第52話 エルフの国のいちばん長い日④

 星暦九五四年一一月三日/原文書閲覧許可済/オルクセン連邦外務省歴史資料保管室


「一.我がオルクセン王国国王は、我が国を構成するオーク族、ドワーフ族、コボルト族、大鷲族、ダークエルフ族の諸種族三五〇〇万の民を代表し、ここにエルフィンド王国に対し今次戦役を終結せしめんが為の機会を与えることにした

 二.我がオルクセン王国の強力なる軍隊と強固なる国民の意思は、長年に渡るエルフィンド王国の悪政に対し自存自衛のため蹶起し、今次戦役を完遂し、エルフィンド王国に対し最終的打撃を加えるための準備を完了している

 三.エルフィンド王国に対し最終的打撃を与えんがため準備を完了している手段は、同国の産業及び生活にまで荒廃を齎すものであり、エルフィンド王国現体制及び軍事力の完全かつ不可避にして徹底なる破壊を意味する

 四.内においては無能無策無分別にして民を苦しめ、外においては他国にさえ打算を極めた悪逆なる現体制を維持せんとするか、倫理と道徳と平等とに生き世界の繁栄に役せんかをエルフィンド国民自身が選択すべき時期に至った

 五.我らの条件は以下の通り

 六.無責任にして自己主義的かつ排他的精神に満ち、エルフィンド王国を誤った方向に導いた権力勢力はこれを永久に排除し、また未来永劫に渡って同じ過ちを繰り返させんが為、エルフィンド全土をオルクセン王国に併合す

 七.右体制を確立するまでエルフィンド全土はオルクセン王国軍政における暫定的占領統治下に置かれる

 八.エルフィンド王国女王の生命及びその庇護はオルクセン王国国王の名において保証する

 九.エルフィンド王国軍隊は完全に武装を解除したるのち各自の故郷に復し生産的かつ平和的生活を営む機会を与える

 一〇.我らはエルフィンド王国国民を奴隷化するが如き意思を有さず、又これを滅亡させるが如き意思を毛頭有さないが、戦前において我が国民を虐待せる者、今次戦役において我が俘虜を虐待せる者に対しては、エルフィンド国民の意思において充分なる調査をし、厳重なる処罰を加えること

 一一.エルフィンド国内における経済諸活動は、戦禍による荒廃より復興する機会を与える

 一二.前記諸目的が達成され、オルクセン王国によるエルフィンド王国併合が確立されたとき、エルフィンド王国国民にはオルクセン王国国民と何ら変わらぬ平等な市民権を与える

 一三.我らはエルフィンド王国政府がただちにこの通告を無条件にて受諾する宣言をし、同政府の誠意を以て履行かつ保証されることを要求し、これ以外の選択はエルフィンド王国の迅速かつ完全なる破壊あるのみである」



 エルフィンドに対して、オルクセンへの併合を前提とする無条件降伏を求める通告は、星暦八七七年四月二六日に行われた。

 無条件降伏という概念は、意外に古い。

 ただしその用語が生まれたのは、これより一〇年ほど前に行われたセンチュリースターにおける南北内戦下のことだ。

「降伏したいのだが、条件を提示してほしい」

「条件などない。無条件のみを認める」

 というようなやりとりが同戦争における一戦闘後に起こって、それ以降のことだとされている。

 更にベレリアンド戦争より後年、それまでの慣習法ではなく明確に国際条約として定められるようになった戦時国際法上においては、「軍隊を他国の管理下に無条件で置くこと」という定義になった。軍事上の意味合いのものに絞られている。

 つまり、オルクセンがこのとき示した通告は、そのような定義には収まっていないことになる。

 彼らが行ったものはそれより古い概念のもので、「無条件」の対象は軍隊だけではなく、国家全体である。

 負けた国の国民全てを奴隷にしてしまうといった、生殺与奪の権利まで戦勝国が握って敗戦国が降るというような、まるで古代の戦争で起きたような事態に近い。

 ただ近代以降においても、一国の軍隊を無条件で他国の管理下に置くということは、国家全体が降ることにも等しいように捉ることが出来るから、一般的理解としては両者の線引きは極めて難しい。

 このような事態は―――

 まず、両者の勝敗や国力差が余程のものでもない限り、起こり得ない。

 またそうだとしても、これほどの要求は相手側の逆上を呼び、戦争を終結させるどころか、「窮鼠猫を噛む」の諺通りに泥沼化し、むしろ長期化を招く恐れがある。

 だがエルフィンドに戦争終結の手段を通告するにあたって、「無条件であること」に拘った者がいた。

 オルクセン国王グスタフ・ファルケンハインだ。

 彼は、懸念を示す国王大本営従軍の外務省関係筋に対し、

「我らが求める戦争終結の姿とは、エルフィンドの併合だぞ? 無条件で降伏させる以外成し得るものか」

 理由を開襟した。

 まず、これが一点。

 道理的帰結であった。

 併合という、完全な敗北と滅亡を認めさせるには、諸条件の交渉も何もあったものではない―――

「そして戦後の統治を睨むなら、彼女たち白エルフ族の自尊心を完全に打ち砕いてしまうことが必要だ。ありとあらゆる機会を用いて、これは徹底的にやる。何度でも。そうでなければ、叛乱を招きかねない。無条件を掲示することそのものが外交上のその手段だ。それほど完全なまでに我らに敗北したのだと、認めさせねばならん」

 逆説的に言えば。

 もしこの通告をエルフィンドが受け入れられないようであるならば、これ即ちエルフィンド併合という環境が未だ整っていないことを意味する。

 通告中にもある、更なる「打撃」が必要なのだ。

 グスタフ・ファルケンハインのこのような意向を受けて、通告文書の草案を練り上げたのは国王大本営外交顧問官サー・マーティン・ジョージ・アストンだった。

「アストンさん、これは素晴らしい」

 グスタフは絶賛した。

「御意向に叶いましたでしょうや?」

「ええ」

 妙な言い方になるが、グスタフはエルフィンドの現政権を評価していた。

 優性思想に満ち、厄介極まりない自尊心を備え、独特の氏族社会で成り立つ白エルフという種族とエルフィンドという国家を、曲りなりにも纏め上げてきたのだ。

 それは彼女たちなりに、「女王」や「黄金樹」、そして何より「かつての指導者たちの教え」を背景とした求心力、その伝統に裏付けされた権威、絶妙な政治的バランスといったもので築かれていたのだろう。

 だがグスタフとしては、それを認めるわけにはいかない。

 公的には決して認められなかった。

 現政権は、あくまで「悪逆なる権力勢力」でなければならない。

 そしてこのエルフィンド現政権と、エルフィンド王家と、エルフィンド国民と、エルフィンド軍とを離間させる。切り離すことが肝要だと、グスタフは見ている。

「アストンさん。彼女たちの思想を転換させるためには“言い訳”が必要なのです。これは何も彼女たちに限ったことではない。知的生物が自らの否を渋々ながら認めるとき、何もかも追い込んでしまうと頑なになる。彼女たちに、悪かったのは現政府だ、我らは最初からそう思っていた、さもそのように考えていたかのような顔をさせてやる―――そんな“逃げ道”を用意してやることです」

「お見事です、我が王」

「なんの。我が意を汲んでいただいたアストンさんの草案こそ」

「お言葉、ありがたく。しかし女王もお許しになるとは、意外でした。ただちに廃位させるものかと。エルフィンド国民を纏め上げるために御利用されるおつもりですか」

「・・・然り。いまは―――少なくとも今は、女王まで排除すればエルフィンドは決して降らないでしょう。諸外国も我がオルクセンを傲慢と見るに違いない」

「まさしく」

 アストンの見るところ、王家まで滅してしまうのは確かに不味い。

 諸外国のうち、とくに歴史的に繋がりのあるキャメロット王家などは反発するだろう。

 戦後オルクセンの外交に、支障を来すようになる恐れがあった。

 キャメロット政府は現実的な国益をこそ重視するから敵対関係までには陥らないだろうが、同時に自国の伝統も尊ぶから、何かとやりにくくはなるだろう。

「だから女王は生かしておく。しかし私が利用するのは、現女王とは限りませんがね」

「・・・それは?」

「要は、黄金樹です。黄金樹さえあれば、エルフィンド王家の血筋は生まれてくる。現女王が我が国統治に邪魔になるようであれば、次の女王を利用すればいい」

「つまり、もし将来、王家の血筋そのものが邪魔になるようであれば・・・」

「ええ。そのときはそのとき。黄金樹ごと消せばいいのです。何しろ、エルフィンドの土地は痩せています―――」

 グスタフの声は、低く重々しく響いた。

 魔王と呼ばれるに相応しい声だ。

「うっかり、枯れてしまうことだってあり得ます」



 通告は、二六日午後、オルクセン第一軍第一軍団方面から軍使を出して手交された。

 エルフィンド政府は当初この事実を秘そうとしたが、無駄だった。

 オルクセンは通告と同時に魔術通信を最大出力で放って、エルフィンドに対し降伏勧告を突きつけた事実を前線にも周知したのだ。その内容まで公表した。これは当然、エルフィンド軍側でも傍受できる。

 口伝による噂となって、瞬く間にエルフィンド側でも広まり、軍から軍へ、軍から民へ、そしてディアネン市中にも流布した。

 内容を確認した政府首脳、軍幹部たちの受けた衝撃は計り知れなかった。

「・・・併合」

 通告内容の根幹を成していたその事実に、である。

 愕然とした。

 たいへん意外なことのようだが―――

 エルフィンド政府及び軍幹部は、この瞬間までオルクセンがそれほどの意思でこの戦争をやっているのだということを、まるで気づいていなかった。

 彼女たちは、「口に出すのも憚れること」だが、この戦争が万が一敗北に終わるのだとしても、領土の割譲であるとか、賠償金の支払いであるといった手法で済み、エルフィンドという国家は存続できると信じていた。

 そうでなければ、女王の脱出など図らない。

 休戦や講和を見据えたりはしないものだ。

 第一報を受け取ったとき、ネニング方面軍司令官サエルウェン・クーランディア元帥は、がっくりと項垂れた。執務室の椅子が何か強力な磁場を放っていて、彼女の体を雁字搦めにし、二度と離そうとはしないのではないか、そんな児戯めいた空想を覚えるほどには、虚脱した。

「陛下を御救いすれば、この国を存続させ得ると思っていた私は、道化だったということか―――」

 私自身がどれほど敗軍の将と謗られようが、無能と呼ばれようが、それでも構わんさ。

 事実だからな。

 だが、それでは―――

 イヴァメネルたちの死は、どうなる。

 まるで無駄死にだ。

 作戦が失敗したというだけではない。最初から意味がなかったというのなら、余りにも不憫ではないか・・・

 オルクセン側がこの瞬間まで終戦条件の掲示を行ってこなかったためでもあるが、これは同時に、エルフィンド政府がオルクセンに対する交渉意思を示してこなかった結果でもある。

 またオルクセン側にすれば全く滑稽なことで、穀倉地帯全てを抑えられてしまったエルフィンドが、実成りに乏しい北部だけで存続できると本気で思っていたなら、本当にどうかしていた。

 だが彼女たちはそうは考えていなかった。

「信じられない・・・ なんと野蛮な」

「酷すぎる・・・」

「こんな・・・こんなことは許されない」

 通告を受けて招集された閣議は、狼狽と震撼、慨嘆と悲嘆、憤怒と痛憤とに溢れた。

 閣僚たちを更に憂鬱にさせたのは、物資欠乏の折から、各自に配されたコーヒーカップの中身が最早このような席でさえ粗雑なチコリ製代用コーヒーばかりであり、茶菓のひとつもなかったことである。これは虚しく湯気を立てるだけで、誰も手をつけず、やがて冷め果てた。

「いったい、諸外国はこのような蛮行を許すというのか。外務大臣」

「はい、総理。本省次官曰く。デュートネ戦争時及び同戦争の講和時、またロヴァルナによる周辺国との戦争など、近代においても事例はある、と―――」

「それにしても。眉をひそめるような真似と見る国もいるのではないのか」

「それが・・・我が国もまた、旧ドワーフ領を併合している、と。オルクセンの通告内容は、この点も含めているように読める、と」

「・・・・・」

 実際のところ―――

 オルクセン政府外務省の手によって、この日のうちに通告内容が公表されると、諸外国においても、この星欧において一つの国が完全に滅ぼされようとしているのだと知って、エルフィンド総理の言うところの「眉をひそめる真似だ」と捉える者も多かった。宗教的及び騎士道精神的道徳上、不当な要求である、と。

 もちろん、今後星欧世界に与えるパワーバランスの影響といった現実的観点からも、好ましくない結末だと見る国もいた。

 何といってもエルフィンドはこの星欧においてもっとも古く、伝統のある国であったし、過去の「事例」の数々から少しばかり年月が経っていた影響もある。

 グロワール政府やアスカニア政府などは、オルクセンへの批難と遺憾の表明を検討した。

 だが通告内容の詳細まで知って、あくまで検討だけに終わった。

 魔種族の歴史に造詣が深く、外交にも携わっていたアストンが作り上げた通告内容は、まったく見事であった。

 「我が国を構成するオーク族、ドワーフ族、コボルト族、大鷲族、ダークエルフ族の諸種族三五〇〇万の民」という第一項の一文は、彼らがエルフィンドとの間に抱えてきた歴史をも含有している。それをもっとも重要な第一項に持ってきていた。

 エルフィンドによって滅亡させられた旧ドワーフ領や、コボルト族及び大鷲族の迫害、また直近でいえばダークエルフ族への民族浄化。具体的にはレーラズの森事件。

 第二項では、そのような「長年に渡るエルフィンド王国の悪政」に対し、オルクセン側が「自存自衛のため蹶起」したのが、このベレリアンド戦争であると定義している。

 第四項の「外においては他国にさえ打算を極めた悪逆なる」行為とは、開戦の引鉄となったエルフィンド外交書簡事件を指す。これは、諸外国的にはエルフィンドがオルクセンの主権を侵害し、領土割譲要求を突き付けたのだと理解されていた。

 併合するだけの理由がこれだけあるのだと、説得力を備えた内容だったのだ。 

 通告はそのうえで「女王の生命を保証」し、兵たちには「故郷へ復す」ことを認め、将来的には「オルクセンと同等の市民権を与える」と慈悲まで示している。

 だが―――

 そうであるからこそ、エルフィンド政府首脳は第六項と第一〇項にも目を剥いた。

 「悪逆非道な権力勢力」とはエルフィンド政府を指すことは明白であり、「エルフィンド国民の意思において充分調査のうえ、厳罰を加えること」とは、

「我らを断頭台にかけろ、ということか」

 政府首脳は、この点を誤解しなかった。

 彼女たちは知るよしもなかったが、これはグスタフ王苦心の項目であった。

 彼を悩ませたのは、この時代、のちの世に戦争犯罪と呼ばれるものの概念が未発達であったことだ。彼自身は、戦争犯罪なるものは世に存在しない、これを裁こうなどという行為は、勝者も敗者も等しく裁かれない限り、所詮は勝者の奢りに過ぎないと考えていた。

 また戦争行為に対して倫理観や道徳観念、人権意識が入り込み始めたこの時代、ある意味においてそれはまだ無垢であり純朴であって、勝者が敗者を裁くまでの権利を有するとは、しかもそれが一国の政府にまで対して発揮されるとは、国際的にも思われていなかった。

 また果たしてその対象が、戦前における民族浄化行為にまで遡及出来るかどうかは、極めて怪しい。

 だが、しかし―――

 では戦前及び戦中のエルフィンドにおける「悪逆な行為」をまるで咎めないことは、オルクセンの国民感情を思えば最早不可能である。

 そこでグスタフは「エルフィンド国民の意思」を以て、彼女たち自ら「悪逆」を排除させるという形式をとることを思いついたのだ。

 これはエルフィンド国民による「禊」の第一歩であり、またグスタフの言うところの「逃げ道」のひとつであって、将来的にエルフィンド併合を完結した際、白エルフ族に市民権を与えるには必須となるものである、と。

 まるでエルフィンド国内に巨大な楔を打ち込んだようなものである。グスタフは、エルフィンド王家と政府と軍隊と国民とを、この楔によって切り離そうとした。

 エルフィンド政府首脳には、自らの保身のためにも、決して認められない通告であった。

 そもそも。

 エルフィンドを成すベレリアンド半島のうち、北半分は戦場になっていない。つまりオルクセンの侵攻を直接に受けていない。

 にもかかわらず、「全土を併合する」とは何事か。

 また―――

 併合が、エルフィンドという国にとって根幹となっている「指導者たちの教え」の否定に繋がることも彼女たちには同意できなかった。

 政府首脳らの理解するこの国の成り立ち、歴史的経緯、その解釈によれば。

 聖樹とは、エルフィンドという国家そのものだ。そしてエルフィンドとは何かと具体的に追及すれば、何よりもまず指導者たちの「教え」であり、「黄金樹」と「女王」はあくまでこれを支える存在である。女王は従であって、一部に過ぎない。三者のなかでは最も位置づけが低い。

 女王の生命を幾ら保証されようと、意味がない。

 そこがクーランディアやファラサールなど軍幹部とは違っている。

 閣議の結論は、事態を「静観」することに決した。

 続けて政府と軍部による合同の緊急会議が開かれたが、ここでも結論は変わらなかった。

 元より講和論者であったクーランディア元帥、侍従武官長トゥイリン・ファラサール海軍大将などには、戦争終結の機会が訪れたようにも思えたが、講和と併合ではまるで話が異なる。

 彼女たちにしても、オルクセンの通告は素直に同調できる内容ではなかったのだ。

 ただし前線各所が相当な苦境に陥っていること、これ以上の継戦は不可能に近いこと、またヴィハネスコウ陥落により首都ティリオンもその安全を脅かされていることを指摘した。

 閣議においても緊急会議においても、外務大臣ミアラスは「キャメロットの介入を期待したい」と述べた。

 既に包囲下にあったエルフィンド政府には、外部との連絡手段はなく、首都ティリオンのキャメロット公使館とすら交渉の出来る状態ではなかったが、この発言には何の根拠もなかったわけではない。在キャメロットのエルフィンド公使も通じて、過去何度も要望は伝えてある。

 ネニング平原での冬営対峙中に起こったキャメロット女王によるオルクセン国王への親書送付などはこの動きを元に出たもので、それに希望を託したいとした。

 総理大臣ドウラグエル・ダリンウェンとともに女王エレンミア・アグラレスに謁見を請うと、この考えを奏上している。

 女王エレンミアは、

「国家の滅亡を招くのであれば、私としてもかの国の通告には同意出来ないが、果たしてこれ以上戦争を継続して望みはあるのか?」

 と下問した。

 ダリンウェン首相は、

「我が白エルフ族は、世界一優れた種族です。偉大なる教えのもと、この冬季寒冷の地において世界に先駆け農業を根付かせたことからもわかります様、逆境にあるほど真価を発揮するという類まれな性質を持っております。陛下、お気を確かに。この程度のことで音を上げましては、国家を治めることなど出来ません。またこの傲慢極まるオルクセンの通告を前に国民も痛憤し、発奮し、立ち上がるに相違ありません。軍官民一致し、この国難も跳ねのけられましょう」

 奉答し、裁可を取り付けた。

 このとき、彼女たちは重大な錯誤をしていた。

 オルクセンの通告は、「無条件にて受諾すること」と記されており、最後通牒的性質を帯びていた。

 ところが通告はあくまで単なる通告であるとして、深刻視しなかったのである。



 ―――二七日。

 オルクセンによる通告を静観する構えを見せたエルフィンド政府首脳は、報道については抑制し、また極力扱いを小さくするよう指導して、市民の動揺を抑える方針をとった。

 すでに解囲行動は敗北し完全に終結したあとだったが、オルクセン軍側は断続的に前線での砲撃を継続しており、その砲声が東西南北から遠雷のように響くなかである。

 ところが、オルクセン側による魔術通信によって事態を承知していた前線部隊やディアネン市民からは、どうしてはっきりと通告を拒否しないのかと問い合わせが殺到した。

「これでは前線を維持できない」

 クーランディア元帥を呻かせたほどだ。

 もとよりネニング方面軍の前線は、このころ深刻な状態にあった。

 発疹チフスの猖獗である。

 長い冬営対峙戦、ネニング平原会戦、塹壕陣地。しかも諸物資の不足や、敗北に敗北を重ね余裕が失われ続けた結果、エルフィンド軍の前線は不衛生な環境に置かれ続けた。

 そして、ベレリアンド半島は星欧においては紛れもない寒冷地である。

 虱の発生が起こった。

 そしてその虱が媒介する感染症が、発疹チフスだ。

 潜伏期間は一週間から二週間。

 発熱、頭痛、悪寒、四肢への疼痛に突発的に襲われ、高熱と全身の発疹を特徴とする。このころの星欧ではしばしば猛威を振るい、のちに「戦争熱」と呼ばれるようになる。戦場で流行したからだ。

 この発疹チフス、オルクセン軍にも症例は見られたが、彼らは余り罹患しなかった。

 まず、オルクセン軍の主体となっているオーク族には頭虱や毛虱の寄生箇所となる体毛が極めて少なく、薄い。

 そして、やはり発疹チフスが流行したデュートネ戦争での反省から、兵士たちには衣虱の寄生元となる衣服を極力洗濯させていたし、煮沸消毒、蒸気消毒のための器材まで持ち込んでいた。

 このベレリアンド戦争では、諸外国観戦武官は多くの感嘆をオルクセン軍から得たが、馬車運搬可能な蒸気加圧式消毒器は頗る感心したもののひとつだ。例に依って例の如しで、「救急法及び衛生法」という教令のなかに、伝染病予防の項目があり、そこにしっかり運用基準まで設けている。あまり洗濯できない外套の類は、刷毛を使って虱駆除に努めろなどとまで教令に記してあった軍隊は、この時代ではオルクセンぐらいのものであろう。

 また彼らは種族として入浴を好み、例え湯を沸かせなくとも近くの河川や湖沼まで利用して、水浴びをした。苛烈な戦闘が連続した環境では果たせないこともあったが、勝者であったゆえに、しばしば前線部隊も予備隊と交代でき、余裕を生み出すことが可能だった。

 ベレリアンド戦争では、彼らは良くサウナを設置した。エルフィンドでは伝統のあったサウナを占領地で見て、これは良いものだと取り入れたのである。簡易刷りだが設置方法の詳細を記した教育印刷物の配布までやっている。

 アンファウグリア旅団の戦役初期の記録に、

「サウナを据え付けて以来、近隣部隊から伝令や連絡に来たがる兵が挙っているそうで困ったものだ」

 という一節があり、これは例え遠目に一目でも湯煙の向こうにがあり、妙な意味においても羨望の的になっていたのであろう。

 そのような余裕や準備を作りだせなかったエルフィンド軍は、たいへんな苦境に陥った。

 ネニング平原会戦後半からディアネン包囲戦中と重なった流行のピークにおいては、ネニング方面軍最大兵力約二四万のうち五万名近くが罹患し、そのうちおよそ二割五分が戦病死している。これは戦闘における死者より多い。

 オルクセン軍の兵士たちは、

「エルフィンド兵士と握手することは、榴霰弾に撃たれるより危険だ」

 と、半ば冗句、半ば本気で揶揄したものである。

 当然ながら、エルフィンド軍前線における動揺は激しい。

 仮繃帯所や繃帯所、野戦病院などは戦闘での戦傷者に優先されたから、罹患下士兵卒たちの多くは壕や舎営地で症状に苦しみ続けた。もちろん、塹壕足などの他病も重なる。「戦場で猛威を振るう病は、一二種類はある」と言われたものだった。そしてこのような環境は更なる感染を招く・・・

 ―――地獄であった。

 部隊に依っては、大隊の半分までもが寝込み、医術、魔術式療術を問わず衛生兵たちまで疲労疲弊し、倒れてしまうほどの状態に陥っていた。

 せめて滋養のつくものでも摂れればよいのだが、ネニング方面軍の食糧事情もまた悪化の一途を辿っており、この二七日には兵一名あたり従来の八割にまで供給量が減らされていた。因みにエルフィンド軍の兵一名辺りの食事量は、元より褒められたものではない。

 もはや無茶苦茶である。

 そのような状況下に齎されたのが、オルクセン軍による無条件降伏勧告だ。

 前線の将校ら幹部がとくに危険視したのは、エルフィンド軍を対象にした「各自の故郷に復し生産的かつ平和的生活を営む機会を与える」という第九項の一節である。

 悪魔の囁きに等しい。

 とくに、戦局によって強引に動員された国民義勇兵たちは、日に日に命令を拒絶する者なども出て、営倉は膨れ上がり、将軍や将校らを困らせていた。

 戦争を継続するのならば、通告をはっきりと拒絶しない限り、前線部隊の士気は崩壊しかねない―――矢のような催促が方面軍司令部に向けられるのも無理はなかったのだ。

 ダリンウェン首相は、声明を発することにした。オルクセンに対する時間稼ぎのため、正規の回答にはしない。

 その内容は、

「オルクセン王国通告を重要視せず、回答する必要を認めない」

 というものだった。

 彼女たちの常で、古典アールブ語で成されている。

 まだ言葉遊びをやっていた。

 ―――ここに、たいへんな誤算が生じた。

 エルフィンド政府は公文書を起こす際、古典アールブ語と現代アールブ語の併記を常としている。

 この文書作成時の翻訳過程において、「重要視せず、回答する必要を認めない」が「拒絶し黙殺する」という意味合いになった。

 結果としてそこが大きく強調され、報道に乗り、前線部隊には魔術通信で届けられた。

 オルクセンとしては当然傍受もするし、獲得俘虜から耳にもする。

 これが総軍司令部に達した。



「我が王。失礼致します」

「おう、よく来たな。ちょっと座って待っていてくれ」

 イーダフェルト市庁舎に置かれた総軍司令部の国王執務室で、グスタフは総参謀長ゼーベック上級大将と作戦部長グレーベン少将を迎えた。

 元は市長室だった部屋だったから、なかなかに調度は良い。

 グスタフはちょうど、椎葉付蹄勲章の授与書類にサインをしているところだった。

 このベレリアンド戦争のあいだ、オルクセンの最上位勲章には明確な授与基準が無く、対象は伝統的な価値観で「責務を越えて犠牲的に行動した者」だった。戦役全期間で合計二四七名に送られ、その半数以上は戦死者に対する死後追贈である。

「椎葉付ですか」

「ああ。求められる以上の責務を果たした者たちだよ」

 グスタフは、先のエルフィンド軍解囲行動において戦死したという、大鷲族将校とコボルト族兵の名と推挙理由が記された書類をもう一度眺めた。

 そしてその者たちの名を、授与の理由となったその行動とともに、しっかりと記憶に刻み込んだ。

 ―――おそらく一生、折に触れて蘇ってくる者たちだ。

 いままでもそうだった。

 食事をしているとき、読書をしているとき、誰かと話をしているとき。ふと思い出されて、私の全身を震わせる。演説をやっているときなど、消え入りたくなる。偉大な者たち。

 私と、オルクセンの「糧」になってしまった者たち。

 ああ、ちくしょう。本当になぜ。

 なぜ私だったのだ。どうしてこの世界は私を選んだのだ。他に幾らでも、能力のある奴、強い奴、責任感のある奴、いただろうに。

 ちょうどそのとき国王副官ダンヴィッツ少佐が手配をして、従卒たちがコーヒーを運んでこなければ、グスタフの感情は留めなく深みに陥っていたかもしれない。

「いい匂いだな」

「はい。陛下お好みの中煎りです」

「うん」

「アストンさんには、もちろん紅茶を」

「ありがたく」

 大袈裟に胸に手をあてお辞儀してみせるアストンに、室内は失笑に満ちる。

 もうちょっと強い飲み物もいるか皆、というグスタフの問いには、全員で丁寧に辞した。

 最終的に王の執務室に集ったのは、総参謀長ゼーベック、作戦部長グレーベン、国王勅任外交顧問官アストン、外務省次官補ハウプト、国王大本営海軍派遣幕僚クロイツァー中佐。

 グレーベンなどは、なぜ海軍の者まで参集されているのか、ちょっと不思議に思った。

「・・・黙殺とはね」

 グスタフはエルフィンド政府の対応に呆れかえっている様子だった。

「せめて何らかの回答があるものとは思ったが。まだそんなことをやっているのか、連中は」

「如何なさいます? 陛下。想定ではこのような場合、ネニング方面軍に対して砲撃を主体に全面攻勢に出る予定でしたが」

「第六軍団に再設置を終えた二八センチ砲を主体に、大鷲軍団の空爆も併用した攻勢案だったな? そいつは構わん。やってくれ、グレーベン。ただ―――」

 グスタフは、しばし黙した。

 何かを迷っている様子であって、その沈黙は長かった。

 やがて意を決したようで、彼はクロイツァーに頷く。

「私に少し考えがある。クロイツァー、説明してやってくれ」

 海軍幕僚クロイツァー中佐はそのオーク族の巨体で立ち上がり、グスタフ王の内示を受けて研究してきた内容を説明した。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 耳を傾けた室内の者たちは真顔になり、凍り付き、茫然とした。

 そこまでやるのかという顔をした者もいれば、狼狽を隠し切れぬ者もいた。

 だが、確かにやろうと思えばやれる。

 手段も、必要な器材も、全て存在した。ずっと以前から。

 既存のものを組み合わせるばかりだったから、こういっては何だが準備は容易に行える内容である。

 最初に衝撃から立ち直ったのはエーリッヒ・グレーベンで、実に彼らしく論理的な面から同意を示した。

「・・・たしかにエルフィンド北部域は無傷のままです。直接戦争被害を受けた南部と北部とで、住民感情に落差が出ることが想定されます。ひいては占領軍の統治に対して従わぬ者もいるかもしれない。このまま放置するのは、戦後を睨めば確かに不味い。この策であれば、そのような北部域も含めて白エルフ族の自尊心を一気に打ち砕く効果があるでしょう。もう一個所の目標については、何をかをいわんや、ですな」

 ちらりとアストンに向かって申し訳なさそうに視線を送ったあと、

「戦後、諸外国に対する心理的効果もある」

 その点も認めた―――

 グスタフは、全幅の信頼を寄せる外交顧問官へと向き直り、

「アストンさん。国際法の観点からは如何ですか?」

 これを確認した。

 採ろうとしてる手段の内容が内容であるがゆえに。

「・・・現状の慣習法では問題無いでしょう。手法も、言ってみれば過去に諸外国も行ってきたものです。有効な手立てゆえに、これからも起こり得る。問題となりそうな点はオルクセンが既に声明で公約ともしている、対象への事前通告の実施。これに抵触しないかどうかですが。この点は先ごろの無条件降伏勧告の第二項、第三項、第一三項目でエルフィンド全土に対し実施済と解釈できます」

「グレーベン。もう一個所の目標については、準備は任せられるかい?」

「もちろんです」

「よし―――」

 グスタフは頷いた。

「我が意思と責任のもと、実施を命令する」



 このころ、第三軍の軍補給所はフェンセレヒまで完全に進出していた。

 その後、鉄道改修も進んで、フェンセレヒからエレド峠を越えたコイラリ、アウオスィン、タルヴィオと伸びて、占領したばかりのヴィハネスコウに至っている。

 敵首都ティリオンまで、約八キロである。

 これはネニング平原西部の拠点に警戒線を張るとともに、エルフィンド軍ネニング方面軍と他方面との連絡を絶つためであった。

 第三軍をこれ以上ディアネン市方面に投入することは兵力の過剰集中を招き、兵站線に負担をかけるため望ましくなかったが、では隷下部隊をアルトカレで遊ばせておくわけにもいかないと、総軍司令部が計画を立て、第三軍司令部が監督し実施した支作戦だ。

 第二九師団がこの進出の先頭になっていて、後続に二個師団が続いている。

 そのフェンセレヒ盆地の、アルウィン市に築かれた軍兵站拠点駅で。

 二八日午後、オルクセン国有鉄道機関士“親父ファーター”ブールは、上司であるラビッシュに呼び出されていた。

「なんだい、ラビッシュ。俺ぁ休暇だったんだが・・・」

「すまないな、親父さん。ひとつ国鉄一の機関士にご指名の運行があってね」

 ラビッシュは、ドワーフ族特有の短躯を器用に使って、コーヒーをポットからカップに注いだ。

 ブールお好みの、思い切りマスタードを利かせたサンドウィッチも既に準備済である。

「けっ、安い買収だなぁ。気の効いたランチのフルコースとはいかないのかい」

「俺も食いたいなぁ・・・もう長い間お目にかかってない」

「アルトリアで入った店、美味かったよな。小鹿亭だったか」

「ああ、そんな名だった。また行きたいものだ」

「それで―――」

 ブールは、熱いだけが取り柄だと囁かれているラビッシュのコーヒーを啜りながら尋ねた。

「なんだい? その特別運行ってのは?」

「ああ―――」

 ラビッシュは書類綴りを捲った。

「重量物運搬なんだ。得意だろう?」

 ―――またか。

 ブールは思い切り嫌そうな顔し、あやうく舌を火傷するところだった。



 ―――二九日早朝。ネブラス湾。

「前進びそーく」

「出港」

「出港よーい!」

 オルクセン海軍荒海艦隊は、久々の大規模出撃に沸いていた。

 すっかり習熟訓練を終えた装甲艦ラーテを先頭に、一等装甲艦レーヴェ、ゲパルト、パンテル。二等装甲艦ティーゲル、レオパルド。これに巡洋艦四隻と、水雷巡洋艦二隻。

「おはよう、ロングフォード君。今回も着いてくるかい?」

「ええ、閣下。もちろんです」

 荒海艦隊司令官マクシミリアン・ロイター大将と、キャメロット海軍観戦武官ウィリアム・クリストファー・ロングフォード少尉は冗談めかした挨拶を交わしたあと、ラーテの艦橋に立っていた。

「・・・まあ、あまり楽しい任務ではないがな」

 ロイター大将は肩を竦めた。

 確かに面白い任務ではない。

 まったく面白い任務ではない。

 だが、祖国と、国王陛下の思し召しだ。

 海軍とは、その尖兵。

 国家そのものの要求を果たすもの。実現するもの。そのために浮かんでいる。

 ―――やらねばならん。

 ロイターは制帽を目深に被り直した。

 気分を変えるものが必要だった。

「従卒。すまんがコーヒーをくれ。ロングフォード君の分もな」



(続)

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