随想録20 フィロキセラ禍

 ―――「ワインは生き物だ」という。

 ディネルース・アンダリエルは、ヴァーゲ家を訪れていた。

 二階建てに、屋根裏が一階ある、慎ましい母屋。一体となった厩。そして別棟の醸造所だ。オレンジ色をしたスレート屋根、白漆喰の壁が美しい。荷役や作業のためもあって、前庭は広い。大きな楡の木が一本、どっしりと立っていた。

 オルクセンでは所有農地一〇〇ヘクタール以下のワイン農家は中小規模とされているから、概ねゴルトシッフェの農家は似たような見た目をしている。

 ワイン醸造所を見せて貰った。

 地下の醸造室に、巨大な一二〇〇リットルの樽シュトゥックファスと、六〇〇リットルの樽ハルプシュトゥックとが、整然と並んでいる。

 正確にいえば発酵室と熟成室に分かれていて、床はしっかりとした石畳である。何百年と踏み固められてきたに違いない。天井は、半円アーチを描く石造り。室内は薄暗かったが、壁に幾つかのランプと、巨大な樽には燭台がついていて、蝋燭が灯せるようになっている。

 横に寝かされた大樽の、鏡板の部分をついコツコツと叩きたくなってしまう。

 だが、決してやってはいけないらしい。

 いま、ワインたちは「眠っている」。叩けば、「起きてしまう」。

 これほど沢山の樽が並んでいても、極上品になるのはほんの僅かな量でしかない。

 カビネット、シュペートレーゼ、アウスレーゼ、ベーレンアウスレーゼ、そしてトロッケンベーレンアウスレーゼ。

 オルクセンの誇る偉大な発明家が、比重を利用した糖度分析法を考案し、簡単に計測と分類が行えるようになって以来、そしてワイン法と呼ばれる法整備が行われて以来、現状、オルクセンには「格付け上質ワイン」として五つの分類がある。

 この更に下に、安価なテーブルワインターフェルヴァインがあり、流通量としてはこちらのほうが遥かに多い。

「豊作の年のワインも、不作の年のワインもそれなりに売れる」

 と、オルクセンのワイン農家たちは熟練の者であるほど口にする。

 これは彼ら流の、非常に誤解を招きやすい言葉である。

「どれほど苦しくとも、やがて豊穣の大地は均衡を図ってくれる」

 というような意味に近い。

 オルクセンでは、テーブルワインには醸造段階で甘味を与えるための砂糖や、酸化による腐敗を防止するための水の添加が許されている。

 ただし、これらは決して「格付け上質ワイン」を名乗れないし、所謂「天然もの」ではないと見なされ、ワイン仲買商たちが樽単位で買っていく。

 場合によっては更に仲買商たちの手によりブレンドされ、瓶詰が施されて、ほぼ全てが国内庶民層の日常用ワインとして消えるわけだ。

 極めて当然のことであるが、ワイン農家は「商売」だ。

 霜害などで、不作、不良の年もある。

 売上の過半を占めているのは、大量に生産でき、「悪いワイン」も売り物に変えてしまうテーブルワインなのだ。

 熟練した農家であるほど、「単価に樽の数を掛ける」。

 世の大半のワイン農家にとって、「良い葡萄畑」とは沢山の葡萄をつけてくれる畑であり、「良いワイン職人」とは大量の樽を生み出せる職人のことなのである―――

 一方で、とある年など極めて豊年で、ヴァーゲ家では大樽に四〇樽近くもワインを拵えることが出来たという。一ヘクタール当たり、九五ヘクトリットルという収穫量は、ちょっと記録的だった。

 良いことのようで、しかしこの年の質については全国的に余り良い出来ではなく、多くの樽がテーブルワインに回ってしまい、値崩れを起こした。ワイン仲買商たちも商売だから、安く買い叩いて高く売ろうとするのは当然のことなのだ。

 ―――自然はそんな真似もする。

 本当の意味で地元消費にしか供されない、つまり世にはまるで知られていない、もっと「別の飲み物」も存在した。

 熟成樽からワインが取り出され、瓶詰されると、あとには残液や澱がある。ここへ一二〇〇リットルの大樽一つにつきジョウロで四杯の水を注ぎ込む。流れおちたジュース状のものが、ワイン農家が家庭用として消費する安ワインになる。ヴァーゲ家でも昼に夕にと食卓に供される、という。

 年に一度、「蒸留屋」と呼ばれる職人がやってきて作る、蒸留酒もあった。馬車に載せた簡素な蒸留器を使って、搾り汁を一杯にすると火を点け、透明なリキュールの一種が出来上がる。グロワール人たちの言うところ、オー・ド・ヴィだ。

 オルクセンでは、シュナップスに分類される。

 アルコール度数は四〇度ほどになった。ヴァーゲ家の場合、ラベルも何も張っていない、ただしヴァーゲ家の星印の紋が刻印された瓶に詰め、常雇い農夫たちの「振舞い」になるのだという。

「子供のころ―――」

 案内役となってくれた、ヴァーゲ家長子ヨハンは苦笑する。

「この蒸留の香りが、何か魔法のように思えました」

 そんな、無数のワインと、更には名もない酒と、多くの者たちの日々の糧の上に、ほんの僅か一握りの極上ワインはある。

 ディネルースは、試飲をさせてもらった。

「ああ・・・」

 讃嘆の吐息を漏らす。

 数年前、天候条件が頗る良かった年に詰められたという、最高級の極甘口白ワイン。あの大斜面の葡萄畑で、苦労と熟練と経験とに裏打ちされたワイン農家の者たちが、貴腐菌と呼ばれるカビの一種の手まで借り、厳選して一粒一粒、遅摘みしたもの。

 澱を漉し、瓶に詰められ、熟成されている段階のところを開封してくれた。

 甘露。芳香。とろみ。

 まるでブランデーもかくやといった、黄金の琥珀色。

 もう、好みがなんだといった無粋なことは口にしなかった。

 素晴らしい。

 これは素晴らしいものだ。

 失わせてはいけない。



 ―――つまり。ワイン農家たちを生き残らせるためには、収入が必要だ。

 彼らの言うところの「黄葉病」に襲われたのだとしても、どうにか被害の少ない部分は守り、ぎりぎりのところまで熟させ、今季の収穫としたい。

 これは当然のことであって、ヴァーゲ家の畑では約一・六へクタールの葡萄が相当した。

 一〇ヘクタールの葡萄栽培地のうち、僅か一・六ヘクタール。それほど感染は深刻だった。

「こいつの周囲から抜こう。思い切って、残り全てだ」

 当主ライホルト・ヴァーゲの決断は早かった。

 夏季における星欧の日の出は早く、日没は遅い。

 モナートでは、日の出は朝六時。日没は午後九時である。ヴァーゲと長子ヨハンは朝の四時から起き出し、差配をして、ヴァーゲ夫人なども懸命にこれを支えた。

 ヴァーゲ夫人ジークリンデもまた、素晴らしい方だとディネルースに感銘を与えている。

 通称、ジギー。

 明るく、朗らかで、所謂「肝っ玉」の女将さんである。

 農夫頭のシュロッサーという牡もいて、彼は大変な飲んだくれであったが、葡萄の仕事となるとこの道四〇年というベテランだ。休憩時間には、例の無色透明な強い蒸留酒をぐびりぐびりとやり、あるいは星欧特有の匂いのきつい黒タバコを吸う。

 皆が総出となってアカシアの杭から四本の針金を外し、それぞれ二本ずつの結実母枝を切断。鍬を振るい、株を引き抜き、集め、焼却する―――

 無論、周辺の農園でも同じく防除に努めている。

 グスタフもまた、研究のためもあってしばらくの滞在を決意していた。王立葡萄研究所の貴賓室に寝泊まりし、ディネルースもこれに従った。

 何しろ、あの大傾斜地でのことだ。

 作業は大変なもので、八名や一〇名といった牡牝が一列に並び、ベテラン農夫頭たちの指揮のもと、畑の端から端まで何度も往復した。作業の内容はもちろん、道具の洗浄や消毒についてもヴァーゲやヨハンが細かな指示をやる。

 グスタフは葡萄研究所の技官たちと供に、抜木された葡萄の種類や、葉や、実や、根の具合を克明に記録した。株の来歴も調べている―――

 午前及び午後の休憩や、昼になると、ヨハンの嫁や家中の牝たちを連れたジギーがやってきた。籐製のバスケットや、フライパンを抱えて。

 畑の中腹には、本当に小さな農機具保管庫兼休憩用の掘っ立て小屋が建っていて、長椅子や竈がある。

 そこでクレープを焼き、甘さは控えめだがそのぶん清涼で飲みやすい白ワインを井戸水で冷やしたうえで用意し、ニンニクで調味した豚の骨付き肉、肩ロース、ヴルストなどを焼いた。灰の中に潜り込ませて余熱で調理する、ジャガイモもある。

「さあ、陛下も、王妃様も。このように粗末なものですが」

「おお、ありがたい!」

 こんなときのグスタフは、まるで気取らない。

 彼には「農業王」、「国民の王」など様々な異名があったが、その中のひとつに「塹壕王」というものがある。ベレリアンド戦争中、よく前線視察に赴き、野戦陣地の中などにも平気で入って、兵士たちの話を聞き、時には彼らと食事まで摂ったからだ。

 ヴァーゲや、農夫たちとも長椅子に座り、よく食べ、よく飲んだ。

 ディネルースも、そんな彼の何か役に立ちたいと思い、クレープを幾らか焼かせて貰った。ヴァーゲ夫人と、すっかり仲良くなっていたのだ。

「えらいことだ・・・王妃殿下の焼かれたクレープが食べられるなんてな・・・」

「ありがたいことだ・・・」

 オルクセンのクレープは、シンプルだ。ましてや、田舎のものともなると。

 グロワールのガレットのように四角く折り畳んで仕上げ、甘味を尊ぶオーク族らしく、中には砂糖がまぶしてある。素気なくすらあるこの料理が、しかし労働のあとには堪らなく美味かった。

 もちもちとした、生地が良い。

 グスタフはちょっと目を丸くして妻を見上げ、

「・・・なんだ、その顔は。私とてクレープくらいは焼ける」

 ディネルースはそのように応えたので、ヴァーゲ以下、万座の微笑を誘った。いいぞ、王妃様!といったところだ。

 このようなディネルースの屈託のない態度に、村の者たちもすっかり馴染み、なかでもヴァーゲ家の第二子ヨアヒムは王妃を余程気に入ったらしかった。

 彼はまだ幼く、オーク族としてもまるで小柄で、ちょこちょことディネルースの後をついて回り、ついには休憩中の彼女の膝の上に、ちょこんと座ってしまった。

「まあ、ヨアヒム・・・! いけません!」

 これには流石のヴァーゲ夫人や警護役リトヴァミア大尉、侍女なども慌てふためいたが、

「ふふふ、構いません。坊や、それほど私を気に入ってくれたのか」

「うん。おうひさま、きれい」

「ふふ。そうか、そうか。ありがとう」

 ディネルースは、小さな小さなヨアヒムの頭を撫でてやった。

「あらまぁ・・・この子は、村一番の果報者だよ・・・」

 ヴァーゲ夫人は、涙を浮かべたものだった―――

 食後になると、グスタフとヴァーゲは田舎風の牛乳入りチコリコーヒーを啜りながら、どうも伝染病の原因は、グロワール産の苗木にあるのは間違いないようだ、と話し合った。

「株来歴と照らし合わせれば、被害の酷い農地は全て輸入苗木と重なる。それにプファイル地域から、やはりグロワールから輸入したシュペートブルグンダーの周囲で感染が顕著だと報告があった」

 同じくメテオーア川支流、プファイル川周辺の葡萄栽培地域である。

 モナートから見れば、北の方角だ。

 シュペートブルグンダーは、グロワールではピノ・ノワールと呼ばれている種に相当する。赤ワイン用の葡萄だ。

「あそこは、赤もやっているからな―――」

 ヴァーゲは応じた。

「しかし、なんだ。プファイルでも出たのか・・・」

「ああ。他に、ミッテルメテオーアでも見つかった。この調子では、メテオーアガウもすぐだろう」

「なんてことだ・・・」

 オルクセンの葡萄栽培地は、ほぼ全滅であることを意味した。

 元々、オルクセンにおけるワイン造りは細々としたものだ。グロワールと比べれば生産量も消費量も、約一一分の一に過ぎない。各地とも、モナートに勝るとも劣らない苦労と努力を重ねて、葡萄を育ててきた。

 その小さな、だが伝統ある産業が壊滅してしまうかもしれない―――

「・・・布告を出し、まずはグロワールからの苗木輸入を全面的に差し止めようと思う。国境を越えさせないところから始める」

 グスタフは、驚くべきことを口にした。

 ―――植物検疫。

 後年、当たり前となるこの防疫手段は、当時まだ世界の何処にも存在していなかった。

 その「世界初の真似」を、選王制にして議会を持たぬがゆえに、政策へ即断性を発揮できるオルクセンだからこそやろうというのだ。

「・・・大丈夫かい、我が王。グロワールの連中、カンカンになるんじゃないか?」

「ああ、かもしれない。あの国は民業保護に熱心だからな。だが、どうもあちらはあちらで大変らしい」

「・・・広まっているのか?」

「・・・うむ、だそうだ。きっと、防疫をやっても後ろめたさで何も言ってこない」

「・・・・・・なんてこった! 連中、黙っていたのか、それを!」

 ヴァーゲは、怒りに震えた。

 彼らワイン農家の間では、「良いワイン造りのためには、良い苗木屋を選べ」という。今にして思えば、何と金言であることか。

 元々、ワイン生産大国であるがゆえにグロワール産輸入苗木の価格は安い。

 霜害からの立ち直り、農家として当然の利益の希求など、やむを得ぬ事情はあったとはいえ、きっと格安の株に飛びついた者たちが、先祖伝来の言葉を忘れ、目先の利益に走ってしまったのだ。隣の農地のように。

「・・・ともかく、防除対象の目途はついたわけだ」

 古き友の内心を慮ってか、グスタフは目を伏せた。

「あとは、どれだけ迅速にやれるかだな。各農家総出でやってはいるが・・・」

 ヴァーゲは応じ―――

 ふと顔をあげた彼の視界の、斜面から見下ろすことの出来るモナート川に、たくさんの川蒸気船や、曳航された艀の姿が写った。ワインの出荷を始め、このメテオーア川流域で流通に使われているものだ。

 そして、その川蒸気や艀に満載されている、青灰色の集団―――

 彼らはゴルトシッフェ村の船着き場に着くと、続々と上陸を始めた。一〇〇〇名近くはいるだろうか。皆、小銃こそ携えていなかったが、背嚢は背負っている。

「なんてこった・・・ こいつは驚いた! 軍隊のお出ましじゃないか!」

「ああ―――」

 グスタフは頷き、告げた。

「近隣部隊を呼んだ。ちょうど夏の演習時期でな、思っていたより早く来てくれた。他にも送らなければいけないから、この村には一個大隊だが」

 王は―――ヴァーゲら国民の王は、さあ午後の作業を始めようか、という風に立ち上がる。

「彼らを、防除に使ってくれ」



 近隣部隊―――ランゲンフェルト州ヒューゲルベルク市に司令部を置く第一〇擲弾兵師団は、葡萄疫病防除に全力を挙げた。

 モナート川流域では、擲弾兵第三三旅団長を事態対応の指揮官に据え、ラーガーレーゲン、ゴルトシッフェ、ルドウィックの各村に擲弾兵第一〇連隊及び第一〇工兵大隊。ロットエーレ、ドラッヘフェルトに擲弾兵第三九連隊。

 ミッテルメテオーア地域南部とメテオーアガウ地域には、擲弾兵第六三連隊。

 プファイル地域には、商業都市グロスシュタイグング市に司令部を置く第四擲弾兵師団の一部部隊が出動した。

「ナーデル〇一、こちらブラウ〇三。聞こえるか?」

「ブラウ〇三へ。こちらナーデル〇一、よく聞こえる、送れ」

「ナーデル〇一へ。こちらブラウ〇三。雨雲は観測せず。高度五〇〇。気圧計は九五四。送れ」

「ブラウ〇三へ。こちらナーデル〇一。一一二三。通信手LV、了解。終わり」

 鉄道で、河川用蒸気船で、あるいは街道を使って葡萄栽培地域の各村落に入った彼らは、宿営地を設営し、農林技官や葡萄農家たちから即興の教育を受けた。

「かかれ!」

 そうして、頭数の足りなかった農園を中心にして斜面を登り、感染葡萄の除去と、集積、焼却を始める―――

 地元村落側では、軍隊の到着を歓迎した。

 村会所や宿屋ばかりではなく、各家でも厩などを開放して積極的に舎営場所を提供し、また商店の類は食糧や酒類といった物品の買い上げに応じた。こんなとき、普段から軍が機動演習をやっているオルクセンの村落は慣れたものである。

 軍隊の宿営に応じるのは名誉なことだという扱いであったし、寒村の商店にしてみれば望外な「特需」でもあった。

 出動を命じたグスタフは、本格的なワイン農家救済の予算が組み上がるまで、まずはこの特需を以て迅速に栽培地域へと金を注ぎ込もうとしたのである。

「えらいことになったな、執事長。大鷲までやってくるとは」

「まったくです」

 ゴルトシッフェ村の中心部である、ただ一つの広場を訪れていた執事長フィリクス・アルベルトと、司厨長オラフ・ベッカーは、上空を見上げて茫然としていた。

 このふたり、例によって例の如しで、国王夫妻が赴かれるなら当然ながら我らも、と着いてきている。

 国王の滞在地としては、お世辞にも満足の行くものではない王立葡萄研究所を、どうにか居心地の良いものにしようと懸命である。

 広場に面する尖塔付き村会所には、大勢の将校や兵隊が出入りして、軍隊用語でいうところの大隊本部とやらを、あっと言う間に作り上げていた。

 臨時の照明に加えて、歓迎の意味もあるのだろう、豊穣祭や冬至祭用のランタンを広場に準備している村の者たちまでいる―――

「・・・こりゃいかん。いつもの八百屋に行って、多めにスープ用の野菜束を買っておこう」

「小麦粉や肉類、川魚もです。牛肉、鳥肉、マス。良いものを買い付けておきましょう」

「軍隊が来たとありゃ、あっという間に底をついちまう」

 出動した軍は、実にオルクセンらしく輜重隊も伴ってきていたが、彼らも「調達」はやるに決まっている。とくに展開初期には―――

「なんだか、戦争中を思い出しますな。あのときも何かと大変でした」

「まったくだ。さあ、急ごう」

 彼らの苦労が報われたかどうかは、さておき―――

 謎の病害の正体が判明したのは、この段階だった。

 まずプファイルで、次いでモナートで、引き抜かれた葡萄の根から、奇妙な生物が見つかったのだ。

「うげ・・・! なんだ、こりゃ・・・」

 若い兵隊が、罵りを漏らす。

 まだ枯死してなかった一本の葡萄の根に、黄色く小さな虫が、ぞっとするほどの数で纏わりついていた。大きさは一・五ミリほど。節足はあるが、羽はない。見るからに、おぞましい。

 アブラムシに似ている。

 同じものは、次々と見つかった。

 枯死した葡萄ではなく、そうではない葡萄で顕著であった。

「・・・こいつが正体か」

 報せを受け、また自身でも同様のものを見つけたグスタフは、衝撃を受けていた。

 彼自身は、この災厄をもっと別の、植物上の害病ではないかと思っていたのだ。

 カビ類が影響を及ぼす葡萄の病は多い。あの貴腐ワインとて、菌類の一種が引き起こす現象を利用したものである。

 だから防除の指示内容も、植物病害に即したものにしていた。剪定バサミや農具の洗浄などは、伝染を警戒してのことだったのだ。

 ―――だが正体は、昆虫類だったとは。

 同時にグスタフは、一縷の希望を見出した。

 いまや「敵」の姿は、はっきりとしたのだ。詳しい分析は、昆虫学者や、技官たちの手に委ねなければならないが、この昆虫が病害の正体であろうことは間違いあるまい。

 昆虫とは、当然のことだが生物の一種だ。

 相手が生物なら、やりようはある。

「ダンヴィッツ」

 グスタフは、手近に控えていた副官ダンヴィッツ中佐を呼んだ。

「はい、陛下」

「首都に連絡を取れ。そしてな―――」



 葡萄栽培を長年やってきたワイン農家の者たちでさえ、いままで見たこともない奇妙な器具がモナート川流域に届くには、三日ほどかかった。

 ゴルトシッフェ村には、大鷲軍団による空中輸送まで用い、一〇基が届いた。

 即席の教育を施された兵隊たちが、その新規な器具の使用を担った。

 金属製。背負い式。一種の、タンクになっている。上部に手動で上下させることの出来る柄つきの棒が着いており、兵たちはこれを三〇回から四〇回ほどピストンさせた。

 背負いのタンクからはホースが伸び、レバーコックのついた持ち手と、最先端に噴射器ノズルがある。

 斜面に登った兵たちが、農家と軍の手に依ってどうにか守られた、僅かな生き残りの葡萄の根本にむかってノズルを向け、レバーコックを操作すると、霧状になった液体が噴き出した。たっぷりと注ぎ、次の株、次の株へと向かう。葡萄の根本は、作業開始前の下準備として窪地状に掘らせてあった。

「なんだ、ありゃあ・・・」

 見守るヴァーゲは、開いた口が塞がらないといった調子である。

「手動式噴霧器というんだ。ノズルに使う噴射装置が出来上がったばかりで、まだ数はないんだが・・・」

 グスタフは、少しばかり言葉を濁した。

 元々は、軍内でもまるで存在を秘されている連中が、の使用後に、戦場を消毒する目的で開発していたものなのだ。 

 いずれ農業などにも転用できるとは思っていたが、まさかこれほど急を要することになるとは。製造元のシュトルツェンベルク社には、既に臨時軍事会計費を用いて大増産を命じてあった。

 もっとも、一〇リットル容量の背負い式タンクに詰められた中身については、それほど剣呑な代物ではなかった。ヴァーゲなどワイン農家にも、それと知られ、ある程度は普及済みのものだ。

 ―――炭酸水素カリウム。

 別名、重炭酸カリウム。

 より正確に言えば、その水溶液である。

 防除効果があるというので、カビ類の齎す葉病の発生時などに使われていた。安全性が高く、ミツバチや魚介類などにも影響はない。

 また散布中及び散布後に臭いや汚れが少なく、防除効果を発揮したあとは植物に吸収され、肥料としての働きまであるという優れものだ。

「研究所の者たちが、あの謎の昆虫への効果も確認している。噴霧器の操作は容易だし、いずれ数が揃えば提供も出来る。重炭酸カリウムは、助成制度の対象に指定させた」

「・・・ありがたい。どうにかこれで駆除は出来るな」

「ああ」

 王立葡萄研究所や農事試験場の技官たちは、別の対策方法も幾つか発見しつつあった。

 ―――二硫化炭素。

 既に防除効果が知られていた、農薬の一種である。

 重炭酸カリウムのように、根に注入する。

 殺虫作用があり、当該昆虫にも著しい効果があることは確認されていた。ただしこちらは揮発性が高く、そのうえ引火の危険性がある。使用後の、水源への影響もあり、少なくともモナート川流域の大勾配地では当面利用されないことになった。

 ―――水没処理。

 正体不明の半翅目昆虫は、言うまでもなく生物である。

 葡萄の株の根本を水没させれば、死滅させることは可能だと思われた。

 ただしこれは「理論上は」との主語を冠するべき内容で、実際には葡萄畑での実施は困難だ。

 葡萄畑は、粘板岩や石灰岩質泥灰、砂礫など、水捌けのよい土壌に作られる。しかも上質な葡萄を産する農園ほどそうで、水没など実行するには余程豊富な水源を要することになってしまう。

 メテオーア水系沿いに作られているオルクセンの葡萄栽培地は、確かに水源は間近にあるが、大傾斜地が多く、これ即ち揚水にも困難を伴うということだ。農園には、水撃作用を利用した非動力ポンプなども元より存在したが、事実上実行不可能と思われた。

 ―――根の洗浄。

 水分、生石灰、粗ナフタレン、重炭油の混合液で葡萄根をブラッシングする。

 これもまた以前より知られていた防除手段だが、当該半翅目昆虫に効果があるかどうか、しかも葡萄根の形状まで変えてしまうほどの根瘤を形成する相手に効くかどうか、未だ不明であった。

 しかもこの方法は、防除後に新規の苗木を植えるという、次の段階に行う手段だ。

「問題は、これらの手段は対症療法に過ぎん、ということだな」

「ああ・・・」

 グスタフやヴァーゲの憂慮は深い。

 これほどの広がりを見せるのだ。例え重炭酸カリウムの散布に著しい効果があり、この場からは駆除できたとしても、星欧全体からはどうだろうか。グロワール、アスカニアに加え、オスタリッチでも見つかったという報せが、既にグスタフの手元には届いていた。

「・・・なんとか、耕種的防除法が図れないかと思っている―――」

 ヴァーゲは言った。

 作物の栽培法、品種、あるいは圃場の環境などを適切に選択して、病害虫が発生しにくい条件を整え、抑制や被害軽減を行う方法のことだ。

「霜害が酷かった年のやり方を参考に。列間隔を広げ、さらに面積当たりの栽培本数を減らす。そして、リースリングではなく、ジルファーネルを中心に植える」

 ジルファーネルは、オルクセンで育てられている白ワイン用葡萄のうち、もう一つの種だ。どのような土壌でも育ち、強い。大量生産に向き、しかも苗が安かった。

 ただし、リースリングによるワインほど質は高くなく、テーブルワインしか作れない―――

「・・・・・・」

 グスタフは驚き、何度か言葉をかけようとし、だがやがて諦め、吐息をついた。

 ワイン農家たちには、たいへんな決断だったからだ。

 ヴァーゲはつまり、オルクセンのワイン農家が生き残る現実的手段として、翌年以降も被害が生じる前提で選択を成そうとしている。

 国からの援助だけを、頼りには出来ないと言っているのだ。

 農家たちが自立して対処し、他の穀類栽培などとも合わせ、ともかく今季の打撃から経営上の回復を図り、例え来季は糊口を凌ぐことになったとしても、「生き残る」ことを目標にする―――

「・・・やむを得ないか」

「ああ」

 ヴァーゲは頷いた。

「だが、我が王。どうも、本当の意味での耕種的防除を図れそうな、ヒントのようなものは見つけたぞ」

「ふむ・・・・?」

「まあ、これもまた、我が王のお蔭なのだが」

 ヴァーゲは、謎のようなことを口にした。



「・・・これは・・・ こんなことが・・・・」

 王立葡萄研究所ゴルトシッフェ農園。

 ヴァーゲが、管理の実際を担っているワイン畑だった。同じ斜面沿いの、やや奥まったところにある。

 グスタフは眼前の光景に茫然としていた。

 同様の害虫被害はあった。

 だが、他の農園には見られない、まるで元気に、青々とした葉を保ち、枯れもせず、熟成を続けているばかりの畝があったのだ。

「これは・・・ ゾンネンシャインか!」

「ああ。ゾンネンシャインだ。どういうわけか、こいつらだけは生き残ったんだよ、我が王」

 ヴァーゲに言わせるなら。

 ゾンネンシャインは、まるで「じゃじゃ馬」だった。耐寒性はあったが、土壌を選ぶし、粒は大きく、ワイン用種より皮も薄い。ワイン造りに大事なのは皮だ。圧縮して搾り出すときも、農家たちは大切に扱う。だからまるでワイン醸造には向いていない生食用だったが、その「じゃじゃ馬」たちが何故かこうやって生き残った。

「どうして・・・」

 呟きつつも、農学者であるグスタフにはピンときた。

「抵抗種なのか・・・ ゾンネンシャインの株には抵抗性があるということだ、あの害虫どもに・・・!」

「そう。きっとそうなんだよ、我が王」

 グスタフは、随行していた技官のひとりへと振り返り、一体どうやってゾンネンシャインの種を作り出したのだ、と尋ねた。

 技官は答えた。

 ゾンネンシャインは、星欧古来のマスカット種に耐寒性を持たせるため、この性質を持つ新大陸の株を輸入し、交雑させたものです―――

「センチュリースターか。センチュリースターの株には―――少なくともその一部には、抵抗性があるということだ・・・!」

 つまり、この害虫は、きっと新大陸由来でもある、ということだ。

 ならば。

 ―――方法はある!



 グスタフは、農学者や、農林省の技官から成る調査団を作り、この年のうちに北星大陸へと送った。

 そしてこの調査団は、謎の半翅目昆虫に抗体性を持つ、三種類の北星大陸原生種葡萄を発見する―――

 そうして持ち帰られたこれら葡萄は、星欧大陸原産の葡萄と、接木が可能であることが確かめられた。

 つまり、植物の一部を切り取り、他の植物に癒着させる行為である。

 謎の半翅目昆虫が、これより約二〇年前に北星大陸で発見され、害虫類として既に図録されていた葡萄根油虫フィロキセラであることも分かった。

 北星大陸原産の葡萄を台木にし、星欧の葡萄を接いでやれば、理論上は完全に防除できる、ということだ。

 実験も行われ、これらの調査結果が確実と分かると、グスタフは親書まで用意し、星欧中の国々へと送った。駆除方法についても同様である。

 幾万幾千という北星大陸産苗木が、各国に輸入され、海を渡った。

 台木となった苗木たちは、理論上はともかく、各地の気候や土壌に必ずしも適合していなかったから、多くの台木用交雑種を生み出す研究も、各国で繰り返された。

 彼らはやがて、ずっと後年まで利用される、リュペストリスという名の交雑種台木を作り出す。

 葡萄農家たちも、懸命に戦った。

 フィロキセラの駆除に努め、台木を植え、苗を接ぐ。

 他の穀物を育て、あるいは出稼ぎで糊口を凌ぐ者までいながら、それでも葡萄栽培を続けた。 

 残念ながら、星欧の多くのワイン園や銘酒が、永遠に失われもした。

 昆虫学者たちは、フィロキセラの生体解明にあたった。その結果、この恐るべき害虫が葉に寄生するものと根に寄生する世代を繰り返すこと、一時期は雌のみで単体生殖すること、三年のスパンがあれば確実に葡萄を枯死させることなどを突き止めている。

 ―――全ての戦いを終えるまで、オルクセンで約一五年、星欧全体で約三〇年を要した。

 接木という対抗策が生み出され、確立されたとき、フィロキセラ禍以前とはワインの味が変わってしまったと指摘する識者たちも多い。

 だが、ともかくも星欧のワインは生き残った。

 あの貴腐ワインも。

 そこに積み重ねられた努力の一端を知る方法が、ひとつある。

 ずっと後年、フィロキセラ禍においても多大な功績を成したとして歴史に名を刻まれたグスタフが崩御し、更には魔種族たちでさえ完全に科学技術に依存した生活を送るようになった時代―――

 台木用品種の向上を目指した品種改良の登録番号は、、そしてその努力は絶えることなく、未だ続けられているという事実だ。

「―――女王陛下、ご機嫌麗しゅうございます」

「おお、ヨアヒム。私の膝で甘えていたあの子が、すっかり見違えて」

「何卒、その件はご容赦を・・・」

「ふふふ」

「本年も、当園ワインの献上に参りました」 

「・・・うん。ありがとう」



(続)

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