オークのグルメ⑧ジャガイモと閨房

 ディネルース・アンダリエルは、毎朝とある場所で決まって目覚める。

 いや、「場所」と言って良いかどうか。

 グスタフ・ファルケンハインの胸のうえだ。

 仰向けになった彼に、被さるようにして俯せになって朝を迎える。

 彼女の夫は、まったくもって巨躯だった。人間族と比べれば長身であるディネルースからしても、そのように思えるほど。

 だから同衾されて眠るようになってからというもの、いつの間にか自然と、そんなかたちを取るようになった。

 ちかごろでは、互いの体の凹凸や、柔らかみ、果ては肌理のひとつひとつまでもが合うようで、世の成り立ちからこのような姿勢になって眠るように出来ていたのではないかと思えるほど。

 夜毎、忘我の極みの果てに深い眠りに落ちると、何事も詩的なグロワール人の言うところの「小さな死」を彼の胸のうえで迎える。

 完璧な眠り、とでも意訳するべきか。

 彼女から被さることもあったし、グスタフに引き上げられることもあったが、ともかくもその完璧なまでの眠りに、もはや欠かせぬ「場所」であった。

 それでも朝になって目覚めてみると、ちゃんとディネルースのうえにはシーツがあった。包み込まれている。

 どのような魔術を用いているというのか、彼女が眠りについているうちに、夫がそのようにしてくれているらしい。

 おまけに、背や、肩のような寒気を感じやすいあたりにはグスタフが腕を回してくれ、包み込むようにしてくれているので、まるで温かい。互いの肌が触れ合っている部分については、言うまでもない。

「・・・重たくないか?」

 あるとき、少し心配になってディネルースは尋ねたことがある。

「まるで。むしろ―――」

「うん?」

「世の全てから、君を支えているようで。それが良い」

「・・・そうか」

 彼女の夫といえば、そんな具合のひとだったから、おかげで風邪を引くことなどなかった。

 そもそも―――

 ヴァンデンバーデンの寝室で迎える朝は温かった。

 この離宮には、建てられた当時最新の発明だったセントラルヒーティングが取り入れられていて、地下にはボイラー室があり、主要各室には蒸気式のラジエーター暖房器具が備えてあった。

 蛇腹のような見かけをした、鋳鉄製のラジエーターが寝室の一隅にあり、これが室内を温めていた。

 たいへんに贅沢なことだ。

 オルクセンに限らず、星欧の北方に住まう者にとって年間殆どの朝とは、肌寒いか、あるいはそれ以上に寒いものであった。

 長い長い歴史上そうであったし、これは今でも多くの者にとって変わりがない。

 寝台の足元には敷物を用意していて、降り立ったとき、せめて足裏だけでも冷感から逃れようと努力するほどのもの。

 では暖炉を焚けばよいと思えるが、年中そのようにしていては稼ぎも燃料も幾らあっても足りなくなる。病人や子供相手でもない限り、上流階級の者でさえそんなことはやらなかった。

 その贅沢な微睡のなかで、ふたりは朝の八時くらいまでは起きない。

 これもまた驕奢であり、怠惰であり、ディネルースには申し訳ないことのように思えたが、グスタフに言わせるなら己たちのような立場にある者が余り早く起きすぎるのも、臣下たちにとっては迷惑なことなのだという。

 既に召使や料理人たちは起床している。

 その目覚めは概ね朝の六時、早い者で五時というもので、彼ら、彼女たちが何をやっているかといえば、言うまでもなく国王夫妻の一日を迎えるための準備だ。

 例えば離宮の半地下式になっている巨大な厨房では、最新の閉鎖型レンジから前日の冷えた灰が掻き出され、ありとあらゆる部分が磨き上げられ、煙道の清掃まで行われる。これは調理部の下働きにとって毎朝の日課であり、欠かすことの出来ないもので、そしてたいへんな作業だ。

 全てを終えたところで調理部全体が動き始めるが、火の具合を慎重に高めながら湯を沸かせるようになるまで四五分。巨大極まる鋳鉄の怪物といっていい閉鎖型レンジ全体が調理可能になるまで一時間。

 もちろんこれらは調理部の話であり、他の部門も何ら変わることのない仕事の数々がある。あの暖房のボイラーにだって、ボイラー番がいた。

「コーヒー一杯、茹で卵ひとつ。磨き上げられたドアノブの煌めき。全てが皆の働きの上にある」

「・・・・・・」

「だから、もう少し眠っておこう」

「うん」



 グスタフは、相変わらず健啖だった。

 「三食五皿のフルコース」というわけではなく、とくに朝食には質素と純朴と清楚があったが、量はかなりのものだ。

 朝は、卵を一八個も食べる。

 その他に、呆れるほどのハム、生ハム、ヴルスト、サラミ、チーズ、ピクルス、季節の野菜やフルーツ、もっちりとしたパン。

 これにたっぷりのコーヒー、牛乳、バター、ジャム。たまにグロワール式ボウル、ただし国内の窯元に焼かせた太しのぎの白磁のボウルでカフェオレを飲む。

 卵は、半熟の目玉焼きで供される。これに粗挽きの黒胡椒と塩とを、ぱらりぱらり。

 コックや給仕たちも心得えたもので、冷めないよう六個ずつ焼いて出してくる。

「目玉焼きはいい。何にでも合う。素晴らしい」

 グスタフは良くそう言った。

 彼は生まれながらの王族というわけではなかったから、その食に対する根幹の部分にはどこか庶民的なものがあり、卵は「ご馳走」だった。

 ディネルースにも、皮膚感覚としてまでそれは良くわかった。

 彼女は朝食には胡桃入りのパンか、レーズン入りのパンを好んだ。生地の具合は小麦粉四割、ライ麦粉六割。それは大変に贅沢なものに思えたのだ。

 そして、ニシンの酢漬け。故郷の味だ。しかも、グスタフの言うところの「ご馳走」である。彼女の生まれ故郷では、加工されて海沿いの街からやってくるものだった。

 ふたりは長命長寿の魔種族であったゆえに、食糧の生産がもっと乏しかった時代、つまり飢饉がいまよりも遥かに身近な存在であった時代の記憶がある。

 背筋まで震わせるような、漆黒の、闇そのもののような時代。

 天候の不順や戦争などで、それは実にあっさりと、ひとびとに襲い掛かってきた。

 いまでもグスタフは、パンではなく茹でたジャガイモばかりを食べる日を自らに定めている。

 それはオルクセンという国家にとって食糧の生産量を大幅に高め、国民を飢餓や貧困から救うきっかけとなり、種族間の争いを鎮め、現在の繁栄を作り上げる端緒となった作物だ。

 彼自身の歩みそのもの、その大きな部分を占めていると言ってもいい。

 いまでは平均して年に五〇〇キログラムのジャガイモを、オルクセンの国民一名当たりは摂る。

 直接食べるだけではない。火酒や澱粉といった産業原料になるものもある。

 膨大な量だ。

 彼が広め、奨励し、ここまで来た。

「・・・大変だっただろう?」

 ディネルースは尋ねた。

「・・・うん」

 グスタフは頷いた。

 彼が王となり、その栽培を奨励しはじめた前星紀の半ばごろ、ジャガイモは既に星欧大陸にまで伝播していたし、面積当たり収穫量の大きな作物として一部の為政者や学者たちからは注目されていたのだが、民衆からは忌避感を抱かれていた。

 適切な処理をしなければ芽や緑色に変じた部分には毒があり、聖星教皇領などは「悪魔の植物」としていた。彼らの教えのなかに含まれていない作物だという、ちょっと信じられないような理由だった。

 グスタフは、このような風潮を排して普及させるために一計を案じた。

 自身の農事試験場と臣下たちを使って、まるで同重量の黄金であるかのように、丁寧に、慎重に、恭しく扱ってみせたのである。

 当然ながら、近隣の農民たちは、王自身がそれほどの態度で接する作物に注目した。

 彼らには、宗教上の影響がなかったことも幸いした。

 ジャガイモは寒冷地にも強く、グスタフの奨めた輪栽式農法とともに瞬く間にオルクセン全土に広まった。

「たいへんだったのは、むしろそれよりずっとあと―――三〇年ほど前に、星欧全土にジャガイモの不作が蔓延したときだな」

「・・・・・・」

 ディネルースの背筋に、ぞっとした悪寒が走った。

 確かにそのような事があった記憶がある。エルフィンドには、おもにキャメロット人の手でジャガイモが持ち込まれて、やはり救荒作物として広まっていたからだ。

 なまじ広まり、根付き、ひとびとがそれを頼り切るようになってから不作が起きれば―――

 目も覆わんばかりの惨状になる。

 ディネルースも好むウイスキーを産するエイランド島など、すっかりジャガイモに依存するところまでいっていたから、たいへんな数の餓死者が出た、という。

「オルクセンは大丈夫だったのか?」

「うん。隣のアルビニー辺りまでは酷いことになったのだが。うちはどうにかなった―――」

 オルクセンの場合、グスタフの農業政策の中身が予防効果を発揮した。

 彼は熱心にジャガイモ栽培を奨励しながら、その「魔法の作物」だけには頼らないように指導していたのだ。

 グスタフに言わせるなら、ジャガイモはあくまでである。

 連作させなかった。

「ジャガイモばかり連作させるということは、だ。一度その種の農作物病害に侵された土壌では、病害濃度が高まり、再びそれに感染することを意味する。しかし輪作させ、まるでその病害系統にない、宿主にならない別種の作物を植えれば―――」

「・・・・・・」

「少なくとも次の作付け期には、再度の不作を防ぐ効果がある」

 収穫量を高めるために行った輪栽式農法は、彼にとって未だ科学や細菌学の発達していなかったこの世界で施策的にほぼ唯一可能な、栽培方法上の疫病防除策でもあったのだ。

 グスタフはもともと、農家たちには圃場を清潔にするよう指導していた。

 罹病作物の処分。

 周辺地の雑草を刈り、肥培を計画的にやり、農具は丁寧に洗浄する。

 湿度や土壌の管理、これに基づく改良。

 これらは伝染原を断ち、広がることを防ぐ。

 土壌管理とともに、地域に適した作物を選ぶことも重要だ。 

 ジャガイモの場合、気候のよい南部では収穫量の多い品種、北では寒冷に強い品種、茹でる料理に向いた銘柄、柔らかさより固さを求めた銘柄といった具合に品種改良にも着手し、何か特定の種類銘柄ばかりを育てていたわけではなかった。

 ―――耕種的防除、という。

「まあ、あの飢饉でエイランド島がやられてしまったのは、かの島を治めている者たちの失策も大きい」

「ふむ?」

「農地を細分化しやすい政策の結果、面積当たり収穫量の多いジャガイモへの依存を高めたこと。飢饉発生後、公的な救済は自助を妨げ産業を破壊するからと思い切ってやらなかったこと。それほどの飢饉に陥りながら、なお作物輸出を続けさせたこと」

「・・・・・・」

「不作に限らず、民衆が困窮するとき。それは上に立つ者の責任だ。その覚悟がなければ、統治者や為政者などやってはいけない」

「・・・・・・」

「もちろんこれは、エルフィンドも治めることになった私自身への戒めでもある」

「・・・・・・」

「少しばかり固い話になりすぎてしまったな。さあ、このジャガイモのサラダは絶品だぞ、ディネルース。とても柔らかい」



 その日の晩餐には、牡蠣が出た。

 ヴァンデンバーデン近くの海で採れた、この星欧原産のヒラガキだ。

 あまり大きくはない。

 だが牡蠣類としては小ぶりなその殻には溢れんばかりに身が詰まっており、濃厚で、クリーミーで、素晴らしい豊潤がある。

 グロワールの者などこれを珍重して、生のまま供し、この季節の前菜に欠かさぬものとしていた。

「貝を、生で・・・」

 ディネルースは、気後れした。

 ベレリアンドにも白エルフ族を中心に牡蠣を好む連中はいたが、彼女の種族は基本的には海産物を生のままでは食さなかったからだ。

「安心しろ」

 グスタフは笑った。

「牡蠣は、滋味豊かだ。だがそのぶん、生のままでは初めての者には抵抗を感じる者も多い。ひどい場合には嫌いになってしまうこともある。それでは君に申し訳が立たない。だから今日は火を通してもらった。蒸し焼きだよ」

 元々、貝類は火を通した方が旨味を増す。

 だからグスタフ自身も、生食より加熱したものを好んでいた。

「本日の牡蠣は王の仰いました通り、蒸し焼きにしてございます。まずはたっぷりと含んでおります潮気をそのままで。次に、細かく細かく刻みました玉葱に赤ワインビネガーを合わせたソースでお召し上がりくださいませ」

 執事のフィリクス・アルベルトが言った。

「とっておきの添え物もございます。ロヴァルナ帝より、ご成婚祝いとして一級のアストラカン・キャビアの贈呈がございました。こちらをたっぷりと・・・」

「なんと、なんと。それはえらいことだな!」

 グスタフは、いそいそとナプキンを胸元に仕立てた。

 彼は驚くべきことに、一七五個もの牡蠣を平らげた。

 ディネルースも貝殻を積み上げるほどには夢中になった。

 ふたりで、辛口の白ワインと合わせる。

 強い海の香りと、潤沢な恵みを無心で食べ、啜り、飽くまで平らげると、ふたりからはあの陰鬱な時代の記憶は消え去り、幸せな気分ばかりになった。

「美味い、美味いな」

「うむ」

 その食堂の片隅で。

 フィリクス・アルベルトは不動の姿勢のまま、そっとその小さなコボルト族コーギー種の体躯に喜びを潜ませていた。はしたなくも尻尾が揺れるのを禁じ得ないほど。

 己が差配した料理に、国王夫妻が舌鼓を打つ姿は、臣下として何よりの喜悦であったし。

 卵。ジャガイモ。牡蠣。キャビア。

 どれもこれも、閨房にはとされるもの。

 ―――おふたりには、お早くお世継ぎを成して頂きたいものです。



(続)

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