第58話 あたらしき土③

 いま振り返っても、本当に優しさの示し方が下手なひとだった。

 とくに彼にとって私的な部分で我を通したいときはそうで、まず相手に、そんなことに付き合う必要はないのだ、他に選択肢もあるのだと提示する。それが場合に依っては、相手からは突き放しているようにさえ見えてしまう。

 厄介極まりない癖だった。

 あの戦争が終わり、ディアネンの警戒線から呼び戻されたときだったか。

 あのひとはまず、

「これからどうする? 何処へ行くのも、何をするのも君の自由だ」

 と言った。

 肌身を触れ合い、心も情も交わし合った者に、酷い質問もあったものだと、唖然とした。

 私は、色恋に冷静なようでいて決してそうではなく、むしろ道理も何もかも忘れ激情してしまうような、そんな、己でもどうにもならない部分を抱えた女であったから猶更である。

 しかし、あのひとはそういったとき、少し目を伏せ、ただし背は真っすぐに、あの低い声でゆっくりと話す。それは彼の癖であり、すぐに本意がわかった。

 言ってみればあのとき私は、大願を成就させた状態にあった。

 剣呑極まる望みだったが、ともかくも叶えた。

 そして戦後、生まれ故郷に戻るか、ヴァルダーベルクに戻るか、それは私の自由なのだと、あのひとは私に選択肢を示してくれたのだ。

 思えば、あの戦争が始まる前、私がまだ手探りでアンファウグリア旅団を作り上げていたときもそうだった。

 また、ひっぱたいてやりたくなるほど怒りが沸いたが、

「そうだな・・・ 国王陛下の、愛人のひとりにでもなろうかと思う。まずは、それを望むかどうかも貴方の自由だが」

 そんなふうに答えてやった。

「そうか」

 彼は少し照れた様子で、ようやく腕を広げた。

 私は彼の望むままに飛び込んだ。

 それが、それこそが私自身の望みでもある。

 ただ―――

 そこには何か、戸惑いというか、躊躇いのようなものがあり、私を不安にさせた。

 抱擁には優しさも慈しみもあったが、彼はそれを続けるばかりで、自制も感じられた。

 心をまるごと包み込まれるほどの愛を感じたが、哀しさがあった。

 なにもかも開け広げてくれたようでいて、彼の何処かには確かに閉塞があった。

「・・・どうした。もう新しい愛人でも見つけているのか? それとも私には飽いているのか? もしそうなら遠慮はいらない、正直に話すといい」

 私は尋ねた。

 戦争が始まる直前、私はあのひとに警護をつけた。

 自らにさえどうにもならない下らぬ悋気ゆえに釘を刺しはしたが、私はあの戦争で死も覚悟していたから、代わりの候補たちを選んでやったつもりでもあったのだ。

「そうじゃない、そうじゃないんだ。私にとって君は、無二の存在だ」

 彼にしては珍しくはっきりと告げてくれ、そして、これから国王として望んでいるということを話した。

 降した敵国をどうやって己が国に溶け込ませるか。

 また、己が国にも必要な改革があると。

 話は随分と微に入り細に入った。

 久方ぶりの再会の場に持ち出す話題には、あまりにも俗世的な内容であり、睦言には程遠かったが、私はそれを静かに、丁寧に、丹念に聞いた。

 彼がそういった話し方をするときは、本題はその先にあるのだと、もうすっかり理解していたからだ。

「そして、そのためには―――」

 彼はを明かした。

 驚いた。

「正気なのか? 信じられない・・・」

 罵るようになってしまったのも、無理はないように思う。

 まるで奇襲のようだった。

 私はそれほどの扱いを望んでいなかったし、また実現など出来ることではないと、わきまえているつもりだった。

 だが同時に、彼のことを理解してやれる女は、私以上にはいまいという自負はあった。その自尊を撫でられ、はっきりと広げられたようなものだ。

 確かに有効な手段だ。

 効果も認めることができた。

 白エルフの社会構造を、ひっくり返すことが出来るだろう。

 戦後政策のひとつ、旧エルフィンド国民にも何ら変わらぬ市民権を将来与えるという点に不満を持つ者も多かった、ダークエルフ族を纏めることも出来る。

 この国にとっても、良いことだ。真の意味で、種族の差を乗り越えていく手段になる。これから先、似たようなことを誰が選んでも、もうそこに謗りや後ろめたさは無くなり、指をさす者もいなくなる。

 問題は、国民たちがそれを素直に受け入れてくれるかどうかだったが、その点は彼も私もあまり心配しなかった。

 この国は根明で、柔軟であり、包容力がある。彼のように。 

 それにしても―――

「酷い求婚もあったものだ。もう少し、こう・・・甘く夢でも囁くようにできなかったのか。おそらくだが、貴方。生涯にわたって私にその点を詰られ続け、ことあるごとに持ち出され、尻に敷かれ続けることになるぞ」

 私にしてみれば半ば本気の抗議であったし、もう半分は彼の提案を承諾したという表明でもあった。

「それは構わない。それが私の望み、私にとっての幸せ、私の求めるものだ」

 彼はくすくすと笑い―――

 しかし、またあの瞳を伏せる仕草をした。

 そうして静かに、ゆっくりと、今度はまっすぐに私を見つめ、

「だがどうか、返事はこのあとにしてほしい。ここからが、本題なのだ。いったいこれがどれほど大それ、傲慢で、君に迷惑ばかりをかけることになる望みなのか。そして私が何故この戦争を欲したのか。これから何をしようとしているのか―――」

 あの話を始めた。



 アロイジウス・シュヴェーリン元帥が、首都ティリオンへと進出したのは六月二日のことである。

 終戦から約一か月。

 降伏条約の調印及び発効から約半月。

 速攻即断を以て鳴るこの闘将をして、やや進出が遅くなったようにも思える原因は、おもにエルフィンド政府側の手間取りに依る。

 軍の実戦部隊のみならず、対ベレリアンド半島占領軍総司令部の陣容だけでも、相当なものだ。

 これほど大きな組織が移動するとなると、オルクセン側としてもまず下見を行う先遣隊を派遣して、ホテルなり仮宿舎なりを確保し、司令部施設や司令官宿舎に相応しい建物を選定、これを引き渡すようエルフィンド側に要求―――といった諸準備が必要となる。

 オルクセン側は、条約発効の日、下準備のための要求を既に出している。

 そして治安も充分に確保されたと判断した五月二七日夕刻には、昇進したばかりの第八軍司令官レオン・シュトラハヴィッツ上級大将がティリオン市内に入り、先行していた第二九師団長ウィルヘルム・タンツ中将とともに中心部の視察を行った。

 上級大将は、王宮、首相官邸、各省庁をはじめ、ホテルなどが意外に焼け残っている点に喜んだ。東方郊外は戦争末期の首都砲撃により焼失し、崩れ落ちた区域ばかりであったが、その凄惨な光景の向こうに、大規模建築物だけが残っている。

「こいつは結構だ。まずは総司令官の宿舎だが・・・エルフィンド側はどう言っている?」

「首相公邸を使ってもらいたい、と」

 ほう、とシュトラハヴィッツ上級大将は片眉を上げた。

「えらく殊勝な心掛けじゃないか。ウィンディミア首相はどうする気だ?」

「少し離れた外相公邸に入るそうです。確かに外相兼務ではありますから」

「なるほどね」

 このようにエルフィンド政府、つまりディアネン政権側としては精一杯オルクセン側要求に応えようとしたが、もっとも準備に困難を極めたのは、トイレの設置であった。

 エルフ種族と他種族の、生物としての最大の差異に起因するものでもあり、これは建物の設計にも影響を及ぼしている。

 ディアネン政権は、オルクセン側から浸透沈下式の仮設トイレの設計図を取り寄せ、職工たちに接収予定となった建物に設置させた。

 このような準備の必要性は実に様々な面に及んでいて、清掃や整理整頓は言うに及ばず、一例を挙げれば家具の入れ替えがあった。

 オーク族の者たちは、体格がある。

 椅子、テーブル、それに浴槽に至るまで、エルフ族の並のものではサイズが合わなかった。そこでエルフィンド側では極力大きなものを調達して入れ替えるなどし、対応した。

 彼女たちの困惑と苦労を増したのは、全てにおいてこのような対処をとるわけにはいかなかった、という点である。

 オルクセン軍には、コボルト族やドワーフ族もいる。

 何もかも作りを大きくしてしまうと今度は彼らが困るというので、むしろ小さな家具ばかりで構成した部屋、設備、調度品なども用意しなければならなかった。

 かくて占領軍総司令部の本格的な進出を迎えたわけだが―――

 この間、オルクセン軍は首都ティリオン方面において、ただ手をこまねいていたわけではない。

 半ば強引に進駐した第二九師団は、兵を配して中央省庁を掌握下に置き、政府財産―――とくに行政書類や記録の廃棄を防いでいる。

 五月二七日夜半には、先行して到着していた占領軍総司令部財務局長ワグナー大佐と、野戦憲兵隊一個中隊がエルフィンド国有銀行を突如として閉鎖した。

 エルフィンド国有銀行は、巨大な石造りをしている。日常的には幹部と職員とで約一〇〇〇名の者がいた。

 ところが二七日といえば日曜日であり、ましてや夜間のことだ。僅かな宿直者、保安担当者、キャメロット式ガス灯装置を管理する用務員しかいなかった。

 彼女たちは仰天した。いったい、何事なのか―――

 終戦直後、まだ占領軍は進駐したばかりで、国家は事実上失われている。ディアネン政権が必死の努力を重ねているとはいえ、生殺与奪の権まで握られているようなものだったし、オーク族そのものへの恐怖感情もあり、彼女たちは震えた。

 ワグナー大佐の物腰が丁寧であることだけが救いに思えた。

 このコボルト族シュナウザー種の牡はたいへん小柄で、眼鏡をかけ、知的な雰囲気である。

 それもそのはず、ワグナー大佐は軍属であり、正確には大佐待遇と呼ぶのが相応しかった。本業は、オルクセン本国はおろか諸外国にも名の知れた、経済学並びに財務学畑の学者であった。

 彼は、国有銀行の首脳部を翌日朝までに集合させるよう命じた。 

 総裁、副総裁、理事たち―――

 使いの者に叩き起こされ、いったい何事だろうと一様に不安がりながら、闇夜のなか出頭した。

「ご苦労をおかけした。監察だ」

 彼女たちは、ようやく目的を知らされた。

 そうして通訳一名をつけられたうえで、各部署、とくに財務管理を行う諸帳簿類、そして地下の大金庫を案内させられた。

 大佐は帳簿上と、大金庫収容の金塊、金貨、銀貨類の保管状態が合っているかどうか、概略ではあったが照合し、結果に満足した様子であった。

 外では、たいへんな騒ぎになっていた。

 月曜朝を迎え、出勤してきた一〇〇〇名弱の職員たちが国有銀行をぐるりと囲むように四列縦隊に整列させられ、一名一名身元の確認を受け、オルクセン軍正式書式の身分証明書をその場で発行する手続きを受けることになったのだ。

 今後、国有銀行への出入りには全ての職員がこの証明書を携帯するよう義務付けるという。憲兵隊員四名を交代で常駐させるから、そこで掲示するように・・・

「あとでわかったのですが、オルクセン側はディアネン政権の財政裏付けを確認したかったようです。実際に正貨の保管状況をありのままに監察して。身分証明書の発行と憲兵の常駐は、終戦後の混乱に乗じて作為や流出、横領を行わせないためのものでした」

 かくて首都ティリオンは六月二日のアロイジウス・シュヴェーリン元帥の到着を迎えることになるが、この日、元帥は終始上機嫌であった。

 彼のもとには、第八軍司令官シュトラハヴィッツ上級大将から、ベレリアンド半島北部域への占領軍進駐及び占領軍総司令部の隷下組織稼働開始も順調である旨、報告が届いていた。


 五月二六日、海軍に護衛された第一一擲弾兵師団第二二旅団、ノアトゥン港へ上陸。

 同二七日、第八軍第七師団がエルドイン州進出。

 同二八日、第一五師団第一七旅団先遣隊、アシリアンド州第二の都市ラムダルに到達。

 同日、第六軍及び第八軍の管轄区域を正式策定。

 同日、占領軍総司令部野戦憲兵隊司令部及び第六軍、第八軍野戦憲兵隊司令部発足

 同日、占領軍総司令部特別参謀部軍政局、財務局、経済安定局、人事局始動


 第六軍及び第八軍合わせて、二三万二三七九名という占領軍兵力が確定したのもこのころの事になる。

 占領軍は総司令部命令により未だ戦備態勢をとったまま進駐しているが、各地では抵抗らしいものはなく、僅かに残留していた国民義勇兵の武装解除、復員なども問題らしい問題は起きていない。

 参謀長ブルーメンタール中将は、元帥の上機嫌をこれら占領状況の順調な進捗、そして気分まで良くなるようなこの日の晴天によるものと解していた。しかしながら、

「参謀長、喜べ。我らは近く、国を挙げての一大慶事に接することになるぞ!」

 一大慶事とは何ぞや。

 元帥の言葉に、ブルーメンタール中将はこのとき事情が飲み込めず、少しばかり首を傾げたものだった。



 占領軍進出とともに、事態の進捗状況を眺め、安堵した者はディアネン政権側にも大勢いた。彼女たちの目的は将来的な自治権の確保であり、そのためには占領軍総司令部令の順守を望んでいたからである。

 ネニング方面軍司令官サエルウェン・クーランディア元帥も、そのひとりだ。

 ただし彼女の安堵は周囲とは少しばかり違っていて、

 ―――どうやら、ようやく私の役目は終わったようだ。

 というものだった。

 武装解除。復員。オルクセン軍の手を借りながらではあったものの、どうにかその道筋がつき、一〇月ごろには全てが完了する見込みが立つまでに至っている。

 五月下旬、首都ティリオンへの移動直前には、ネニング平原会戦及びディアネン包囲戦で俘虜となっていたエルフィンド軍高級将校の者たちも解放され、再会を果たすことも出来た。

「閣下・・・」

「おお、おお・・・」

 ディアネン包囲戦解囲行動の指揮を執り負傷、オルクセン軍による治療を受けていたファンリエン・ヴェルナミア中将は、その筆頭である。

「閣下・・・ 誠に申し訳ございません。かかる事態を招きながら、こうしておめおめと戻りましたのは、一重に部下将兵とイヴァメネル閣下の最後を伝えるためです・・・」

「もういい、もういいんだ、ヴェルナミア。全ての責任は、方面軍司令官たる私にある」

 クーランディア元帥は彼女を篤く迎えた。

「しばらく休め。休養を取れ。そして、そのあとで、どうにかお前に頼みたいことがある」

「はい・・・?」

「女王陛下の御警護に、ほんの僅かだが兵が残ることになった。そして工兵隊も。彼女たちの面倒を見てやってほしいのだ」

「・・・小官が・・・ですか・・・」

 この内容は、ヴェルナミア中将を随分と驚かせた。

「誰かが・・・誰かが、エルフィンド軍の残滓を受け継ぎ、生き永らえさせ、次代に引き継がねばならんのだ。マルローリエンも一個中隊だが残る。イヴァメネルとともに戦ったお前が相応しい」

「イヴァメネル閣下とともに戦ったということであるならば、コルトリア閣下が相応しいと思いますが・・・」

「・・・コルトリアは、いま復員の方に回ってもらっているが。アルトリア戦以来戦い続けた苦労が祟ったようでな・・・ もう、白髪ばかりになってしまった。全てを終えたら、市井に戻りたいそうだ」

「・・・・・・」

「補佐には、イレリアンを付ける。頼んだぞ」

 ヴェルナミア中将はついにはこの任命を承諾した。

 そのイレリアン中佐は―――

 ここしばらくの間、敬愛する上官の様子がおかしいことに気づいていた。

 ―――自決を考えておられるのではないか。

 そうとしか思えなかったのだ。

 虫の知らせというものはあるもので、五月二六日夕刻、政府首脳及び軍幹部が首都ティリオンへと帰還したあと、クーランディア元帥の私邸を訪れた。

「おう、お前か」

 出迎えた元帥の姿に確信が持てた。

 すでにこの日の公務は終了していたにも関わらず、まだ軍服姿のままであり、またそうでありながら副官や従卒には暇を与え、私邸には家令を除いては彼女ひとりであった。

 元帥の表情も、戦争末期以来見たことがないほど晴れ晴れとしたもので、

「来るような気がしたよ。なんだその顔は。来たなら来たで、上がって一杯つきあえ」

 赤ワインを飲んでいた。

 酒肴は、チーズのみである。

 これは以前陛下から御下賜頂いたワインだよ、と元帥は嬉しそうに告げた。

「閣下・・・」

「・・・・・・うん。まあ、そういうことだ」

 中佐は、説得を試みようと口を開きかけたが、言葉にはならなかった。

「御供を・・・御供をさせてください」

「馬鹿者」

 元帥は真顔になった。

「それはいかん。これは私のやるべきこと、だ」

「・・・・・・」

「陛下を前線までお連れしてしまったこと。そうまでしながら指揮不甲斐なく敗戦を招いたこと。多くの兵を死なせてしまったこと。そしてオルクセンの言うところの、戦前戦中における軍の責任を取ること。こいつは私ひとりでやる。そうでなければならんのだ」

「・・・・・・」

「いいか、イレリアン。死ぬことよりも、生きることの方が大変なんだ。とくに我ら魔種族にとっては、な」

「・・・・・・」

「これからこの国がどうなるか・・・どうなっていくのか・・・また、どうしていくのが正しいのか。私なぞには、わからん」

「・・・・・・」

「だが、そのために動こうとしている奴がいる。そいつらを、助けてやれ。いいか? いいな、イレリアン」

「・・・・・・はい」

 この夜、それ以上どのような会話があったのか、イレリアン中佐は後年になっても明らかにしていない。

 同日深夜、ひとり私室に籠ってからクーランディア元帥は胸の心臓附近に拳銃を押し当てるようにし、自決した。このような方法を彼女が採ったのは、通報を避けるために更に上からクッションを押し当てたからである。

 留めは無用、やりそこなって苦しんでいたとしても死ぬまで放置せよ、譫言で何か漏らしても恥だから誰にも言ってくれるなという命を守って、イレリアン中佐は家令とともに翌朝、元帥の死亡を確認した。

 当局への通報は家令がおこなった。

 終戦の混乱期、エルフィンドにおいて自裁を選んだ者、あるいは失輝死に至った者は一〇〇〇名を超える。

 政府及び軍関係者、旧支配層、民衆。

 クーランディア元帥の自決は、その筆頭に挙げられる存在といえよう。



 公的関係者で自裁を選んだ者の存在は、占領軍総司令部特別参謀部が着手していた「戦争犯罪」の追求を困難にした。

 またエルフィンド陸軍省やネニング方面軍などでは、終戦直前直後と機密書類の焼却が図られており、調査にあたった者たちに頭を抱えさせた。

「どうにもこうにも・・・ここまで我が国と組織の作り具合が変わっては、な・・・」

「我々でいえば参謀本部に相当する部分が、平時には無いらしいですからな」

 両国における官庁構造の違いも、彼らを困惑させたものの原因のひとつである。

 特別参謀部は、残されていた公文書や書類の保存確保、調査、分析を進めるとともに、前政権関係者及び軍関係者を中心にして聞き取り調査を行うことにした。

 彼らは、ある種の使命感に燃えていた。

 特別参謀部を構成するのは、本国からの次世代官僚や学者、弁護士、検事などを中心にしており、ベレリアンド半島をより良い新領土にしようとしたのだ。

 エルフィンド軍の解体。

 前政権関係者に代表される、「他種族への犯罪」行為の追求。

 戦中のエルフィンド軍による「俘虜虐待」行為の追捕。

 何百杯ものコーヒー、ときには壁にぶち当たっての自棄酒、数百本の煙草や葉巻とが消費されながら、調査は進んだ。

 その結果彼らが占領初期に齎した功績で最も大きなものは、エルフィンド秘密警察の解体であった。

 これは六月六日に占領軍総司令部命令第一三号を以て布告された。

 エルフィンド秘密警察―――正式にはエルフィンド内務省警察局治安維持本部の職員、合計約六〇〇〇名の解雇である。

 オルクセン軍が掌握下に置いたエルフィンド内務省庁舎第三別館、通称「秘密警察本部」には、この職員名簿、長年に渡る逮捕記録、市民からの讒訴や密告の控え、また監視対象になった者の資料などが残っており、これらの存在が特別参謀部の調査を助けた。

 その内容たるや、報告を受けた占領軍総司令部参謀長ブルーメンタール中将をして、

「こいつはうっかり発表できん。エルフィンド中がひっくり返ることになるぞ」

 などと呻かせたほどのものだった。

 氏族内で、白銀樹より生まれ出でた赤子のときより育んだ者が、その対象に売られる。

 毎日、にこやかに顔を合わせていた住民隣者が売る。

 軍の将軍を、その副官が売る。

 生き地獄、悪魔の産物、知的生物の抱える闇といったものの全てが、凝縮したような代物だった。

 最終的にこれら秘密警察所有資料そのものは、占領軍総司令部の判断により公表されなかった。

 魔種族はあまりにも寿命が長く、影響が大きすぎるというのがその理由である。

 ずっと後年になって、情報公開制度その他の概念が生まれ、長い長い議論の末に、ようやくその内容を希望者に限って閲覧できるようにした。

 しかし、実際には―――

 オルクセン側は、たいへん意味深長な判断理由により公表を見送っている。

 ひとつには、もし将来ベレリアンド半島で叛乱が起きた際、その内部攪乱や分断のためにこの資料を用いようとしたこと。

 またひとつには、オルクセンの占領統治にこの資料そのものを活用しようとした。

 秘密警察職員は解雇されたが、その一部はひそかに再雇用されていた。占領軍総司令部による「直接雇用」である。間に幾つかのエルフィンド民間企業や有志団体などを挟んだが、実態としてはそうであった。

 意外なことのようだが、エルフィンド秘密警察職員だからといって、必ずしも教義原理主義者だというわけではなかった。むしろそのような思想に対して冷めた目線を持った者も多く、彼女たちはあくまで職人的に諜報にあたっていた。そんな者を慎重に選んで雇用した。

 占領軍総司令部は、大まかにいって二つの組織に分かれている。軍事を司る「参謀部」。占領地の政治・行政等を監督指導する「特別参謀部」。

 このうち前者である参謀部の下に、占領軍兵要地誌局があった。表向きは「ベレリアンド半島における兵要地誌を調査及び集積し、占領業務を円滑たらしめるための部署」であったが、戦前及び戦中の国軍参謀本部同名部局の実態を見てもわかるとおり、オルクセン式に言えば情報部だ。彼らがこの「再雇用」を実施した。

 ベレリアンド戦争終盤のころには、オルクセン軍は徐々にではあるが、白エルフ族内に諜報組織を作り上げるようになっていた。雇用した現地調達の相手や、旧エルフィンド政治体制に不満を持つ者、金銭的に困窮した者などを、総軍司令部情報部カール・ローテンベルガー少将が直接的あるいは間接的に采配していた。

 このような組織は、本当の意味で有効に働く前にベレリアンド戦争の終結を迎えてしまったが、そのまま残された。

 そして、占領軍総司令部兵要地誌局がこれら組織を引き継ぎ、更には思想的及び能力的に選抜された元エルフィンド秘密警察職員をも取り込んでいったのである。

 似たような活動は、やはり占領軍総司令部参謀部の傘下にあった、戦史編纂局も関わった。

 彼らはベレリアンド戦争におけるエルフィンド軍側の戦略及び戦術を戦史として纏めようと、軍及び軍属の実に様々な者を聴取していったが―――

 この過程で、対象となった旧エルフィンド軍関係者たちとの間に出来た繋がりを活用し、彼女たちを後日創設されることになる国家憲兵隊予備隊の中核に据えたのだ。

 この両方の活動に関わった牡がいる。

 占領軍総司令部情報参謀にして兵要地誌局長アウグスト・シュティーバー大佐だ。オーク族。

 シュティーバー大佐は、変わった経歴の持ち主であった。

 軍属ではなく正規の陸軍大佐であったにも関わらず、陸軍士官学校も大学校も出ていない。元はそれなりに名を馳せた、刑事事件関係を得意とした弁護士であったという。

 それが一体何を思ったのか、戦前、軍に入り、兵要地誌局に務めて、やがてローテンベルガー少将の右腕とも呼べる存在になった。

 戦時中は第三軍司令部の情報部長をやり、占領軍総司令部へと横滑りした格好である。

 この牡の経歴には、本当に謎が多い。

 とてつもなく有能だったという者もいれば、軍情報参謀としてはあまり才がなく、第三軍の戦中における敵情判断誤断の多くは彼を起因にすると指摘する者もいた。

 ただひとつ言えるのは―――

 諜報関係の組織作りが、異様なほど上手かった。

 彼が元エルフィンド軍及び秘密警察関係者を使って作り上げた組織の数々は、それぞれ一名の長のもとに最大で一〇名ほどの機関員がぶら下がっているという具合で、相互の連絡はなかった。

 グループそれぞれが別個に指令を受けて、その指令を下す相手もAというグループにはディアネン雑貨商某が現れ、Bというグループには元エルフィンド軍少佐某がやってくる。そしてもし、彼女たちへと一体大元の指令は何処から下っているのかと尋ねれば、彼女たち自身にも「わからない」。

 シュティーバーは、ここから数年をかけて、ベレリアンド半島全土にそんな情報機関を幾つも拵える。

 占領軍総司令部の首都ティリオン進駐直前―――

 このシュティーバー大佐が、国王グスタフのディアネン移駐に従ったローテンベルガー少将のもとを訪れている。

 ローテンベルガー少将は、大佐へと引き継いだ諜報組織、そして大佐自身が構築中の諜報グループの様子を聞き、頷いた。

「見事だ。それで進めてくれ」

「はい、心得ております」

 ふたりにとって、このような活動が仄暗いものであるだの、本当は唾棄すべきような代物であるだのといった話は今更無用だった。

 国家にとって、必要なことだ。

 こんな真似を、誰かがやらなければならない。

 それが、占領統治を円滑にし、ひいてはオルクセンという国のこれからを支える。

 彼らはその点において、理想ばかりに燃える特別参謀部とは相反する存在でもあった。理想だけで国が守れるなら、そんなに楽なことはないと、冷めきってさえいた。

「ところで―――」

「うん?」

「例の件ですが、処理を終えました」

「うん。物証はどうした?」

「むしろ、現場には残す方式を取りました。ありとあらゆる物証が残っているために、何もかも怪しく見え、それでいて動機はまるで分からないというような。もし将来、あの大事故を調べる者が現れても、頭を抱えたくなるであろう代物ですな」

「うん。流石は刑事事件の専門だっただけのことはあるな。よくやってくれた」



 ―――ベレリアンド半島緊急食糧援助というものが、始まっている。

 これはディアネン政権首班ラエリンド・ウィンディミア首相が、占領軍総司令官アロイジウス・シュヴェーリン元帥に対し願い出たものだった。

 ウィンディミア首相は、しばしば元帥を直接交渉の相手にした。

 エルフィンド側の業務連絡事務局や、オルクセン側でいえば占領軍参謀長ブルーメンタール中将、あるいは軍政局を介していては埒が明かないと判断した場合、総司令部へと直接赴くわけだ。

 彼女は持ち前の政治的嗅覚で、それがいちばん手っ取り早い方法だと学んだのである。

 そのため彼女の評判は、ブルーメンタール参謀長以下占領軍総司令部の幹部内では決して良くなかった。「従順ならざる白エルフ族」「食わせ者の白狐」などと呼ばれたものだ。

 しかしながら、シュヴェーリン元帥との関係は良好だった。

 これはまだディアネン政権が文字通りディアネン市に留まっていたころだが、シュヴェーリン元帥はウィンディミア首相を占領軍総司令部へ呼び出し、市域の環境は酷い、エルフィンド政府の対応も後手に回っている、いったいやる気があるのかと難詰した。

 意外にもウィンディミア首相は、くすくすと笑った。

「・・・何がおかしい?」

「そう苛つかれて、のしのしと歩き回られたのでは。また砲撃でも浴びるのかと緊張してしまいます。まずは御着席を。話はそれからにしましょう」

 元帥は口をあんぐりとするほど呆気にとられ、ついで、

「・・・ふふ。ふははははは!」

 盛大に哄笑した。

 首相の言い草を、気に入ったのだ。

 シュヴェーリンの感覚に訴えるところ、大であった。

 以来、元帥はウィンディミア首相の面会要求には、ほぼ例外なく応じた。

 また女王エレンミア・アグラレス及びディアネン政権の首都ティリオン帰還に際し、初期の要求事項では接収対象になっていたエルフィンド王宮をリストから外して、それなりの配慮を以て扱うようになった。

 食糧援助の要請は、この流れのなかでウィンディミア首相からシュヴェーリン元帥に対し、直接に成された。まだ双方ともにディアネン市にいたころだ。

「援助を受けられなければ、冬穀の刈り入れまでに餓死者が出る可能性がある」

 というのが、その理由であった。

 ベレリアンド半島の春の訪れは遅い。

 昨年冬季前に播種された冬穀の刈り入れは、六月下旬から七月上旬である。

 しかも小麦類は、刈り入れ後、ただちには食用に適さない。半年ほど熟成期間を置き、粉に挽いたあとも数週間は寝かせる必要がある。

 そしてその主要穀倉地帯であるシルヴァン川南岸旧ドワーフ領、アルトカレ、ネニングはオルクセン軍の既占領地であり、直接軍政下だ。

 戦争で起こった物流停滞、食糧の濫費、そして敗戦。

 更にはこれらが招いた物価の高騰が、闇屋の勃興と隆盛を起こし、庶民にとって食糧の確保を更に難しくするという悪循環に陥っている―――

「残念ながら、我らには即効性のある事態打開能力がありません。そしてこれはベレリアンド半島に治安の悪化と経済の不安定化を齎してもいます。どうにかオルクセンのご支援をお願いしたいのです」

「ふむ」

 オルクセン側としては、予測済みの要請であった。

 意外であったのは、そのような要請をディアネン政権が素直におこなったことである。

 実はこのとき、ウィンディミア首相は非常に深い洞察と計算をやっていた。

 ―――オルクセンの真意は、前政権及びディアネン政権を「旧弊」として扱い、自らの権威を高めることだ。

 この食糧問題に関していえば、ディアネン政権が散々に手こずり、失敗したあと、批判を集めさせたあとで、颯爽と事態解決をやる、言わばヒーローとして現れ、直接統治への歩みも進める構想を抱いているのであろう―――

 ならばとっとと援助要請を出し、その実務遂行者としてディアネン政権の政策を成功に導き、逆手に取ってやろうとしたのだ。

 そしてオルクセン側としては、「解放者」を謳う以上、正式に要請を受ければ断ることは難しい。

「・・・よかろう。母国に援助を掛け合おう。幾らほどの量が必要か?」

「既に資料を持参しております」

 掲示された統計資料に、シュヴェーリンは目を剥いた。

「・・・一九万三〇〇〇トン」

 それはオルクセンほどの食糧生産量を持つ国にしても、はいそうですかと首を縦に振れる数値ではなかった。

 それどころか、正気なのかと罵りたくなるほどの量である。

 オルクセン軍の軍用特別列車による平均輸送量に換算すれば、約六〇〇編成分という途方もない数だ。仮に母国からアルトリア線を用い、能力限界に近い一日一二編成走らせるとして、五〇日間―――

「これは、とても全ては叶えられまい。暫定政権としても最大限の努力を続けることを期待する。ともかくも要望は伝える」

 結果から言えば、この食糧援助要請、オルクセンは約七万トンしか送っていない。

 財務大臣マクシミリアン・リストの「本国まで物価騰貴に付き合わせる気か!」という猛反対により、小麦粉や上質なライ麦粉はほぼ含まれず、緊急備蓄用であった質の悪いライ麦粉、燕麦、あるいは蕎麦、また本来ならば食糧にならないような、家畜飼料用に備蓄されていた雑穀ミレットや豆類が内容の中心になった。

「・・・我らは家畜か」

 報告を聞いたとき、こればかりはウィンディミア首相も不満を漏らしたものだったが、背に腹は変えられない。

 後年、それまでライ麦食圏だったベレリアンド半島の一部にまで、燕麦や蕎麦粥、豆料理が郷土料理として根付いたのは、このオルクセンによる食糧支援を起因とする。

 それでも、約二〇〇編成分換算になった。この膨大な支援物資は、陸路で、海路で送られた。このとき、オルクセンの物流関係者が払った努力は並大抵のものではなく、短期的にはあのアルトリア戦直後の第三軍兵站危機時以上の騒ぎになっている。

 首相としても不満を漏らすばかりではなく、むしろ彼女はシュヴェーリン元帥から責められることになった。

「我らは七万トンしか送らなかった。しかし餓死者などひとりも出ていない。いったい、エルフィンドの統計資料はどうなっているんだ!」

 首相は肩を竦め、

「それは止むを得ないでしょう。我が国が統計資料を正確に作れるなら、貴国と戦争になどなりはしなかった」

 悪びれもせず答えている。

 シュヴェーリンはまた目を丸くし、そして盛大に笑い飛ばすしかなかった。



 ベレリアンド半島の食糧危機を解決するためには、根本的には農地の改革を要することは明らかだった。

 これは占領軍総司令部の組織でいえば、特別参謀部のうち農林局の所管である。

 しかし実質的には―――

 グスタフ・ファルケンハインが指揮を取った。

 彼はこのころ、ディアネン市に滞在し、本国の閣僚から送られてくる内政及び外交上の事案について処理をしつつ、ときには自身も占領地の耕地などに直接出向きながら、エルフィンドの農地改革について思案と研究を重ねていた。

「戦中より忙しいというのは、どういうことなのか・・・」

 と、彼は漏らしている。

 農地の改革は、大きく分けて二つの内容を要した。

 ひとつは、ベレリアンド半島の農家における農法の改革及び耕作地の土壌改良。

 いまひとつは、長年エルフィンド政府がやってきた農業政策の改革である。

 その全てをグスタフ自身でやることは困難だったから、彼は本国からこれと見込んだ二名の専門家を呼んだ。

 ひとりは、農学者ウォルフ・レビンスキー。ドワーフ族。赤毛であり、髭までふさふさである。

 またひとりは、地方行政官フリードリヒ・フランマースフェルト。オーク族。ちょっと困ったような顔付きに見える、学者肌。農業組合の専門家であった。

 ともに、長年に渡ってグスタフの農業政策を支えてきた実績のある者だ。

 これに戦中からエルフィンドの農地及び農政の調査にあたって来た、農林技官たちが補佐に着く。

 レビンスキーを表向きは農林局の長に据えて、グスタフは仕事に取り掛かった。

 彼らは占領軍司令部のなかにあって、その組織内のごたごたや複雑な機構に関わらずに済んだ。実質的にグスタフ直轄の事業だったから、思うさまにやれたのだ。

「農法と土壌の方は陛下のご専門ですから、私らは農政の担当ということになりますな」

「その通りだ、レビンスキー。ひとつ頼む」

 レビンスキーは首都ティリオンに乗り込み、エルフィンド農務省の資料を差し押さえ、ベレリアンド半島の農業を蝕むもの―――小作制度の実態について調査を始めた。

 そして、己が想像以上に酷い内容であることを知る。

 ベレリアンド戦争開戦時、エルフィンドにおける農業従事者は国民のうち約六三パーセントであった。

 そしてそのうち五〇パーセント、つまり約二七〇万の農家が小作農に相当した。

 彼女たちは、収穫穀物の四割から五割を小作料として地主に物納する。

「とんでもない高率だな・・・」

 レビンスキーは、あちこちの農家を実際に見分もしている。

 彼は種族の特徴として小柄で、ユーモアもあり、この難事への姿勢は「対象は正しいか」「進歩に貢献できるか」という公明正大な者であったから、やがて視察先の小作農家たちの信用も得た。

「どうにか、二割ほどの小作料にならないか・・・」

「この永遠の生き地獄から脱出できるのなら、ぜひその方法を教えてほしい」

 貧困に喘ぐ彼女たちは、口々に窮状を訴えた。

 レビンスキーは茫然とした。

 星欧諸国の自作農は、おおむね収入の一割ほどの税を金納でやる。あまりにも落差があった。

 対する、地主たちはどうか。

 彼が調査した、とある大規模地主は約一七〇〇ヘクタールの土地を有し、自らは鋤ひとつ持ったこともなく、小作農五一五〇名を抱えていた。

「我らは小作農思いだ。子のように思っている」

 そう言って憚らなかった。

 エルフィンドの場合、一ヘクタール当たり、もっとも収穫量の多い優良地で約七〇〇キログラムの麦を得る。このうち半分の三五〇キログラムの小作料を徴収するわけである。

 つまりこの地主の場合、約五九五トンを得る計算になった。

 因みに、エルフ族一名が年間に消費する麦の量は、約一八〇キログラムだ。

 小作農の手元に残るのは、約一七〇キログラムということになるが―――

 ここから、次季の種籾約一〇〇キログラムを分けておかねばならない。

 彼女たちの手元に残るのは僅か七〇キログラム、ということになる。

 ここから役馬の飼料、蹄鉄費、農耕具といったものの代金、生活費を捻出していくのだ。

 しかもこれは麦換算であって、実際には休耕地があり、他の作物があり、また農家一軒で一ヘクタールの耕作など不可能である。エルフィンドの場合、七〇〇キログラムというのも余程の好条件であって、例の痩せ衰えた耕地の場合、目を覆いたくなるような惨状だった。

 オルクセンの収穫量が、同様の計算の場合一ヘクタール当たり九〇〇キログラム、場所によっては一トンを超えるというような列商各国随一の農地さえあることを思えば、エルフィンドの土地がどれほど痩せ衰えているかもわかる。

 地主たちは、この惨状のうえに立っている。天候条件などで不作になったときは小作料を取らないという者もいたが、この辺りは各個の裁量に依るもので、法によって基準が決まっているわけではなかった。減らしはするが、徴収するという者も当然いた。

「ふざけた奴らだ・・・」

 レビンスキーの内心は、地主たちへの怒りで一杯になった。

 調査の結果、意外な事実も判明した。

 エルフィンドの農務省は、とっくの昔にこのような状態が拙いこと、下手をすると国を引っ繰り返しかねない事態であることを把握していたのである。

 農地の実測地や、各地の状況をまとめた資料まで残っていた。

 なんと一部官僚の手により、改革案も作っていた。

 地主の土地所有上限値を約五ヘクタールまでとし、残りを小作農に解放、自作農に転換させる、また残る小作農については物納ではなく金納に変える、というものだった。

 この方式だと五ヘクタール以下の地主による小作地はまるで改革されず、しかも小規模村落はそんな農地ばかりだったから解放される小作農はほんのひと握りであり、レビンスキーの目から見ればまるで不完全ではあったが、一応の解決策ではある。

 彼は、グスタフにこの事実を報告した。

 これら資料と試案を叩き台とすれば、思っていた以上に農地改革は迅速に行える―――

「ほう。その改革案を作っていた連中に会いたいな。きっと役に立ってくれる。いまどうしている?」

「それが―――」

 レビンスキーも同様に思い捜索したところ、改革案を草稿した官僚たちは政治犯収容所に送り込まれ、既に死亡していた。エルフィンドの旧支配体制にとって地主たちは氏族権力社会構造の巨大な一翼を担っており、急進的な改革を危険と見た前政権の手に依るものだった。

「・・・・・・」

 グスタフは無言になった。

「・・・これだから。こんなことだから、エルフィンドは駄目だったんだ」

 彼はようやく、呻くように言った。 

「私のほうも酷いものだ。まず、この国で速やかな輪栽式の導入は不可能だな」

「耕作面積不足ですか?」

「うん。それと地力不足だな。三圃式に加えて施肥不足で痩せきっている。小作農が多すぎて、耕地は零細分散錯圃ばかり。痩せた土地を初めに改善してやれる強力な施肥を投入するには、白エルフたちの文化背景が邪魔をして、目途すら立たん」

 レビンスキーは暗然とした。

 彼の仕える王には、農学者として優れた点がたくさんあるが、そのうちのひとつに土壌判定及びその結果による土壌改良という概念を、論理的に系統立てて農学に持ち込んだ点がある。

 それは念に入り細に入ったもののうえ、ある種の基準判定表を作り上げ、これを使って診断すれば調査対象地の土壌判定が迅速に下せるという、画期的なものだった。

 例えば、だが。

 まず土地の判定をやる。優良、平均、劣悪といった基準で一〇〇度満点中、この土地は四〇度という結果になったとする。ここに堆厩肥を充分にやれればプラス五〇度を加算でき、合計九〇度の耕作地ができる。

 耕作経歴を調査して、耕作地力の消耗判定も行う。

 三圃式で、土地そのもの残地力が目一杯ある状態を一〇〇点とする。

 休耕は地力にすればプラス一〇点。

 ライ麦を育てれば、地力消耗でマイナス三〇点。このマイナス値は、収穫量の大小においても変動する。そういったデータは、過去の研究や実測値で別基準表が作れるまでになっている。

 燕麦幾らでマイナス一四・七、また休耕をやって一〇点回復。

 馬鈴薯を育てれば、地力消耗マイナス三〇点、ただし回復効果もあるからプラス一〇点があり、差し引きマイナス二〇点―――という具合である。

 この方式の優れている点は、判定計算を教育した者を派遣すれば、農家自身へは聞き取りだけで済んでしまうことだった。

 これほどのものを作り上げた王が、匙を投げかかっている―――

 それでも王は告げた。

「諦めんよ。諦めるわけにはいかん。何か手があるはずだ。その覚悟がなくて、我が国土に出来るものか。レビンスキー、君のほうはフランマースフェルトと協同して先に進めてくれ」



 執念を以て戦い続けていたのは、占領軍総司令部で調査にあたっていた者たちも同様であった。

 彼らは、あまりに資料消失の激しい軍関係ですら、追及を諦めていなかった。

 戦前における民族浄化に関わったのは、エルフィンド旧政府関係者だけではないはずなのだ。

 実行部隊に国境警備隊と、陸軍常備軍の一部が関わっていたことは、ダークエルフ族自身の目撃談でも明らかである。

 前首相にして拘束中のドウラグエル・ダリンウェンが、民族浄化を画策した中心であったことは間違いない。

 ではこれを軍命令とし、実行部隊へと下したのは、いったい誰なのか。

「・・・うーん。この組織規定だと、つまり平時における治安維持のための兵力使用権は、エルフィンドの場合、陸軍省にあるってことか?」

「概念上はそうなりますね」

「なるほどな、つまり―――」

 その調査官は、愕然とした。

 何てことだ。

 何てことだ。

 全てに合点がいった。

 軍命令を下したと推定される者。

 あのサエルウェン・クーランディア元帥が、一死を以て口を噤み、守ろうとした相手がいたのだ。その想像も当然と言えるような相手だった。

 こいつは、とんでもない騒ぎになる―――

「つまり・・・つまり。前内閣で民族浄化実行の命令書に署名したであろう奴は・・・」

 蹶起まで主導し、その結果「生き残る」ことには、二重の意味まで存在した「白狐」。

 ―――前内閣陸軍大臣にして現内閣首班、ラエリンド・ウィンディミアであった。 


 

(続)

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