随想録19 黒い根瘤

 星暦八七八年八月上旬。

 グスタフ・ファルケンハインと妻ディネルースは、休暇に入っていた。

 ネーベンシュトラント港での海軍視察を経て、国王専用列車でバンデンバーデンへと着き、夏季といえども清涼な同地で旅装を解いたのである。

 ネーベンシュトラントからバンデンバーデンまでは、そう遠くない。鉄道路線距離で、約一一五キロ西方の同州内だ。

 ―――このひとは、北へ来るほど元気になるな。

 と、ディネルースは夫について可笑しみを覚えている。

 口数は多くなっていたし、子供のような瞳は煌めくようで、浮き浮きとしていた。

 久方ぶりの休暇ではある。また彼は、少しばかり暑さを苦手としていたが、それらばかりが理由ではあるまい。

 ハウプトシュタット州は、グスタフにとって生まれ故郷だ。オーク族としての。

 故郷という存在に近づくほど、山並みや、樹々や、水や、空気といったものの全てが、やはり生物には合うのであろう。

 バンデンバーデンは何を食べても美味い土地だが、まずはやはり新鮮な魚介に挑まなければならない。

「本日の魚料理は、旬のシタビラメとホタテのミレリナートムニエル。付け合わせは、薄切りトマトとマッシュルームでございます」

 何事も抜かりのない執事長フィリクス・アルベルトが、しっかりとグスタフの希望を読み取り、叶えてくれた。

 オルクセン風に一度新鮮なミルクに潜らせてから纏わせた、薄い小麦粉の衣。

 たっぷりとしたバターを使い、黄金色になるまで見事に揚げられている。

 仕上げに、輪切りにしたレモンとエトルリアパセリ。

 良いバターの匂いがした。

 塩とコショウで下味のつけられたシタビラメは、見事なほどに肉厚である。

「うん、うん。よくしてくれた、アルベルト」

 グスタフとディネルースは、いそいそとナイフとフォークを使った。

「やはり、身の締まりが違うな」

「結構なものだな。ホタテも素晴らしい」

 カリっとした衣の食感。

 たちまち現れる、身の柔らかみ。

 いつもながら、司厨長オラフ・ベッカーたちの丁寧な仕事だ。

 しかも素材が鮮度抜群とあれば、これはもう堪えられない。

「土地の食材。季節の旬。手を抜かぬこと。これが全て、何よりの事でございます」

「うん、うん。アルベルト。司厨部の者たちにも、よくしてくれたと伝えてくれ」

「ありがたき幸せ」

 休暇の滑り出しは、上々のものだった。

 豚ハムカッスラーの煮込み。ホウレン草のクリーム煮。旬のイチジク。ナスのスフレ。シャコの小鍋仕立て。

 ジン、火酒、ワイン、シャンパーニュ、アクアビット、カルヴァドス、ウイスキー、リキュール。

 ふたりは、よく食べ、よく飲んだ。

 ディネルースは朝に乗馬をし、あの素晴らしい蒸し風呂で癒され、午後は本を読んだ。ちかごろ参謀本部編纂のベレリアンド公刊戦史が纏まりつつあり、その一巻目を手に取っていた。

 グスタフは、財務大臣マクシミリアン・リストを派遣していた第二回国際通貨会議の報告書を読み終えると、暇をみて原稿を書き始めた。これはこの年の冬に完成することになる農業書の一種で、「都市型近郊小菜園クラインガルデンのすすめ」と題した著作の草稿だった。

 このころ、オルクセンにおける中産階級以上の都市住民たちに、文化的な色彩を帯びた娯楽として近郊菜園が流行りになっており、早くも首都ヴィルトシュヴァインでは約二万件、一〇〇〇ヘクタールを超えている。核家族が国や地主から格安で借り、農機具の保管と休憩用を兼ねた小屋なども据えたもので、この動きを食糧増産計画の一助にしようと考えたのだ。

 インゲン豆、エンドウ豆などの豆類、キャベツ、ホウレン草、ニラネギ、ニンジンといった、比較的育てやすく、短期間で収穫でき、栄養価の高い野菜類の栽培方法。播種時期、土壌の見方、肥料の種類、選び方と施し方。野菜の他に、果樹や花、樹木の育て方などを書いている。

 適切な指導があれば、近郊菜園における一ヘクタール当り収穫量は、約二五〇キログラムにはなる。オーク族の四名家族なら、年間需要量の約四分の一に達する計算だ。

 またグスタフは、オルクセンの大規模市には必ず存在した市営野菜乾燥場で、余剰野菜を買い取る制度も作った。市場用や備蓄用の乾燥野菜に加工するのである。

 グスタフは後年なんとこの方法で、首都だけをみても年間約二〇〇〇トン、ピーク時には約三五〇〇トンの乾燥野菜を、作り出してしまう―――

 もちろん彼は、妻ディネルースとの時間をいちばん大事にした。

 早いもので、ふたりが成婚してからもう一年以上が過ぎている。愛妾時代から数えれば二年強。しかし今でも変わらず仲睦まじかった。 

 これはあるとき、午後の茶菓の時間でのことだったが、

「どうした、グスタフ?」

「いや。見惚れていただけだよ」

「・・・ばか」

 こんな会話は、珍しくもなかった。

 執事長アルベルトはともかく、ディネルース付きの侍女たちなど、うっかり遭遇してしまうと困惑し、唖然とし、赤面することもままあり、やがて慣れてしまった程である。

 もちろん毎夜愛し合っていたし、ふたりで抱き合って眠り、朝は供に満ち足りた様子で目覚めた。

 それほど仲睦まじいのだ。

 この休暇のときも、ふたりで狩猟を計画していた。

 オルクセンにおける本格的な狩猟シーズンはまだ到来してはいなかったが、それでも狩りの対象にできると定められている野性動物はいる。

 例えば、野ウサギ。

 これは年中やれた。ただし当時の嗜みとしては、一般庶民や、狩猟官が猟場の管理のために狩るものであったから、ふたりが狩猟を計画したのはノロジカである。

 バンデンバーデン離宮の猟場は実に広大なもので、園内に幾つか狩猟のための小屋の類がある。このうち、樹々の幹などを利用して、狩場台ハイシートと呼ばれる一種のツリーハウスが掛かっていた。

 高さ五メートルほど。梯子も着いている。

 この仕組みもまた、本来は狩猟官用のものだが、野趣溢れる狩猟法の一つとして、なかには椅子やテーブルまで設えた立派な貴賓用が何カ所かあった。

 当日の風向きや、前日までの塩や撒き餌といった準備のうえで、鹿撃ち用の槓桿式小銃を携え、これと見定めたハイシートに登り、アドヴィンとウェンドラに獲物を追い立てて貰って、待ち構えて撃とうというのである。

 勢子を集めれば確実なのだが、そこはのんびりとやりたい。王族の義務としての、地域の雇用創出目的の勢子集めは、秋の狩猟シーズンに改めてやるから、ここは夫婦水入らずで、日がな一日かけて森の中に居ようというのだった。

 昼食は、サンドウィッチやコールドチキン、チーズ、冷却系刻印魔術式金属板付きの保冷容器に収まった白ワインといったものを籐製バスケットに詰めてもらい、これもふたりで摂る―――

「サンドウィッチは、如何致しましょう? 我が王」

「うん、アルベルト。卵とクレソンのサンドにしてくれ。刻んだ固めの半熟卵に、塩胡椒、マヨネーズソースで混ぜ合わせて、な。クレソンもたっぷり乗せて挟んだものを」

「はい、心得ております。奥様は?」

「同じでいい。ただ、ワインはカビネットかシュペートレーゼにして欲しい・・・」

 あまり甘くないものにしてもらいたい、という意である。

 外地巡洋艦戦隊の視察時に味わった乾粒トロッケン選果ベーレン特醸アウスレーゼ―――オルクセンの誇る貴腐ワインも確かに素晴らしかったが、ディネルースはもっとすっきりとした味わいの方が好みなのだ。

 これは星欧王侯貴族の嗜好としては全く異質で、臣下にしてみれば「そのような庶民的なものでよろしいのですか」といった具合の要望である。もしキャメロット人の口さがない連中に言わせるなら「こいつは美味いリンゴジュースだ」とでも罵るであろう。

 ただ、彼女の趣味をすっかり心得ているアルベルトは、とくに異論を挟まなかった。

 むしろアルベルトは内心で、ただただ甘露であればあるほど高級だとしている星欧上流社会の風潮を苦々しく思っており、食事の内容によって糖度を合わせようとする奥様は素晴らしい味蕾の持ち主だ、と感服していた。

「我が王、それでよろしいですか?」

「うん。女房殿と同じものでいい。夏の木陰で楽しむには、すっきりとして良いだろう」

 グスタフは、ちょっと惚気ているように見える調子で同意した。

 ―――ところが。

 これほどの準備を進めていた狩猟が、実行されることはなかった。

 何もかもが順調に思えた休暇が、一週間ほど過ぎたところで―――いよいよ明後日には「木登り」を楽しもうとしていたところで、バンデンバーデンへ一本の電信が届いたのだ。

 農林省からの発信であった。

 農林大臣ブレンターノ教授名になっていて、同省管轄下である王立葡萄研究所からの報告が基になっていた。

 西部国境ランゲンフェルト州にあるワイン園の多くで、いままで見たこともない不作が生じているという。

 状況は深刻かつ広範囲であり、信じられないほどの伝染速度を持っており、おそらく果樹病害の一種と思われる―――

「・・・・・・」

 グスタフは、言葉を失った。

 休暇中の己へ打電してくるのだ、余程の重大事と見なければならない。

 それでいて、農学者としての彼は判断に迷った。

 細かな部分がさっぱり分からず、ともかくも現地を実見してみなければ指示の下しようが無かったのだ。

 既に現場地域には、技官たちも入っているというが―――

 弱ったことに、彼は自覚としては葡萄に関して言えば専門外でもあった。

 現地の技官たちに任せるべきか、とも思った。

 因みに、グスタフの称するところの「専門外」とは、王立葡萄研究所における品種改良その他を援助しつつ、オーク族としての己はリンゴ農家の出身で、趣味及び実益としてもオレンジの温室栽培をやる程度には果樹栽培についても関わっていながら、「葡萄は自らの手ではやったことがないから」という、如何にも学究者らしい話である。

「・・・どうした、グスタフ?」

 夫の尋常ならざる様子に、ディネルースが尋ねてきた。

 グスタフは、幾らか迷った上で事情を告げた。

「・・・行きたいのだろう?」

 彼の妻は、あっさりと夫の内心を見抜いた。

「学者としてというよりも。現地における決断者が必要だ、という観点から」

「・・・うん」

 グスタフは認めた。

 我が妻には、まったく敵わないな、と思っている。参ってしまうほどに、誇らしい。

「ディネルース、君はこのまま休暇をここで・・・」

「何を言うんだ―――」

 ディネルースは、全く即断的であった。

「もし・・・ もし私も何かの役に立てる、邪魔にならないというのなら。連れていってくれ」

「・・・うん。私は現地対応に掛かり切りになるかもしれない。君は、現地住民の見舞いをやってくれると助かる」

「勿論だ」



 オルクセン西部ランゲンフェルト州。

 このうちグロワール及びアルビニー、アスカニアとの国境となる、メテオーア川流域。オルクセンには五つのワイン生産地域があるが、このうち四つまでが同地に集中している。

 プファイル、モナート、ミッテルメテオーア、メテオーアガウだ。

 四地域のうち最も高名であるのが、モナート。

 グロワールを水源とするモナート川を中心に、三本のメテオーア川支流域に広がる、オルクセンが世界に誇るワイン産地だ。

 ―――これが、あの貴腐ワインの故郷か。

 ディネルースは思う。

 いまは遠く道洋の島国に赴任している参謀将校ビットブルク少佐など、ここモナートのワインが飲めないようなら御免被ると言わしめたという、あの。

 八月九日、あくまで非公式の態をとり、最低限の警護と副官、侍従及び侍女たちだけを伴ってグスタフとディネルースが到着したのは、同地区のゴルトシッフェという村だ。

 鉄道の近隣駅は約二〇キロ下流の村であったから、そこからモナート川の交通蒸気船に乗って辿り着いた。

 川の両岸に沿うようにして、村がある。中心部は南岸側の平地。

 石造り、白漆喰にスレート屋根の家屋が並んでいる。尖塔を持った村会所もあった。美しい村だ。

 オルクセン全土で四つしかない農園名だけのラベルを許されたワイン農園の所有者や、王立葡萄研究所の所長、村長などが船着き場で国王夫妻を迎えるなか、グスタフが懐かしむように握手し、歓声を上げたのは、ひとりのオーク族である。

「おお、おお。ヴァーゲ!」

「我が王、お久しゅうございます」

「うん、うん」

 ラインホルト・ヴァーゲ。

 ゴルトシッフェ村に一一あるワイン農園主のひとり。彼は村長などではなかったが、古くから葡萄栽培をやっている七〇ヘクタールの農地を持ち、地元自治会では顔が利き、そして同村にある国有葡萄園の管理を委託されている。

「ディネルース。ヴァーゲには、あのゾンネンシャインの栽培を試してもらっている。ヴァーゲ、妻のディネルースだ」

「王妃殿下。モナートへようこそ」

「よろしく」

 ディネルースは挨拶をした。

 ゾンネンシャイン。あのグスタフが品種改良を援助した、生食用の葡萄。

「・・・それで。川蒸気の上からも見えたが。確かに、酷いな」

 村の北岸側には、モナート川に沿うようにして、たいへん標高のある大渓谷が続いている。

 この渓谷の斜面に、石垣まで組み、整然と葡萄が植えてあった。

 ディネルースなど、ただその光景のみに驚いてしまっていたところだ。葡萄とは、これほどの傾斜地に育てるものなのか、と。

 「モナートの段々畑テラッセン・モナート」というらしい。

 グスタフ曰く、ここオルクセンで葡萄を育てるには、ましてやあの甘露なものを育て上げるには、この地形が重要なのだそうだ。

 星欧における葡萄栽培の北限地であるがゆえに、川面の反射陽光、温かな川霧まで利用する―――

 先祖伝来の知恵だという。

 その壮大な葡萄畑の多くが。

 黄色い葉をしていた。

 夏季である。本来なら、青々としていなければならない。

「村の者たちは、“黄葉病”と呼んでいます」

「そうか・・・」

 グスタフは、ともかくも間近で見せてくれ、と言った。


 

 ディネルースは、グスタフの勧めもあってヴァーゲ氏の邸宅を訪れることにした。

「ワインを造る場を、見せてもらうといい」

 夫はそう言い、ヴァーゲの長子ヨハンが案内役についてくれた。

 実質的に、ヴァーゲ家の農園を差配している若者だ。

 警護役のリトヴァミア大尉や侍女二名も残留組になったから、ディネルースに随行した。

 ヴァーゲ家は、北岸側にある。道中、右手にあの大斜面の葡萄畑が見えた。多くの農夫たちが登っており、改めて眺めてみても大変な手間がかかる立地であることは明らかだった。

「これほどの斜面で作られているとは、驚きました」

「ええ―――」

 ヨハンは、葡萄栽培の概略を説明してくれた。

 本来からして、緯度も高く、寒気の厳しいところである。ワイン生産には非常な困難が伴うという。

 だが大星洋暖流の影響で、オルクセン国内としては厳寒期の寒気は幾らか和らげられる。

 そして川面の陽光反射。

 この両者の存在が、積雪を迎えても何処よりも早く雪を溶かしてくれる。

 モナート川から昇る川霧も重要な存在だ。河川一帯を温かく包む。

 また粘板岩や石灰岩質泥灰土の土壌であるから排水がよく、昼間の太陽熱を蓄えてくれる。

 それでも年によっては、四月頃に霜害が起きることもある。そんなときはあの葡萄畑でストーブを焚いてやり、葡萄を守る―――

「・・・あの急斜面で? ストーブを?」

「はい。たいへんな手間ですが。雇用の農夫や、ときには臨時の作業夫たちも総出でやります」

「・・・・・・」

 たいへんな、どころの話ではなかった。

 またディネルースは、冬場からこの季節までの葡萄栽培の概略を聞いた。

 冬の何カ月かは、つらく果てしない剪定作業が続く。冬枯れした葡萄たちから、伸ばすべき枝を決める。良いワイン作りには、房をつけ過ぎてもいけないからだ。これと見込んだ房だけにするための、下準備である。

 ヴァーゲ家では、樹の両側に一本ずつ結実母枝を伸ばす方法を採っていた。

 二本の母枝を残すこのやり方は、選び抜いた大きな実の房をつけてくれる。

「“葡萄の蔓は、喧嘩をする”。私たちはそんな風に呼んでいます」

 もちろん全てが手作業である。

 針金を張って添わせる方法が出来てからというもの、だいぶ楽になった。腰の高さにしてやれば作業を進めやすいのだが、大地の熱を利用する場所では低くし、川面の陽光反射を受ける場所では相応しい高さにする。

 房の位置は、地面から約四〇センチから四五センチといったところ。一定ではないのだ。

「よい陽光を受けることの出来る場所のすぐ隣で、地熱を頼りにするような畝もあります」

 土壌も場所に依って異なる。

 良い場所には、素晴らしいワインを作ってくれる種を。残念ながら適地とは言えない場所では、育ちやすい種を栽培する。

 すると、剪定作業において繊細な扱いを要する種と、多少手荒に扱っても平気な種というものもあるから、切断にも当然、熟技が必要となる。

 オルクセンにはワインの醸造学校もあるが、例え免状を幾つも持っていても、卒業したての未経験者は、役にも立たない―――

 腕に自信のある職人たちは、まず必ず冬季の葡萄株を大事にする。今季の収穫のためだけではない。、株を愛するのだ。

 まずい切り方をしては弱ってしまう種もあるし、房のつけ過ぎは母樹の体力も失わせてしまう。

「・・・・・・」

 森にあるアカシアの木から、葡萄畑用の杭を作る作業もある。皮を剥き、二つに割り、先端を尖らせる。

 ヤナギの一種の柔らかく細い若枝から、葡萄の木を縛ったり、針金に括りつけるためのものを選別して用意する作業。

 春になれば、深耕をやる。

 冬季の間、葡萄の木に取りついていた雑草を取り除くのだ。冬枯れした葡萄樹を自由にしてやり、再生するためのもの。腰を酷使し、株回りの残土を除去する。

 これは土を柔らかくし、耕作地を整えてやることも意味する。土壌が固いままでは、水分を蓄えることが出来ない。

 三月になれば、今度は株に沿って盛土の小山を作る。

 四月に入ると、雑草もまた伸びてくるから深く鍬を入れ、また取り除く。

 これで夏を迎えることが出来る―――

「・・・たいへんな。そう、たいへんな作業ですね」

 ディネルースは、己の言葉などでは彼らの苦労を言い表すことなど出来ないだろう、と衝撃を受けていた。

 ―――あの斜面で!

 オルクセンのワイン作りは、如何にもこの国らしい勤勉と、実直と、葡萄への愛情で成り立っている。

 そんな。

 そんな葡萄畑が、得体の知れない、何か恐ろしいものに侵されつつある。

 ディネルースを不思議がらせたのは、ヨハンも、あの出迎えてくれたヴァーゲも、奇妙に思えるほど元気であったことだ。

 まるで、戦場の兵隊のようだ。

 諦めることを知らぬような、不屈があった。

 アンファウグリア旅団で率いた兵たち。ダークエルフ族兵に、勝るとも劣らぬ気骨がある。

「ええ―――」

 ヨハンは頷いた。

「これほど努力を重ねても、霜害が酷い年には葡萄たちが死んでしまう事もあります」

「・・・・・・」

「そんな年には、全て引抜き、また株を植え、一からやり直すのです。嘆くとしても、一度で充分。大地は豊穣ですが、ときに冷酷でもあります」

 だから彼らには、自給自足の気配が濃かった。

 ヴァーゲ家でいえば、七〇ヘクタールの所有地のうち、葡萄畑は一〇ヘクタール。そのうち自信の持てるワインを作れる収穫を齎してくれるのは、僅か六ヘクタール。

 四〇ヘクタールは、アカシアの杭やヤナギの細枝、そして伐採材による副業的収入をも期待できる松林から成る森。

 残りの二〇ヘクタールは、穀物の農地だという。

 これで一五名の常雇いたちの生活と、繁忙期の臨時職人たちの給金を支え続けている。

 ―――不作の年がやって来たとしても、また葡萄を作り続けることが出来るように。

 毎年、豚も四頭飼っていた。

 野菜屑や、雑穀で育てている。

 冬季の食糧である。自家製塩漬け肉や、ヴルストにするのだ。

 父と、母と、妻と、まだ幼い弟と、これで充分にやっていける―――

「・・・・・・」

 これは父の受け売りですが、とヨハンは続ける。

「葡萄栽培者は―――ワイン農家は、運命論者であってはならないのです」



「・・・こいつは酷い」

 傾斜の強い斜面を登り切ったグスタフは、その一区画を見つめていた。

 どこの葡萄農地も全て黄色い葉になっていたが、ヴァーゲ家の隣接農園にあたるそこは最も被害が深刻だった。

 葉は、落ちてしまっている。

 株はもう涸れかかっていた。

「今年の、開花は?」

「少し遅かったよ、我が王」

 ヴァーゲは答えた。

 既に周囲に気を使う必要はなくなっていたので、「いつまで澄ましているんだ?」と普段使いの口調を許していた。

 彼らの付き合いは長いのだ。

「半月ほど遅かった」

「そうか」

 グスタフは、彼自身の自覚でいえば本当に葡萄の事は分からなかった。

 だが、果樹農家にとって開花がどれほど心が浮きたつものかは、知っている。

 葡萄は六月だが、林檎は五月に咲く。

 辺り一面に甘い匂いがする季節だ。

 適花、受粉、適実。きりきり舞いするほど忙しくなる時期を知らせるものだが、やはり嬉しい季節であることに違いはない。

 オレンジもまた、柑橘類特有の香りをした花をつける。

 あの匂い。季節。花の美しさ。

 果樹農家なら、誰でも理解してくれるだろう。

 ―――ヴァーゲたちは、もうそんな時期から不安を抱えていた、ということだ。

 収穫時期の長いオルクセンのワイン農家にとって、開花の遅れは成熟具合に直結する。

 グスタフは、被害の酷い葡萄樹に顔を近づけ、幾らか生き残っていた房の匂いを嗅いでみた。

 まるで馬草が苜蓿、あるいはピーマンのような匂いがした。

「・・・葡萄の時期としても未熟成か、ヴァーゲ?」

「ああ。完全に」

 もう夏を迎えているというのに、プリュインと呼ばれる表皮のロウ質も無かった。

 葡萄自ら暑気を避けるために形成するもので、ワインの質に影響する。深いアロマを醸してくれるし、皮は発色の基にもなる。

 グスタフはツイードの上下が汚れることも厭わず、這いつくばるようにして、そのまま土壌の匂いを嗅いだ。

「・・・こいつは・・・」

 片眉を上げる。

 青臭いような、腐乱性を感じさせる、奇妙な気配だ。

 腐植土のものとも異なれば、石灰岩質土の匂いでもなかった。

 こんなとき、オーク族のよく効く嗅覚はありがたい。

 腰にぶら下げていた革嚢から、剪定バサミを取り出した。愛用の、オレンジ栽培に使っているものだ。

「・・・いいハサミだなぁ、我が王」

「だろう? ヴィッセルのレギンが、拵えてくれたんだ」

 ふたりはくすくすと笑った。

 剪定バサミの質については何時間でも話していられるのも、果樹栽培者共有の特徴であった。

 うちの村の鍛冶屋の腕は素晴らしいであるとか。

 二冬も使えば本格的な手入れを要するから、刃の交換や、焼き入れて鍛え直すなら何処の鍛冶屋が良いだとか。

 グスタフ愛用の品は、まだ珍しいボルト付きで、刃の手入れが容易であり、しかもその切れ味は剃刀並という逸品だった。モリム鋼製。ヴィッセル社のレギン会長が、「掘っ建て小屋」で作ってくれたのだ。

 彼はその剪定バサミを使って、母枝の根本を切断した。

「鍬を」

「引っこ抜く気か?」

「ああ」

「それなら、若い者にやらせるよ。我が王は腰が軽すぎる」

「すまん」

 リースリング種の株は、土を取り払われつつ、抜木された。

「・・・・・・」

 言葉を失う。

 見たこともない症状だった。

 根に、多くの瘤のようなものがある。

 瘤は大小様々で、まるで奇怪な姿だ。全体も黒ずんでいる。

「・・・この農園の株が、グロワールからの輸入品だったというのは間違いないのか?」

「ああ。お隣さんは、昨年霜害にやられてね。うちより、ちょっと土壌が弱いんだ。再生しようと、三〇〇〇本ほど買ったそうだ」

「・・・ふむ。ヴァーゲ、お前さんのところのものも、一本抜いていいか?」

「ああ」

 ヴァーゲ農園のものは、オルクセン産のリースリングであることは確認してある。

「・・・・・・・」

 グスタフは、また結実母枝を切断しようとするとき、ちょっと動きを止めた。

 枝の根本に、若芽が一本残されているのに気付いたのだ。

 だ。

 仕事の丁寧なヴァーゲ農園の葡萄には、それがあった。

 僅かな時間、空を見上げる。

 ―――すまんな。

 皆で、その根を見た。

 同じ症状だった。

「あと何本か試してみるが―――」

「王?」

「・・・原因も、何が正体なのかもわからんが。疫病の一種であることは間違いないと思う。それも大変な感染速度だ」

「すると?」

「防除が必要だ。感染のない部分から、徹底したものになる。周辺地の雑草もだ。農具、剪定バサミの類も全て洗浄した方が良い」

「ふむ、つまり―――」

 ヴァーゲはショックを押し隠すようにし、ごついところのある顔付きで、何でもないさ、といった風に頷いた。

「全て引っこ抜いて、焼却ということだな。まずはうちから率先してやらせてもらおう」



 ―――しかし。

 原因不明の災厄は、まるで留まることを知らず、モナート流域全体に広がり、この月のうちに他地域をも侵し始めた。


 

(続)

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