第59話 あたらしき土④

 ―――オルクセンには、童話がある。

 世界を見てみたいと欲した少年が、旅に出る。

 あちらの国、こちらの国、山を越え、海を越え、故郷に戻ろうと里心がついたときには、魔種族ゆえに膨大な年月が経っていた。

 少年はすっかり成長していたし、日焼けもして、まるで面差しが変わっていた。

 故郷の誰もが彼には気づかない・・・

 動員解除となり、復員した陸軍大尉ハンス・アルテスグルックの脳裏に浮かんだのは、その童話だった。

 第九山岳猟兵師団第七連隊の衛戍地であるハウプトシュタット州ゴルドブルン市の中央駅は、たいへんな熱気に包まれていた。

 連日復員列車が到着し、市民たちの紙吹雪が舞い、軍楽隊や有志音楽隊が帰還を祝う演奏をやっている。

 ゴルドブルン市の住民数は、約一〇万名。

 ここに連隊だけでなく、師団本部や師団の直轄部隊もいるから、還ってくる兵隊は多い。

 凱旋というやつだ。

「隊長、落ち着きましたらぜひ、うちの屋台へ!」

「そういうことなら、うちの店へも!」

「おい、客引き! 隊長殿には婚約者がいらっしゃるんだ、お前の店はまずいだろ!」

「ああ・・・! そうか、残念・・・」

「染物がご入り用でしたら、うちにぜひ・・・」

「ふふふふ! お前たちも、何かあったら遠慮なく来るんだぞ!」

 アルテスグルックに両親はいない。

 幼きころに亡くし、彼は叔父と叔母夫婦に育てられた。

 童話の結末は、誰にも気づかれない元少年が生家に戻ると、母だけが一目で彼に気づいてくれる、というものだ。

 しかしアルテスグルックには、その母がいない。

 その事実に、一抹の寂しさを覚えた。

 ―――だが、私には。

 彼女は私に気づいてくれるだろうか。

 婚約したばかりだった、己にとって唯一無二の相手。

 彼女なら。

 彼女なら、きっと。

「・・・ンス!」

 アルテスグルックは立ち尽くした。

 ハンスというのは、あり触れた名だ。聞き間違えかもしれない。

 いや、だがあの声は。

 信じられない思いがした。

 あれは。

 あれは―――

「ハンス!」

 喧噪のなかで懸命に彼の名を呼び、そこに居たのは、紛れもなく彼の婚約者だった。

 その様子からして、復員列車がやってくる度に待ち受け、懸命に彼を探していたらしい。

 そして、彼を一目で見つけてくれたようであった。

「サティ!」

 アルテスグルックは、彼自身が名付けた、彼らだけに通じる愛称で婚約者の名を叫んだ。

「ああ、ハンス! ハンス!」

「サティ! いま還ったよ!」

 アルテスグルックは思い切り、婚約者を抱きしめた。

 ハンス・アルテスグルックにとっての戦争は、ここに終わった。



 ―――還る部隊もあれば、留まる部隊もあり。

 星暦八七七年六月一九日午後二時、オルクセン軍は旧エルフィンド首都ティリオンで軍事パレードを挙行した。

 第二九擲弾兵師団第五〇連隊、アンファウグリア旅団第二騎兵連隊、野戦重砲兵第七旅団他―――

 軍楽隊、擲弾兵、騎兵、砲兵、工兵、野戦憲兵。

 総勢六〇〇〇名に喃々とする大兵力が、巨大な横隊縦列を作り、首都ティリオンの目抜き通りであるエイルフマレ大通りから、これに繋がるリースニュトルヴ大広場までの全長二・二キロメートルを行進した。

 最先頭に立つのは、連隊旗連隊と呼ばれる特別編成の一隊である。

 この行進に部隊そのものは参加できなかった、ベレリアンド半島に従軍した全連隊の連隊旗を集めたもので、軍旗が林立する姿は壮麗にして重厚、煌びやかだった。

 参加将兵総員、洗濯の糊も行き届いた軍服姿で、サーベルの鞘、銃剣、皮革装備に至るまで磨き上げられている。

 大通り両脇の建物にはオルクセン国旗が掲げられ、街路樹にはオルクセンの国色である白と黒の横断幕が飾られて、この一際入念なものは大広場前にあるティリオン市庁舎に施されていた。

 ―――ベレリアンド半島占領軍O K B総司令部。

 市内約三〇〇カ所の接収建物に続いて設けられた、文字通りエルフィンド占領軍の中枢。

 近くにあるマルローリエンホテルやエルフィンド国有汽船本社、産業中央会館などにも分駐して、参謀部六局、特別参謀部一二局から成る巨大組織である。

 エルフィンド側の諸準備完了を待って、この二日前に稼働を始めたばかりだ。

 あるいはこの稼働開始六月一七日の瞬間こそが、歴史的に見て「エルフィンド占領の始まり」とも言える。

 最盛期には文官及び軍属三八五〇名を含む約六〇〇〇名がこの総司令部に務め、強権と辣腕、試行と錯誤、熟慮と断行とを重ね、ここから約七年後に行われたエルフィンド併合完了のその日まで、ベレリアンド半島全土に権勢を振るっていくことになるからだ―――

「頭ぁぁぁぁぁ右ぃぃぃ!」

 膨大な将兵の敬礼と捧げ銃、捧げ刀を受けつつ、市庁舎バルコニーに立つオルクセン国王グスタフ・ファルケンハインは答礼した。

 彼の周囲には、占領軍総司令官アロイジウス・シュヴェーリン元帥、同参謀長ギュンター・ブルーメンタール中将、国軍参謀本部総長カール・ヘルムート・ゼーベック上級大将、同次長兼作戦局長エーリッヒ・グレーベン少将、巨狼アドヴィンの姿があった。

 軍幹部らと並ぶグスタフの表情が、ほんの微かに変じたのは、アンファウグリア第二騎兵連隊が現れたときだ。目に焼き付けようとしているかのようだった。

 先頭にはディネルース・アンダリエル少将がいた。

 勇壮にして、凛とした美しさがある。

 あの青鹿毛も艶やかな愛馬シーリに跨り、見事にサーベルを捧げてきた。

「アンファウグリアは―――」

 シュヴェーリン元帥がそっと呟いた。

「絵になりますな。しかも強い。もはや我が軍の重要な一翼だ」

「そうだろう?」

 グスタフは大切な宝物を褒められた持ち主のように応じた。

「しかし、ある意味残念です。少将は、実質的にこれを最後に軍からは退くことになる、と」

「うん」

「御婚礼衣装の制作は進んでおられるので?」

「ああ。今月末には、仮縫いだそうだ」

「似合うでしょうなぁ」

 そのアンファウグリア旅団の行進を彩るように―――

 上空に大鷲軍団三個シュタッフェルが現れ、見事な編隊を組み、航過した。

 最先頭を行くのは、ヴェルナー・ラインダース少将だ。小柄なコボルトを背に乗せている様子がちらりと覗えた。

 遠く沿道には、ティリオン市民たちがいる。

 彼女たち白エルフ族の表情は複雑だった。

 壮大な行進に圧倒されつつ、オルクセン軍の威容に改めて祖国の敗戦を噛みしめているような―――

 オーク兵たちは巨躯であり、その薄桃色の肌の血色もいい。優良な健康状態を示していた。

 オルクセン軍は自前の後方機関を使って本国から補給を受け続けているから、未だ食糧事情の悪い首都ティリオン住民からすれば、恨めしいほどである。

 そのオークたちも、アンファウグリア騎兵を構成するダークエルフ族も上空を行く大鷲族も、かつては大っぴらに蔑んだ他種族だ。

 いまやその「汚らわしき者ども」が、「栄えあるエルフィンドの首都」、「清楚なる都」を席巻している。

 否が応にも、敗戦と、転落と、優生思想の崩壊とを実感させるには充分だった。

 オルクセンとしては歓迎すべきことである。

 このパレードの目的は、極論すればそのような心理的効果以外に存在しないのだ。

 しかも白エルフ族たちにとってみれば、このような衝撃は矢継ぎ早のものであった。

 昨一八日には、エルフィンド女王の称号が「王女」となること、そして今後においては何の実権も持たない象徴的存在、「黄金樹の守護者」に変わることが女王自身の勅命を以て発表された。同時にティリオン王宮はオルクセンの財産となり、名称を「ティリオン離宮」に改める、と。

 そしてオルクセン国王、いまや列商各国相手にさえ比類なきほど権威を高めたオーク族の魔王、もはや彼女たち自身が支配者として仰がなければならない王は、首都ティリオン訪問にあたり、その宿舎をティリオン郊外のエレントリ館―――白エルフ族最大の聖地に定めていた。

 沿道に集う市民のなかには、落涙する者の姿も珍しくない。

 軍楽隊の奏でる調べが変わった。

 それまで連奏していたオルクセン国歌にして公式行進曲「オルクセンの栄光」から流れるように見事に繋がり、グスタフ王を讃える「ああ、我が王」へ。



 オルクセン軍による軍事パレードが挙行された六月一九日の前日、つまりベレリアンド占領軍総司令部施設設置の翌日、エルフィンド首相ラエリンド・ウィンディミアは、占領軍総司令官アロイジウス・シュヴェーリン元帥のもとを訪れている。

 シュヴェーリン元帥は、首相公邸で朝七時にたっぷりとした朝食を摂り、八時四五分に占領軍総司令部へと出勤、コーヒーを含みつつ新聞各紙に目を通し、九時に執務開始という、その後約七年間繰り返すことになる基本的日常を始めたばかりのところであった。

 この訪問、ずっと後年まで、公式にはエレントリ館接収への抗議だったとされてきた。

 「激論四時間に及んだ」、と。

 しかし、実際には―――

 エレントリ館接収への抗議は確かにあったものの、それはほんの僅かであり、残る時間の大半がウィンディミア首相の「司法取引」の場であった。

 会談開始早々、首相は元帥の様子がいつもと違うことに気づいた。

 じっと彼女の話に耳を傾けているが、彼女の表情や、目、あるいはその政治的外交的雄弁といったものを、品定めしているような。

 そんな気配だった。

「・・・元帥、なにかご不審の点でも?」

「いや。話の内容そのものは、まあそう来るだろうな、という程度のものだ」

「・・・・・・・」

 シュヴェーリンの言葉の響きは、低く、冷たいもので、ウィンディミアの心胆を狼狽と怪訝とに包んだ。

 彼女が口を開きかけると、シュヴェーリン元帥は手をかざして制し、腹心たるブルーメンタール参謀長を呼んだ。

 ブルーメンタールは、幾らか書類を携えていた。

 そして、首相に目を通すように促した。

「・・・・・・・」

 ウィンディミア首相の顔貌は見る見るうちに青白くなったと、ブルーメンタール参謀長はその日記に記す。

「有体に言えば、だ―――」

 シュヴェーリン元帥はパイプを取り出し、火を点けながら告げた。

「そこに記載の通り、我らは貴方を疑っている。陛下は、調査の結果次第では貴方も戦犯に指定し、拘禁せよ、と」

「・・・・・・・」

「何か、申し開きはあるかね」

 首相は長い間、沈黙していたが、やがて、

「・・・ございません」

 全てを認めた。

 その後、元帥と参謀長、首相との間にどのようなやりとりがあったのかは、不明である。

 ウィンディミア首相はその後も約三年政権首班の座にあり続け、ずいぶんと長い間「終戦後混乱期、間接統治時代のエルフィンドをともかくも纏めた者」と評価されていた。

 ただ、ひとつ言えるのは。

 この日を迎えるまでに、オルクセン側は調査を進め、傍証を掘り起こし、分析を試み、また入念な下準備をしていた、ということだ。

 例えば、だが。

 ダークエルフ族民族浄化の主体になったのは国境警備隊であって、これは組織としてはエルフィンド内務省に属しており、こちらの命令発令者は内務大臣プレンディルであったと調べあげていたこと。

 陸軍大臣としてのウィンディミアは、他の陸軍幹部と同じくダークエルフ族排除を余り快く思っておらず、秘密警察の監視対象になっていたこと。

 強権的なエルフィンド前政権において、例え内心どのように思っていたとしても、首相の命令に逆らうことは事実上不可能だったこと、等々である。

 そして、首相の処遇をどうするのか、占領軍総司令部とグスタフ王は打ち合わせと検討の場まで持っていた。

 首相を更迭するのか、または留任させるのか。

 戦犯処理をエルフィンド側に行わせるまでは、暫定内閣は存続させねばならない。この混乱期におけるエルフィンド国民の不平不満は、すべて暫定内閣で引き受けてもらうというのが、オルクセン側の基本方針だ。ただちに直接軍政に乗り出すことは、オルクセン側としても避けたい。

 では仮にウィンディミア首相を更迭した場合、その代わりになる者はいるのか。

 オルクセンは、その候補者探しまでやっている。

 具体的に候補者筆頭であったのは、アルトリア戦でオルクセン軍第三軍を苦しめた、あのダリエンド・マルリアン大将であったという。

 このころ、マルリアン大将はまだオルクセンにいた。

 戦争の終結によって俘虜の立場から解放されてはいたが、「祖国」の混乱から未だ帰還を果たせてはおらず、同様の身にある俘虜将兵たちの面倒をみていた。

 オルクセンはその彼女のもとに、陸軍大臣ボーニン大将を派遣して、果たして彼女自身は戦前の他種族迫害に関わっていなかったか最終確認し、更には次期首班への就任を打診していた。

「御免被る。私には傀儡になるつもりはない。またそのような資格もない」

 それは彼女にしてみれば、譲れない「筋」であった。

 彼女自身の立案と命令によってゲリラ戦術をとったセレスディス・カランウェン少将とその部下たちが、文字通り全滅するまで戦ったこと。アルトリア脱出軍を率いさせたコルトリア中将が最後まで苦労のやり通しであったことなどが、マルリアン大将に強い影響を与えていた。

 彼女は、明確にオルクセン側要請を拒絶した。

 結果としてマルリアンは、戦後も「高潔な者」として両軍関係者から扱われ、戦前戦中におけるエルフィンド陸軍幹部で唯一、政治的にも生き残り、やがて内務省国家憲兵隊予備隊の創設に顧問として関わって、「エルフィンド軍復活」に携わっていくことになるが―――

 ともかく、オルクセン側としては最有力の「次期首相候補」を失ったことになる。

 次の候補として目されたのは、侍従武官長職を継続していたトゥイリン・ファラサール大将であった。

 これには、総軍司令部の特別参謀部筋が難色を示した。

 前政権に近い存在だったのは、彼女も同様である。もし内閣を差し替えるなら、いっそ前政権時代にも「将軍たちの叛乱」にも関わっていない者が相応しい―――

 だが、かといって現在のベレリアンドにおいて、敢えて火中の栗を拾うような政治的指導者はいない。

 こうして次々と候補者が脱落していく以上、ウィンディミア政権を存続させるしかない。

 占領軍総司令部は、そこまでの「腹積もり」をやってから、ウィンディミア首相と相対したわけである。

 彼女はその後、占領軍総司令部の要求及び命令を、着実に実施する立場になった。

 エルフィンド軍武装解除、復員、警察改革、国鉄併合、魔術通信夜間使用禁止令、オルクセン式戸籍の採用、粛清されていた改革派官僚の登用、迫害されていた北部白エルフ諸氏族の登用、農地改革、税制改革―――

 彼女の間接統治時代に成された、オルクセン占領政策は多い。

 その最大のものは、戦犯の追求であろう。

 彼女はオルクセン側の要求通り、「戦争及び他種族迫害に関する責任を調査する一五名委員会」と「特別裁判所」をエルフィンド側に創設。オルクセン側が合計五次に渡ってリスト化した「戦犯」四五名を裁き、処刑した。

 彼女自身はその最末期、第五次指定戦犯として裁きを受けている。

 判決は無期懲役刑。ただし恩赦により減刑され、二年三カ月の収監ののち引退。故郷に籠って、晴耕雨読の日々を送った。

 「白狐」は、ともかくも生き残りはしたのである。

 占領軍総参謀長ギュンター・ブルーメンタール中将は、その回顧録で以下のように綴る。

「オルクセンによる占領統治は、歴史上稀に見る大成功だった。旧エルフィンド住民はその国民性もあって、我らにではなく暫定政府へと経済不安定や諸改革への不平や不満、怒りの矛先を向けた。ついには政府への告げ口を、我ら司令部に訴えるほどであった。我らはその調整役として乗りだすだけで良かった。言わば救世主、解放者としての立場を手に入れたのだ」



 このころ、「将軍たちの叛乱」により拘束され、オルクセン側によって「第一次戦犯」として収監されていた前政権幹部たちは―――

 意外にも、落ち着いた毎日を過ごしていた。

 のちに無期懲役の判決が下り、ただし恩赦減刑により釈放されることになる前外相ミアレスは、次のように手記を残している。

「ともかく食事が豪華だった。朝はたっぷりとした白パン、バター、卵。昼には肉もスープも出た。そして何より、本物のコーヒー! 占領軍物資を占領軍のコックが調理してね。それを幾らでも食え、御替りはいるかとやるんだ。あのころの、オルクセン軍高級将校の規定通りだったと。あとには、エルフィンドのコックも雇われるようになって、郷土料理も出るようになった。オルクセン側は収監者の栄養失調を恐れていたんだね。甘すぎるのではないかと、彼らの身内からさえ批判があったとも聞く」

 彼女たちは、とくに労役などを課されることもなく、監視付きではあったがエンテンネスト収監所の庭を散歩することも出来た。

 未来絵図が描けないという不安は当然ながら各自にあったものの、まずは平穏な日々を過ごしていたのである。

 ときおり、オルクセン占領軍総司令部特別参謀部の将校と、エルフィンド側が定めた特別検事がやってきて、聴取をした。

 ここでも、例えば声を荒げられたりであったりとか、脅しにかけられるであるとか、暴力を振るわれるような事は決してなかった。

 オルクセン側の取調べは、淡々としていて、慎重であり、慇懃である気配さえあった。

 彼らは掘り起こした資料や証拠に基づく事実関係の照合と、他者との供述の一致や相違を重視していた。

 収監者たちは知る由もなかったが、これはある意味恐ろしいことで、仮に黙秘や虚偽証言などをしたとしても、そのような抵抗は何の効果も持たないほど、「静かな調査」は徹底していたのだ。

 そのようなオルクセン側を困惑させたのは、前首相ドウラグエル・ダリンウェンの供述である。

「我らは選ばれし者」

「この世界の主として定められし種族」

 というような言葉を、度々述べた。

 そしてオルクセンのやったことがどれほど「道理に叶っていない」か、「野蛮である」か、「いまに我らが正しいことがわかる」と言った。

 狂しているのかと疑いさえ持たれたが、健康診断に紛れ込ませた精神科医たちは彼女が正常であることを保証した。

 教義の正しさについて、取調官に対し自信たっぷりと説教するときもあった。

 彼女は「偉大なる指導者」たちがこの国とその民をどれほど愛してくれたか、導いてくれたか、そして「指導者たちの九つの教え」こそが「世の真理にして道理」であり、それを「自ら学ばず、理解もできないものは愚か」であると言った。

「貴方は、その指導者とやらに会ったことがあるのですか? 他世界の住人など・・・神話伝承ならともかく、俄に信じられることではありません」

「・・・ある。私は、その最後の御方に直接導きを受けた者だ」

「・・・・・・・」

 これら供述は、概略やあるいは詳細な報告書となって、グスタフ・ファルケンハインのもとにも届けられている。

 グスタフは茫然とした。

 前首相ドウラグエル・ダリンウェンによれば、「最後の指導者」がこのエルフィンドに訪れたのは約二〇〇年前であり、前女王の統治時代だったという。

 そしてその最後の指導者こそが、このエルフィンドを決定的に歪ませてしまったらしい。

 戦前にグスタフが推測していたより、ずっと近い時代ということになる。彼がこの世に生まれたころにちかい。

「・・・いったい・・・いったい、何故なのだろうな」

 なぜ己のような者が生まれたのか。

 どうして、彼が元いた世界と微妙に似通っている、この奇妙な世界が生まれたのか。

 この世界は、何かが妙だった。

 例えば、天を巡る一二の衛星。軌道により月替わりに立ち替わる衛星など、それほど都合のよい代物が果たしてあり得るのかと、グスタフなどはずっと疑問に思ってきた。

 いったい、これは・・・  

 そして期せずして、彼はその答えを知ることになる―――

 グスタフ・ファルケンハインが首都ティリオンへと入城し、エレントリ館をその宿舎に定めたのは六月一八日のことである。あの軍事パレード前日のことだ。

 シュヴェーリン、ゼーベックといった軍幹部たち、巨狼アドヴィン、彼専属の警護班、そしてディネルース・アンダリエルを伴った。

 この、グスタフによるエレントリ館接収ほど、白エルフ族に衝撃を与えた出来事はない。彼女たちにすれば同地は種族最大の聖地であり、女王でさえ年に四度の国家儀式の際にしか訪れない。そのような場所に他種族が足を踏み入れるということは―――

 エルフィンドという国家が、完全に失われたことを知らしめた。

 報道に接し、悲憤する者、号泣する者、憤怒する者。長年に渡ってエレントリ館を管理してきたエルフィンド王家侍従職のうち一名が、世を儚んで自裁を選んだほどの出来事であった。

「こいつは凄い・・・」

 グスタフは感嘆した。

 館は確かに清楚にして荘厳、壮大なものだった。

 三つの邸館、五つの東屋や離れがあり、その間を天井つきの回廊が巡り繋ぐ、石造り。木材や漆喰もふんだんに用いられていて、どこもかしこもが長い年月を経て見惚れるほどに色艶を得ていた。

 何よりも素晴らしかったのは、そのように荘厳な館が、背後にあるベレリアンド半島中央山脈に抱きかかえられるようであり、更にはシスリン川源流から流れを取り込んで、回廊の下などを人造の瀑布が流れ落ちている光景である。

 冬は暖かく、夏は清涼な地であるといい、星洋医などが言うところのエーテルに満ちているように思える。

「こいつは良い。今後ベレリアンド半島を訪れる際には、私はここに滞在しよう」

「結構ですな」

 グスタフがこの場所を宿舎に選んだのは、正直なところ、白エルフ族たちへの心理的効果を見越した政治的判断でしかなかった。

 だがその現物を一目見て、大いに気に入ったのだ。

 館内も素晴らしかった。

 多くの者と晩餐会が開けるほどの大広間。落ち着いた談話室。草花の生い茂る温室。そして静かに本を読むにはぴったりの、蔵書も豊富な図書室など。家具や調度の類はいい具合に草臥れている。

 口の悪いエーレッヒ・グレーベンなどは、蔵書の一角を占める十数冊揃いのものを眺め、

「おお、エルフィンドの歴史書だ。負けたと書くだけでこの厚み?」

 と、諧謔と勝者の奢りを滲ませて呟いたものだった。

 青白い顔をして、微かに体を震わせ続けているエルフィンド王室侍従職の者を案内役にしながら、グスタフはこのエレントリ館の裏庭も視察している。出来ればなるべく少数にして欲しいという案内役の願いを聞き入れやり、ディネルースだけを伴った。

 この庭が。

 この庭こそが、白エルフ族最大の聖地。

 王家の者が生まれ出でる、黄金樹のある場所だ。別名、「生命の樹」。

 グスタフには、どうということのない樹に思えた。

 世に一種、世界にこの唯一本だとされているが、どうやら菩提樹の系譜のようだ。

 壮大な年月を経たであろう大樹で、いかにも神話めいた泉の畔にあったが、その名の如く黄金に光り輝いていることなどなかったし、例えば葉が透明であるというような神秘性はまるで漂わせていない。

 グスタフの目を引いたのは、むしろ黄金樹の近くにあった古びた石碑である。

「これは?」

 彼は案内役に訊ねた。

 一目では、よくわからない材質だ。

 黒い。

 明らかに人工的に加工されたものらしく、四角柱をしている。各辺の比は、厚さ一、横幅四、高さ九ほど。

 我がオーク族の祖が触れて、智慧を得たと神話伝承にあるものに似ているな、と思った。

「我が国を訪れた最後の指導者が残されたものと伺っております。何か古い言語で記されており、我らにはもはや読むことも出来ませんが。教えを記されたものだと」

「ほう」

 彼はその碑文とやらを見てやろうと歩み寄り、

「・・・・・・・」

 茫然とした。

 何度も眺めた。

 後頭部を殴られたほどの衝撃を受け、立ち尽くした。

「どうした、グスタフ?」

 ディネルースがやや心配顔に訊ねた。

 このとき彼女は、立ち尽くすグスタフの背がなぜか何処かに消えてしまいそうな錯覚を覚え、声をかけずにはいられなかったのだ。

「・・・うん」

 グスタフは頷き、そうして碑文をもう一度眺めた。

 何かの古い言語だというそれを、彼は読めた。その文字も、文法も、彼の―――彼の内側にいる「とある男」にとって良く知るものだった。

 幾らか、良くわからない単語もあったが、ともかくも読めた。

「・・・ディネルース」

「なんだ?」

「エルフィンドの古語では、神話伝承上の訪問者のことをヴァラールという、と言っていたな?」

「ああ。単数形はヴァラ。女性形はヴァリエラ」

「・・・・・・」

 そこにあったのは、彼が知りたいと思っていたことの、全てだった。


 <ヴァラール>運営よりお知らせとお詫び

 異世界形成及び体験型異次元システム<ヴァラール>をお楽しみ中のプレイヤーたる、ヴァラ、ヴァリエラの皆様。

 この度、異世界管理当局よりご指摘ご指導をうけ、当世界に重大な欠陥があることが判明したのは既に御承知の通りです。

 一重に、当社の不徳の致すところであり、深くお詫び申し上げます。

 当世界創世時、衛星の軌道管理に失敗し、そのうちひとつを落下させるという不祥事を起こしたにも関わらず、当世界をご愛顧いただいた皆様にはお詫びのしようもございません。

 この度のご指摘ご指導は、この衛星落下の影響により当世界の召喚システムに異常が生じていたことを原因とするものです。

 その内容は極めて重大なものであり、他の時代、他の世界から、当事者様のご承諾なく当世界へ召喚してしまう事例が、ごく稀にではありますが発生してしまう事実が判明致しました。

 熟慮の末、苦渋の決断として、当世界の放棄を決定したところでございます。

 この世界の主役、主人公たるヴァラ、ヴァリエラの皆様。

 当世界より脱出してください。

 また、主体験エリアであるベレリアンド半島にて、エルフ諸氏族への過剰な干渉を行っておられる皆様。ただちにその行為を中止してください。既にエルフ諸氏族への各種影響は、当社の予測を超えるものとなっております。

 彼女たちを含め、当世界のありとあらゆる生物は全てこの世界に実在する尊い生命であり、それぞれの営み、歴史を紡いできた者たちです。何卒ご配慮くださいますようお願い申し上げます。

 そして、不幸にしてご被害に遭われた皆様。

 救出措置として、当D2脱出ゲートを残置します。この碑を連続して三度触れて頂ければ、当世界放棄後もシステムは稼働するよう設計しております。

 また当世界は放棄されても決して崩壊することなく存続致します。充分な時間を以て、御身辺を整理のうえ、当ゲートより脱出頂けます。

 必ずや当社が責任をもって御救済致します。

 以上、今後とも<ヴァラール>運営を何卒よろしくお願い致します。

 西暦二六七九年/星暦六七九年一一月二三日 


「なんてことだ・・・」

 グスタフは天を見上げた。

 ―――星暦六七九年。

 彼が生まれたころだ。

 内容からいって、このような目に遭ったのは、己が最後のひとりなのだろうと理解できた。

「・・・どうした、グスタフ」

 彼にとって唯一無二の存在が、心配顔で彼の腕をとった。

 どうして泣いているのだという言葉を、彼女は飲み込んだ。

 グスタフは彼女の腕に、手を添え返した。

 その温もり。

 碑文の通りだ。

 みんな、生きている。

 己も、誰も彼もが皆、生きている。

「なに。大したことじゃない。戻ろう、ディネルース。そう、戻ろう。皆のところへ」

 ―――本当に、大したことじゃない。

 例え何があっても、この半島の民も見捨てるわけにはいかなくなった、ただそれだけのことだ。



 軍事パレードを済ませた日の夜、グスタフは夕食ののち、アロイジウス・シュヴェーリン、カール・ヘルムート・ゼーベック、そしてディネルース・アンダリエルと談話室で会談の場を持った。

 足元には、巨狼アドヴィンを寝そべらせてもいた。

「私と彼女の挙式なのだが―――」

 グスタフは、ディネルースを少し眺めてから、告げた。

「このエレントリ館でやろうかと思うのだが、どうだろう?」

 これにはシュヴェーリンが驚いた。

「本国ではなく、この館で、ですか?」

「ああ。まだひとつきばかりは先になるだろうが。エルフィンド併合への決意の再表明、そしてこれもまた白エルフ族の社会構造を破壊し、再構成するための一環と思ってもらって構わない」

「なるほど・・・」

 ゼーベックが効果を認めた。

「この上ない決意表明ですな。我が王のご成婚となれば、諸外国へも報道になって伝わりましょうし。軍旗連隊に文武一〇〇官を並べれば、絵画にもなり得る光景となりましょう」

「うん」

 これは、このエレントリ館を訪れて思いついたことだ。

 定期的にベレリアンド半島へと行幸し、この館を山荘じみた離宮として扱おうというのも本気だった。

「そして、その挙式が済んだら―――」

 ここからが本題だぞ、とグスタフは思う。

 それはずっと以前から考えてきたことで、幾つかの政策方針であり、外交方針で、当然ながら理由もあること。

「私に集中している権力を外していく作業を始める。正確にいえば憲法を改正のうえ、君主制から議会制の立憲君主制に移行して、主権を国民に譲る」

 シュヴェーリンらは驚いた。

 オルクセンという国にとって、大変革と言っても良かったからだ。

 グスタフはその構想の概略を語った。

 国民が直接選び外交安保と国政の大方針を担当する大統領と、その大統領が選んで内政に専念する首相。両者の兼任は憲法によって厳禁とし、それぞれに魔種族の寿命も考慮したうえでの任期上限も設ける。

「暫定の大統領は、ゼーベック、お前がやれ。その間に、政府支持の政党も作らせろ。私が後押しすれば圧倒的与党は形成できると思う」

 議会は、国民が選挙で選ぶ衆議院と、当面は王が勅任する勅任院とで構成する。

 このような手段を取るのは、将来的には選挙権も与えることになる白エルフ族が、オルクセンにとって種族数で第二位となるから、彼女たちに議会での主導権を握らせないため。

 議員選出数や選挙区もそのように配慮する。

 ずっと、ずっと将来、本当に両国民が精神的融合を果たしてからならば彼女たちの議員数が増えるのも構わないが、ただちにそれを成すことが拙いことは自明の理であるから。それは将来の国民たち自身に選択させる。

 国王と大統領が併存するとは珍しい制度だが、これもまた一時的なことだ。

 現在の選王制に代わって明確な大統領制へと移行、王位は己で最後にするつもりである―――

「それは・・・いまや比類なき権勢を手に入れられた我が王が宣言されれば、可能ではありましょうが・・・いったい、どうして・・・」

「いつまでも私ひとりに権力を集中させているようでは、国家としてはまずい。これはとてもまずいことなんだよ、シュヴェーリン」

「理由を・・・理由をお聞かせ願えませんか」

 彼はそれを欲した。

 オルクセンの隣国、グロワールで興っている共和主義者などよりは穏健かもしれないが、あまりの急改革に思えたのだ。

 オルクセンでも、議会制導入の必要性を説く者はいた。

 前星紀以来、とくにデュートネ戦争以降、啓蒙主義や自由主義、議会制民主主義への輿論の高まりは星欧中の流行のようなものであったからだ。これらは経済論などの学問とも結び合っていて、切り離すことも難しい。

 また、グスタフはそういった議論を、まるで取り締まったりしてこなかった。

 むしろ議論は自由にやれ、などと発言したことさえある。

 だがオルクセンでは国民の誰もがグスタフを敬し、実際に魔種族伝統の君主制で上手くやってきたうえに、この戦争の勝利だ。

 いまや彼の権威は比類ない。

 王の率いる君主制で充分だ、それ以上望みなどしないという者が国民の大半である。

 シュヴェーリンには、王自らがそのような己の権力を捨て去ろうとしているように思えたのだ。

「それはな―――」

 グスタフは、アドヴィンの額を揉んだ。

 この巨狼はとっくに気づいているらしいことだったし、ディネルース―――彼の妻になる女には、もう求婚のときに話してあった。彼女はそれを承知で、求婚を受け入れてくれたのだ。

「おそらく。これはあくまでおそらくだが。私の寿命が、オーク族の者としてはとても短いものになるからだ」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 グスタフの腹心たちは、言葉を失った。

 とくに彼を慕うことの篤いシュヴェーリンは、愕然としていた。

「・・・そんな・・・ご冗談でしょう、我が王?」

「残念だが間違いないよ、シュヴェーリン」

 理由は、あの魔術だ。

 天候をも操るほどの魔術。

 あんなものをぽんぽんとリスク無しに使える生き物など、存在するわけがない。

 療術魔法や魔術探知、魔術通信を見ればわかる。使用者は、急速に消耗する。

「だからこの戦争でも、何度か使う機会はあったが。私はあれを使わなかった。将兵たちには申し訳ないが、いま少し生きたかったからな」

 元は療術魔法兵だったグスタフは、もうずっと以前からあの魔術の欠陥を悟っていた。

 なぜあんなものを使えるのかは、ほんの数日前までまるで分からなかったが。

 きっと、あの石碑に書かれた内容から推測するに、一種のバグやエラーの類なのだろうと今は考えている。

「そんな・・・そんな・・・」

「心配するな、シュヴェーリン。寿命が短いと言っても、そこは我ら魔種族のことだ。まだ人間族の一生分くらいは生きられるだろう」

 その間に、政治体制の改革と、諸外国への外交をやる。この国を生き残らせるために、とグスタフは言った。

「・・・外交、ですか」

「うむ。私はどうにかしてこの国に、周囲から戦争を吹っ掛けられないほどの力―――戦争抑止力と言うんだが。それを与えてやろうとした。だがそれはいまの技術的には不可能だった」

 例えば、ゲリラコマンドの掃討に用いた、化学技術上の産物。

 研究はさせたが、あれは抑止力にはならない。むしろ被害を拡大させ、戦争を際限のないものに変えてしまうだけであることを、グスタフは知っていた。

 都市砲撃に猛威を発揮した焼夷弾は抑止力たり得るかもしれず、事実として諸外国にたいへんな衝撃を齎していたが、だからこそいずれ人間族たちも似たような代物を作り出すだろうし、そうなれば将来の戦争はより激しく報復の応酬になる。

 観戦武官たちや従軍記者らの前で、自らのあの魔法を使ってやろうかと考えたこともある。だがそれもまた、彼らを驚かせ、慄かせ、たいへんな衝撃を齎しはするだろうが、所詮は己がくたばるまでのものになってしまう。

「だから私は抑止力をあくまで疑似的に作り出した。大鷲や魔術力を含むオルクセンの戦争遂行能力を他国に見せつけ、エルフィンドを併合することで地下資源と国民数を増やし、容易に戦争を吹っ掛けられる国ではないと周囲に思わせるようにした。これで何年かは持つだろう」

「・・・その何年か先に備えるのは、我らにお任せ頂ければよろしいのでは?」

「うん」

 それはそれで大切なことだ。

 とても大事なことだ。

 国家として、決して怠ってはならないものだ。

 将来の戦争には、あくまで備えなければならない。常に改革と前進を止めず、国防上の備えとは蔑ろにしてはならないものだ。

 エルフィンドを見ればわかる。

 その備えを怠った者は、国を亡ぼす。

 だが。

 だが。

 ―――オルクセンには、その「将来の戦争」がやれない。

 正確にいえば、魔種族にはそれがやれないと、グスタフは見ている。

「シュヴェーリン。我らはこの戦争で、どれくらいの兵を死傷させてしまった?」

「・・・約五万八〇〇〇ですな」

「そう。私は膨大な犠牲を払わせてしまった。だが将来の戦争とやらでは、そのと言ったら、信じてくれるか」

「・・・・・・・」

「兵隊ではない国民も死ぬ。我らがおこなった都市砲撃が代表例だ。あんなことが、大量に起きるようになる」

 近代戦に投じられる科学力。

 それはこれから更に発達して、戦争を徹底したもの―――殺戮戦へと変えていくだろう。 

 そしてそのとき。

 魔種族ゆえに長大な寿命を持つ代わりに、出生率の低い我らはどうなるのか。

「やれば、国が滅ぶ。種族として死に絶えてしまう。国家として成り立たないほど衰弱するだろう。我らは近代戦を戦えない。この戦争が限界だろう」

「・・・・・・」

「だが、それを―――魔種族最大の弱点を、人間族たちに気取られるわけにはいかなかったのだ。彼らは完全に誤解した。魔術やエリクシエル剤をも使える我らを敵に回した戦争などやれないと、完全に誤解したんだ」

「・・・・・・」

 ―――それが、グスタフがこの戦争を欲した理由。

 やるには、この機会しかなかった。

 きっと私は地獄に落ちるだろう。

 ―――なのだ。

 国内においても、国外においても。

 戦争を起こさなければ、近代戦とはこれほど犠牲の出るものなのだと、側近たちですら理解してくれなかったに違いない。

 戦争を起こさなければ、疑似的なものでさえ抑止力を手にすることは出来なかった。

 ―――だから、私はこの戦争を欲した。

 私の肩には、そんな私に付き合わされて犠牲になった将兵たち、エルフィンドの者たち全てが圧し掛かっている。

 ―――そのうえで、これからやろうとしている事のために手に入れた「権威」。

 うん、やはりどう考えても地獄に落ちるな。

 そんな場所が、あるとして。あれば、確実に。

「そして私は、この得難い束の間の平和のうちに、外交で仕上げをやろうと思っている」

「・・・何をされるので? キャメロット辺りとの同盟ですか?」

 ゼーベックが問うた。

「いい線を行ったな。だがそいつは次点も次点といったところだ。人間族と同盟を結べば、やがて彼らが戦争をおっぱじめたときに否が応でも巻き込まれる。私がやろうとしているのは―――」

 グスタフはパイプに葉を詰めた。

「オルクセンの、武装中立化だ」

 オルクセンという国家を、まるで針鼠のように武装させる。

 その実力も行使力も、揺るぎのないものだと思わせる。

 そのうえで、周辺人間族国家に、今後一切の戦争紛争についてはオルクセンは中立の立場になると宣言する。

 グスタフがその構想を抱いたのは、彼のいた世界では存在した、そのような選択を成した国家が、あるいは周囲がそのように仕立てた国家が、この星欧には存在しないことに気づいたときだった。

「こいつは正直なところ、とても難しいものだ。これほど大きな国家が、しかもこのような位置にある国家がそれを成し遂げられるのか。出来れば外交条約でそれを保証しあうかたちが理想なんだが、そこまでやれるかどうか。何とか条約より一段低い書簡を交換しあって認めてもらう形式でやれないかと思っている」

 成功させ得るか否かの鍵は、むしろ大国にはないとグスタフはみている。

 隣のアルビニー。

 あの小国が鍵だ、と。

 あの国は過去何度も戦争に蹂躙されてきた。隣国オルクセンが永世中立宣言を出せば、真っ先に認めてくれる可能性があるのはあの国だ、と。それだけあの国の安全は高まる。

 キャメロットはむしろ渋る可能性があった。グロワールへの牽制役がいなくなる。

 そのグロワールや、あるいはアスカニア辺りはオルクセンへの猜疑心があるから、やはり難しい。

 そのような難題は幾つも想定できたが、グスタフは克服する方法も朧気ながら着想を得はじめていた。

 長年の慣習法を明文化する、陸戦条約構想への受けはいい。

 各国を招いたその外交会議の場で、まずは「世界平和」とやらを実践する最初の国として、オルクセンが名乗りを上げる。各国は断りにくい。そしてその場で多国間承認書簡を得る―――という方法だった。

 キャメロットとは、秘密外交も有効かもしれない。

 グスタフは、自国の海軍保有量を彼らの望む比率に抑えてやろう、それを交渉材料にしてやろうかと思っている。海軍の連中には、心底から申し訳がなかったが。

「ともかく、やってみようと思っている」

 彼は言った。

「私の、後任を選んでおかねばなりませんな」

 ゼーベックはその発言で、王の方針を承諾したことを明確に示した。

「誰がいいと思う? すまんがブルーメンタールとグレーベンはまだ早い」

「はい、心得ております。現第八軍司令官シュトラハヴィッツが、功績上も、また能力としても性格としてもよろしいのではないかと」

「うん、いいな。ひとつそれで頼む」

 シュヴェーリンもまた頷いた。

「私は、まずはエルフィンド併合へ向けて全力を尽くし、陛下の御背中を我が全身全霊を以てお支えします」

「ああ。ありがとう。頼むよ、シュヴェーリン」


 

 七月に入ると、戦争中は国王大本営のスタッフとしてグスタフを支えた者たちのなかにも、帰還の途につく者が増えた。

 例えば、国王外交顧問官だった、サー・マーティン・ジョージ・アストン。

 彼は帰国することになったが、それは一時のもので、王の成婚にはぜひ立ち会わせて頂きたいと願い出た。

「アストンさん。本当にお世話になりました」

「なんの、我が王。きっと、また来ますよ」

「ええ、ぜひ」

「我ら人間族の寿命は短い。でもまた、せめてもう二度ほどは来れましょう。ぜひ陛下の蔵書も、再びお借りしたいのです」

「もちろんです」

 同じころ―――

 いまや解散した総軍司令部作戦部ではエーリッヒ・グレーベンを支えた作戦参謀クレメンス・ビットブルク少佐も、「帰還組」となったひとりだ。

 ただし、彼の帰還は周囲とやや毛色が違っていた。

 次なる任地へと向かう、通過点に過ぎなくなってしまったということだ。

 彼はまだ六月中のころ、参謀総長カール・ヘルムート・ゼーベックと、グレーベンとに呼び出された。

「おう、来たな」

「何事ですか」

 ビットブルクは訝しんだ。

「すまないがお前、道洋に行かないか?」

「・・・道洋ですか?」

 思いもかけない唐突な話で、質の悪い冗談かと思えたほどだった。

「道洋の果てに、新興の近代国家があるんだ。そこの観戦武官の連中がこの戦争を見て、いままでグロワール式だった兵制をうちの国のものに変えたい、そう申し込んできてな」

「・・・西部ワインも飲めないところに送られるのですか」

「うちから輸出はしてるようだから、飲めるぞ」

 とっくに下調べは済ませてあるらしい。

 ビットブルクにとっての「退路」は既に塞がれているようであった。

「・・・しかし、うちの兵制は大鷲の使用など人間族には真似のできない部分もありますが」

「それがなぁ、その国には何と翼竜がいて、うちの国の大鷲のように使っているらしい」

「なんと。世にはまだ不思議もあるものですな」

「それを魔種族のお前が言うかね。人間族たちは俺たちのことを‶世界八番目の不思議″などと呼んでいるんだぞ」

 グレーベンはくすくすと笑った。

 ビットブルクは、ともかくもしばらく考えさせてほしいと願い出た。

「ああ、それは構わん。だが断れなくなるぞ、おそらく」

「どうしてです?」

「陛下が乗り気なんだ。陛下はどういうわけか、あの道洋の国がお気に召されているようでな。戦争中も、あそこの武官には何かと世話を焼かれていた」

「なんと・・・」

 半ば諦めの心境になりながら、いったい道洋の連中に私の長い本名が発音できるんですかね、とビットブルクはぼやいた。

「そういや、お前さん。本名は長かったな」

「ええ。署名が面倒くさいので、いつもは省略させて貰っていますが」

「なんだったかな」

「メッケル。クレメンス・ヤーコブ・ビットブルク・メッケルです」

 この約一年後、本当にグスタフ自身まで説得役に乗り出したうえで道洋に旅立つことになる牡は、つまらなそうに答えた―――

 この七月という時期は、ベレリアンド半島にとって、のちの歴史を思うなら重大な改革の進んだころでもある。

 ―――農地改革だ。

 その後を含め合計二度の施行を以て、旧エルフィンドの農業は大きく変革することになる政策だった。

 まず、小作農の開放。

 在村地主は一ヘクタールを超える所有農地を、そして不在地主は所有農地の全てを暫定政府が強制的に買い上げる。

 買い上げた土地は、新たに各市町村別に設立されることになった農業組合が中心となって、小作農に対し整理調整のうえ売却を行う。組合の構成は、地主三割、自作農二割、小作農五割というもので、しかも地主と自作農は上限あるという、最初から小作農に有利なものとなっていた。

 政府による買取価格、小作農への売却価格は、当時高騰していた物価からすれば無料同然のようなものだった。

 政策の中核を作り出したのは、あの農学者ウォルフ・レビンスキーだ。

 この第一次農地改革と呼ばれた政令が布告されたとき、

「数百年に及ぶ農村秩序を、政府は破壊する気か!」

「愚農に土地を渡せば、どうせ破産する!」

 多くの地主たちは、当然反対をした。

 地主たちが合同して意見書や嘆願書を用意し、占領軍総司令部に送ろうというような動きも起きた。

 だがときには占領軍自らが乗り出していき、エルフィンド暫定政府を強力に裏から支え、あくまで断行した。

 レビンスキーはこのとき、たいへん上手く現地の報道を使っている。

「農地改革は、食糧危機を改善するためのものでもあるのです」

 と記者発表し、小作農のみならず都市部住民なども賛同側へ回らせたのである。

 施行の結果、地主たちの幾らかは没落し、あるいは売却益を思慮なく使い果たして破産してしまう者などもいたが、なかには非常に上手く乗り切った者たちもいた。

 地方におけるキャメロット式石炭ガス灯事業や、その燃料事業に移行した者。

 これからは食糧販売が盛んになるのだからと、運送業を営みはじめた者。

 彼女たちの多くは、その後も地方の名族として生き残ることが出来た。

 もともと金融業を本業としていた地主たちのなかには、誕生した農業組合における信用金庫事業部分の中心を担うことになった者もいる。

 この農業組合制度を作り上げたのが、グスタフが補佐役に選んだ地方行政官フリードリヒ・フランマースフェルトである。

 彼は、世界的にみても極めて初期に、オルクセンにおいて農業信用組合制度を作り上げた牡だ。

 信用、販売、購買、利用の四つの柱を中心とする。

 組合員から預金の受け入れ、生活及び生産に必要な資金の貸し出し、為替などの金融事業。

 組合員が生産したものを協同で販売することで、販売を有利にする事業。

 農業生産に必要な農具、肥料や飼料の購入。

 組合員だけでは所有しえない、脱穀場など大規模施設の共同設置と利用。

 これらの内容は、基本的にはオルクセン式農業組合の丸写しであったが、エルフィンドに合わせて多少のアレンジも施してあった。

 家族という概念を持たないエルフ族の農家は、耕作面積が小さくなりがちである。

 そこで「共同」の理念を強くすることで、農具の集団購入と集団利用、農作業自体を集団で行う部分を設けた。後世、「集団農業」と呼ばれたものに近い。

 そうやって集団化―――つまり労働力の集中を可能にした上で、グスタフはベレリアンド半島に新たな農法を持ち込んだ。

 新たな、といえば、やや語弊があるかもしれない。

 それはオルクセンではずっと以前に行われていたもので、三圃式農業から輪栽式農業への転換期に実施されたものだった。いまでも、北部州などでやっているところがあった。

 ―――穀草式農法、という。

 地目交替式農法とも呼ばれる。

 因みに、輪栽式は作物交替式農法という。

 三圃式に非常に良く似ていて、その特異な亜種と見なされることもあるが、この農法、三圃式で起きやすい地力が枯渇した農地を、復活させるサイクルを含んでいる。

 耕地を数年間交互に耕したあと、放牧地としても利用するが、乾燥草区に使うことも多いという内容である。

 土地休息と、三圃式より多く飼育できる畜産の放牧による施肥で、地力を回復させる効果があった。

 ただしその効果は、厩肥を弄れなければ一部に留まる。しかしながら少なくとも放牧施肥の部分を、有力な耕地として再利用できた。

 グスタフはこの農法を取らせることで、「エルフィンド農法」で小規模農地から失われた家畜の復活と、これによる窒素系の地力回復を図り、そしてベレリアンド半島で需要の多い畜肉や乳製品を、農家の副業的収入として柱にさせようとした。

 また放牧地作物には、根に窒素を含んでいるクローバーの栽培を奨励した。クローバーの不作への備えや、冬季の飼料不足はカブの栽培と乾燥草区で補わせる。

 この農法の欠点は、三圃式より作業が増えることから労働力を要することだが、そこはフランマースフェルトの農業組合方式による「集団農業」で補うべしとした。

 なぜグスタフは、問題もあるがエルフィンドの農家たちが慣れきっていた三圃式のままで農地改革を行わせなかったのか。

 それはこの農法が農地の細分化―――零細分散錯圃を招くものであり、やがて将来的にはベレリアンド半島から価格競争力を失わせてしまう、と判断したからだった。家族概念が薄く、農業労働力が細分化しやすいエルフィンドには、とくにこの傾向が強かった。

 なにしろ隣に位置して今や「同じ国」となったオルクセンでは、どんどん農地が巨大化して、価格の安い穀物や農作物、畜産品を供給できる。 

 三圃式のまま放置すれば、やがて彼女たちの農業は駆逐されてしまうだろう。

 だから彼は穀草式農法を取り入れた。

 そしてこの農法は、農地の大規模化を行えれば、やがて輪栽式への移行を図ることも出来る―――

 だが、この方法では解決しない部分が存在した。

 リンや、カリウムの補填だ。

 グスタフは、どうしたのか―――



 すっかり冬穀の刈り入れが済んだ、七月下旬。

 ベレリアンド半島全土の既耕作地、休耕地、あるいは新たに開墾した元森林、合計二三八七カ所で、奇妙な試みがなされた。

 ベレリアンド半島に多かった白樺、あるいは楢の木で指定農地を囲うように、膝丈ほどの巨大な井桁が組まれた。

 その内側に、更に木材や、エルフィンドにおいても林業で発生していた間伐材、比較的抵抗感の薄かった鶏舎の厩堆肥、芝土などを投入する。

 この作業には、新たに自作農となり農業組合員となり集団農業の一員となったエルフ族農家たち、それに一部では元エルフィンド軍兵士で職のない者などが集められた。

 直接作業に従事しない近隣農家たちにも、極力見学をさせる。

 実施農地の所有者には、もし天候等の他理由以外で農作物の収穫量が低下したら、補償金を与えるというお触れまで出してあった。

「火をつけろ」

 自ら立ち会ったネニング平原の農村における作業箇所のひとつで、グスタフは命じた。

 彼の隣に寄り添ったディネルース・アンダリエルや、警護班たちの前で、この焔は井桁材までもが完全に灰になるまで、約二日間に渡って燃やされ続けた。

 まるで巨大なトーチのようであった。

 寝ずの番を含めた者が熱気に耐えながら、掻き出し棒で攪拌し、突き崩し、さらさらとした灰を作り上げていく。

「グスタフ。あなた」

 ディネルースが、その突耳をぴくりと蠢かせたあと、言った。

「うん?」

「上空のラインダース少将とメルヘンナーさんから―――」

 大鷲軍団は、この準備段階の天候予測の段階から、空を舞ってくれていた。

「まるで、エルフィンド全土を焼いているみたいだ、と」

「ふふ―――」

 そう、これはに等しい。

 

 だがその焔は、焼夷弾による対都市砲撃が地獄の業火ならば、ベレリアンド半島を蘇らせる再生の炎だ。

 ―――焼灰農法。

 焼畑農法の一種といえないこともなかったが、グスタフの成したそれは既耕作地や休耕地を主対象にしていたから、焼「灰」と表現してやるのが相応しい。

 この灰を耕作地に混ぜ込み、耕せば。

 リンとカリウムを補充できる。

 あらたな土を生み出すことができるのだ。

 林業や間伐材の利用を促進することも出来るから、増えすぎた野獣を狩ることにもつながるだろう。

 グスタフが、ロヴァルナの一地方で行われていた農法を調べ上げ、採用した、苦肉の策―――ただしたいへん効果的な策だった。

 大地に実際の効果を齎すだけでなく、土に何かを混ぜ込む行為を、エルフ族に慣れさせることも目的にしていた。

 将来的には、肥料を使わせるつもりだ。

 野蛮なオークの王―――

 いまや世の魔種族全てを統べる王グスタフ・ファルケンハインは、この約一月後に妻となるディネルース・アンダリエルの隣で、静かに詠唱を始めた。


 お天道様 お天道様

 実りを豊かにしておくれ

 どうか豊かにしておくれ



(続)

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