オークのグルメ⑥王と葡萄と太陽と

 ―――とろりとろりと、微睡むような午後である。

 既に秋の気配が、くっきりと漂っていた。

 グスタフ・ファルケンハインとディネルース・アンダリエルが休暇のためヴァンデンバーデンを訪れたとき、オルクセンの一年で最も休暇や静養に向くとされている夏季は残念ながらもう終わりかけていたから、致し方のないところだった。

 それでも気分屋の太陽が顔を出してくれた日には、いそいそとテラスに椅子を並べ、ふたりで肩寄せ合うようにして光を浴びた。

 おおむね、別館の長い回廊の辺りに陣取ることが多かった。

 地裂海式の列柱が並ぶそこは、方角も良ければ、本館ほどではないにしろ付属の厨房もあり、コーヒーや、茶と菓子や、あるいは「少しばかり強い飲み物」でもすぐに整えることも出来て、午後の時間にはおあつらえ向きだった。

「これは、これは・・・」

 ディネルースは、白いコック帽にコック服をした調理部コンディター部門長のユーハイムが眼前で披露する腕前に、見惚れているところだった。

 給仕が料理などを運ぶワゴンのうえに設えられた、小型だが強力なアルコールコンロを使い、クレープ用の大きく平べったいフライパンで、まずはクレープ生地を焼いている。

 それだけでもディネルースにしてみれば、「贅沢」なものだった。

 たっぷりとした薄力粉を用いていたからだ。

 オルクセンには輸出もされるような精緻な製粉機があり、職人たちの手で篩にもかけられた繊細なもの。

 故郷ベレリアンド半島にもクレープ状の料理はあったが、それは蕎麦粉を使ったものだったから、溶いた生地の焼き色からして違っていた。

 決して硬くならないように、柔らかく柔らかく仕上げたこのクレープをいったん取り出し、次に作るのはカラメルソース。

 砂糖を溶かし、オレンジの果汁を加える。

 ―――オレンジ!

 星欧大陸北方では、貴重な品だ。

 四海を制するゆえに交易品にも不自由のないキャメロットや、新大陸や、星欧でも地裂海地方の者たちにはともかく、気候の寒冷な北方では本当に貴重な「南の果物」。

 しかもその瑞々しいばかりのものを、目の前でたっぷりと絞った果汁。

 赤く揺らめく焔が、たちまちのうちに良い香りをするソースを作り上げる。香りづけに、オレンジリキュールをひとたらししてフランベ。

 そうしてこのソースのなかで、さきほどのクレープを温める。

 ―――ごくり。

 はしたないとは分かっていたが、思わず唾を飲むディネルースの前で、皿のうえにはこのクレープと、薄くスライスされたオレンジの果肉そのものが盛られた。

「ささ、お熱いうちにお召し上がりください」

 控えていた執事のフィリクス・アルベルトが言った。

「うむ」

 グスタフもまた、いそいそとナプキンを胸元にしつらえた。

 本気で事にあたろうとしているときの、さあ食ってやるぞというときの、グスタフの仕草だった。今日はこの菓子をディネルースと摂りたいと要望したのは、彼なのだ。

 ディネルースも喜んで従い、そのようにした。

 ナイフとフォークを使い、たっぷりとソースと絡んだところを含む。

「これは・・・」

 恍惚に蕩けてしまいそうだった。

 ただ甘いというわけではない。

 柑橘類の酸味と香りによる、清涼がある。

 柔らかな生地も良ければ、熱く濃く淹れさせたコーヒーとの相性も良かった。

「美味いだろう?」

「ああ、実に贅沢な代物だな、これは・・・」

 クレープシュゼット。

 なかなかの放蕩者だと噂しきりのキャメロットの現皇太子が、恋人を口説くために考案させた料理だという。噂とともに料理のほうも評判となって、たちまちのうちに星欧の王族や上流階級の者たちに広まった、と―――

 ディネルースは片眉を上げ、口元を揶揄うようなかたちにして、グスタフを見た。

「ほう、恋人を?」

「うん」

「口説くために?」

「うん」

「貴方は、こうして釣り上げた魚にも餌を欠かさないひとなのだな?」

「うん」

 くすくすとディネルースは笑い、彼に感謝した。

 なにしろ、本当に贅沢なものだった。

 彼女の夫は、オレンジをどうしたのか。  

 遥か庭の端のほうを眺めると、ファサード屋根とたっぷりとした明り採りのガラス窓をした、ちょっと大きな建物がある。

 オレンジ温室オランジェリーだ。

 ヴァンデンバーデンの地熱を利用している。

 グスタフはそこへ苗木を何本も植え、新大陸で生まれた甘味もたっぷりの品種を中心にオレンジを育てていた。

 だから、こんな北方で、それも季節も外れかかっている時期に新鮮極まるオレンジを食べることが出来た。

 半ば趣味、半ば農事関係の研究実益。

 それに、王族としてのステータスを加味したもの。

 グスタフが、銅版画挿絵つきで海外報道にも載るほど立派なそのオランジェリーを作ったものだから、隣のグロワールの皇帝は地団駄を踏んで、もう一回りばかり大きなものを建設中らしい。

 星欧の王族たちには、そんな子供じみたところがある。

 ―――だが、うちのひとの勝ちだな。圧勝だ。

 ディネルースは思う。

 キャメロットの皇太子は、なるほど口説きに料理を用いるほど女性に熱心だが、放蕩が過ぎ、母である女帝から遠ざけられるほど。

 グロワール帝も、なかなかの漁色家だという。妻の王妃を呆れさせるほどで、女優や高級娼婦まで何でもござれ。

 おそらくだが、彼らはどれほど立派なオレンジ温室を作ろうともそれは格好だけスタイルというもので、妻のために用いたりはしまい。

 私の悩みといえば、これほど美味しいものばかり食べさせて貰えるので、どうやって己が体形スタイルを維持したものかという程度のもの。

 ―――うん、やはりうちのひとの勝ちだ。弱ったことに。



 グスタフは、農業への関心が高い。

 このオルクセンの近代国家としての成り立ちからしてそうだったし、それは現在でも産業付加価値比の三割以上を占めるほどであり、何年か前までグスタフ自身が農林大臣を兼務していたほどだ。

 ヴァンデンバーデンでも、彼はよく「エルンテン」という雑誌を読んでいた。

 これは首都ヴィルトシュヴァインにあるフライヤ社から週刊で刊行されている、なんと農業及び畜産・酪農分野の専門誌で、オルクセンの高い印刷技術を使って銅版画による詳細な挿絵も入り、一〇枚ほどの論文や、国内のみならず世界各国から収集された速報もあった。

「いま、注目の馬鈴薯新品種」

 であるとか、

「チーズ作りに最適な凝固剤」

「薬事薬草関連。ウイキョウ、アニスの需要伸びる」

 といった記事が載っている。

 その日グスタフが広げた号の表紙は、

「農業における最新機械化事情」

 だった。

 裏表紙には、中身と関連しているのか「収穫にはハイラム・ゾンネンシャイン社のコンバインハーベスターを!」という銅版画広告。何か大きな機械を二頭曳きで輓馬牽引し、麦畑が刈り取られている。

 ―――か。

 と、ディネルースはその機械をまるで知らないわけではない。

 ヴァルダーベルクの、ダークエルフ族共有農地で初めて接した物。

 農事試験場から譲り受けた、穀物の収穫・脱穀用農業機械。

 これぞオルクセン農業発展の象徴などと思えた代物。

「コンバインか・・・ あれは凄い」

「うん・・・? ああ、そうだろう?」

 ディネルースの視線に気づき、自らも背表紙を眺めてにやりとしたグスタフ曰く、いまから四〇年ばかり前に新大陸で開発されたという。

 牽引されたその機械には、穀物を刈り取るための巨大な刈取り部分と、ワラ殻から穀粒を分離するための篩部、後方にワラ殻を排出すための部分とで出来上がっている。

 動力は、牽引する車輪から取り出される―――

 これを用いれば、信じられないほど効率的に、大規模に、穀類の収穫と脱穀がやれた。

 オルクセンでは製造特許を買い付け、専門の製造会社が出来て、ここ二〇年ほどで最早珍しくもないほどに普及していた。

 首都ヴィルトシュヴァインのミルヒシュトラーセ川上流附近には何社もの工場があるが、ハイラム・ゾンネンシャイン社もそのひとつで、八つの煙突と、専用引き込み線、一五〇〇名の従業員を抱えた大規模なものだ。

 その工場から、国内向けのみならず、いまではグロワールやアスカニアといった近隣諸国向けの輸出品まで送り出している。

 脱穀や刈取りは、かつては刑罰の手段のひとつとしていた国もある。

 つまり、それほどに過酷な重労働だ。

 その重労働から、もちろん完全にとまではいかないが、オルクセンの農家は急速に解放されつつあった。

 元から農地が広く、産業としては大規模化していて、農業協同組合や銀行による農家向け融資制度もあり、しかもゾンネンシャイン社が一頭曳きの小さなものから四〇頭曳きという化物のようなものまで送り出して顧客の要望に応えているから、導入と普及が容易であったのだ。 

 グスタフもこれを援助した。

 彼には年に四〇〇万ラングの王室費があるが、ここからゾンネンシャイン社の社債を購入するかたちで幾らか出資をやっていた。

 ―――四〇〇万ラング。

 途方もない額だ。

 二等兵の月給が一二ラング。年にして一八〇ラング。

 ディネルースの、陸軍少将時代の月給が三六〇〇ラング。年四万三二〇〇ラング。その約一〇〇倍ということになる。

 ただし、星欧各国の王室全体を見渡すと、グスタフは「慎ましい」と言えた。

 キャメロットの王室費は今少し多いし、星欧王族のなかで富裕と見られているオスタリッチ皇帝はグスタフの更に倍あり、星欧一だとされているロヴァルナ皇帝に至っては六倍だ。

 グスタフの場合、王室費の使い方も良かった。

 学生向けの奨学金制度を作るための基金を創設したり、傷病兵救済基金への寄付、そしてオルクセンの発展に寄与すると彼が見込んだ、ゾンネンシャイン社のような民間企業への出資が主だった。

 例えば、だが―――

 グスタフはいまから六年ほど前、シュトルベルク社という食品加工会社に出資をした。この資金をもとにシュトルベルク社がグロワールから特許権丸ごと買い付けたのが、マーガリンマーガリナの製法だった。

 元々高価であるバターの、廉価な代替品としてグロワール帝が発明家などから募集して完成されたものであったから、グスタフもまたこれを軍需及び民需用に最適と判断したらしい。

 ディネルースなど、ベレリアンド戦争中には糧食内容の一部として世話になったこともある。

 牛脂に牛乳その他を添加する製法で作られていたが、大豆油や菜種油、ひまわり油などからも作れ、

「農家にも酪農家にも収入を広げるからね。何よりも、庶民を救う」

 グスタフはそう告げた。



 そんな彼が、ちかごろ農業分野で最も関心を寄せているのが、農作物の品種改良だった。

 例えば、もっと寒冷地に強い小麦が出来ないとかと農事試験場の技官たちに研究させている。

 農事試験場は農林省の部局だから、彼らには正規の予算があったが、更に研究を加速させるために王室費から幾らか回し、これを資金として世界各地から種子を購入させたり、持ち帰らせている。

 あれを掛け合わせ、こちらと接ぎ木して―――という具合で、彼らは新たな品種や、改良された品種を作り出そうとしていた。

 これがなかなか大変なことらしい。

 寒さに強い品種らしきものは出来たが、今度は旨味の点において親種より劣る。ではまた別の種と配合させて―――そんな試行錯誤ばかりだからだ。

 ヴァンデンバーデンでの休暇の終わり近くになって、ディネルースはそのような彼の「成果」のうち二つに接した。

 半ば献上品のようにそれが届けられたとき、グスタフは小躍りして、ディネルースを呼んだ。

「ディネルース。こいつはきっと美味いぞ! さあ、食べてみてくれ!」

 それは、葡萄だった。

 艶やかな、鮮やかなまでの、明るい緑色をしている。

 まだ試験的にほんの少ししか育てられていないといい、仮に販売価格をつけるなら、たった一箱で六ラングから八ラングはする、と。

「甘い・・・ とても甘い。それに素晴らしい香りがする」

「そうだろう、そうだろう!」

 恍惚とするディネルースを前に、その甘さを出すのがたいへんだったのだと、グスタフは我が事のように喜んだ。

 オルクセンでも、葡萄は育つ。

 とくに西部辺りでは大量に作られて、専業農家までいて、ワインにされ、一大産業にもなっている。

 この星欧で、かなり古くから存在したという地裂海地方が原産のマスカット種が中心だ。

 だが困ったことに、例え同じ種をオルクセンで育てても、グロワールやサヴォア辺りの産とは糖度に劣った。日照時間も短ければ気温も低いので、それら地方と比べると熟してくれないのだ。

 これは利点にもなっていて、オルクセン産ワイン特有の重み、酸味、香りといったものを生み出す要因にもなっているが。

 グスタフは、なんとしても生食用にも使え、甘味や菓子類、干し葡萄などへの使用にも申し分のない、寒さにも幾らか強い葡萄を作り出してやろうと、農林省外局のうち主にワイン農家への支援のために存在した王立葡萄研究所へと王室費を何年も前から出して、研究させていた。

 その成果が、この葡萄だと。

「そして、こいつを試してみてくれ。ちょっと君の趣味には合わないかもしれないが」

 グスタフはやはり試作品だという、丸みを帯びたボトルと、リキュールグラスとをアルベルトに運ばせていた。

 例の葡萄をそのまま絞り出したような、鮮烈な緑をした液体が入っていた。

 注がれるままに、含む。

「―――!」

 ディネルースは、驚き、グラスを、そしてボトルをと眺めた。

 清廉。清涼。心まで爽やかになるような香り。

 確かに彼女の趣味としては甘い酒だったが、それは好みの問題だ。甘さに押しつけがましさや、しつこさ、くどさと言ったものがなく、無垢だ。喉越しも岩清水のように清涼だった。まるで陽の光を直接に摂ったかのようだ。つまりたいへん美味く、素晴らしい酒であることは間違いなかった。

「これもまた、良い。食前酒にも食後のデザート酒にも向いていると思う」

 醸造家たちの手も借り、この新品種の葡萄で作らせたという、リキュールだった。

「やった、やったな!」

 グスタフの喜びようと言ったらなかった。

 こいつはたいへんなことになる、オルクセンの一大名物になるぞと、彼は全身一杯に欣喜雀躍していた。

「ディネルース、この葡萄の名づけ親になってやってくれ」

「なんだぁ、おい」

 彼女は、なんという役目を振るのだと、驚き、弱りもした。

 しかし、彼が読んでいたあの雑誌の広告がふと浮かぶ。

「ゾンネンシャイン。つまり太陽光はどうか。まるで太陽をそのまま頂いているような葡萄であるから」

「・・・うん、いいな!」

 この葡萄は、本当にそう名付けられることになった。

 そしてディネルースは、もうひとつ閃くものがあった。

「なぁ、グスタフ」

「うん?」

「あのクレープ。このブドウとリキュールで仕立てて貰えたら、また絶品だと思うのだが」

「・・・・・・」

 グスタフはあんぐりと口を開け、ついで、

「素晴らしい! 早速やらせよう、私の太陽!」

 ディネルースの両手を握って、心から愛妻の発想を褒めたたえた。



(続)

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