随想録21 官吏たちの夏
例年八月の第一週が終わると、首都ヴィルトシュヴァインの中央省庁官吏たちは、多忙を極める。
夏季休暇を終えた者たちが一斉に戻ってきて、年度内スケジュールの一大行事―――次年度予算の閣議決定に臨むからだ。
オルクセンにおける予算成立過程は、遡れば年度頭の一月からもう始まっている。
まず、年次経済状況の予測と、財務省による税収見積もりが立てられる。
三月には、各省予算基準値の閣議決定。
四月、各省の概算要求。
五月から六月、財務省と各省の予算交渉。
そして七月から八月一杯を使って、最終調整。九月に夏季休暇が明ける国王グスタフの首都帰還を待ち、次年度予算閣議決定に臨む―――
議会を持たないオルクセンにとって、閣議決定は、これ即ち国政上の最終審査となる。
つまり、下準備が重要だ。
次官以下、各省の官吏たちは、八月第二週辺りまで休暇を取る大臣へのレクチャーや、各部局間調整、資料準備に追われることになる、というわけだ。
「いやあ、参った、参った・・・」
フュクシュテルン大通り北側にある農林省で呻いていたのは、同省次官シュヴァーデンである。オーク族。
シュヴァーデンのオフィスは、省庁次官の類型から外れていない。
重厚な執務机。オルクセンらしく装飾は過剰ではない。脚の一部に象嵌がある程度。
インク壺とペン差し。
卓上カレンダー。
革張りの椅子。
高級絨毯。
書架とマントルピース。ただし暖炉は装飾目的であり、冬場でも火を焚かれたことはない。冷暖房の実態を担っているのは、冷却系刻印式魔術の金属板付き空調と、蒸気式ラジエーターだ。
広い室内の一隅を占める、応接用のソファセット。各州や関連団体からの来訪者―――シュヴァーデンとしても無視出来ないような地位にある、陳情者や後援者などに使う。
幾枚かの絵画。来客の目を和ませるというよりは、習慣として飾られているという程度なので、それほど高級なものではない。シュヴァーデンの場合、農林省に関係させて、田舎の田園風景である―――
官僚の栄達としては最高峰である地位に相応しい程度には立派で、かといって大臣室ほどは豪奢ではない範囲に苦心して抑え込んである、そんなところだ。
シュヴァーデンは、農林大臣ブレンターノの部屋から戻ったところだった。
「それでは、次官・・・?」
待ち構えていた農政局長に、頷く。
「うん。まあ、そういうことだ」
ブレンターノは、大臣の署名入り決済書類を示した。
農林省臨時会計費七七五万ラング支出を、大臣決済した内容である。
―――フィロキセラ禍対策緊急臨時予算。
用途は、その殆どが農林省調達の重炭酸カリウム購入費だ。
例え災厄が生じたのだとしても、本来なら、各地の葡萄栽培農家協同組合が、普段の肥料や防除薬と同じように購入するのが筋である。
だが余りにも一挙に需要が増えたため、製造元のヴェスコット化学としては生産ラインを手当しなければならなくなった。設備投資、臨時職工雇用の必要性が見込まれる。
果たして一企業としてそれほどの投資をやって、回収できるかどうか。
懸念を抱くのも当然といえた。
そこで農林省で一括購入し、製造企業側の懸念を晴らしてやりつつ、各地の協同組合へ卸すことになったのだ。
これは、
臨時会計支出自体は、問題なく処理が進んだ。
この種の措置としては、極めて速やかに済んだほどだ。農業協同組合や地方自治体も、手早く救援及び義捐金給付に動いていた。ワイン生産地域に国王自ら乗り込み、あれこれ現場から指示を下したことが大きい。
ありがたいことだ。
シュヴァーデン以下農林官僚たちを弱らせたのは、来年度予算編成の最終段階というべきこの時期になって、フィロキセラ禍が生じたことである。
つまり、臨時会計支出に伴う実務の数々と同時並行で、来年度予算の修正が必要になったのだ。
オルクセンにおける予算編成は、現場要望から積み上げていくボトムアップ型ではなく、財務省が音頭をとって概算要求前に各省予算の大括りを割り振ってしまう、トップダウン型だ。
おまけに補整予算を組むという方法は、余程の事態―――有事でもなければ採られない。
つまり、予算編成最終段階での修正は容易ではない。
そのぶん、各省には臨時会計費も割り当てられているが―――
しかも弱ったことに、戦時予算編成だった昨年度までと違い、平時の予算体制へと転換が図られている真っ最中だった。
国の財政を預かる財務省の、「財布の紐」は固くなっている。
より正確に言えば、使途を選ぶようになっている、といったところか。
フィロキセラ禍対策など、財務省の連中も内心では必要性を認めているから、あとは官僚機構としての前例であるとか、慣習であるとか、文書主義上の必要事項を満たすであるといった「理屈」を与えればいい。
この「理屈」を資料面や周辺調整で裏打ちさせるのが、シュヴァーデンらの仕事というわけだ。
「予備費も含めて、二二〇〇万ラングだったな?」
「はい」
「うん、ともかく資料作成を急いでくれ。私はちょっと出てくる」
シュヴァーデンは懐中時計を確認し、立ち上がると、帽子掛けからトップハットを手に取った。
どうにか昼食には間に合う。
腹が減っているという理由だけではなかった。
彼は、ヴィルヘルミーネ通りにある「パストラール」という会員制倶楽部で昼食を摂ることが多いが、この紳士倶楽部には財務省の次官も名を連ねている。
高級官僚同士に、真の友情関係など成立しない。
しかし、互いの付き合いはまあまあと言ったところ。
正規の打ち合わせを前に、幾らか水面下での交渉などと称されるものを済ませておきたかった。
他所の官庁なら大臣がそういった役目を負ってくれるのだが、農林省の現トップは学者だ。
―――まあ、我が大臣は性格としても学者としても本当にいい方なのだが。
そのぶん、私がカバーしなければ。
農林省のためにも。私のためにも。
「いずれにしても・・・」
「はい、次官?」
「君たちと議論することは出来ても、胃袋と議論することは難しいからな」
首都ヴィルトシュヴァイン、フランツィスカ通り。
フュクシュテルン大通りから南へ二本逸れた同地にある、レストラン「ベルングルド」。
素晴らしい仔牛の腰部肉の冷製ゼリー添えが運ばれてきて、クルト・ストロンベルグは空になったワイングラスをテーブル脇に置いた。
特に何も命じずとも、すかさず給仕が
「・・・すると。陛下の首都御帰還は九月第二週頭あたりになる、と?」
ストロンベルグは、オーク族としては珍しく重々しい声で尋ねた。
この国第三位の海運会社、オルクセン海事貿易を率いるに相応しい態度と物腰である。
「ええ―――」
商務省海運局長は頷く。
「例の葡萄疫病の対策委員会が農林省に立ち上がったので。あとを引き継ぎ、いまはヴァンデン・バーデンの保養地に御滞在中だそうです」
海運局長は、少しばかり緊張を覚えていた。
相対しているストロンベルグには、他者を圧するようなところがある。
アフェルカ大陸東岸―――バラジバル島を拠点に、現地とオルクセンの交易を一社で占めるまでに自社を育てあげた大立者。希代の海運業者だ。
現地のスルタンと契約を結び、勅許を得て、東岸部一帯を取り仕切っている。
あちらからは、象牙、コーパル、クローブ。
星欧や他地域からは、兵器、弾薬、ビーズ。
その影響力たるや、アフェルカ大陸の内陸部リンバニ地方一帯にまで及ぶという凄まじいものだ。バランジバル島には自社所有の船渠まで造っていた。
所有船舶は七隻と少ないが、いずれも大型なうえ、汽帆走化しており、エッセウス運河を利用して地裂海方面へも進出している。
そして、熱心な海外植民地獲得論者でもあった。
オルクセンの国威を発揚させ、より国益を高めるには必要不可欠である、と。
「・・・ふむ―――」
ストロンベルグは沈思した。
「それでは、外地巡洋艦戦隊のエッセウス運河通過には間に合いませんな」
「ええ・・・」
外地巡洋艦戦隊は、地裂海のエトルリア王国タレントゥム港を表敬訪問後、同地を出港、もう地裂海全てを横断しきってしまおうとしている。
ストロンベルグとしては、面白くない。
彼は海軍省や商務省に働きかけ、一隻でも構わないから、オルクセン軍艦にアフェルカ東部を訪問して貰えないかと、要望していたのだ。
外地巡洋艦戦隊の担当任務地は、実はかなり広範だ。
最終的な赴任地である華国沿岸だけでなく、エレッセア運河以東のオルクセン権益地の全て―――つまりはアフェルカ、マウリア、道洋南遥諸島まで含まれる。
だから彼らは「道洋巡洋艦戦隊」ではなく、「外地巡洋艦戦隊」を名乗っていた。
たった四隻の旧式巡洋艦には余りにも広い受け持ち地域だが、所帯の小さなオルクセン海軍としては、やむを得ないところでもあった。一応は、道洋以外の地域はあくまで補助的な任務とはされている。
その外地巡洋艦戦隊が、予定寄港地にアフェルカ東岸を入れないままエッセウス運河を横断してしまえば―――
あとは砂漠の国の寄港地を経て、マウリア海を渡り、道洋に向かってしまう。
もはや、ストロンベルグの要望を叶える時間的余裕は無いことを意味した。
海軍省に考えを改めさせ、寄港地の変更を命じることの出来るような者は、グスタフ王だけであるからだ。
「まあ、やむを得ないでしょう―――」
海運局長は、ストロンベルグを宥めにかかった。
やれやれ、せっかく珠玉の料理を出すことで有名な店に招かれているのだ、もっと食事に専念したいぜ、と内心に潜ませている。
彼の見るところ、グスタフ王は、海外植民地や保護領の獲得にはまるで消極的だ。
過去を含め、ずっとそのような考え方をしてきたし、オルクセンの国家方針としても同様であり続けてきた。
確かにベレリアンド戦争終結後になって外地巡洋艦戦隊の編成を命じはしたが、それはあくまで海外交易地の治安維持と国際協調を目的としたものであり、何処かの国や、港や街を占領してしまえなどという考えに依るものではなかった。
「仮に、アフェルカ東部を含む担当地域で何かがあれば、そのときは海軍も艦を送るでしょう。ご安心下さい」
「・・・なるほど―――」
ストロンベルグは頷いた。
「
グスタフ・ファルケンハインは、九月六日になって首都に帰還した。
あまり休めたという自覚はない。
一週間ほど夏季休暇を延長させてもらったが、実質的に休暇期間の殆どを西部のワイン産地にいた。
―――国家にも、休暇を楽しみにしていたディネルースにも、申し訳ないことをしてしまった。
と、思っている。
国を治める者が、何かの変事があったからといって直接現場に赴くのは、必ずしも良い結果ばかりを齎すとは限らないからだ。
統治機構がある以上、現場の者に全てを任せ、己のような者は決断を下す立場に徹し、責任を負う姿勢に専念すべきだったのかもしれない。
夏季休暇中であったこと、自身が農学者であること、詳細が不明であったこと等を考慮しても、為政者としては正しい決断だったのだろうか・・・
ディネルースはといえば、意外なことに随分と機嫌が良かった。
彼女はきっぱりと、
「私たちの仕事が果たせたではないか。貴方が赴かなければ、きっとあれほど迅速な対策など立てられなかった。あとを任せることは出来たのだから、良しとしよう」
と、グスタフを励ました。
そんな妻の様子と、ワイン農家たちが一筋の光明を得た様子とが、グスタフには救いになっている。
彼はこのとき気づいていなかったが、ディネルースの明朗で快活な態度には、実は別の理由もあった。
彼女は、葡萄不作の第一報を耳にしたとき、当初その理由を天候に依るものではないかと思った。
この年は、暑さが厳しかった。
だから―――
葡萄栽培の機微を知らなかったディネルースは、グスタフが「あの魔術」を使うのではないかと、内心で大変動揺していたのだ。
己も連れていってくれと彼に懇願したのは、夫があの術を使おうとしたら、全身全霊で止めるつもりだったのである。
しかし、彼女の懸念は杞憂に終わった。
だから、休暇の多くが潰れてしまったことなど、己自身はまるで気にしていなかった。
むしろ、夫をもう少し静養させてやりたかったと願っていたくらいである。
本心としても、ワイン農家たちと触れ合い、彼らの真摯でひたむきな姿勢や産物に接し、幾らかは励ますこともでき、王族として義務を果たせた―――例え僅かでも夫の助けになれたと判断していた。
執事長アルベルトや司厨部も、懸命にグスタフを支えた。
疲労を回復してもらおうと、グスタフの好む甘いデザートを用意している。
王がとくに気に入ったのは、果物入りクリームの冷製プティングだ。
たっぷりとした牛乳、卵黄、砂糖、板ゼラチン、ヴァニラ、生クリームを使って仕上げる。これだけでも立派な品であるところへ、季節の桃、洋梨、林檎といった果物を飾りにし、生のものだけでなくシロップによる甘煮も添える。これを良く冷やして供した。
司厨部菓子担当のユーハイムに言わせるなら、絶品に仕上げるコツは「板ゼラチンで固めるという意識は捨てること」。あくまで「卵黄で固める」。
実は彼らは、ディネルースやアルベルトなどとも相談をし、もうひとつの配慮もしている。これほどふんだんにフルーツを使いながら、葡萄も、干し葡萄も用いなかったのだ。
例え一時のことでも、王にはフィロキセラ禍を忘れてほしかったのである。統治者である以上、彼はすぐに向き直るだろうが、料理とは癒しでなければならない―――
その甘味、濃厚、舌触り。
豊潤な香り。
爽涼も含んでいる。
「おお、おお・・・」
グスタフは目を細め、絶品のデザートを余さず平らげたものだった。
愛する者たちの配慮に満ちた支えもあり、彼は国王としても重大な政務の一つである、次年度予算の閣議決定に臨んだ。
オルクセンほどの国家ともなると、閣議にかけられた時点で審議内容の大筋は決まっている。官僚たちの膨大な努力や、調整や、根回しの結果、余程の事がない限り大きな変更は無い。規定路線の事後承認となる。
それでも、議会を持たぬオルクセンにとって国政意思決定における最終機関の役割を閣議は負っていたから、気を抜いてよいというものではなかった。
国王官邸の、重厚な大理石造りの閣議室には、各省大臣が大机を囲み、壁際に並べられた椅子には、ずらりと次官たちも集う。
来年度国家歳入見込み、一四億二二一五万ラング。
来年度予算案、一四億七七六一万ラング。
本年度剰余金が約五〇〇〇万ラングになりそうであるから、ほぼ財政収支の均衡は取れている。ベレリアンド戦争の戦費処理、半島占領の予算も含んでいるのだから、見事なものだった。
オルクセンという国家の歳入が潤沢となり、安定して、もう一〇年以上になる。
デュートネ戦争の賠償金獲得以来、国家予算を国内に注ぎ込み続け、産業を育て、国を富ませてきた結果に依るが―――
実は、税制が非常に優れていたことも大きい。
星欧列商の例に漏れず、歳入の柱は関税や酒税、タバコ税などに代表される間接税である。
これに加えて、世界初の近代的な所得税を導入し、国家歳入の一翼としていた。
オルクセンで近代的所得税の制度が生まれたことには、無論、理由がある。
国是として農地の開墾や農業収穫量の増産を目指す以上、他国のように地租に頼った税制に依存できなかったからだ。魔種族の長大な寿命を思えば、相続税も当てにできない。
徴兵制度を整えるにあたって同時並行的に発達した戸籍の活用も、明瞭で公平な税制の導入を助けた。
驚くべきことに、既に累進課税の考え方まで取り込まれていた。
簡単に言えば、稼ぎの大きな者ほど、税金を納めるという方法だ。
後年、近代税制として当たり前となるこれらのやり方は、貴族による大規模土地所有や、特権階級の維持のため、他国では容易に導入できるものではなく、オルクセンのやり方は異常も異常、随分と先進的だった。
そして、このように安定した歳入を、また国内資本に投入する―――
議題である歳出へ目を向けてみると、
「官業費、五億六五四万ラングか。例年通りと言ったところだな」
つまり国家歳出の約三分の一が、郵便、鉄道、電信、官有林や官有地、官営鉱山、王立磁器製陶所などの予算である。自由主義的な商業を重んじるキャメロットなどからすると、信じられないほどの比率だ。
これらは官業収入として国家歳入ともなり、その利益率は国営事業の常としてあまり高いものではなかったが、マイナスにはなっていない。郵便事業のように当初は赤字であった事業もあるが、たゆまぬ努力と、取扱量の増加により全てが黒字化している。
ここ近年でいえば、約五億を投入して、六億の歳入がある。差し引き一億ラングの「利益」である。
歳出は他に、国債の償還及び利子支払いに約七パーセント、行政費に約三〇パーセント、八つある地方州への交付金が約一八パーセント、そして臨時経費的な存在である特別会計に約一一パーセントだ。
うち、正規の予算と臨時軍事会計費を合わせたオルクセンの軍事費は、歳出のうち約二〇パーセントを占める。
これは星欧列商各国のなかでも高い比率であり、「軍隊が国家を動かしている」とされたオルクセンらしい潤沢な予算だった。おまけに、こと軍事費に関して言えば、国防法に基づき七年に一度の見直しを迎えるまで、平時においても、この大枠に変更は無い。
軍事力整備に、一体性と継続性を持たせるための政策だ。
伊達に精強無比な軍隊を維持しているわけではなかった。
ただし、
「少し海軍特別費が増えたな、クネルスドルフ?」
「建艦予算を御裁可頂きましたので」
「うん。それでも農林省並みだが・・・ すまん、苦労をかけるな」
農林省予算の総額と、海軍省予算総額がほぼ拮抗していたところが、如何にも陸軍国にして農業大国のオルクセンらしかった。オルクセンの国内産業比率でいえば、三〇パーセントまでが農業関連であるから、当然といえば当然といえたが。
次年度予算案のなかで目を引いたのは、特別会計の一部として計上された「運河建設調査費」だ。
これは全く新設の項目であったから、所管する内務省国土局の局長が出席して、閣僚たちへの説明が行われた。
―――シルヴァン運河の建設調査費。
グスタフ肝煎りの計画として開始される、国家規模の大事業だ。
ベレリアンド半島の根幹に流れる、東西約二五〇キロのシルヴァン川を利用する。
中央分水嶺迂回路。浚渫。干満差に対応するため東西両河口に設置する閘門。中央分水嶺附近には、巨大な水力発電所も建設する計画だ。
「完成の暁には、北海の海上交通は劇的に便利なものとなります。また、ベレリアンド半島南部に安定した電力を供給。副次的効果としては白エルフ族の自尊心を破壊しつつ、彼女たちの雇用創出も可能になるかと」
まずはその調査測量費用として、一〇七万ラングを計上する―――
「中央分水嶺一帯では、困難も予想されるだろうが。ひとつ、よろしく頼む」
グスタフは、局長に頷いた。
審議は約一週間に渡って実施され、大過なく九月一三日に閣議決定をみた。
他国から見れば驚くべきことかもしれないが―――
この間、王室費の審議すら行われている。
他国なら王室費の中身など不可侵にして非公開といったところだが、グスタフは収支まで包み隠さなかった。
来年度王室関係費、四六〇万ラング。
本来は年間四〇〇万ラングなのだが、国の発展に寄与するとグスタフが判断した官営事業の公債、あるいは民間企業の社債や株式を購入しているうちに、彼自身の財産は年々増える傾向にあった。ヴァンデン・バーデン離宮にある森林の、営林事業収入などもある。
「・・・何とか、せめて超過分だけでも国庫に返納できないものかな」
「何を仰います・・・」
これもまた、毎年の「儀式」のようなものでもあった―――
全ての審議が完了すると、グスタフ以下、全閣僚の署名が正副二冊の予算書に施され、財務大臣マクシミリアン・リストが受領した。
オルクセンの法制度に従えば、この予算案は一二月一日に政府布告され、正式のものとなる仕組みだ。
「ご苦労でした」
グスタフは長年の習慣として、次官たちを含む全員を労い、ビュッフェ形式の昼食とともに、シャンパンを振舞った。
官僚たちの夏は、終わったわけである。
ふだんは真面目極まりない彼らも、この日ばかりは過ぎ去った苦労を思い、ただし決して節度を失わないソフィスティケイトされた物腰で、談笑に華を咲かせた。
彼らを喜ばせ、また感動させたのは、王妃ディネルースが昼食会に現れ、社交的な応接役を務めてくれたことだ。
「なんとか本年の残りは、恙なく過ぎて貰いたいものだ」
「ああ。今年は色々ありすぎた」
彼らは、ほっと肩の荷を下ろしていたが―――
滅多なことは、口にしないのが吉というものだった。
外務官僚のひとりが、国王副官ダンヴィッツ中佐に伴われてやってきたときには、なにしろ司厨部のコックや給仕なども出入りしていたから、まだ誰も変事の発生には気づいていなかった。
官僚は、そっと外務次官ラーベンマルクのところへ行き、何かを耳元に囁き。
ラーベンマルクは、それまで談笑していた商務次官を前に、顔色を変えた。
彼が外務大臣クレメンス・ビューローへ駆け寄ったころには、もう察しの良い連中は、何があったのだ、いったい何事だろうと眉を寄せ、臓腑の辺りに痛みのような悪寒を覚えていた。
官僚たちは、官僚であるがゆえに、このような席で緊急の報せを耳打ちされるなど、そして上司に報告しなければならないなど、間違っても一生に一度たりとも経験したくないものだと、ラーベンマルクへ同情していたのだ。
そして彼には悪いが、そのような立場が己でなくて良かったと、安堵していた。
例え己が省庁に関連のある何かだったとしても、ともかくは所管官庁ではない―――
「・・・みんな、聞いてくれ―――」
ビューローから何事かを報告されたグスタフが、周囲に告げた。
彼らの王は、生真面目極まりない表情をしていた。
あれほど晴れやかだった場が、嘘のように静まり返った。
「グロワール帝が崩御した。そして、かの国の首都リュテスは革命騒ぎになっているらしい。民衆が蜂起した、と。在リュテス公使館から報せがあった」
(続)
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