オークのグルメ⑱厨房のダイヤモンド
―――それは一通の公電から始まった。
多くの者を振り回す大騒動といった出来事は、得てしてそのような小さな代物から起こる。
オルクセン外務省グロワール駐箚公使エドゥアルト・アルニムは、星暦八七七年一一月初頭のある朝、外務省転置式サイファ型暗号を解読のうえで通信部から届けられたその内容を一読し、
「これはたいへんな事になる・・・」
小さく、静かに、だが驚きを込めて呻いた。
オーク族であるアルニムは、非常に熱心なグスタフ王信奉者で知られており、とくに王の断固としてエルフィンドに対して開戦し完遂した姿勢や、聖星教教皇領との対立姿勢に共鳴、共振した、過激なまでの「愛国者」として有名な牡だった。
任地国グロワールでは、二国間交渉の実務や内外政の情報収集といった公使としての通常職務に加え、現政権であるデュートネ三世と対立している共和派との密かな接触、そして聖星教が星欧近代国家と対立するきっかけとなった教皇誤謬表に反対する司教たちの支援を行っていた。
つまり。グロワール首都リュテスらしい壮麗な五階建ての公使館を根城に、お気に入りの美しい裏庭と噴水を眺める暇もなく、華やかなる疲労と過食の日々を過ごしているというわけだ。
一個の牡としての彼は、粋者である。
とくに美食と佳酒、旬菜に目がなく、そのために彼と彼の家族専属の一流コックを雇っているほど。これはたいへんに贅沢な真似で、公使館付きコックと公使付きコックでは厳密には異なる。
今日の昼食には、彼お気に入りのふんわりとしたスフレを焼いてくれることになっており、そればかりが気にかかっていたが―――
アルニムは公電を読み、方針を決すると、ただちに腕利きの参事官、書記官、理事官を集めた。大国であるグロワールに駐在する彼らの陣容は、小国における公使館のものよりずっと厚い。
ただ、彼らはふだんの打ち合わせ時間が三〇分ばかりも前倒しされたことに驚き、いささか慌て、急ぎ資料を纏め上げて参集した。政務班、経済班、会計班・・・
会議は常日頃のものより、ずっと長引いた。議題は、急遽差し挟まれたものが中心になった。
「これは、あくまで非公式ルートでということになりますね?」
「ああ。正規のルートは使わない。応用は出来るかもしれないが」
「我ら種族の弱点を晒すようなものですからな」
ともかくも、参事官一名を長とする担当官の何名かが定められた。少数ながら、関係各班を横断した複合的かつ精鋭的なものだ。
「ヴェルツ。いま取り扱っている仕事は全て誰かへ引き継ぐんだ。支障はないな?」
「はい、閣下」
「本件を最優先で処理しろ。ただし、急いては事を仕損じる。確実に成功させるように」
正確な議事録と、本省への返電案が作られて館内稟議に回り、機密上及び即断性の観点から公使を含む何名かの限られた者たちで裁可が行われた。
幾らか会計上の措置も必要になった。
絶大な権限を持っているように思える在外公館でも、実際には個別案件資金の殆どは本国に稟議請求して処理される場合ばかりだったから、これもまた珍しいことだ。
「確実に成功させろ、か。簡単に言ってくれるなぁ・・・ こいつをしてのける為に必要なのは、
担当官の長とされたヴェルツという名の参事官は、ちょっと斜にかかった口調で捻りだし、本件のために必要な交渉相手と繋がりのあった書記官を連絡役にし、アポイントメントを取らせ、その日のうちに公使館から送り出した。
「・・・とても難しいですね。そう、これはとても難しい仕事だ」
リュテス一〇区の東駅近く、とある店の奥でアンドレ・デュパールは呟いた。
グロワール人デュパールは一種の
商いの相手は常連が多く、丹念に彼らの要望に応えることで、この難しい商売を成り立たせてきた。彼が扱っている特殊な商品の殆どには
紛れもないプロフェッショナルだと言えた。
デュパールは、丸いボウル型のブランデーグラスを二つ、それに希少なアルマニャック酒の瓶を出して、客に勧めた。
そうして来客がその甘く香り豊かで濃い琥珀色をした液体を一口含み、少しばかり緊張が緩んだとみてとれるところで、このオファーの問題点を指摘した。
「まず、時期は悪くない。むしろ適しているといえるでしょう」
「ふむ?」
客は頷いた。
―――素晴らしい。
デュパールは感心した。
客は「それで」とも「だから」とも返さず、静かに彼の言葉の続きを持っていた。
結構なことだ、私のような者にも耳を傾ける真摯さが、この客にはある。そうして事を成功させようとしている。
この客もまた、一種のプロフェッショナルなのだと解することできた。
そういう客と商売をする機会は、残念なことに滅多にあることではない。
たいていの注文主は、あれやこれやと一方的な要求を突きつけて、彼をきりきり舞いさせるだけ。
だから目の前の客のような相手と取引をやることは、デュパールにとって何よりの喜びだった。
まさかそんな素晴らしい客が、人間族ではなく魔種族になるとは商いを始めたときは思ってもみなかったが。
なんといったかな、
狐の毛皮襟のついたフロックコート。ファラミラスのチョッキ。そして品のよい手袋。
ブルジョワ階級もかくやと思われるような、キャメロット流の立派な服装をしていた。本物の紳士だ。
既に長い間、贔屓にしてもらっていた。
「問題は、ご指定の納期ですね。しかも、量が量です。こちらも休息日、あちらも休息日。そんな時期ですから・・・」
「・・・いまから集め、早めに納めていただくわけには?」
「御国の技術を用いれば、それも可能でしょう。また、我らにも日持ちさせる方法もあります。エトルリアの連中が編み出した手法でしてね。適切に処置をしてやれば、しばらくは持つ。ですが、それでは質はまるで保証できません。並の状態なら一日に一割、ご希望の品の最大の魅力である部分が減じていきます。一〇日で効果が失せてしまうでしょう」
「・・・なるほど。道理ですな」
客は頷いた。
「まぁ、その道の職人には心当りがあります。どうにかしてのけますが・・・ 問題のもうひとつは、その職人たちです―――」
「・・・・・・」
「この品に限っては、彼らへの支払いは現金に限る。紙幣や小切手では駄目です。彼らは政府の所得税などまるで小馬鹿にしきった連中だ。領収書も発行されません。現金しか通用しない。そういう世界なんです」
「・・・おいくらほどに?」
「そうですね―――」
デュパールは、彼自身なら一月は遊んで暮らせる額を告げた。
「彼らに、ことを円滑に運ばせるためにも。これは相場といったところでしょう」
「・・・わかりました。半金前渡し、もう半金は納入時にということで」
彼は書類鞄から、革袋に包まれた
「それで、輸送手段は?」
ヴェルツの特別班にとっての特殊任務は、最終段階に入ろうとしていた。
決行の一週間前には、デュパールとの連絡をにあたらせている部下から、目途がついた旨の報告を受け、彼と打ち合わせをした。
「その点には意を凝らせたよ。なにしろ、本件は公使の肝煎りだからね。外交行嚢を使うことにした」
「外交行嚢を・・・」
そこまでやるのかと部下は驚いた。
慣習上、「袋」や「行嚢」と呼ばれているが、その外形は必ずしもそうではない。
木箱の類であることもあり、ただ、どのような容器でも表面に「
「グロワールの連中の誇る、例え船旅で遭難しても海に浮くという頑丈なトランクをふたつ。こいつが特別製で、うちの手で内側に薄い銅板と刻印魔術式金属板を張り付けてある」
「国際郵便に委ねるわけには?」
「駄目だ。確実に、指定の期日に着く保証がない。君が本国までの伝書士役だ」
「・・・私が、ですか?」
「ああ。こいつは褒美を兼ねている。目的を果たしたら、ゆっくりと本国で年始第二週辺りまで休暇を楽しんでこい。あれこれと走り回ってくれた礼だ」
「・・・ありがたく」
―――無事に務めを果たせれば、か。
その部下、コボルト族の書記官は多少の皮肉っぽさを潜め、内心の緊張を落ち着けた。
「申し訳ありませんが、誰かひとり付けていただけませんか? 出来れば腕の立つ、そして今回の件を知らされていない、だからこそ肝の座った奴を。事が事です」
「・・・ふむ」
ヴェルツは、他種族からみれば、ごくごく毛の薄いオーク族特有の眉を上げた。
見事なものだ、と感心している。
この特殊任務を無事に果たすという大目的と、己ひとりで責任を負いたくなどないという自己保身。それを見事に兼ねている。そして追加されたもうひとりは、望外の本国休暇を得て、こいつに感謝もする。つまり、こいつにとって館内に味方も出来る。
そして、公使はこれを受け入れるはず―――
即座にこんな回答を捻り出せる奴は、頭の回転が良い。
「いいね。お前、出世するよ。わかった、稟議はあげておく」
―――年の暮れも迫った一二月二八日。
到着した「品」の荷造りは、公使館員の手で行われた。
オーク族の者たちにとって、対象物はある意味でたいへん危険な「劇薬」であったから、コボルト族やドワーフ族の書記官たちが丁寧に作業をした。
しかもその品質は、ブローカーのデュパールが保証する極上のもので、なおかつ公使館でその道に長けた者たちも確認をしたから、尚更のことだ。
コボルト族にとっても危険であることは変わりなかった。彼らは鼻先に布を巻き、マスク代わりにして事に臨んだ。
合計で四キログラムという代物を四つの山に分け、リネン製の袋に詰め、さらにそれを二重にし、そして籐製の蓋つき籠に納めた。蓋はしっかりと閉じられたうえ、例の特製トランクに納めるときにも革バンドで固定をし、大鋸屑の緩衝材を周囲に満たした。
そうして選抜された二名の外交伝書使は、公使館が手配した本国までの鉄道乗車券を受け取った。
かの高名な
このグロワール人実業家ナゲルマケールスの創設した事業は、まったくたいへんな規模だ。
それは、極めて特殊な事業形態である。
八七六年にアルビニー国王の資金的及び政治的な後ろ盾をを得て設立されるやいなや、アルビニー国鉄、グロワール北鉄道、オルクセン国有鉄道、ロヴァルナ帝国鉄道といった鉄道各社と契約し、自己の鉄道路線を持たずして五三両の車両を運行していた。
北星大陸で主流の開放式寝台ではなく、星欧で受けのよいコンパートメント式寝台車に代表される豪奢な編成と、徹底したサーヴィスとをセールスポイントにしている。
将来的にはポルトやイザベリアからロヴァルナまでを直通させる壮大な寝台特急路線を構想しているというが、各国間の軌道間隔の違いを克服するための技術的問題と、ベレリアンド戦争におけるオルクセンの鉄道利用によって改めて各国で懸念されるようになった国際間鉄道連結への軍事国防上の問題にぶつかって、いまだ実現してはいない―――
だが既存の路線だけでも、
「リュテス、サン・コランタン、リネージュ、カディニャン、ハーヴェルシュタール、ポセンレーベン、フェンデルホルスト、ヴィルトシュヴァイン・・・こいつは豪勢な旅だ」
オルクセン首都ヴィルトシュヴァインまで約九四二キロメートル。
公使館から軽快な四輪馬車を出し、伝書使役二名は一〇区にあるリュテス北駅に向かった。
石造りにガラス張り、沿線の諸都市を象徴した二三もの女神像を配した壮麗なファサードを持つこの巨大なロマネスク様式のターミナル駅は、昨年拡張工事を終えたばかりで、一三ものプラットホームを持つ。
このプラットホームの柱に使われている鉄材は、わざわざキャメロットとオルクセンから輸入されたもので、建築当時これほど巨大な柱を作れるのは両者だけだったからだ。
伝書使に選ばれた書記官には、それが少しばかり誇らしかった。
二頭のライオンが向き合った国際寝台車会社のロゴのついた豪奢な二等車に乗り込み、コンパートメントに落ち着くと、ふたりは安堵の吐息をついた。
肝心要の大事な荷はポーターに任せず、彼ら自身の手で個室に運び込まれた。
「なんてこった、これほど豪華な列車で食堂車はついていないのか」
「この昼間連絡特急にはね。グロワール人は、駅舎のレストランで落ち着いて食事を摂りたがるから」
「ちくしょう」
グロワールから二度の乗り換えと四度の税関通過―――といっても外交官旅券を示し、本当に通過するだけだったが、二名の伝書使は首都ヴィルトシュヴァインに到着した。
アルビニーとオルクセンの国境駅、アルビニー側のカディニャンを越え、オルクセン側のハーヴェシュタール駅に着いたとき。オルクセン国有鉄道社の国際寝台車会社契約車両に乗り換えがある。これは軌道間隔の違いから乗客も貨物も総出で別車両に移るので、時間もたっぷりとかかる。
ふたりはこのとき、駅長に依頼して外務省本省に経過電報を打っていたから、ヴィルトシュヴァインのアルブレヒト駅に到着したときにはもう、本省差し回しの馬車が待っていてくれた。
「やはり、本国は良いな」
「ああ」
五年ほど前、星欧各国を巡った道洋新興国アキツシマの代表団のうち一名が、面白い手記を書いている。
―――キャメロットは質に優れ、グロワールには装飾があり、オルクセンは重厚である。
建築、音楽、食。そういった文化及び社会全体を、実に的確に表現しているように思えた。
二日に渡って車窓を眺めて移動したばかりのふたりには、とくにそれが感じられた。
ターミナル駅ひとつとってみても、確かにグロワールには文化の発信地にして中心地、星欧随一の都市という印象がある。対するオルクセンは、近年の進捗著しいといっても何処か田舎街のような趣が拭いきれない。
だが、質に関して言えばどうだろう、と書記官のうちひとり―――あのコボルト族シェパード種の「出世する」牡は思う。
グロワールは首都リティスから一歩郊外に出れば、荒野は荒野のままである。なだらかな起伏のある土地が、ただ広がるだけ。星欧のうちでは肥沃な土地とされ、実際に農業生産量ではかなりのものがあるが、耕作不適合地は放置されたままだ。
対するオルクセンはどうか。
土壌の分析をやり、色を塗り分けた地図を用意し、各地方に適した農作物を選定する。
国家総出で家畜の敷藁を積み上げ、堆肥を作る。
グスタフ王の治世以来、そんなことをずっと昔からやってきた。
耕作面積が広がり家畜堆肥だけで補いがつかなくなってくれば、骨粉、グアノ、近年では南部連合のリン鉱石や南星大陸の
そうやってあまりに耕作地を広げたため、いまや森林は国土面積の五分の一しか残っておらず、一〇年ほど前には森林保護法を作って、計画的な営林を始めたほど。
ついにはキャメロット、グロワール、ロヴァルナ、アスカニアなど近隣諸国に穀物を含む農作物及び蔗糖といった加工品を輸出するようになっている。
工業及び鉱業、工芸、商業の発展も著しく、国威は弥増すばかり。
鉄鋼、紡績、染料、陶磁器、ガラス製品、時計、光学機器、宝飾具、製紙、製革、造花、煉瓦。そして兵器―――
魔術式刻印板やエリクシエル剤も、輸出量を増やす方針と聞いており、実際に外交筋での引き合いもある。
国家としても、輸入額より輸出額が上回るようになった。
書記官は、とある小国の公使館員から囁かれたことがある。
「貴方が羨ましい。力が伸びるばかりの国家の外交官とは、実にやりがいがあるでしょう」
そう、いまやオルクセンは明らかな列商主要国だ。
それも経済規模の実態からいえばグロワールを抜き去り、第二位の地位に就きつつある。
―――あの、リュテス北駅の鉄柱。
我が国の産。
母なる大地で作り上げられたもの。
鉄道に代表される、科学技術の進歩をも取り込んだ、我が祖国。
だから、
書記官は誇りとともに、出迎えに現れた国王官邸副官部のライツ大尉とローエルダンツ中尉へ丁寧な礼を述べつつ、馬車に乗り込んだ。
「―――こいつは素晴らしい。申し分が無いよ、これは」
荷を待ち構えていた国王官邸司厨室では、早速これを開封し、「品定め」が行われた。
執事長フィリクス・アルベルトが中心になって立案した、極秘の計画だった。
決して国王夫婦に―――とくに国王グスタフに知られてはいけない。
提供のその瞬間まで。
殆どの者がオーク族で構成されている司厨部にとって、質の確認はたいへん危険な行為であった。
司厨長オラフ・ベッカーが代表し、指先で張りを確かめ、しっとりとしていることを見て取り、
「みんな、見てみろ。素晴らしい仕事だ。泥は払われているが、洗われてはいない。こうでなくちゃ。こいつは調理直前に洗うのがいちばんなんだ」
喉と腹を震わせた。
様子を伺いにやってきたアルベルトも鼻をひくつかせ、
「ああ、これは。たいへん結構ですな。この冬至祭休暇中に最適です。では、さっそく―――」
「なんだって!? 本当か・・・!」
耳元で今宵のメニューについて囁かれたグスタフ・ファルケンハインの驚きようは、ちょっと見ものであった。
本当に良いのか、ご安心ください、心ゆくまでご堪能を、といったやりとりをアルベルトと交わしたうえ、
「えらいことだ・・・えらいことだ・・・」
まるで天変地異でもやってきたかのような様子で何度も呟き、ディネルースを驚かせた。
なんでも、滅多に食べられないものが供される、と。
それはオーク族にとって、成分上おいて表沙汰にされていない危険な性質があり、禁制品に近いものらしい。
おまけに鮮度が短く、質が落ちることを覚悟でオリーブ油漬け等に加工でもしない限り、生のものは余程の手間暇をかけないと輸入も困難である、と。
―――いったいなんだ、この匂いは。
例えるなら、肥沃な土壌の香り。深い森の、折り重なった落ち葉といってもいい。つまり、腐乱性を思わせる。己のような初めての者には近寄りがたさを覚える者もいるだろう。
濃く、ねっとりとしていて、いつもふたりが来客や招客のないときに食事の場としている応接間を満たしきってしまうのではないか。
蓋があけられると、現れたのは何とオムレツだった。
オムレツといえば、庶民的なものでもある。
しかし司厨部の作るそれは、厳選された新鮮な卵を三つから四つ、塩胡椒でしっかりと味付けし、泡だて器で丹念に混ぜ、さらに一手間かけて漉し、上質なバターでふわふわに柔らかく焼き上げ、王立磁器製陶所の青縁つき白磁楕円皿に盛りつけた、もはや一級の料理。そうして銀蓋で熱を逃がさないようにし、手早く温かいうちに供してくれる。
それだけでもディネルースなども好んでいる逸品であり、卵料理を愛するグスタフなどには「ご馳走」なのだが、いつもと様子が違っていたのは、小さく刻まれた黒っぽい何かが練り込まれていることだった。
この「何か」が、あの鮮烈な匂いの元らしい。
更には、アルベルトが頷くと給仕がスライサーを取り出し、黒いゴツゴツとした硬貨大の代物を薄くスライスし、降りかけた。
外皮は黒い。だがその内側は、灰色にちかい白さがある。
香りが、むせ返るほどに増した。
「グロワール人が‟台所のダイヤモンド”などとも称する黒トリュフでございます。ささ、お熱いうちにお召し上がりを」
グロワールの南部で産する、嗜好性のある、茸類の一種。
それは後の世と比べればまだずっとたくさん採れたが、遠方地では希少な品であることには違いはなかった。
促されるままにナイフとフォークをつかって、とろとろのところを恐る恐る含む。
意外なことに、「台所のダイヤモンド」とやらに味気は薄かった。素気ないほどだ。生のマッシュルームに近い。オムレツの塩気とともに味わうものらしい。
だが、その香り。
強烈だった。
体にまで染み込みそうで、明日になったとしても残っているのではないかと思わせるほど。
ひとによって好悪は分かれるだろう。
だが、ディネルースは気に入った。
この香気。峻烈な香気。重々しい赤ワインと合う。
「これは良い、珍味、魔味。実に美味いものだな―――」
いつもの調子でグスタフを見やり、唖然とした。
グスタフは、ゆったりと食事を摂る彼にはたいへん珍しいことに、一心不乱にこの絶品に挑んでいた。
無言でナイフを使い、フォークを動かし、がつがつといった具合で咀嚼と嚥下を繰り返している。
美味であることは確かである、それは認める。
だが、それほど夢中になるほどのものかと、呆気にとられるほどの様子だった。
「ああ・・・」
ディネルースのそれよりずっと大きい、六個ほど卵を使ったオムレツをあっという間に平らげ、ようやく顔をあげた夫の表情に、更に驚いた。
恍惚―――という表現が相応しいかもしれない。
爛々とあの子供のような瞳を輝かせ、頬を上気させ、大きく深い吐息をひとつつき、
「・・・アルベルト」
「はい、我が王?」
「・・・もう一度食べたい。構わないだろうか」
「もちろんでございます」
これはたいへん珍しい真似だった。
なにしろ普段の彼は、司厨部の用意した献立、その流れに口を挟んだりしない。まだ前菜のような位置付けなのだが、日頃絶賛している魚料理や肉料理はどうでも良い、もっとこれを食べたい、食べ尽くしたいという、静かな、だが確固たる意志を滲ませている。
ただちに御替りが用意され、またグスタフはこれをひたむきに摂り。
なんと彼は、三個目まで所望した。
「・・・おい、グスタフ。いったいどうした?」
妻の言葉は、耳に入っていないようだ。
ただ吐息を繰り返し、ぼうっとしている。
これもまた、珍しい真似―――
だがディネルースをいちばん驚かせたのは、三皿目のオムレツを摂り終えたあとの、彼の顔だ。
「ああ・・・ああ・・・ディネルース・・・ これは・・・これは・・・凄い・・・ たいへんだ・・・素晴らしい・・・」
とろりと溶けきったような赤い顔で、だが彼女の背をぞくっとさせるような熱い目をして、彼は言った。
ディネルースは困惑した。
このような彼の瞳の色や光には、覚えがあったからだ。
一度でも男と暮らしたことのある女なら誰でも知っている。男には、例え毎日一緒に愛する女と一つ屋の下にいたとしても、相手を求めて止まない、己自身でもどうにもならないような夜が来ることがある。
おそらく生物として根源的な、発情しきった何かに先祖帰りしてしまった時間。男から、獣になるような眼。
そのときのものにそっくりだった。
「・・・おい。アルベルト、これは一体・・・?」
「まあ、その。すぐにお答えについては、ご理解いただけますかと―――」
忠実な執事長は明確な回答を避けた。だが何やら期待を秘めているようで、尻尾がぶんぶんと振れていた。
「なにしろこの休暇中のご馳走にと、よほど飽食されましても途切れぬほど仕入れてございます」
―――オーク族にとって、トリュフ類には強烈な催淫効果がある。
あの香りが、彼らの種族としての鋭い嗅覚をどうにもならぬほど刺激し、そうなってしまう。
それゆえに禁制に近い品になっているのだとディネルースが知るのは、この夜のことであった。
(続)
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