随想録16 戦時食糧統制計画

 ―――カツレツシュニッツェルは美味い。

 叩いて薄く伸ばした牛肉や豚肉、鶏肉に衣をまとわせ、カラりと揚げた料理である。

 つけあわせは、この国オルクセンらしく、たっぷりとしたジャガイモであることが多い。

「我が王にはお好みのレモンで、奥様にはグレイビーソースでご用意しました」

「おお、良くしてくれた。アルベルト」

 元々は、南のオスタリッチやアスカニアの料理だったのだが、いまではオルクセン全土でも食べられている。

 夫グスタフ・ファルケンハインは、相変わらずの健啖ぶりだ。

 大きなカツレツにナイフとフォークを使い、ときおりパンやつけあわせ、ワインに寄り道しつつ、一心不乱に挑んでいる。

「・・・ああ、美味い」

 二切れ、三切れと口に運び、ナプキンをつかったあとで、見ている方が美味そうに感じるほどの調子で、嘆息した。

 妻ディネルースにとっても、司厨部コックたちの腕の良さは同意できるものだ。

 グレイビーソースまで素晴らしい。ただソースをかけるだけではなく、そのうえからパラりパラりとエトルリアパセリがあしらわれている。

 狐色の衣。

 濃厚なグレイビーソース。

 パセリの緑。

 目にも美しい。素晴らしい仕事だ。

 今日のカツレツは、正統的に牛肉を使っている。部位はフィレ。もちろん、こちらの肉質まで申し分なかった。叩いて伸ばし、衣はカラりと揚げてあるというのに堪らなく柔らかい。

「美味いだろう?」

「ああ。脂の乗りもいい」

「農事試験場で育てさせたんだ。濃厚飼料をたっぷり与えて」

 トウモロコシ、燕麦、小麦やライ麦の糠、大豆粕、油粕といった滋養溢れる飼料のことだ。良質な牛乳やバターの生産には欠かせず、家畜の急速な成長を促す。

 従来の藁や青草、干草などを示す粗飼料に対する言葉で、近代畜産業の根幹的な部分を成すと称しても過言ではない。

 もちろん、闇雲に高タンパクな濃厚飼料を与えればよいというわけではなく、繊維質を含む従来の粗飼料もバランスよく給餌しなければならない。そこが畜産農家たちの腕の見せ所だ―――

 ちかごろのグスタフは、こんなことばかりしている。

 ディネルースは、理由を知っていた。

 戦争で畜産業が大打撃を受けたベレリアンド半島に、早期の復興復旧を促すためである。

 畜頭数回復だけの問題ではない。

 戦前のベレリアンド半島で飼育されていた家畜は、オルクセンと比べれば酷く痩せていた。

 オルクセンでは畜牛一頭から二五〇キログラム以上の肉がとれるのに対し、旧エルフィンドでは一三〇から一八〇キログラムといったところ。

 同じく一頭あたりの牛乳生産量も、約三分の二という貧弱さであった。

 原因は、はっきりとしていた。

 餌として与えられる濃厚飼料及び粗飼料が不足しているのだ。

 家畜飼料の殆どは作物及びその加工品から生産されるから、エルフィンドの食糧生産能力が乏しいことと、根を同じくする。

 この傾向は戦前からのものであったが、戦争中の戦時動員により働き手が不足し、陸上も海上も物流網が寸断され、戦禍の荒廃により拍車がかかった。

 これを何とか回復させ、更にはオルクセン本国並に引き上げてやらねばならない。

 しかしながら―――

 なかなか上手くいっていないのが実情だ。

 グスタフの手元には、定期的に占領軍総司令部からのレポートが届いていたが、飼料用にと栽培を奨励したカブラルタバガまで食糧に回っていると知り、絶句した。

 ルタバガは、はっきり言って美味いものではない。

 脂分や糖分などはジャガイモ以上に含有しているが、同時に水っぽく、とても食用には向いていない。

 そんなものまで食用に回ってしまうほど、エルフィンドの大地は痩せ、食糧生産量に乏しいのである。

 当然ながら、濃厚飼料どころか粗飼料までもが不足している。

 では、畜肉や乳牛生産量の向上など目指さず、まずは穀類などの増産を目標とすればいいではないか。

 短期的にはその通りだ。

 だが、放置していい問題ではない。

 根本的には、オーク族も白エルフ族も必要とする栄養分のうち動物性脂肪は、パンやジャガイモでは補えないからだ。

「どうにかしなくちゃならん」

 この年、オルクセンの濃厚飼料輸入量は、約六〇〇万トンを超えた。

 グスタフは彼の政策として自給自足、食料自給率の向上を長年やり続けていたが、国民が豊かになり食肉消費量が増え、元より気候上の問題から飼料のうちトウモロコシなど一部品目の自給率は低く、そこへ更にベレリアンド半島を抱えてしまったからだ。

 これは、過去最大の輸入量である―――



「こいつはいかん。いかんぞ」

 ベレリアンド戦争は、オルクセン自身にとっても重大な「戦訓」を齎した。

 軍事面のみに留まらない。

 何度かの資料分析と、統計と、試算と、検討会をやった末に真っ青になったのは、農林省の官吏たちだった。

 農林次官をトップに据えて、食糧局や肥料局といった各部局を横断的に設けられたこの研究グループは、「戦時食糧計画検討委員会」という。発足したのは、まだ八七七年の年末のことだ。

 ベレリアンド戦争では、オルクセンはついにエルフィンドのような本格的な食糧統制を必要としなかった。

 備蓄食糧はごまんとあったうえ、戦争に投じられた兵士の数は国民総数と比して少なく、他国との輸出入は海軍の尽力と戦時船舶購入により継続、そして戦争期間もうんと短かったからだ。

 だが、彼らの軍が徹底的に実施したエルフィンドの締め上げ、破壊的攻撃、その結果によるベレリアンド半島における食糧不足は、農林省の幹部たちにある疑念を想起させるに至った。

 ―――いったい、うちの国が仮に周囲の人間族諸国と戦争をやった場合、そしてエルフィンドのような目に遭った場合、今回の戦争ほど上手く切り抜けられるのだろうか。

 このことである。

 食糧不足による価格高騰。物流網の寸断、破壊。輸入の途絶。

 オルクセンは、周囲全ての人間族諸国家が仮想敵国だといっても過言ではない。もし戦争が起これば、その相手が仮に一か国だと想定しても、少なくとも同国からの輸入は途絶えてしまう。

 相手が二か国ならば?

 あるいは周辺国全てが敵に回ってしまったならば?

 彼らはまず、自国の食糧生産実態の把握から始めた。前年の末のことだ。

 単純な食糧生産量だけではない。

 肥料、飼料など農業を支える周辺実態も含めたものだ。

 この作業は、元より農業政策を重視し、統計資料を頻繁にとってきたオルクセンだけに比較的容易に進んだ。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 だが、改めてその統計値を眺めたとき、オルクセン農林官僚たちは絶句した。

 輸入小麦一八七万一〇〇〇トン。

 同飼料用大麦二一三万六〇〇トン。

 同濃厚飼料用諸穀物六〇〇万トン。

 その他、野菜類二七万二〇〇〇トン、コーヒー豆一七万トン、ココア五万五〇〇〇トン、牛乳・乳製品一三万六二一三トン、リンゴ三一万六〇〇〇トン、鶏卵一六万トン・・・

「小麦、大麦、濃厚飼料用穀物。それに窒素用及びリン用肥料の輸入比率が突出しているな」

 次官は、会議室に集った各局長、部長級の者たちを見渡した。

「これでも、小麦は自給率七割近いですからね・・・」

「ライ麦、燕麦、蕎麦類などの雑穀、それに馬鈴薯。他の主要穀類と芋類、豆類は概ね自給自足を達成・・・食糧は、長年の施策のお蔭で大丈夫ですな」

「・・・問題は、粗飼料と濃厚飼料。それに窒素とリン系肥料だな」

「藁殻を、もう少し粗飼料に回せないのか? 大麦の生産量自体は、むしろ高い。ビールをこれだけ醸造しているんだぞ。不足しているわけがあるまい」

「駄目だよ。堆厩肥の原料になっている」

「糠や油粕、豆粕の類も原因は同じか・・・」

「なにしろ我が国は、星欧一、耕作地に肥料をぶち込んでいますからな・・・ 肥料局長、もう少し何とかならないのか?」

「鉱山のあるカリウムはむしろ輸出側ですが・・・ 窒素とリン肥料のうち、堆厩肥や緑肥で追いつかない部分は、ほぼ全てが輸入ですからね。飼料に回せば食糧生産量が落ちます。これ以上はどうにも・・・」

「飼料の輸入先はロヴァルナが大半で、南北センチュリースター、南星の順か。アスカニアやオスタリッチの比率はそう高くない」

「トウモロコシが主要物ですからね」

「肥料原材料は、ほぼセンチュリースター連合国と南星です」

「硝石とリンか」

「・・・これは致し方ないでしょう。星欧各国、その二つに関して言えば何処も同じ条件です。グロワールが少し、海外植民地に頼っていますが」

「例の、科学者たちがやっている研究はどうなんだ?」

「空気中の窒素から肥料を作ろうという、あれですか・・・ まだ夢物語ですよ」

「・・・つまり、だ―――」

 次官は、コーヒーを啜った。

 官吏の習性でぴたりと討論が止み、皆、上司の発するであろう結論を待つ。

「我が国は、ロヴァルナとは戦争はやれない。やるなら、代替輸入先を見つけなきゃならん。もっとも有望なのはセンチュリースターだが、合衆国も南部連合も内戦後のごたごたから未だ立ち直っちゃおらん―――」

 室内の者たちが、陰鬱な表情になった。

「そして、海軍力の強いキャメロットやグロワールと戦争になった場合は、想像を絶する事態に陥る。うちがエルフィンドにやったような海上封鎖をやられれば、あっという間に我が国は、窒素とリンの肥料需要が枯渇。食糧生産量は落ち、ドミノ倒しで飼料生産量も崩壊して―――」

 局長は眉を寄せた。

「飢餓に陥るということだ」



 オルクセンの官僚たちは、それでも優秀だった。

 事が食糧問題となれば、大飯ぐらいのオーク族を主体とするオルクセンにとって、まさしく生存をかけた深刻なものである。

 農林省の官僚たちは、農林大臣ブレンターノに検討結果を上申。

 国王グスタフの裁可を得て、商務省、内務省、財務省、陸軍省などとも協同した対策研究を始めた。

 これは、八七八年の五月には最初の草案が纏まり、大筋が閣議にかけられた。

「食料の更なる生産力及び備蓄力の向上、戦時食糧統制計画の策定、代替肥料の使用及び開発促進か・・・」

 国王官邸、閣議室。

 グスタフは資料を繰った。既に二度、三度と読み込んである。

 ―――食料生産向上。

 全国の農家、農場をカードで管理。農林省技官及び各地の農事組合による、直接見回り制度も創設。作付面積、生産量、従事者数などを一元的に国家が把握する。

 また、農業用機械及び肥料に対し、二割から三割の国家補助を設け、農業の「近代化」を推し進める。

 八七八年現在のオルクセン国土における耕作地は、その約六〇パーセントであるから、税制優遇、融資制度の延長、宣伝啓蒙により未開墾地の耕作地転用も奨励。

 そして寒冷地耐性及び収穫量向上を目指した品種改良や、ちかごろ登場したばかりの、硫酸銅と消石灰の混合溶液といった近代的農薬の利用も促進する。

 ―――食糧統制計画。

 まず、「食料経済統制法」を制定する。

 平時おける最低価格と、戦時における最高価格を定め、一定割合以上の価格変動が見られた場合、対象品目を統制物資に指定。生産量の維持を図り、価格の高騰を防ぐ。

 対象は、穀物を中心に馬鈴薯、蔬菜及び果樹、魚介類、食用油脂、糖類、穀物加工品及び鶏卵、家畜及び家禽、飼料、肥料。

 これは平時においては「食料生産援助」と呼び、生産品目、収穫量、漁獲量を国家が指導監督する。

 戦時においては、配給制の導入が大きな柱だ。

 食糧切符と、傷病者及び未成年者を対象とした追加切符から成る。また、投機的農作物取引を防ぐため、戦時農作物提供義務を農家に対して制定。これによって、貧富の差に影響されることなく一国民に至るまで平等な食糧を確保し、闇市や密売屋の発生を防ぐ。基準値として、種族別の一日当たり必要栄養量も定める計画だ。

 この統制を支えるものとして、商務省物価局の物価物流調査官たちは、平時においても戦時においても重要な役割を果たすことになる。

 ―――代替肥料の使用及び開発の促進。

 平時より、調理屑や野菜屑、大鋸屑、雑草、鞣皮用樹皮の利用促進を図る。これは農法としては既に広く知られているが、発酵用の木箱を耕作地や農村住居に設置させ、自然肥料として活用する。

 骨粉、牛角、蹄類の再利用。これらは窒素系肥料として使える。

 緑肥の利用拡大。クローバーや白ルピナス、オオツメクサ、カラスノエンドウといった豆科の植物の根には、根粒菌がついて窒素固定効果がある。それだけ耕作地を肥やしてくれるから、輪栽式の根幹を成すもの。従来政策通りの考え方だ。加えて、菜種の増産を目指す。菜種油の油粕は、飼料にも肥料にもなる。

 硝石及びリン輸入量を拡大。平時より備蓄も行う。戦時下には、当然統制下に置く。化学肥料生産企業に助成金制度を設ける。

 そして根本的には、新たな化学肥料法の開発を目指す―――

 幾らか目新しい部分もあったが、細かな部分は従来政策の拡大といったところだ。

 眼目は、そういった諸策に対し、より国家の関与を強めようという根幹部分にある。とくに戦時においては、食糧及び肥料に関する全てを統制下に置いてしまおうと言っているに等しかった。

「これは・・・」

 司法大臣フリートベルクが、コボルト族シュナイザー種の長い眉を震わせた。

 まるで社会主義者などの言うところの「理想郷」ではないか。彼はその言葉を飲み込んだ。

 とんでもない強権国家だと評してもいい。

 戦前からの国策、国是の延長線だと捉えられる部分もあるが、国家の関与がこれほど明確になるとは―――

「・・・だが、やらねばなるまい」

 内務大臣ボーニンが、オーク族特有の太い腕を組む。

 彼は、更にフリートベルクを憤慨させるような提案をした。

「これほどの省庁横断的な計画なのです。戦時には、各省担当の関連部署を合同し、別立ての一体官庁にしてはどうでしょう?」

 農林省の関連各局。それに商務省の物価局。関係部局を各省から引っ剥がし、一体化する。

 仮に、これを「戦時食糧庁」とでも呼ぶ。

「・・・つまり、そいつは内務省の下かい?」

「そうは言わん。だが、実際の統制には各州の警官、国家憲兵隊が当たることになるだろう? 一元化できるのなら―――」

 やぶさかではない、というのがボーニンの主旨だった。

 どの道、オルクセンの場合、戦時大本営が設置されると、全国土は戦時戒厳令下に置かれる決まりだ。

 各州知事から、各軍管区の副司令官に指揮権が移る。

「いずれにしても、硝石やリンの類は、軍需物資でもある。火薬生産量そのものと言ってもいい。我が国が抱えている問題がその海外依存にあるならば、統制下に置くのは当然だ。これはベレリアンド戦争でも、一部実施されたからな」

「食糧も、ですよ。食えなければ、軍隊は動けない。民需用の食糧統制は、当然でしょう。前線を支えなくてはなりません。ベレリアンド戦争ほど上手くいくとは限らないのですから」

「然り」

「担当省庁を集中させるかどうかは、議論を継続するとして―――」

 それまで黙していたグスタフが、口を開いた。

 皆、彼に注目する。

「国家とは、常に最悪の場合に備えておくものだ。国民のために。我が国の抱える問題がはっきりとした以上、対策はとろう―――」

 王として基本的方針は了承した、ということだ。

「それに、これはベレリアンド半島のためでもある。食糧及び肥料の増産は、喫緊の課題だよ」



 ベレリアンド半島の土壌は、徐々に回復しつつあった。

 グスタフが実施した焼灰農法や、そのあと続かせた緑肥栽培のおかげだ。灰や緑肥を鋤込むことは、それほどの効果がある。

 だが、長期的な観点からすれば、いずれ追肥を必要とすることは明らかだ。

 こちらが、まるで上手くいっていなかった。

 小作農から解放され、また幸か不幸か食糧価格の高騰により一挙に収入が増えた白エルフ族たちはよくやっていたが、厩肥を弄りたがらないという長年の習慣は早々に拭えるものではなかったのである。

 堆肥は、厩舎で排出された牛糞や馬糞に、藁や大鋸屑を混ぜ込みながら農家の手によって作る。微生物の力も借りて、発酵させるのだ。

 当然ながら、この過程で発酵により温度が上昇。湯気がたち、匂いなどもする。エルフ系氏族全体が持っている、強い忌避感がここで引っかかった。

 これを補うため苦肉の策としてグスタフが採用したのが穀草式農法で、放牧利用による自然施肥によって窒素系栄養素を補填することが可能だ。だが家畜による自然施肥では、範囲は限られるし、未発酵状態である。発酵堆肥と比べれば効果は薄い。

 また、畜産の拡大及び継続のためにも、粗肥料及び濃厚飼料不足を解決してやらないといけない。

 畜産業は、基本的には播種から収穫までのスパンが開く農作物による収入を補う。毎日牛乳や乳製品の売却がやれて、ときには肉牛の利益も見込めるからだ。衰え切っていたエルフィンドの農家には、何よりも必要な継続的利益を齎す。

 つまり結局のところは、食糧も肥料も飼料も補えるほどに、作物生産を向上させるしかないという結論に回帰する―――

 七月に入り、そろそろグスタフにとっては例年取らせてもらっている夏季休暇シーズンを迎えたころ。第一週の土曜。

 グスタフはいつものように、ディネルースと朝食を供にしていた。

 ヴァルトガーデンの朝市を覗いたあとである。グスタフにとっての安らぎは無事復活していた。

 ディネルースがそれを勧めた。

 彼女は、暗殺未遂事件で自身もまた標的となると、グスタフの気持ちが良くわかったのである。

 そのような慮外の出来事があったからと言って、国民との触れ合いが思うさまにいかぬというのは、なるほど、面白くない。

「負け戦をやらされているようで、つまらん」

 と、実に彼女らしい例えをして、自身も乗馬を復活させたのだ。

 ただし、警備陣や臣下たちの意向も汲んでやり、ほんの少しだが随行の警備を増やすことも受け入れている。

 この日は天気も良かったので、まだ清涼な朝の空気のあるうちに、官邸裏庭沿いのテラスに朝食の席を設えさせた。グロワール風に柔らかな曲線の背もたれと肘掛けを持つ籐の椅子と、装飾も美しい青銅の丸テーブルだ。

 ちかくバンデンバーデンに避暑と湯治を兼ねた休暇を予定していて、ふたりであれこれと楽しい想像に満ちた会話を交わしつつ、何事も抜かりのない執事長アルベルトの完璧な給仕を受けながら、グスタフは好むところの目玉焼きを食べている。

 薄切りにしたパンのうえに、生ハムと半熟で焼いてもらった卵を乗せ、ブラックペッパーをほんのり。

「うん・・・ これだ、これだ」

 すかさず、大きなカフェオレボウルからカフェオレを含む。

 ―――たまらなく美味かった。

 おまけに本当に気持ちのよい朝で、向かい合うディネルースの美貌や、栗色の髪の艶やかな煌めきを自然光のもと眺めながらの食事というのは、このうえなく幸せである。

 ちかごろ彼女は、ほんの少し髪を伸ばし始めていた。肩ちょうどの丈だったものを、肩甲骨のあたりまでだ。これを、流行りのかたちで緩やかに前髪の一部を編み込んで後ろで纏めている。ディネルースとしてもこの髪型は楽であった。侍女たちの手も借りれば、整えるのはあっという間だったし、解くのも自在だ。グスタフの好みとも合致している。

 そのディネルースはと言えば、この日の朝食には鰊の酢漬けを楽しんでいた。

 グスタフと同じく、オープンサンド。ただしこちらはライ麦パン。古典アールブ語ではスモルレブロドと呼ばれている、エルフ系種族伝統のやり方である。

 鰊のほうは、身の締まりも素晴らしい今季のもの。薄くスライスしたタマネギと、サワークリーム、荒く挽いた胡椒をあしらってある。浸かり具合まで良いのか、ディネルースも喜色満面だ。 

 いつだったか彼女は、

「鰊か、鰯の甘酢漬け。これと火酒があれば他に何もいらない」

 などと宣ったことがある。

 それほどには好物なのだ。

 北海の鰊は、まことに豊穣の極みである。

 同じく北海を代表する魚介類である鱈は、このころにはもう乱獲を心配する声も生まれ始めていたというのに、鰊に関していえばまるで尽きることを知らない。

 それほど「海を埋め尽くしている」魚類なのだ。

 燻製になって、古くから星欧内陸にも流通していた。作物が飢饉になってもこればかりは大丈夫だったから、救われた者も多いだろう。

 深い海にいて回遊してくるグループと、浅い海に押し寄せてくるグループとがあり、この両方が存在するベレリアンドでは、とくに盛んな漁獲量を誇っている。

 おまけにどういうわけか、学者たちにさえさっぱり理由が分かっていないが、何十年かに一度、どうにもならぬほどに沸く。沸くという表現が相応しいほどに、増える。

「・・・もう何年前になるかな。デュートネ戦争の前だったと思うが―――」

 グスタフはふと思い出すものがあり、微苦笑とともに目を細め、

「始末に負えないほど鰊が沸いて、ネーベンシュトラントの湾内はおろか、エルデ川の河口にまで押し寄せたことがあってな」

 懐古した。

 オルクセン北西部、ベレリアンド半島西側最大の商業港のことだ。戦争中は、海軍の仮装巡洋艦隊が根拠地にしていた港である。

「もう大騒ぎだったよ。漁民だけでなく農民まで毎日籠一杯にして。それでもまだ余った」

「そんなことが。それで、どうしたんだ?」

「うん、あのときは―――」

 そこまで話して、グスタフは茫然とした。

 目を見開き、まるで己の話に己自身で驚いているというような、そんな様子だった。

「・・・グスタフ?」

「・・・鰊。そう、鰊。あのときは・・・ なんてことだ! 鰊! そう、鰊だ!」

 何事かと驚くディネルースへの説明さえ忘我し、立ち上がり、グスタフは直ちに副官のダンヴィッツを呼び、農林次官を至急官邸へ、と命じた。

 このとき彼のなかで思い出された昔話は、もっともっと古い、突如として蘇った別の「記憶」と結びついて、ひとつの閃きになっていたのだ。



「・・・鰊粕、ですか?」

「そう。道洋の、そのまた果ての国の、古くからあるやり方だそうだ」

 土曜午前までの執務終了直前、突如引見を命じられた農林次官に、グスタフは説明した。

 まず、大量の鰊を、海水か真水で煮立てる。

 圧縮することで水分と魚油に分離。そして出来上がった搾り粕だ。

 ―――農学的には「魚肥」と呼ばれるものの一種。

 堆肥ばかりを主流に考えてきた星欧では、顧みられてこなかった方法だった。

「まるで無かったわけではないがな。八〇年近くまえ。たいへんな数の鰊が沸いて、処分に困ったときは我が国でも肥料にした。あのときは、やり方も手探りで。生石灰を徹底的に使って、更に土を混ぜ、完全発酵させたから、とてつもなく手間がかかってしまってな。普及しなかったのだが。その道洋のやり方なら工業的にもやれるはずだ」

 これは素晴らしい自然肥料であり、。おまけに即効性まであるという、申し分のないものだ。

 ちなみに、鰯でもやれる。

「確かに、菜種粕や豆粕とほぼ変わりません。蒸気式の煮沸釜を拵えて、機械式の圧縮機を作れば。町工場規模でもやれますな」

「そう、その通りだ。農事試験場も使って、幾らか実験はいるだろうが。そしてこいつをだな、国家予算を使ってでもノアトゥンに作ってやれ」

「ノアトゥン港に・・・」

 ベレリアンド半島の港。

 あの艦砲射撃を浴びて、復興が急がれている港に。

「そうだ。彼女たちなら、元から漁獲にも水産加工にも慣れている。詳しい試算は任せるが、おそらく極めて安価に量産もできる―――」

 グスタフは狂喜していた。

 踊りださんばかりだった。

 無理もない―――

 安価で量産できる肥料を使えれば、収穫も増やせ、肥料作物を作付する余裕も生み出せる。

 鉱石原料への依存も幾らか減らせる。

 しかも鰊と鰯は目と鼻の先で獲れる。のだ。

 厩堆肥に忌避感のある、エルフ系種族にも抵抗はないはずだ。

 旧エルフィンド民の、雇用創出にもなる。

 そして。

 ノアトゥンからなら、オルクセン諸港へも沿岸航路で大量に運べる。戦争のような最悪の場合を想定しても、鉄道輸送も可能だ。

「・・・・・・・」

 農林次官は驚ききっていた。

 一石二鳥、三鳥どころではない。

 このオルクセンに、ベレリアンド半島まで含んだオルクセンの国情に、完全に合致した方法になる―――!

「ただちに!」

「うん。頼んだぞ」

 馬車に飛び乗り、官邸を出た農林次官は、はて、いくら我が国を代表する農学者のおひとりとはいえ、陛下は一体どうやって道洋の肥料など調べられたのだろうかと、首を傾げるしかなかった。 


 

(続)

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