持者にし、こちらを抱え込み、そうかと思えば真逆の勢力を育てようと振舞うといった具合で、まるで
―――外交下手。
タリウス戦争。
新大陸エスタドスへの干渉。
エトルリア独立戦争介入。
道洋進出。
東に政争あらば首を突っ込み、西に戦争が起きれば一枚噛みという塩梅である。上手く行ったならまだしも、失敗したものの方が多い。いったい何がやりたくて介入したのか、さっぱり分からないものまである。
治世の最後にやらかしたのは、魔種族たちの戦争終結に干渉しようとし、忌々しい魔王に切り返されてしまった真似だ。
友邦だったはずのエトルリア王国まで離れ、オルクセンに靡く始末。
―――経済政策の失敗。
帝の失態だけを原因とするわけではないが、首都大改造や産業殖産のために利用していた投資銀行が破綻した。他国まで巻き込むほどの不況に陥ってしまった。
星欧で一早く立ち直ったのは、戦争特需まで利用して発展した、あの魔種族国家。
そして、何よりも不味かったのは―――
民衆の支持を狙って取り払った検閲制度と、新聞の出版自由化が招いた、過剰な政府批判だ。泡を喰って検閲や発禁を復活させ、返って人気を地に落としたとあっては、救いようがない。
「おまけに、無様な死ですって・・・!」
オーギュスティーヌには、夫がなぜ軍の視察を急いたのか、分からないでもなかった。
―――ベレリアンド戦争。
あの魔種族同士の戦争の結果、隣国オルクセンの軍事力が周囲比肩ないものであることが発覚した。
高性能な鋼製後装式野砲に、槓桿式小銃。
巧みな戦略と戦術、兵站を成し遂げた参謀本部という制度。参謀将校。
そして魔種族たちの、飛翔能力、魔術。
世界最強の陸軍国だったはずのグロワールの軍事力が、一挙に霞んでしまうほどのものだった。相対的な安全保障能力は下がり、外交上の影響力まで弱まってしまったのだ。
夫は、軍制改革を構想した。
しかし―――
軍の現状を知った帝は、真っ青になっていた。
オルクセンの、三〇年前のものを模倣した小銃。
彼らの後装砲には及ぶべくもない、青銅製の前装砲。
おまけに弾薬の備蓄がまるで足りない。
叛乱を恐れて衛戍地を固定化させない軍制度の、不具合。
徴兵制にはまるで劣ることが発覚した、国民義勇兵制の常備軍。
コネと贔屓と処世術で出世した将軍連ときたら、演習にさえ妻や愛人を同伴して旅行気分だ。軍用地図も読めない者までいる始末・・・
「なにもかも予想外だ。これでは我が軍は、最初から敗戦しているようなものだ」
タリウス戦争やエスタドス干渉、エトルリア独立戦争への介入で、既にグロワール軍の弱点に気づきかけていた夫は、絶望していた。
そのうえ議会は、デュートネ三世の発議した軍制改革を不要のものとした。エトルリア統一戦争への介入時、近代戦の萌芽ともいうべき凄惨な犠牲を出したため、国内には軍事を厭う空気が醸成されていたからだ。
常備軍の増強は認められず、それどころか兵役期間の短縮のみを可決した。これでは軍拡ではなく、軍縮である。
だから帝は、せめて軍の士気を鼓舞しようと演習視察に向かうつもりになり―――
そして死んだ。
「また、意図とは裏目の結果になったわね、あなた・・・ 挙句、民衆から見れば無様に死んだというのならば・・・」
悲嘆にくれるオーギュスティーヌは、夫の持病が酷く悪化した数年前から、彼の指名で摂政を務めている。
夫の身内は、デュートネの血を引きながら政敵となった者、あるいは決闘に伴う揉め事から仲介者を不意に射殺してしまうスキャンダラスな愚か者といった具合だったから、皇妃である彼女が政治に口を挟むしか、やり様がなくなっていたのだ。
共和派や議会との間を繋ぐ存在だった、腹心の穏健政治家が数年前に死去していたことも、帝室の藩屏を薄くしていた。
オーギュスティーヌにとって唯一の希望である皇太子はまだ若く、キャメロットの陸軍士官学校に留学中である・・・
「皇妃様―――」
侍女のなかでは気丈な者が、おずおずとやって来た。
真っ青になっていた。
「市内の民衆が・・・・・・」
オルクセン王国在グロワール公使館員マルティン・ヴェルツ参事官は、グロワール帝崩御が発表された一三日、首都リュテス内の様子を見て回っている。
既に、帝が倒れたという報道のあった前月末より市中には不穏な空気が漂い、富裕層のなかにはリュテスを脱出する者たちもいた。
この前夜、市中各所には、共和制の復活を訴えるビラが張り出され、集会所には市民たちが詰めかけ、盛んに気炎を吐くという様相である。
「なんてこった・・・ こいつは革命じゃないか」
ヴェルツが、リュテス七区のコオペレイション広場を抜け、天を突く針のようなオベリスクを眺めやりつつ、ボーヌ川の大橋を渡ると、国民評議会議場に多数の市民が詰めかけていた。
その数、一〇万は下るまいと思えるほどの膨大なものだ。
ブルジョワ階級。庶民層。労働者たち。主婦などもいる。
ヴェルツが偶にラテを楽しんでいた近くのカフェは、固く戸を閉ざしていた。
「大馬鹿の好色皇帝!」
「イザベリア女を倒せ!」
「共和制ばんざい!」
皆、口々にデュートネ三世や皇妃オーギュスティーヌへの批難と、公職選挙の早期実施を訴えている。
とくに、亡くなったばかりの帝を罵ること、甚だしい。
その熱気たるや、ヴェルツのような外国人が―――ましてや魔種族の者が容易に近づけるものではなかった。
市内どこもかしこもが、同様である。
大通りは共和制復活を叫ぶ市民で溢れ、労働者階層の多い地区ではバリケードまで出来上がっていた。
街路の石畳を剥がして、街路樹を倒し、近在の家屋から古家具なども持ち出して積み上げ、通りを塞いでしまうのだ。
グロワールで過去起こった革命や政変でも、よく見られた光景である。
名高い首都大改造は、こういった騒ぎを起こしにくくすることもその目的の一つであったというが、市民たちの熱狂を前には、まるで意味を成さなかったというわけだ。
軍や警察は、鎮圧に動いていなかった。
リュテスの治安を司る軍事総督は、何らの命令も発していない、という。
―――様子見か。
グロワールの政治は、複雑怪奇である。
共和派でありながら、デュートネ三世の治世を支えた勢力。
アルベール・デュートネを信奉するデューティネストであるにも関わらず、共和左派と結びついた者。
宗教界も一枚岩ではない。デュートネ三世が過去実施した、聖星教を教育から切り離す政教分離政策により、現体制へ敵対的なのは確かだ。だが三世の治世衰退に合わせて政治に食い込み、改革案を骨抜きにした者たち、皇妃を通じて影響力を増した連中もいる。
―――デュートネ三世が、傍目からは何を考えているのか分からない男だった影響もある。
彼は、右派だろうが左派だろうが、何でも利用した。
そもそもデュートネ三世は、国民の熱狂的支持により選挙で大統領となり、議会へのクーデターを起こして皇帝となった男だ。
帝政初期は言論を統制するほど権威的で、やがて政治的な敵対勢力にまで代議士立候補を認めるほど自由主義的な現状に至るという、奇怪極まる治世を歩んだ。
非常に狡猾な男だと、しぶしぶながら認める敵対者も多い。
少なくとも、帝政開始後の約一〇年間は、何もかも上手くいっていたことも間違いなかった。
万博の開催。産業殖産。幾つかの軍事的、外交的勝利。貧困層の解消。国内政治勢力の取り込み。
その結果オルクセンは、グロワール帝と、彼に率いられたグロワールを恐れた。人間族最大の敵だと見なしてきた。デュートネ戦争以来の仮想敵国という歴史的背景に、現実的な脅威度を齎したのが、グロワール帝なのだ。
―――例えば。
オルクセン国軍参謀本部が、鉄道利用と動員体制を真剣に弄りまわすようになった理由の一つは、二〇年前にグロワールが実施したエトルリア統一戦争への介入にあるのだ。
だからヴェルツには、眼前の光景が俄には信じられない。
市民たちの姿が、あまりにも節操のない様子に思えたのである。
午後、友誼のあるグロワール陸軍リシャール中佐と会うことができ、ヴェルツは尋ねずにはいられなかった。
「貴方がたグロワール国民は、グロワール帝から恩恵も受けたはずだ。それが、どうしてここまで・・・」
「仰るとおりです―――」
中佐は頷いた。
「ですが、いまや帝は国民の敵。怨恨は全て、プラトリエに帰していて救いようがない―――」
プラトリエというのは、グロワール帝の渾名だ。
あまり好意的なものではない。
「左官」という意味で、若いころにクーデターを起こして失敗、収監されていたとき、出入りの左官を身代わりに脱獄に成功した故事に由来する。
「あまりにも失策が多すぎた。こんにち、市民の様子はここまで来ているのです」
ヴェルツさん、貴方も御覧になったでしょうといった調子で、中佐は、なかでも近年の不況下で起こったストライキ鎮圧が不味かったと述べた。
パンテールローズ重工社クルーゾー工場で起こった大規模なもので、鎮めるために軍隊まで投入した。しかも労働者の地位向上は、皇帝自らが約したものであったのだ。これが反政府運動にまで結びつきそうだと見るや、一転、腹心だった内相が苛烈な対応を取った。
この動きを、反政府系報道紙が舌鋒鋭く非難し、政府攻撃の材料とした。
一般市民に至るまで「プラトリエ」の渾名が流布したのは、苛烈な報道の結果に依る。
報道紙の自由な出版もまた、グロワール帝が政策のひとつとして打ち出したものであったにも関わらず、検閲や発禁処分を復活せざるを得なかった。
当然ながら、議会はこれを責める。
腹心の内相はこの結果、辞職していた。
グロワール帝にしてみれば、自らの政策によって国民の反感を買い、腹心まで失う結果になってしまった―――
老化か。病か。
いずれが理由にしろ、帝の治世にはこのような「裏目」ばかりが目立つようになった。
諦観と、無気力と、無関心とが帝を支配するようになったのだ。
「ひとつひとつは、些末なことでしかないのかもしれない―――」
だが最早、誰も帝政の継続など望んでいないと、中佐は締めくくった。
「では、貴方も共和制の支持を?」
ヴェルツが尋ねると、中佐は、
「問題は、誰が新体制を率いるのか、です。立派な奴、人望のある奴もいますが。いずれも他者とは対立関係にある―――」
中佐自身が一種の諦観に支配されているように、ヴェルツには見えた。
「見ていなさい。帝政を追い出したら、きっと次は共和派同士で争い始めますよ」
オルクセンは、対グロワール情勢についての感覚を鋭くした。
元々彼らにとって、人間族諸国家中、最大の仮想敵国である。
グロワール内には、実に様々な情報網を巡らせてあった。
外務省は、公使館からの報告を重視するとともに、リュテスに隠居者の身分で在住していた元ベルグンド州知事、ヘルマン・ドナースマルクを使った。
ドナースマルクは、コボルト族シェパード種。一個の存在としてはオルクセン第二位とも称されていた富豪である。
彼は、リュテスの社交界でも名高い存在であったロヴァルナ出身の人間族高級娼婦を愛人にし、この絶世の美女テレーズに贅を極めた豪邸を贈り、日夜、社交に努めていた。
エリゼ大通りの豪邸でテレーズの開くサロンには、グロワールの報道界、芸術界、インテリ層の著名人が集まり、政府内や政治勢力の内情を大声で語り合うようになった。
そしてその内容は、ドナースマルクを通じてオルクセン本国へと筒抜けになっていたのである。
国軍参謀本部は、兵要地誌局が軍事諜報組織としての能力を遺憾なく発揮して、長年に渡ってグロワール内に諜報網を構築していた。
現地中心を担っていたのは、シモーニデス社という、地裂海ヘレニア資本の貿易会社である。
同社の代表グレゴリオス・シモーニデスなる人物は、元々、オルクセン国内で逮捕されたヘレニア人の詐欺師だった。
無罪放免にする見返りに、リュテスに貿易会社を開かせ、一〇万ラングという資金を与え、諜報拠点としていたのだ。
信じられないことだが―――
このころ、オルクセンがグロワールに配置していた軍事諜報網は、末端まで含めて三万五〇〇〇名を数えた。
その殆どが、己がオルクセンに雇用されていることなど露ほども気づいていない、グロワールの一般市民である。
繁忙期に雇用される農夫。ワイン商。雑貨商。
彼らはグロワール全土に散らばり、グロワール軍の内情、配置、果ては多量の牛を飼う牧場は何処かといった情報までを吸収され、利用されていた。
諜報活動というものは、その大半が地味なものだ。
何処かの軍施設に侵入するであるとか、政府の金庫から機密書類を奪うであるとか、信じられないほどの大物を買収するであるとか。そんなことは滅多に起こらない。
凄腕の諜報員の存在なども、夢物語に近い。
内容の大半は、地味極まりないように思える、報道紙や目撃談、会話内容の収集。そしてその分析といった作業である。分析にあたる者たちは、まるで役所の官吏と変わらない存在だ。
だが、そのような「地味」な作業にこそ本当の効果がある。
三万五〇〇〇名という数は、この重みと充実、現実性であった。
であるから―――
オルクセン国軍参謀本部は、グロワール内の政情不安を他国に先駆けて掴み、
「・・・グロワール南部が、中央政権の統制下に入っていないだと?」
兵要地誌局長カール・ローテンベルガー少将は、重大な兆候を捉えた。
南部諸地域で、共和派や労働組織が蜂起し、各地の市庁舎や議会を占拠。半ば独立したような格好になっているという。
同時に、オルクセン外務省在グロワール公使アルニムは、
「共和制支持市民が国民評議会を占拠。共和制復活と権限移譲を迫られた皇妃オーギュスティーヌが、これを拒絶―――」
受けて、帝政協力の共和派政治家リオレが首班を務めていた内閣は総辞職。
オーギュスティーヌは、華国との戦争で有名を馳せたクリパオ将軍を臨時首班に指名し、同時に治安維持の戒厳令を布告した、という情勢報告を齎した。
一四日のことである。
この時点でオルクセンにとって懸念材料であったのは、両国の国境部に近いグロワール軍シャルソーヌ兵営に、演習に備えたものだった兵力がどうやら集結したままになっていたこと。
そして、革命となればオルクセン側に向かって多量の亡命者が押し寄せかねないことであった。
当然ながらグロワール軍としては、静止もすれば鎮圧も行うであろう。
つまり、国境部で不測の事態が生じかねない・・・
同日夕刻―――
「・・・二号計画で間違いないな?」
グスタフ・ファルケンハインは、国王官邸執務室で国軍参謀本部参謀総長ゼーベック、同次長グレーベンを前にしていた。
「はい、陛下」
「・・・・・・よろしい」
グスタフは長く沈思したのち、命令書にサインをした。
国軍参謀本部作戦計画二号。
オルクセンの対外戦争計画のうち、対グロワール戦を睨んだ内容の一つ、国土防衛を主眼に置いた作戦案の発動に勅許を与えたことになる。
―――オルクセン西部国境地帯に、総計約三〇万の兵力動員が始まった。
(続)
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