随想録02 星は星、道は道

まったく、みんな自分勝手。いい大人が何を考えているの。何が何だか分からないわ。

もちろん、私も含めて。

   バーリング夫人(キャメロットの詩人・作家)



 ―――ヴルカンヴァルカン半島。

 という言葉がオルクセンで使われ始めるのは、このころの事である。

 星欧東方の地理的領域を指す。

 長らく、イスマイル帝国の属領であった。

 それまでは「東方地域」であるとか、「スタリオン・イスマイル」、「ヘムス山地」、「星欧南東」などと呼ばれていた。

 元々は、半島を横断するような格好になっている山脈の、そのまた一つの山―――ヘムス山を指す別称だったようだ。

 まずこれを、この星紀の頭ごろ、オルクセンの地理学者が地域全体を示すものとして学会に提唱した。実はこの学者、たいへんな錯誤をやっていて、山脈の全体像を把握しきっていなかったという。まるで半島東西全てに対して横たわっているようなものだと、誤解していた。

 それが前星紀辺りから、各国の外交官、軍人、旅行作家などの記す文書に使われ始め、オルクセンでは星歴八七七年から正式な用語として採用された。

 以上の経緯が示す通り「ヴルカン」という言葉は本来、一山岳を示すものであり、しかもこの地域の住民の間で主用されていたものですらない。ずっと後の世になってから、地理的領域全てを指すものとしてはまるで不適当だとして、論争を招くことになるが―――

 ともかくも。

 このヴルカン半島が、星暦八七七年四月にロヴァルナ帝国とイスマイル帝国との間に生起した戦争の、主戦域になっている。

 この半島、周辺からの侵入は比較的容易い。

 エトルリア半島やイザベリア半島なら、山脈が根本にあって天然の障害になっている。ところがヴルカン山脈は半島の内陸にあり、防壁たり得ない。

 しかし、そうやって入り込んだ他所者がいざ内陸に進もうとすると、今度はその山脈が彼らの邪魔をする。

 谷から谷への移動は困難。

 古来より半島西部沿岸にあって栄えた都市など、内陸と交流するより、海を渡って他国と交易することを選んだほどのもの。

 しかも宗主国イスマイルは、道路整備に熱心な国ではなかった。

 馬ではなく、水牛やラバ、ラクダを用いたほうがマシだとされていたほどの、貧弱な陸路しかない。

 では水路を利用しようかと思えば、これも上手くいかない。

 もともと急流の多い半島内の河川は冬季になるほど流れが激しくなり、曲がりくねっていて、星欧では当たり前だった内水面輸送が歴史的にまるで発達していなかった。

 こんな場所であるから、鉄道も敷けたものではなかった。

 実際問題として、ヴルカン山脈より南側に鉄道が敷設されるのは、この戦争より一〇年以上あとである。

 山脈の影響は、陸と河川だけでなく海や空にまで及んでいた。

 険峻な峰々が星欧的な気候を遮ってしまい、山脈の東側の降水量は西側より極度に少ない。例え肥沃な土地といえども水不足を恐れ、とある河川流域など荒涼として渇ききっていた。

 冬季には大河すら凍結させるほどひどく冷え、雪も降る。

 科学と近代文明の力は奥地にまでは及んでおらず、まともな地図すらない。

 ―――つまり、戦争をやるには最悪の場所だ。

「この戦争におけるロヴァルナ陸軍最大の功績は、ヴルカン山脈を踏破できたことだ」

 と、ロヴァルナの陸軍大臣ミリューシンは記録する。

 彼は、ベレリアンド戦争におけるオルクセン式軍制の正しさを認め、皇帝ツァーリに申し出て皆兵制度や鉄道利用といったものを祖国に導入し、軍制改革を成し遂げたほどの傑物だったが、このミリューシンをして弱音にちかい感想を吐露した相手が、ヴルカン半島の自然そのものだったというわけだ。

 ―――しかも。

 この自然をも利して、イスマイル帝国は抗戦に務めた。

 最早衰弱著しいこの老大国の軍隊は、相当な欠陥や弱点を内包していたものの、それでも容易に崩れようとはしなかった。


 

「イスマイルが勝つのではないか」

 と、各国ではこの戦争を、当初そういう目で見た。

 ヴルカン半島方面における最大の激戦地となった城塞で、イスマイル軍は実に五カ月に渡って持久し、ロヴァルナ及びこれを援兵した自治国ロマニアの軍に対して出血を強い続けていたからだ。

 しかしながら、オルクセン国王グスタフ・ファルケンハインはこれに惑わされずに済んだ。

 ―――ロヴァルナが勝つ。

 オルクセン国軍参謀本部はそのように予想を建てた。

 彼らが注目したのは、ヴルカンそのものではなく、この東にある鉄海を挟んだ対岸、カウシス地方だ。

 そこでは、この戦争のもう一つの戦線が展開されていた。

 ヴルカン半島にしてもカウシス地方にしても、その歴史的経緯から、もはや当事者を含む誰にも明確な説明など出来ないほど、実に多様な民族、言語、宗教が混在していた。

 これが今星紀に入って退潮と腐敗、老弱著しいイスマイルの統治を緩ませ、またナショナリズムの勃興に影響もされ、星欧列商各国による介入の理由となってきたのだが。

 二〇年前にこの鉄海方面で行われたタリウス戦争で敗北したロヴァルナは、実に巧妙に、ひっそりと、だが確実にこのカウシス地域への浸透を図っていて、それに成功していたのである。カウシス北部には鉄道も作っていた。

 戦争が始まるや、ロヴァルナ軍及びロヴァルナ派民族義勇軍のカウシス地方への侵攻は上手く行き、ときにこれに抵抗する山岳民に頭を悩まされたが手荒く迅速な鎮圧もし、イスマイル帝国の国境線を四ヶ所に渡って侵した。

 まだヴルカン方面の戦線が膠着しているころ、五万五〇〇〇の兵と二二〇門の砲が、イスマイル帝国の要衝二ヶ所を叩き落した。


「ロヴァルナの構想は、ヴルカン半島での主導権を握ること、また彼らにとって「温かな南の地」であるカウシス地方を平定すること、そして究極的には七年前のログレス条約により非中立化に成功した鉄海における海軍勢力を更に広げ、地裂海方面へと進出することにあると思われる。つまり対外及び対内の問題を解決する、複合的な目的を有している。

 ヴルカン方面における宗教的民族的介入は、単なる口実に過ぎない。鉄海東部沿岸は既に彼らの確保するところとなり、この目的を達成しつつある」

「戦争とは、国家の構想、目的を希求するための一手段である。

 その意味から言って、ロヴァルナは既に成功している。またヴルカン方面におけるイスマイルの抵抗も、列商各国の支援がない以上、そう長く続くものではない」

「後方兵站が追従しにくいヴルカン半島及びカウシス地方であるが、ロヴァルナ軍の現地調達は上手くいっている。彼らの浸透地域では特需が起こっている。

 住民たちは挙って市場を設け、諸物資を供し、またロヴァルナ軍はこの対価を支払っており、対するイスマイル軍は横暴にも支払っていない」

「タリウス戦争以降、曲りなりにも近代化しつつあったイスマイル統治下において、かつてと違い税を現金で払うため貨幣経済の浸透した農民たちが、いずれに靡くかは火を見るより明らかである」


 この時期、国軍参謀本部から提出された報告書の数々を読んだグスタフは、これらに納得し、例え周辺国がどのような見立てをしようと、振り回されることはなかった。

 イスマイルに駐在する武官たちが寄越した報告が、国軍参謀本部に集まり、分析され、彼の手元に届き続けた。「情報」の出所については、武官たちが直接見聞きしたものだけでなく、他国から収集したものも含まれる。カウシス地方側のものについては、キャメロット武官との「現地交流」に依るところが大きかった。

 そのような情報収集の初期、まだベレリアンド戦争は終わっていなかったから、

「彼らも、祖国の戦争に対し舞い戻って、直接参加したいと願っている者も多いだろうが。彼らの仕事もまた、祖国のためのものだ。何ら劣らぬ貢献をしてくれている」

 グスタフはそのように評した。

 情報は、外務省からも届けられた。

 各国の、この戦争に対する姿勢である。

 このロヴァルナ・イスマイル戦争は、そもそもイスマイルにおけるヴルカン方面での叛乱鎮圧から始まった。イスマイルの不正規兵が、実に一万二〇〇〇から五〇〇〇名という東方星教徒を虐殺したというので、各国はこれを批難した。外電報道では犠牲者二万五〇〇〇名と真偽不明に膨れ上がってもいた。

 世にいうところの「アスパルフの恐怖」である。

 キャメロットでは、ちょうど行われていた庶民院議員選挙の争点にさえなった。

「イスマイルは果たして星欧なのか。列商各国がその背を支えてやる必要すらあるのか」

 この野党側主張は、キャメロット国民を刺激した。

 イスマイルに対する批難と抗議一色に染め上がった。

 似たような論理展開で、「レーラズの森事件」により旧エルフィンドの白エルフ族への心象が崩壊した直後でもある。 

 ときのキャメロット王国首相ビーコンズフィールドは、「大ログレスキャメロットの国益と維持のためにはイスマイルが必要なのだ」という見解を有しており、これを表明もして事態の鎮静化に務めたけれども、野党から激しく糾弾され、女王アレクサンドリナからさえ叱責されるに及んで、臍を噛んだ。

 歴史的にはずっと古くイスマイルに絡んでいたグロワールでも、宗教界を中心に同様の動きが起きた。

 ―――星欧列商は、イスマイルを支援できない。

 二〇年前のタリウス戦争では機能した星欧列商による「勢力均衡」及び「現状維持」を図る力が、働かなくなった。

 ロヴァルナは実によくこの動きを見ていて、イスマイルに宣戦を布告した。彼らに民族的宗教的な後ろ盾を得ていたヴルカンの自治国マルマラとポトゴリツァは、宗主国に対しとっくにそのように振舞っていた。星欧列商には、「中立」を求めた。

 ロヴァルナと列商各国の間を、様々な密約や協議が駆け巡った。

 オルクセンのグスタフは「中立になってやるからエルフィンド降伏への三国干渉から手を引け」とロヴァルナとグロワールの関係切り崩しに利用した。むしろ彼は、自国からは完全に勢力圏外の地で起こった争いに列商の目が向けられることを喜んだ。自国の安全が高まるからである。

 キャメロットのビーコンズフィールド政権は自らの大切な植民地マウリアとの交易路まで侵されないよう「エレッセア運河、イスマイル首都マクシムープル、鉄海海峡には手を出すな」と釘を刺して、この条件が認められるならと中立を飲んだ。

 グロワールは、ロヴァルナにとってあまり問題にならなかった。

 彼らは既にタリウス戦争の最中からこの方面への興味を失いかけていたうえに、むしろキャメロットの進出を快く思っていなかった。国内は皇帝のスキャンダルと近年の失点続きにより政情不安に陥っており、対オルクセンを睨めばロヴァルナとの関係を維持しようとした。

 一応の中立を選んだオスタリッチ帝国は、傍目にはいちばんロヴァルナを批難しているように見えた。彼らはヴルカン半島とは真隣で、影響を及ぼしているイスマイル自治領も権益もあったから当然と思えた。

 イスマイル自身はといえば、「列商は我が国を維持したがっている」、「多少荒っぽいことをやっても介入はすまい」と過剰な自信を持ち、読み違えをやっていた。結果として彼らは自治領そのものの叛旗を招き、ロヴァルナから攻められ、そして誰からも助けられないことになった。



 星暦八七八年を迎えるころになると、中立を選んだ列商各国でさえ狼狽するほど、イスマイルの敗色が濃厚になった。

 辛うじて維持していたヴルカン半島の戦線は、崩壊。

 巨額の外債を注ぎ込んで作り上げた海軍の艦隊は、ロヴァルナの鉄海艦隊に吹き飛ばされ。

 カウシス地方方面では、深くロヴァルナ軍に自領へと攻め込まれて、鉄海東岸どころか南岸も怪しくなっていた。

 ヴルカンの自治国たちは、ロヴァルナの後ろ盾を得てこの戦争に勝てば、完全な独立国になれると意気も盛んである。

「イスマイル首都マクシムープルをも攻めよ」

 と、ロヴァルナ帝が檄を飛ばすに至り、オスタリッチは抗議と和平交渉介入を試みた。そしてこれに失敗した。彼らはオルクセンへ使節を送って、どうか一番の中立にある貴国が事態収拾の場を用意してくれないかと、矢のように出馬を促した。

 キャメロットも慌てた。

 ビーコンズフィールドは、約束が違うではないかとロヴァルナ帝に親書を送ったが、これは無視された。女王アクサンドリナもロヴァルナの想像以上の進出に不安を覚え、世情もがらりと様変わりした。

 キャメロットの市井社会で、ロヴァルナへの抗議が巻き起こった。


 一一月二八日 五カ月に渡って持久していたイスマイル軍プレヴェン要塞陥落。

 一二月一一日 キャメロット陸軍予備役動員令発令。キャメロット、時局への強硬介入方針に転換。

 一月一七日 要衝プロブディフ陥落。イスマイル敗北は決定的に。

 一月二三日 キャメロット首相ビーコンズフィールド、地裂海艦隊に出動命令。マクシムープル沖への停泊を命じる。

 二月三日 旧イスマイル領の独立国ヘレニア、領土問題を解決すべくイスマイルに対し宣戦布告。

 同時期 グロワール海軍地裂海艦隊、警戒態勢命令を受領


 ヴルカン半島の民族及び宗教的問題に端を発した戦争は、あれよあれよという間に星欧列商全てを巻き込みかねない「東方危機」に発展した。

 グスタフのもとには、オスタリッチからの仲介依頼と、キャメロットからの「もし我が国がロヴァルナと戦争になれば好意的中立を保ってほしい、できれば彼らの国境軍を牽制してほしい」という親書が同時に届いた。

 在オルクセン駐箚のロヴァルナ公使は、皇帝から新年の祝いだとキャビアを献上に来た。そちらはそちらで、中立を保ってくれという含みも持たせている。短期的には、イスマイルとの休戦交渉が成れば、現地のオルクセン公使に立会人を依頼したいと、こちらははっきりと明確な要望をした。



「・・・えらいことになったな、これは」

 呻きつつも、夫はまるで冷静であるように妻ディネルースからは見えた。

 少なくとも、泡を喰っているという風ではなかった。

 ただ、二時間ほど執務室に籠り、しきりにパイプを吹かせて、あの大層怖い顔をしていた。そうして何かを決断したらしく、すっかりふだんの顔付きになると、昼食の仔牛のソテーをたっぷりと食べた。

「肉の繊維を垂直に薄く断った切り方。つつましい大きさ。さっとした焼き加減。こいつは全て仔牛向きのやり方だよ。司厨部は、肉の種類や部位でそこから変えてくる。そしてこの赤ワインのソース。いつもながら素晴らしい」

 そんな感想まで宣った。

 付け合わせのクレソンすら残さず平らげ、この健啖ぶりは昼食のはじめから終わりまで維持されて、楽し気な談笑をディネルースに供することまでいつも通りだった。

 ―――危機に陥っても、慌てないことだ。

 そう、夫は以前呟いたことがある。

 逃げろという意味ではない。

 慌てず、事に臨み、じっくりと冷静冷徹に決断しろという。

「事態の収拾に動く気か?」

 食後のコーヒーになってから―――つまり夫がデザートに至るまで食事と己との談笑をしっかりと楽しみ安らいでから、ディネルースは尋ねた。

「うん、まあそういうことだ」

「ロヴァルナとキャメロットを、も考慮のうえで?」

「・・・・・・」

 グスタフが本当に驚いた顔を見せたのは、このときだった。

「・・・良くわかったな」

「貴方の望みは、旧エルフィンドを含むオルクセンの安定。そのためにはベレリアンド戦争の結果、オルクセンに対し周辺国が抱いた警戒心を削ぐことだ、列商各国の目をこの星欧から外に向けさせることだと。これは貴方自身が以前話してくれた」

「・・・・・・」

「だとすれば。キャメロットとロヴァルナが、オルクセンから遠く離れたイスマイルの地で戦うことは、でもある」

「・・・・・・」

「しかし、貴方はその選択をしなかった。おそらく、グロワールへの睨みが緩むことと天秤にかけた、というところか」

「・・・・・・」

「外交上も、オルクセンがこの危機を解決する場を用意すれば、貴方のいうところの「公平な仲介者」になれる。貴方のことだ、その場を目一杯利用もするだろう」

「・・・お見事」

 グスタフはくすくすと笑いだし、ソファに並び座っていた妻の「読み」を認めた。

 たしかに驚きはしたが、彼はディネルースならこれくらいのことはしてのけるだろうと、むしろ誇らしく思っていた。

 ここのところ妻が図書室に出入りし、ヴルカンの地理書や、イスマイルの歴史書といったものを読み込んでいたことに気づいていたから、尚更のことだった。



 二月に入ると、列商各国が―――とくにキャメロットとオスタリッチが、激しい批難と警告とをロヴァルナにぶつけているころ、オルクセンにロヴァルナがイスマイルと結ぶつもりの和平条約案が届いた。

 それはまだ予備交渉用の、ロヴァルナ首脳による腹案に近いものだったが、オルクセンは二国間条約の仲介者、立会人を望まれたからであった。


 ヴルカン半島及びカウシス地方の一部をロヴァルナに割譲。

 ヴルカン半島のアスパノフ、ポドゴリツァ、ロマニア、ネマニッチ各自治国は独立国になる。同ボスナ・フムスカゼビア地方のビライエを自治領とする。

 イスマイル帝国はアスパノフには一兵もとどまらず、要塞の全ても破棄する。

 ロヴァルナ軍の六個歩兵師団及び二個騎兵師団は、五万名を越えない範囲でアスパノフに駐留する。

 地裂海のイラクリオン島、イオアニア島及びヘレニア地方テッサリは自治権を付与される。

 鉄海と地裂海を繋ぐマルマリア海峡及びダルダニア海峡は、戦時・平時を問わず全ての中立国艦船に解放される―――


「・・・・・・」

 外務省から届けられたロヴァルナの交渉案を見るなり、グスタフは罵りを漏らした。

 あまりにもロヴァルナの勢力圏が拡大する内容のものであり、こんなものを列商各国が承知するはずも無かった。

 とくに、アスパノフの独立にともなう領土案が目を引く。

 それはヴルカン半島の東西を縦断するように広がり、南側では地裂海沿岸にまで伸びていた。つまり彼らにとっての後ろ盾ロヴァルナがその港を軍港として欲すれば、やすやすと提供されるだろう。

 これは鉄海へ封じ込められていたロヴァルナが、その勢力圏を確立するはおろか、地裂海への進出まで果たすことを意味する。

 列商各国が―――とくにキャメロットとオスタリッチが認めるわけがなかった。

 また、哀れなのはヴルカン自治国のうちロマニアだ。あれほどロヴァルナ軍に協力し、兵まで差し出し、多大な犠牲まで払いながら、まるで褒美らしい拡張などもなく、ただただ独立を保証してやるという内容でしかない。

 しかも、オルクセンの在ロヴァルナ駐箚公使の報告によれば、ロヴァルナ側は例えこの和平条約について他国から介入を受けたとしても、一時的な譲歩案以外なにも用意していないようだ、という。

「ひどい話だ・・・」

 そうしてこのころには、グスタフの元に別の報告も届いていた。

 オルクセンの外務省には、電信局という組織がある。

 本来は、在外公館などとやりとりする電信を取り扱う部署だ。しかしそのなかに専属で、とある特殊な仕事をやる、素気なく「技術課」と呼ばれる連中を持っており、これはオルクセン駐箚の各国公使館が発する電信を傍受している。むろん各国とも暗号を使っているが、その解読も担当していた。

 実質上は電信局長の配下にすらなく、外務大臣クレメンス・ビューローの直属である。

 この部署は、ベレリアンド戦争中に更にその必要性が認められて、予算も配置者も五倍に増やされていた。 

 オスタリッチの公使館は、オルクセンに和平交渉への仲介出馬を依頼してからというもの、電信の発信量も受信量も増えている。

 電信の使用量が増えるということは、これ即ち暗号の使用頻度も上がり、未解読の部分までデータが蓄積されるということだ。

 オスタリッチの外務省は、彼らの目から見れば非常に単純な五文字組のサイファ式暗号を使っていたので、たちまちのうちに頻出語やフレーズの多くを見抜き、またこれらを蓄積して他の文章の解析元とし、暗号解読のうえでその作業を困難とする「冗句」も乗り越え―――

 ついには、オスタリッチ帝国外務省公館暗号の全てを解読してしまった。

 これは対外的には第一級の機密情報とされ、彼らの外交公電の中から読み解かれた重大な、あまりも重大な部分がレポートとなって、グスタフ王のもとに届けられた。

「つまり何か? オスタリッチは戦争前にロヴァルナと密約を交わしていて、ヴルカンの権益保護をやるつもりだった・・・戦前と戦中の対ロヴァルナ批難は対外的な演技。ところが勝ちに勝ったロヴァルナがその協定を守りそうにないので、泡を喰って仲介に乗り出して失敗。本気で批難を始め、事態収拾の為にうちに仲介を依頼してきた、と?」

「そういうことになりますな―――」

 外務次官オットー・ラーベンマルクは肩を竦めた。

 オスタリッチで外交を主導している外相クラスナホルカは、非常に才気あふれる男だが、まだ若い。ベストにつくる染みとしては大きすぎた。

「あいつは、伝統的にはうちと対立姿勢にあるオスタリッチのなかでは、うちに近づこうとしていた奴だ。一時はキャメロットに亡命していたほど国内基盤も弱い。密約にも仲介依頼にも失敗したとなれば、失脚しかねん」

「では?」

「ああ。ひとつ貸しを作ってやるとするか」



 星暦八七八年二月末までに、オルクセンと列商各国の間に実に多くの密使が飛び交った。

 とくにそれはキャメロットとイスマイルの間で頻繁であり、やがて彼らの間に秘密事前交渉の妥結が見られると、グスタフ・ファルケンハインの名でひとつの声明が出された。

 通称、ファルケンハイン回覧書。

「我がオルクセンは、世界が懸念する東方危機の解決にあたるため、事態収拾の場を公平な仲介者として関係各国全てに対し提供する用意がある。星欧の平和のため、とくにロヴァルナ帝国とイスマイル帝国はこれを賛同してくれることを望む」

 ロヴァルナ・イスマイル戦争講和会議―――ヴィルトシュヴァイン会議の始まりである。


(続)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る