第56話 あたらしき土①
星暦八七七年五月一一日。
この日、ベレリアンド戦争の降伏調印式が行われた。
外交上はこの五月一一日を以て同戦争は正式に終結し、またエルフィンドという国家の外交権が消滅した日―――ということにもなる。
降伏の調印会場は、オルクセン軍第一軍団の既占領地域だったコンクオストの村だ。
コンクオストといえば、ネニング平原会戦において、オルクセン軍第七師団隷下の第二八連隊がイヴァメネル支隊隷下の竜騎兵連隊と「奇妙な撃ち合い」を演じた戦場附近である。
エルフィンドが無条件降伏通告の受諾宣言を行った五月七日からこの日までに、オルクセン総軍司令部とエルフィンド政府は事前準備の交渉を図っている。
その日付は、五月九日。
これは、エルフィンド側が降伏調印式を正式に請うためのものだった。
ネニング方面軍参謀長サハウェン中将がこの使節となって、日付、場所、手段を明示するよう求めている。また、両者の今後の打ち合わせを緊密とするため、ディアネン市庁舎とオルクセン軍の間に電信網の開設が行われた。
オルクセン側はただちに返答を用意し、中将に託して帰した。この両者事前協議を受けての結果が、コンクオストでの調印式であった。
調印の場となったのは、国王専用列車メシャム号。
より正確にいえば、そのうち会議室車両である。
メシャム号は、寝台車、国王私室たるサロン車、食堂車、随員車二両、貨物車一両、そしてこの会議室車で構成されていたが、グスタフ自身が随員たちとともにこの車両に乗り、コンクオスト駅に赴いた。
会議室車は、元々は食堂車だった車両をファルマリア港で鹵獲後、オルクセンの代表的鉄道メーカーの一つであるモアビト・キルヒ社の技師たちが戦地まで出向いてきて、改装したものである。
大きな軍用地図や兵棋を広げて作戦検討などがやれるほどの樫製の大机と、オーク族でも座れる頑丈さとサイズのある揃いの六脚の椅子とがあり、電気式の照明がついている。
グスタフが降伏調印式の場を己が専用列車としたのは、代表団の移動に容易であり、またこの列車を既占領地に置く限りは警備もやりやすく、妨害工作などにも遭いにくいと想定されたためであった。
コンクオストは、オルクセン総軍司令部が置かれていたイーダフェルトの街と、ディアネン市のちょうど中間あたりだ。
小さな田舎駅である。
ただし、ほんの一〇キロメートルばかりだが、イーダフェルトに近い。
遠巻きながら会場への参列が許された各国観戦武官団や従軍記者たちは、この意味を誤解しなかった。
その距離だけ、エルフィンド側は余計に移動してこなければならない。
オルクセンによる勝利の演出に相違なかった。
そのような「演出」はそこかしこにあり、オルクセン側代表団が陣取ったのは車両出入り口から奥側であって、また車両内の一角にオルクセン国旗はあったが、エルフィンド国旗は無い。
会場となった駅舎には、オルクセン国旗と、オルクセンの国家色である黒と白をライン状にした横断幕がふんだんに掲げられている。
代表団として選ばれた者たちにも、意図的な演出があった。
全権代表
国王グスタフ・ファルケンハイン
全権随員
総軍総参謀長カール・ヘルムート・ゼーベック上級大将 オーク族
後方兵站総監ギリム・カイト少将 ドワーフ族
総軍通信部長ヘルムート・シュタウピッツ少将 コボルト族、ダックス種
大鷲軍団長ヴェルナー・ラインダース少将 大鷲族
国王警護巨狼アドヴィン 巨狼族
アンファウグリア旅団長ディネルース・アンダリエル少将 ダークエルフ族
国王外交顧問サー・マーティン・ジョージ・アストン 人間族
会場責任者
第一軍団長テオドール・ホルツ大将
明らかに、オルクセンを構成する全種族が揃い踏むかたちになっていた。
アストンは、オルクセンの国民ではなかったが、人間族でさえオルクセンの側にいるというような効果を発揮した。
しかもホームの車両入口両脇に、ラインダースとアドヴィンが並び、実に目立った。そのうえ周囲には、あの国王グスタフの専属警護班と、第一師団の兵たちとが立哨している。
「これは、これは―――」
従軍記者のひとりは呟いた。
「針の筵ってやつだな、エルフィンドの代表団にとっては」
「まあ、それだけのことをしでかしたんだが、エルフィンドは」
「復讐戦だということを、とことんまで強調する気だね」
「考えてみれば―――」
別の記者が、はたと気づいた顔をした。
「俺たちもその演出の一部か」
全員から呻き声があがる。
「今更なにを。この戦争の、最初からそうだったじゃないか」
「まったくだ」
「エルフィンドの、敗因のひとつだな。オルクセンの世論作りが上手かったのは確かだ」
「違いない」
こうやって観戦武官や従軍記者たちがホームを遠巻きにしている様子は、エルフィンド代表団を「晒し物」にする意図であることは明らかであった。
会場の準備は午前八時過ぎには整い、あとはその肝心要のエルフィンド政府全権団の到着を待つばかりになった。
「そういえば聞いたか? グロワールとアスカニアとロヴァルナの特使が尻尾を巻いて帰った話」
「エルフィンド都市への砲撃が、流石に人道に反するんじゃないかと書簡を携えて乗り込んできたあれか?」
「ああ。事前退避勧告から何から慣習法通りだ、勧告をやっても避難させなかったのは自国民にすら非道なエルフィンド政府側だと、理路整然と反論されて、な」
事実であった。
五月八日、在オルクセンの三か国公使が総軍司令部を訪れ、そのようなやりとりをグスタフと交わしていた。
この外交介入、音頭を取ったグロワールにとって「失敗」と見なす者が殆どであった。
「おまけにだ。確かにこのような戦闘は悲劇だ、将来的には都市攻撃防止を含む戦時国際法条約を多国間で結びたい、例え何年かかっても皆様のご尽力も得て各国の間を調整したいと、グスタフ王から逆提案されたらしい」
「却ってオルクセンに、国際社会での主役舞台を用意させた結果になったな。確かに申し入れまでやっちまったら、誰も反論できない」
「陸戦条約―――そんな名前になるだろうって話だ。冠には主催国オルクセンの、何処か都市の名前が着くことになるな」
「名実ともに、星欧列商第二位か」
「事が国際平和の進展とあれば、俺たちも賛同記事を書かないわけにはいかないものな」
グロワールが主導した外交介入が国際的には失敗と見なされた理由は、他にもあった。
彼らは、本来なら列商各国全てによる介入を目指した。ところがこれにキャメロット公使と南北のセンチュリースター公使、エトルリアなどの公使は乗らなかった。
グロワールの焦りは、相当なものだった。
エルフィンドの併合が成れば、オルクセンは国民数においてグロワールを完全に凌駕する。
そうでなくとも兵器の性能や、軍の動員能力においてオルクセンに対し劣ることは最早はっきりとし、大鷲の飛翔能力や魔術通信、療術魔術、エリクシエル剤の存在の類はどうあがいても模倣のしようがない。
彼らは国内政治事情的にも成功を欲していたが、この点においても失敗だった。
グロワールは、帝政国家である。
かのアルベール・デュートネの甥と称する者が帝位にあった。
これより約三〇年前、選挙によって大統領となり、そこからクーデターを起こして議会を解散、国民投票により皇帝となった男だ。
しかし彼の政治権力は、王統派や共和派と呼ばれる者たちとの闘争や妥協に明け暮れていた。そのため自らの権威を高めようと、デュートネ戦争講和条約が作り出した星欧体制を破壊しようとし、星欧内においてはナショナリズムを援助して、海外においては植民地を獲得することを目指した。
やや枝葉となるが、この星欧世界におけるナショナリズムの高まりを受けて、猛烈な団結を示した国家のひとつが―――オルクセンだ。彼らは個の種族としてではなく、魔種族全体として更に固まる道を選んだ。結果としてグロワールは自らの政策によって、不倶戴天の仇国をも纏め上げてしまう役割を果たしたことになる。
エルフィンド降伏調印直前の土壇場で行われたグロワールによる介入もまた、自らの権威向上を求めてのものだったが、あっさりとグスタフに切り返されたうえに、オルクセン国民の猛烈な反発を招いた。
「次はグロワールだ」
そんな言葉を荒々しく叫ぶオルクセン国民も当然いた。
また、グスタフは三か国の切り崩しを図っている。
このころ、星洋の別方面で列商各国と国際問題を抱えていたロヴァルナとは秘密交渉を持ち、甘い言葉を囁いてやり、まず彼らを脱落させ、アスカニアについては外交上の搦め手を使ってオスタリッチ経由で手を引かせた。
グロワールの在オルクセン駐箚公使は、
「これ以上介入すれば我が国の孤立化と、下手をすれば戦争に招きかねない」
と、本国に対し悲鳴のような報告をして指示を仰ぎ、最終的にはグロワール帝の判断によりこれ以上の介入は見合され、彼らの干渉は失敗に終わる―――
「軍事力とは―――」
エルフィンド使節団の到着を待つ車内で、グスタフはひとりごちた。
「軍事力とは、厄介極まりないものでもあり、ありがたいものでもあるな。弱肉強食のこの世界で外交交渉を成し遂げるには、結局は軍事力を背負っていなければならない。我が国にそれがなければ、干渉を撥ねつけることは出来なかっただろう」
「しかし、不味いですな。グロワールへの敵愾心の盛り上がりは。いますぐ新たな対外戦争を起こすような能力は、もはや我が国にはない」
ゼーベックが応じた。
「当分はエルフィンドに掛かり切りになるからな」
「如何なさいます?」
「戦前方針通りだ。私には人間族諸国家と戦争を起こす気は毛頭無い。カイト―――」
「はい、陛下」
「戦争が終わっても、君の戦争は続くことになる。苦労をかけてばかりで申し訳がないが、念のためグロワールへの備えとして、復員は西部諸州の師団を優先させる。グレーベンたちと良く話し合ってから兵站総監部に戻ってくれ」
「はい、我が王。心得ております」
オルクセンは、このベレリアンド戦争に膨大な兵力を投じた。
これを順に、本国へと復員させねばならない。
もちろん一度にやれることではなく、当面は治安維持のために占領軍を残す。総軍司令部は戦後処理のために第六軍及び第八軍と呼ばれる軍を新たに編成して、合計二四万の兵力をベレリアンド半島の北端まで要所要所に進駐させる計画を立てていた。
この進駐作業とともに、残りの兵力が本国へと帰還する。
将来的には、この第六軍と第八軍に属する計一二個師団も平時編成に復し、そして撤退―――ということになる。
後方兵站総監ギリム・カイト少将は、この復員と進駐のための兵力移動、本国からの兵站、ベレリアンド半島からの負傷者及び兵器引き揚げといった全てを差配監督する役目を担う。
それは下手をすると、開戦時の兵力展開よりずっと困難な作業であり、軍後方支援関係者にとって「戦争」という表現に相応しかった。
「ああ、カイト―――」
「はい、陛下」
「中将の肩章と辞令書を用意させてある。土産に持って帰れ」
「・・・ありがたき幸せ、我が王」
兵士たちを、無事に故郷まで連れて帰ってやること。そこまで果たして、ようやく本当にオルクセンにとってのベレリアンド戦争は終了する。
もっともこれは、エルフィンドの無条件降伏調印と実施が上手くいった場合のことだ。
エルフィンド政府との調印が土壇場になって御破算になったり、彼女たちに暫定ですら統治能力がなければ―――
戦争は国際法的にも継続する。
第一軍と第三軍でディアネン包囲戦を継続してエルフィンド軍を文字通り殲滅し、首都を陥落させ、半島北部まで突っ走る計画もまた、このとき総軍司令部は立案していた。
午前八時半。
エルフィンド政府全権代表団が到着した。
列車は粗末であり、その落差がまたエルフィンドの敗戦を否が応でも参列者に認識させた。
全権代表
ラエリンド・ウィンディミア首相 政府代表
サエルウェン・クーランディア元帥 軍部代表
全権随員
ロスディア・サハウェン中将
方面軍参謀イレリアン中佐、他海軍大佐一名、外務省官僚二名
彼女たちは列車から降り立つと、オルクセン側の誰からも声をかけられず、それから約三〇分間ホームに立ち尽くした格好のまま待たされた。
参加者たちから好奇と、場合によっては蔑みの視線と、従軍記者たちや軍報道部のカメラで撮影されて、「晒し物」になった。
「よろしいのですか、陛下?」
専用列車の車内では、ゼーベックが尋ねていた。
「構わん。待たせておけ。調印式開始は午前九時からだと、通告してある」
グスタフはパイプに葉を詰めながら答えた。
「同情も哀れみも覚えるが。白エルフ族の自尊心や優先思想、教義至上主義とやらは打ち砕く。機会をとらまえ、何度でも」
彼の声は、ひどく平坦に響いた。
冷酷―――というのとは違っていた。
何かを押し殺しているような調子だった。
車両内にいる全ての者が、我らが王は本心からはこのような真似をやりたがっていないのだと理解した。
必要だから、やる。
他に方法がないまでに検討したから、行う。
ただし、己が責任と命令において。
それが彼らの王であった。
とくにディネルース・アンダリエルは、そのように察した。
彼女は二日前に前線から呼び出され、第三軍の占領域を通って参集し、この場にいた。名目上はアールブ語や古典アールブ語の通訳であったが、実際にはその役割はアストンが果たす。
ダークエルフ族の代表として選ばれたのだということを、自覚していた。
「この瞬間が。この瞬間こそが我が国にとって必要なものですからね」
「・・・うん」
午前九時。
調印式が始まり、これは僅か一三分で終了したと記録されている。
その内容は、以下の通りであった。
一.全ベレリアンド半島におけるエルフィンド軍の無条件降伏布告。全指揮官はこの命に従うこと
二.エルフィンド軍及びエルフィンド国民にオルクセンへの敵対的行為を禁じ、軍用非軍用に関わらず財産の毀損を防止し、オルクセン国王及び国王が任命する占領軍最高司令官の指示に基づきエルフィンド政府はこれを要求・命令すること
三.公務員及び陸海軍の職員は、エルフィンド降伏のためにオルクセン国王及びこれが任命する占領軍最高司令官が実施する発令・布告・その他指示に従う。非戦闘任務についてはこれを継続して行うこと
四.エルフィンド女王及びエルフィンド政府は無条件降伏勧告全条文を履行するために必要な命令を発し措置を取る
五.エルフィンド女王及びエルフィンド政府は本降伏条件を履行するためにオルクセン国王及び国王が任命する占領軍最高司令官の制限下におかれる
六.エルフィンド政府及びエルフィンド軍は俘虜としているオルクセン将兵をただちに解放し、必要な給養を行うこと
注目すべきは第二項及び第四項、第五項、第六項である。
エルフィンド政府―――後年、「ディアネン政府」と呼ばれることになるクーデター政権は、所謂「敗戦処理内閣」として暫定的に継続することを示していた。
彼女たちの役割は、四月二六日付け無条件降伏勧告の内容を履行しつつ、「オルクセン国王及び国王が任命する占領軍総司令官」に国家統治権の段階的移譲を行うことだ。
つまりオルクセンは、降伏調印を以てただちに直接統治に乗り出すのではなく、間接統治を経て併合を実施する―――
急激な社会変革を及ぼされるものと思い込んでいたディアネン政府は、苛烈な内容だった無条件降伏勧告条文の一部を緩和されたようにも思え、これには安堵したものだった。
「それで、占領軍総司令官にはどなたが?」
調印式を終えてから、コーヒーを出され、ウィンディミア首相は尋ねた。
エルフィンド政府としては今後その指示を受けることになるのだから、当然の質問と言えた。
グスタフは答えた。
「現第三軍司令官アロイジウス・シュヴェーリンを予定しています。彼には既に辞令を送っております」
調印式が終わると、両国代表はホームへと降り立ち、そしてグスタフは参列者にも聞こえるように、演説を始めた。
「今日、我らオルクセンとエルフィンドの代表は、知的生物として崇高かつ尊厳ある平和の恢復を希求せんがため集い、ついにそれを成した。もはや不信と憎悪と悪意を以て睨み合う刻は過ぎ去った。これよりベレリアンド半島は悪しき習慣を捨て、新しく生まれ変わり、両者は融合していくであろう。ともに手を携え、星欧の平和を希求し、貢献していく国を築きたい」
万座の拍手が満ちたあと、ゼーベックが手を振り、控えていた第一擲弾兵師団の軍楽隊がオルクセン国歌「オルクセンの栄光」を吹奏し、式典は終了した。
しかし、降伏条約や「融合と平和」演説に示された穏健姿勢とは裏腹に、ディアネン政権の安堵は束の間のものだった。
同日中に第三軍司令部を衣替えするかたちで発足したベレリアンド半島占領軍総司令部は、国王大本営より「対ベレリアンド半島初期処理方針」と「基本方針」を既に受領済だった。
オルクセン側内部機密文書としてエルフィンド併合までの大筋を示したものであり、まずはその初期段階として、
「①エルフィンド軍の速やかな武装解除②エルフィンド全域への占領軍進駐③エルフィンド官吏及び警察による治安維持④軍需物資及び施設の接収、エルフィンド軍将兵の復員」
という四段階から構成されている。
エルフィンド旧体制のうち、とくに軍事力の急速な解体実施を企図していたことがわかる。
そして同日午後四時、第三軍参謀長から占領軍総司令部参謀長と肩書を変えたギュンター・ブルーメンタール少将は、ディアネン政権に対し連絡事項受領者の出頭を命じ、
「①ネニング方面軍の速やかな武装解除②明日五月一二日を目途としたディアネン市及びティリオン市への進駐③軍票の使用④公文書への低地オルク語の使用」
という「占領軍総司令部令第一号」を手交した。
ディアネン政権外務省―――外交権の喪失により、この翌日には連絡業務中央事務局と改称することになる省庁のエルフィンド官吏は、茫然とした。
―――そんな・・・!
彼女の目をとくに引いたのは、軍票及び低地オルク語の公文書使用である。
早くもオルクセンは、間接軍政ではなく直接軍政をとる傾向を見せていたのだ。
「政府では降伏調印をうけた国書を起草し、全土への布告を準備中です。あまりにも急な進駐は・・・」
「手緩い」
官吏の延期要望を、ブルーメンタール参謀長はしごくあっさりと拒絶した。
有無を言わせぬ、強硬な態度である。
「治安維持。旧弊主義者及び重要犯罪者の逃亡阻止。証拠隠滅の阻止。進駐はむしろ早急に成さねばならない。休戦発効から既に三日。エルフィンド政府はいったい何をやっていたのか」
「・・・・・・」
「・・・・・・ディアネン市及びティリオンへの進駐規模は、どれほどを? 宿舎の準備もございます」
「ディアネンには、初期段階で一個旅団四〇〇〇」
「・・・・・・」
「ティリオンには一個師団約一万六〇〇〇」
難題であった。
それだけの宿舎を用意するには、民間施設の接収も要する。
オルクセン側はそのために事細かな要求事項まで用意していた。
例えば、だが。
首都ティリオン方面
①総軍司令部のためエルフィンド王宮の明け渡し
②占領軍総司令官のため相当造作及び家具を有する邸宅。四名の副官、三名の従卒が宿泊可能な寝室を含むものとする
③参謀長及び九名の将官ための相当造作及び家具を有する邸宅で、これは総司令官邸宅の周辺地域とする
④六〇〇名の士官のためのホテルまたは宿舎から成る住宅地域。浴室及びトイレを設営すること
⑤一万三〇〇〇名の兵員を収容可能な、所要の炊事施設、食堂、浴室、トイレ及び事務所を備える兵舎その他建物
当然ながらエルフィンド側としては、民間地の接収も見込まれる以上、所有者との交渉を含む諸準備が必要となる―――
「エルフィンド政府に間接統治能力も無いというのなら、我らはいつでも直接統治に乗り出す準備がある」
「・・・・・・」
「誤解してもらっては困るが、我らは貴政府の許可など必要としていない。直ちに命令書を持ち帰って実現に向け尽力するように」
このような処置が矢継ぎ早に打ち出されたという事実は、オルクセンが相当以前からエルフィンド占領統治及び併合計画を詳細に検討していたことを意味した。
実際のところ、オルクセン国王グスタフ・ファルケンハインは、国王大本営及び本国の省庁、そして彼が任命した諮問組織に対して、かなり早い段階か占領政策の検討を行わせていた。
正式な開始時期としては星暦八七七年が明けたころ―――
つまり、ネニング平原で冬営対峙戦をやっていたあたりになる。
国王大本営の若手官僚が中心になり検討委員会が作られて、それは段階的に立案され、練られ、纏められてきた。
これを補佐した諮問組織には、本国で財務大臣を務めるマクシミリアン・リストのような各分野の学者たちがいた。驚くべきことに、このころ哲学から派生してオルクセンで生まれていた、新たな学問―――心理学の先駆者をも参加させている。
心理学はまだ生まれたばかりで、後年のものよりずっと粗削りであったが、彼らの提言した、
「知的生物の行動は環境に対する適応の問題であり、意識は新しい環境に対する調整作用である」
という一節は、エルフィンドの占領及び併合計画に大きな影響を及ぼしている。
このような作業の源流の一部は、経済学者でもあったリストが「戦後経済政策」について開戦直後には具体的検討をやっていたことを見ても分かるが、戦前にまで遡ることが出来た。
アロイジウス・シュヴェーリンも、突如として占領軍総司令官に任命されたわけではない。
グスタフと彼は、ネニング平原会戦中にイーダフェルトの街で会合した際、「将来の見通し」として大筋を話し合っていた。
元帥は、その回顧録で次のように記している。
「占領軍総司令官への任命は、陛下からこの老兵への贈りものであると思った」
それというのも、
「私に与えられた権限は、歴史上いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、これほどの権力を握ったことはないだろうという程のものだった。陛下がそれほど私に信頼と期待を寄せてくださっているのだと、我が身は震えた」
ベレリアンド半島占領軍総司令部は、第三軍司令部を母体に、国王大本営からの機能移転を以て漸次作り上げられることなっている。
治安維持役の第六軍及び第八軍の総兵力二四万を采配する参謀部と、エルフィンドの占領統治政策を担う特別参謀部から成り、この巨大な総司令部がシュヴェーリン元帥の下に置かれる。
参謀部の将校たちはシュヴェーリンの子飼いといってもいい第三軍司令部からの横滑りが多く、特別参謀部は軍政に関わることから国王大本営で占領統治政策研究にあたってきた官僚たちが軍属待遇で配される予定であった。
新設される第六軍の司令官には第七軍団長コンラート・ラング大将、第八軍司令官には第四軍団長レオン・シュトラハヴィッツ大将へ任命の内示が下された。
もちろん自前の兵站機構が付き、これは第一軍兵站部及び第三軍兵站部が組織改編されて組み上がる計画だ。
オルクセン軍史上、最大規模の軍機構であった。
そして占領軍総司令部に与えられた権限もまた、シュヴェーリン元帥の回顧通り、巨大かつ強力極まった。
彼らは、降伏条件の告げるところの「戦前からの他種族への迫害」や「戦中における俘虜への犯罪行為」の処罰も指導監督することになる。
その追及を行う以上、極論から言えば、エルフィンド国民への生殺与奪の権まで握っていた。
ディアネン政権にとって、抵抗や叛乱の懸念されていたネニング方面軍の武装解除は順調に進んだ。
降伏の正式調印と即時発効を受け、前線でそれまで休戦状態で対峙していたオルクセン軍から監督役の将校が随所に派遣され、銃器や火砲、弾薬といったものが、うずたかく山となって積み上げられていった。
指導監督し、受領するオルクセン軍側は、実に彼ららしく細かかった。オルクセン軍教令の火器後送要領に則り、小銃なら小銃、火砲なら火砲といった具合に、最初から整理整頓が図られ、盗難や掠奪を防ぐための歩哨がつけられた。
それよりも問題となって浮上したのは、エルフィンド全土への無条件降伏受諾徹底と、食糧危機であった。
短期的に言えば、ディアネン市民及びネニング方面軍将兵への食糧を確保せねばならず、これはディアネン政権の役割とされている。エルフィンド全土へと降伏受託を周知徹底し、国土の混乱も防ぎ、収めねばならない。
そして長期的には、オルクセン軍から返される俘虜を含め、全ネニング方面軍を武装解除ののちは動員も解除し、復員させなければならない―――
ディアネン政権には、あまりにも荷が重すぎた。
エルフィンドは、言ってみれば突如としてオルクセンに攻め込まれ、場当たり的に国難に対応してきた。オルクセンのように「戦後の研究」など誰も顧みる余裕は無かったとも言える。
しかもディアネン政権発足時における「将軍たちの叛乱」のため、前政権の閣僚や次官たちは拘束されたままである。ここまで後任を任命する時間的余裕もなかった。
一部には恭順した者がいて、また若手官僚にはディアネン政権に従った者も多かったが、大臣や次官というものは、例えどれほど周囲から悪者や無能に思われようと、その存在そのものが「国家」という名の「組織」にとって必要不可欠な存在である。
決済や裁可は滞り、それら全てがディアネン政権幹部たちに圧し掛かった。
オルクセン軍の力も借り、許可も得て、首都ティリオン方面との連絡を回復し、まずは食糧供給の軍用列車を走らせたが、これはようやく第一便が到着したところである。
各地方への無条件降伏通知徹底は、「降伏文書調印国書」を改めて布告し、これを以て行われた。ただしこの措置は「エルフィンド政府としての正式のもの」であって、各地方はオルクセン軍による布告や、ティリオン方面からの通報により五月七日の降伏受諾を既に承知している。
ベレリアンド半島各地から寄せられたエルフィンド内務省情勢報告は、
「軍民問わず突然の発表に茫然自失としている」
「民心の約七割は、女王陛下の重大発表は戦争完遂の最後の決意であると期待していたところ、その結果は無条件降伏受諾、国家喪失であったとして落胆、悲憤、悲嘆、憤然なる者散見」
「田舎へ行くほど、わあわあと泣き暮れる者、いまにオルクセン軍の進駐があり凌辱に遭うに違いないとして山中に避難する者あり」
敗戦と亡国とが、相当な衝撃を以て迎えられたことを示していた。
ただし、戦争が終わったという解放感と安堵感を覚える者も多いようであった。
問題は、日が経つほどにそのような混乱も安堵感も去り、戦中より続く生産や物資や物流の欠乏する日常へと国民が引き戻されていく点にある。
一方オルクセン側では、間接統治下に置く半島中部から北部域での現状における混乱、治安、経済の復旧復興責任はあくまでエルフィンド側にあるという立場であった。
彼らが定めた「対ベレリアンド半島処理初期方針」でも、それは明確であり、とくに経済に関しては項目のどこにも入っていない。これはその次の段階、併合へ進む過程で実施する内容と見なされていた。
「食糧だ。ともかくも食糧が足らない」
ウェンディミア首相は呻いた。
正確に言えば、ベレリアンド半島の北部域から搔き集めればどうにかなるのだが、時間が足りなかった。
局地的にディアネン市域の軍民の食糧が不足しており、この改善には相当な時間が見込まれる―――
「オルクセン軍に、協力を依頼するしかない」
「どうにも、エルフィンド側に早急な事態収拾の力量は無いようですな」
ギュンター・ブルーメンタール参謀長は嘆息し、アロイジウス・シュヴェーリン元帥も頷いた。
「待ってやりたいところだが、そうもいかん」
オルクセン側としては、進駐を―――とくに首都進駐を急ぐ理由があった。
エルフィンドの中央省庁主要施設を掌握下に置くためである。
あのティリオン砲撃でも、オルクセン軍はエルフィンド中央省庁を破砕することは避けていた。流れ弾は幾らか着弾したようだが、これら施設を差し押さえ、わけても各省庁が有する行政文書や資料を保全したい。
ベレリアンド半島の占領統治と、将来的な併合の進捗に影響を与えるものと見なしていたからだ。戦前における諸種族の迫害を含む犯罪を立証するものも存在しよう。
敗戦の混乱により、エルフィンド側で焼却等の証拠隠滅も図っているだろうから、素早く進駐するに越したことはなかった。
「構わん。タンツに、第二九師団の進駐を命じろ」
この命を受けて―――
ヴィハネスコウにいた第二九擲弾兵師団がティリオン進駐を強行した。
彼らはエルフィンド側の抵抗も予期しながら戦備行軍の形態をとり、同日中にはティリオンに達した。
この過程で、ネニング方面軍後方兵站総監ギルリエン中将及び麾下将兵の降伏を受け、ディアネンへの補給を継続するように命じたのだが。
中将から、秘密警察長官ブレンウェルの逃亡を知らされた。
二〇〇名ほどの配下を連れ、ティリオン西方郊外にあるエルフィンド王家伝統の邸館エレントリ館に立て籠っており、ディアネン政権の叛乱鎮圧命を受け、常備軍で取り囲んでいるという。既に三日になるらしい。
ウィルヘルム・タンツ中将以下、二九師団幹部たちは困惑した。
「なぜ突入して鎮圧しないのか?」
「エレントリ館は、王家にとって最も尊き館です。その更に奥には、黄金樹もございます。言わば、我が白エルフ族における最大の聖地。銃火器を以て鎮圧することは・・・」
「・・・・・・」
タンツ中将は、嘆息した。
総司令部に判断を仰ぎ、
「エルフィンド軍と協力し、現地を包囲せよ」
という命令を受けた。直接攻撃は避けよという細かな指示も付帯していた。
同様の命令はギルリエン中将にもディアネン政権から下った。
―――ここにベレリアンド戦争史上、最も奇妙な戦闘が生起した。
戦争は、正式には既に終了している。
しかもオルクセン軍とエルフィンド軍の共闘とは。
両者は困惑しつつも、第二九師団司令部に現地エルフィンド軍が指揮下に入ることで協議が成立し、両軍協同によりエレントリ館を包囲した。
エレントリ館は背後にベレリアンド半島中央山脈を控え、シスリン湖の源流にあたる滝の側にあり、館に通じる道路はひとつしかない。
包囲は容易であった。
翌一三日より、二九師団隷下第五〇連隊第三大隊が包囲環の一角を担い、検問所を設置し、エルフィンド軍一個中隊が築いていた警戒陣地の強化にあたった。
エルフィンド軍は、識別のために袖に白布を巻くことになった。
第五〇連隊は擲弾兵であったが、山岳地方を衛戍地としており、山岳連隊の異名を持ち、健脚を誇っている。
五七ミリ山砲、グラックストン機関砲なども持ち込み、水も漏らさぬ体制をとった。
オルクセン軍は、このとき、新規な装備を用いている。
―――有刺鉄線による鉄条網だ。
この陣地構築などに便利極まる代物は、ベレリアンド戦争より前に他国で発明され、おもに牧場での設置容易な柵材として発達した。
これを軍事においても利用しようという発想はようやくに登場したばかりであり、オルクセン軍を以てしてもついにベレリアンド戦争そのものには間に合わなかった。
半島に到着したのは降伏勧告が成される前後だったといい、使用は戦後になった。
戦史上、本格的に戦争に用いられるようになるのは、これを視察した観戦武官の報告を認めた、キャメロットに依る海外植民地戦争だ。
後年、発達した塹壕や機関銃と組み合わさり、近代戦争にたいへんな殺傷性を齎すことになる。
このような包囲を敷いたあと。
エルフィンド正規軍側から降伏を促す使いが出されることになり、佐官一名、兵二名を従えてこれに向かったが―――
戻ってきたのは、銃声だった。
夜半、叛乱部隊が強硬突破を図り、オルクセン軍とエルフィンド軍協同陣地は、これを迎え撃った。
強硬突破に備えて取り決められていた照明弾二発が打ち上げられ、夜間戦闘になった。
「ぞっとしたよ。エルフィンド軍は、魔術上まで夜目を効かせた。あの赤い目をして、狙撃をやるんだ。その狙いの正確なこと。戦争中に出くわさなかったことを感謝したね」
という証言を残しているのは、オルクセン軍側指揮官。
「オルクセン側の火力はたいへんなものだった。負けるはずだ」
こちらはエルフィンド軍側指揮官。
強硬突破を迎撃し、残兵を鎮圧し、翌朝エレントリ館に突入したこの奇妙な協同部隊は、秘密警察長官ブレンウェルの自殺体を発見することになる。
―――エレントリ館騒擾事件という。
進駐する部隊もあれば、引き揚げていく部隊もある。
オルクセン軍第七軍団第九山岳猟兵師団は、本国への復員が決まった師団になった。
ただしこの措置はまだ師団将兵には発表されておらず、ディアネンにおけるネニング方面軍の武装及び動員解除が完了してから、それも順繰りに、ということになっていた。
だが、「虫の知らせ」というものはあるらしい。
戦争が終結し、徐々に緊張が溶けていくなかで、将兵たちの態度は和らぎ、もうすぐ故郷に帰れるのだという喜びに満ちた表情になっていった。
交代で休養が取られることも多くなり、彼らの任務の過半は、街道の警戒や、エルフィンド軍武装解除の監視といったものに変わっていった。
あのアルテスグルック大尉の中隊も、同様である。
彼らは、占領したディアネン西方郊外の村落で警備についた。
徐々に避難してきた住民たちが戻ってきて、瓦礫の撤去や、住居の復旧を始めていた。
「隊長、飯です!」
「おう!」
後方の野戦炊事車から昼食の配給を運んできた、元ヴルスト売りの兵から、飯盒にスープを、蓋に副食を受け取る。
村落の隅で、横一列になって座り、食事を始めた。
この日の朝に配られたライ麦パン。
豆とジャガイモと牛肉のスープ。
茹でられたヴルスト。
別茹でにして配る余裕が出てきたのか、結構なことだとアルテスグルック大尉は思う。これが戦中なら、ヴルストもスープの具だ。
彼らが食事を摂っていると、ふと視線を感じだ。
ディアネンへと戻っていくところだったのだろう、この地区で終戦を迎え、武装解除を終えたエルフィンド兵の小さな隊列から、ひとりの兵が立ち止まりこちら見ていて、その瞳には明らかな渇望と、憧憬と、羨望の眼差しがあった。
「・・・・・・」
美しかったであろう頬は痩せこけ、睫毛は震え、唇を噛みしめていた。
元ヴルスト屋台曳きの兵が立ち上がって、そっと手をふった。おいで、おいで、という仕草だった。
ふらふらと歩いてきた兵に、彼は自らのヴルストが盛られた飯盒の蓋を差し出した。
「食べなよ。お嬢ちゃん」
「おい、きりがないぞ・・・」
「いいって」
兵は、立ったまま、むさぼるようにそれを食べた。
ぽろぽろと涙を流していた。
屈辱に耐えているのか、食糧を手に入れた喜びか。
やがて、彼女のいた隊列から、ひとり、またひとりと兵が依ってきた。六名ほどになった。
「仕方ねぇなぁ・・・お前のせいだぞ、ヴルスト売り!」
元博徒の兵が、憎まれ口を叩きながら己のぶんを渡し、他の兵も続いた。
「おい、俺のも渡してやれ」
「へい、隊長! おい、ヴルスト売り! 故郷に帰ったらお前の屋台に押しかけてやるから覚悟しろ!」
「へへ、御馳走するよ!」
「おう、屋台ごと食い尽くしてやらあ!」
アロイジウス・シュヴェーリン元帥のディアネン進駐は、五月一五日になった。
彼自身はもっと早く進出を果たそうとしたのだが、少なくとも市内の治安状況を把握してからにして欲しいと、部下たちが懇願した結果に依る。
既に市内には初期進駐部隊に続き医療班なども入り、解放したオルクセン軍俘虜の診断と治療にあたっていた。シュヴェーリンは彼らを見舞い、あのラウフェンシュタイン大尉に自ら勲章を授与した。
そうしてディアネン中心街にあったホテルに開設された総司令部に入り、昼食を摂った。
この日の昼食は、エルフィンド側で用意したものだった。
内容に驚いた。
僅かな黒パン。
塩漬け鯨肉を水で戻したものの焼き物。
野菜に酢をかけただけのサラダ。
岩塩のスープ。
給仕の者は今にも怒鳴りつけられるのではないかとでも思っているのか、震えていた。
実際、食事の内容を一目見たブルーメンタール参謀長はナプキンをテーブルに投げつけ、立ち上がろうとしたが、
「やめんか!」
シュヴェーリンは大喝一声してそれを押しとどめた。
そうして黙って、粗末な料理を全て平らげた。
そのあとで、命じた。
「おい、すぐに陛下に連絡だ。この街には食糧援助がいる」
(続)
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