第53話 エルフの国のいちばん長い日⑤

 ―――ノアトゥンという名の、港がある。

 ベレリアンド半島の北部西岸、そのほぼ先端に近い。

 住民数一八万。エルフィンドとしては相当に大きな商業港であり、かつ同国にとって伝統的な産業のひとつである沿岸捕鯨や漁業の拠点でもあった。

 戦前は木材、鉄鉱石、家具や雑貨、薬草、鯨油、漁業加工品といったものを輸出しつつ、キャメロットからの工業製品や石炭、日用品などの大半がこの港に入っていた。

 ベレリアンド戦争が起きると、開戦直後にノアトゥン港は震撼した。

 同港へ向かっていたエルフィンド船舶が、開戦と同時にオルクセン海軍の仮装巡洋艦隊に拿捕されたのである。

 以来、海上はほぼ封鎖されてきた。

 二度だけ、例外的に大きな船舶がやって来たことがある。

 キャメロット政府差し回しの同国貨客船が、外交的にオルクセンにも話を通して、ノアトゥン港その他エルフィンド国内のキャメロット商人や鉄道技師など、在留居民を引き揚げるために入港したのだ。

 キャメロットは戦争当事国ではなかったが、エルフィンドが直接的に戦場となり自国民が危険だというので、そんな措置がとられた。

 強制的な措置ではなかったため、残留を希望する者も多かった。

 まず、この戦争を一攫千金の好機と見た商人。

 商売敵もいなくなり、戦争需要で利益を希求できると睨んだ者たちであるが、これは見込み違いというもので、オルクセンの徹底した海上封鎖のため商売がやれなくなり、やがて困窮した。彼らの多くは現地財産を叩き売って、二度目の引き揚げ船に乗った。

 また、エルフィンドに居留するうち白エルフ族と情を交わすまでになり、彼女たちを見捨てられなかった者たち。

 彼らの殆どは恋仲となったエルフを母国に連れ帰ろうとしたが、白エルフ族は故郷の白銀樹から余り遠くへと離れたがらない者も多いから、上手くいった例は全体の極一部だ。このため、苦慮の末にエルフィンドへの残留を選んだ者たちもいた。 

 残留者がいる以上、また仮にそうでなかったとしても、外交関係者は残る。

 ノアトゥンには、キャメロットの領事館が置かれていた。

 このキャメロット領事は、ベレリアンド戦争中の同市の様子を克明に記録している。

 ノアトゥンにおける食糧事情は、エルフィンド中部のことを思うなら、そう悪くなかった。

 質に拘らなければ燕麦とライ麦を中心に備蓄穀類はあったし、タンパク質は沿岸捕鯨の鯨肉に求めることが出来た。これは操業域が近く、殆どオルクセンによる海上封鎖の被害にも遭わなかった。

 鯨肉のステーキ、干肉、脂身とジャガイモを合わせたものなど、郷土料理もある。

 またこの周辺では、鱈が漁獲でき、流通していた。

 ちょうどアルトリア戦の始まる前、ノアトゥンからも兵力の動員があった。

 常備軍の一個旅団が出征したあと、まだ兵力が足りないというので国民義勇兵が搔き集められて、軍用列車に詰め込まれた。

 これはネニング方面で、アシリアンド軍の一部になった。

 エルフィンド北部のエルフ氏族の多くは、従来、国内での扱いは決して良いものではなかった。

 彼女たちの歴史に依れば、世界創生のとき降星を見たかどうか、また建国神話における渡海に従ったかどうかは大きな違いであり、ベレリアンド半島北部の氏族たちはこれから外れる「非主流の者たち」と見なされていたからである。

 いまは亡きアノールリアン・イヴァメネル中将などは、この地方の氏族出身だ。

 この北部の兵たちが、意外にも首都ティリオン方面の軍などよりは余程粘り強く、勇敢で、国家への忠誠も篤く戦ったことは皮肉といえよう。

 冬季の厳しい環境、穀物収穫量に乏しい土地柄などに鍛えられ、また中央政府から非主流と見なされ続けてきたゆえに他地域氏族より懸命に戦った結果であったとされている。クーランディア攻勢におけるアルトカレ軍のように派手な活躍こそなかったが、ネニング平原会戦の初期から第四軍団の攻撃を防支し続け、後退を繰り返しつつも、ついに最後まで大きく崩れるということは無かった。

 ノアトゥンを本当に苦しめたのは、この出征部隊を送り出した影響である。

 エルフィンドの制度では、氏族長が平時には行政の責任者をやり、戦時には将軍や将校になる。あちこちで不具合が出た。

 出征した氏族の者たちの無事を祈りつつ、ノアトゥンは静まり返ったような戦中を過ごした。

 戦前のような活気はなく、日々伝わってくる祖国の苦戦に暗澹とした思いを抱きつつ、それでも直接の戦場にはなっていなかったから、どこか平穏でもある。そのような日々だった。

 星暦八七七年五月一日、このノアトゥンの沖に多数の軍艦が現れた。

 オルクセン海軍荒海艦隊主力であった。

 沿岸捕鯨に出ていた小型捕鯨船の一隻がこれを見つけて、おおわらわになって戻ってきた。

「なんてことだ・・・」

 ノアトゥン市長は、直ちに住民たちの避難命令を発した。

 既に彼女たちは、オルクセンが発した無条件降伏勧告と、政府がこれを拒絶したことを知っていた。報道や、魔術通信や、あるいは直接の口伝となって、北部にも広がっていたのでである。

 女王と政府がディアネン市に包囲されてからというもの、噂や風聞の類は増えていた。

 ―――曰く、オルクセン軍がいつか上陸してくる。

 ―――曰く、女王も政府首脳も砲撃により死んだ。

 ―――曰く、いや大鷲による空爆だと聞いた。

 エルフィンド警察及び秘密警察は、そのような風説を流布した者を次々と逮捕していたが、ひとの口に戸は立てられない。

 オルクセン艦隊の出現は、そのような噂の類が凶悪な姿をして現実となったもののように思えた。

 住民たちは驚愕し、狼狽しつつ、市郊外の丘陵や森林地帯へと逃げ惑い、ついに来るべきものが来たというような諦観にも似た感情で、沖に浮かぶ黒々とした艨艟たちを不安気に見つめた。

 オルクセン艦隊は、すぐには湾内奥部へとは侵入してこなかった。

 正午ごろになって、どうやら旗艦らしい、ひと際大きく近代的な装甲艦を先頭に押し立てて突入を始め、ちかちかと発光信号を煌めかせ、同時に魔術通信を最大出力で発信してきた。

「一時間の猶予を与える。住民及び居留外国人は、ただちにノアトゥンより退避せよ」

 というものだった。

 ―――午後一時半。

「閣下。準備完了しました」

「うむ」

 装甲艦ラーテの艦橋で、マクシミリアン・ロイター大将は頷いた。

 彼の周囲に詰めた者たちの表情は、どことなく暗い。

 まるで晴れやかなものは無かった。

 ロイターは号令を下した。

「行くぞ。所定の如く、各艦我に続航せよ」

「戦闘旗揚げ」

「速力、間隔に注意せよ」

 ノアトゥン港の最奥付近にあった、たった四門のエルフィンド軍二四ポンド沿岸砲が発砲を始めた。

 虚しく水柱が上がる。

 その砲台と、ノアトゥンの郊外にあるエルフィンド軍兵舎の存在とが、オルクセンにとってこれから成す行動の一応の口実になっている。

 だが、そのような存在が今更オルクセンにどのような脅威を与えるというのか、これは艦隊の一水兵の目にさえ明らかだった。

「・・・艦長、始めるぞ」

「はい」

「いいな? 儂は明確に命令を下した。そのつもりで」

「はい・・・砲術長! 始めろ!」

 彼らの背後にいたラーテの砲術長が頷き、伝声管に向かって叫んだ。

「左砲戦。距離三二〇〇。弾種―――」

 砲術長は、そこでちょっと声を詰まらせた。

 だが意を決したように眦を吊り上げると、命じた。

「弾種、電光弾!」



 ―――ノアトゥンの街が、跡形もないほどに焼け落ちた。

 その報せは、オルクセン軍の手によってディアネン市に齎された。

 彼らは大鷲族を使って伝単を撒き、魔術通信をも用いてそれを喧伝したのだ。

 五月四日のことである。

 荒海艦隊から高速の水雷巡洋艦が通報に出て、仮装巡洋艦に逓伝し、第二軍司令部のあるノグロストから電信を使ってオルクセン総軍司令部へと連絡されて―――という流れだった。

 オルクセン軍は、ノアトゥンの街に合計して一〇〇〇発以上の対艦焼夷弾を撃ち込んだ。

 あの恐るべき化学反応が、地上で起きた。

 沿岸砲台が吹き飛び、市庁舎が崩れ落ち、市街地は三日間に渡って炎上した。

 消火しようにも消防署や消防施設までが焼け溶け、またそもそも消防隊は灼熱を発する業火を前に近寄ることもままならず、市街地のほぼ全てが灰燼に帰すという惨状である。

 街全体が、溶鉱炉のようになった。

 ノアトゥン市長は避難命令を出していたが、逃げ遅れた者なども当然いる。直接被害としては六〇〇名以上の白エルフ族が死に、住居を焼け出された者なども含めれば罹災者の数はどれほどのものになるのか、見当もつかなかった。

 オルクセン軍は、ディアネン市にノアトゥン港炎上の報を齎すとともに、国王グスタフ・ファルケンハインの声明も発表した。

「我がオルクセンが去る二六日の降伏勧告で通告した、エルフィンドの完全なる破壊が行われる日がやってきた。ノアトゥンは始まりに過ぎない。エルフィンドが降伏しない限り、更なる破滅的破壊が他の都市も襲うであろう。最早エルフィンドに安全な場所など存在しない。沿岸であろうが内陸であろうが関係は無い。我々はそのための手段を有している。改めて勧告する。もはや一刻の猶予もない。エルフィンドは直ちに無条件にて降伏せよ」

 これはアールブ語にも翻訳されて伝単のかたちとなり、また魔術通信となってディアネン市に通告された。

「・・・・・・」

 緊急閣議が招集されたが、暗澹たる空気が満ちるだけで、もはや誰も発言しようとする者はいなかった。

 しかもこの閣議の最中、彼女たちに齎されたのはノアトゥンの悲報だけではなかった。

 このとき、オルクセン軍の包囲環を通過し、通行証を与えられてディアネンに到達した者がいた。

 首都ティリオンからやってきた、在エルフィンド駐箚のキャメロット公使だ。

 彼は二つの要件を携えていた。

 ひとつは、断腸の思いではあるがという前置きをしつつも、戦局の推移を鑑み、在エルフィンド公使館の本国への退避を決めたというもの。

 またひとつは、キャメロット駐箚のエルフィンド公使が五月二日にキャメロットへと亡命したので、後任者を任命し差し向けて欲しいという要望だった。

 てっきりキャメロットによる事態介入がついに実現したのだと思っていたエルフィンド首脳たちは、この報にこそ衝撃を受けた。

 介入どころではない。

 それを依頼しているはずだった、肝心要のエルフィンド公使が亡命したとは、いったいどういうことなのか・・・

 外務大臣ミアラスは周章狼狽しきった内心を押し隠すことに苦労しつつ、改めてキャメロットによる休戦講和の斡旋を依頼した。

「ご要望は本国に伝えますが―――」

 キャメロット公使は表情を曇らせた。

「オルクセン国王においては本戦役への完遂意思固く、過去の仲介も跳ね除けていると漏れ伝え聞いております。また貴国の国際的信義を回復しない限り、仲介は難しいかと」

 外交介入の予定は、まるで存在し無いことを匂わせた。

 国際的信義とは何を指すのか、公使は明確には口にしなかったが、どうやらオルクセンが降伏勧告で指摘している、エルフィンド政府による過去の行いを指しているらしい―――

 中座していた閣議へと戻る外務大臣ミアラスの足取りは重かった。

 成功の見込みもなく、実務的な働きかけにも乏しく、ただただキャメロットからの外交介入を期待して無為に待つだけの日々を過ごしてきた彼女たちに、当然の報いがやってきたのだ。

 ミアラスの報告を聞くと、閣僚たちはまた重苦しい沈黙に陥るだけであった。

「黙っていても仕方がないじゃないか。皆、意見を述べてはどうか。仲介案が潰えた以上、残る手段は現在置かれた環境でこれ以上の継戦が可能か。その一点に尽きると思うが」

 陸軍大臣ウィンディミア大将のこの発言で、ようやくに各閣僚が現在置かれた状況の報告をはじめた。

 農務大臣が、まずディアネン市の食糧事情を報告した。

「既にディアネン市の備蓄食糧は残り乏しく、前線に送るものをどうにか確保し、市民には欠配や遅配が続出している状態です。また我々は敵包囲下に陥っており、これが改善される見込みはありません。また敵が穀倉地帯を占領している事実は我が国土全土に影響を与えるもので、冬穀の刈り入れが行われたと致しましても、北部域への移送はもはや望むべくもなく・・・ 最悪の場合、今年の冬辺りには相当の餓死者が見込まれます」

 続けて厚生大臣は市内の医療品の困窮を指摘し、内務大臣は市内の治安が悪化している点を報告した。

 生産、財政、運輸通信、食糧―――どれひとつ取っても絶望的である。

「―――これ以上戦争を継続しましても、勝つ見込みは万が一にも無いかと」

「何を弱気なことを」

 ドウラグエル・ダリンウェン首相が嘲笑するように言った。

「かかる事態は、最初から承知のうえだったはず。そのうえで戦争継続を決めたのではなかったのか。前線にはまだ一八万の兵力があり、決着はついていない。北部域諸都市は如何にオルクセンが謀略を発表しようと依然無傷であり、更なる動員も可能なはずだ。まずは一戦。一戦して事態の打開を図るべきではないか」

 彼女に言わせるなら―――

 戦わずして国を亡ぼすことは、白エルフ族の種族としてまでの滅亡を意味する。

 教義を捨てることは魂を売り渡すことと同じことだ。

 このまま無条件降伏を受け入れるというのならば、白エルフ族は精神的にも死んだと同じである。

 偉大なる指導者たちの教義と、黄金樹、女王を奉じて戦い、例え全滅することがあってもそれは「敗北」ではない。尊き「殉死」であって、むしろこれは野蛮なるオルクセンに対する「勝利」である―――

「・・・首相は一戦後の事態打開、一戦後の事態打開と仰るが。果たしてそれが可能かどうかは、実際に軍の統帥を行っている方面軍司令部の意見も聴取されてはどうか。小官としては事が戦争継続の如何に関わる以上、この際は政府と軍部を一体にして連繋を密にし、討議することが筋と思うが」

 継戦すべきだ、そこに勝算はあるのか、やってみなければわからないという押し問答が三時間余りも続き、陸軍大臣のこの発言は事態を打開するものとして周囲に受け入れられ、軍の統帥を預かるサエルウェン・クーランディア元帥らが呼ばれることとなり、会議は自然と休憩を入れるかたちとなった。

 このころになると―――

 政府及ぶ軍中枢の一部の者たちは内心、首相の異常性に気づき始めていた。

 長い睫毛に彩られた美しい双眸を爛々と輝かせ、戦争に倦むどころかむしろ精気を漲らせるようになり、ひたすらに戦争継続を主張する姿は、明らかに狂信じみている。

 しかもその狂信は、ともすれば周囲を引き込み、頷きたくなるような禍々しい魅力があった。

 首相は、伝統ある白エルフ族に相応しいとされる金髪碧眼の容姿端麗であり、うねるような長い髪をしている。他の閣僚同様、エルフィンド伝統の緑色をしたローブ状のドレス姿だ。 

 そのような伝統に則った服装を政治の場にまで持ち込んだのは彼女自身で、この一点からも分かるように、かつてこの国を訪れたという指導者たちの遺訓を纏め上げ、国の根幹に据え、純化し、権威化し、このエルフィンドという国家を導いてきたのは首相である―――

 女王に仕えること、二代。

 政治的な対抗者を蹴落としてきたこと、ダークエルフ族を含む他の種族排除を主導したこと、エルフィンドという国家を黄金樹中心から教義中心へと事実上転換したことなど、その能力には相当に苛烈な部分があり、実態上の権力は彼女に集中している。

 そのような政治的中心者が、あくまで戦争継続を叫んだとき、エルフィンドの政治体制はこれを簡単には止めることが出来なかった。

 形式上、首相を含めた閣僚、軍幹部などは女王の指名によりその地位についていて、他者による罷免は難しい。

 しかもその実態は、首相が推挙する者を女王が無言で承認する、というものだった。

 このような老獪な政治術は未だ発揮されていて、近頃では「御心を痛める」という理由をつけ、女王に対する正確な戦況報告を阻んでいた。

 クーランディア元帥と、侍従武官長としてというより海軍最高司令官としてトゥイリン・ファラサール大将が呼び出されてやってきたとき、会議が再開する前に陸軍大臣ウィンディミア大将はそっと彼女たちと打ち合わせを持った。

 ウィンディミア大将は、戦前、「常備軍制のエルフィンドは徴兵制のオルクセンに勝る」と揚言していた当事者のひとりだ。金髪碧眼についでエルフ族に多い銀髪灰眼をしており、その通称は「白狐」。クーランディア元帥などが呼ぶ「御用将軍」の筆頭である。

「・・・ご両者。私は氏族政治のなかで首相の権威におもねり、その一翼を担ってきた無能者だ―――」

 ウィンディミア大将は、クーランディア及びファラサールの両名からすれば意外な言葉を口にした。

「だがこれ以上戦争を継続すれば、兵も、ディアネン市民も、しいては我が種族ことごとく死に絶えてしまうことはわかる。前線を実際に指揮されてきたご両者も、事ここに至っては同じお考えと推察する。俄には私を信じられないことと思うが、どうか戦争終結のために協力してほしい」

 彼女たちの背後では、柱時計が時を刻み、日付が変わろうとしていた。


 

 エルフィンド軍関係者らが事態打開を決意しはじめた五月五日、首都ティリオンはそれまでと変わらぬ朝を迎えようとしていた。

 人口六二万。

 このエルフィンドの首都は、何処かお伽話のなかの街のような景観をしている。

 ベレリアンド半島随一の湖であるシスリン湖の畔にあり、エルフィンドの政治の中枢である王宮と首相官邸、中央省庁、それに劇場や音楽堂、公園といった文化施設を中心にして、石造りに白漆喰と木材を組み合わせた、青銅の屋根を冠した街並みが広がる。

 シスリン湖から繋がる運河には、橋が多く、それぞれが意匠を凝らしていて、美しい。

 大廈高楼が並ぶというより、小さく清楚な住宅が整然と並んでいて、かつてこの都を訪れた者を等しく感嘆させたものだった。

 住民もまた、この国にとって有力氏族や伝統ある氏族に連なるとされる者、あるいは教義の優良な遂行者とされる者ばかりである。

 清楚そのもの―――という言葉が相応しいと、この街に住む者たちは誇っている。

 陽が昇る時間になると、ティリオンの街には彼女たちが「汚穢」と見なすものは存在しなかった。

 ヴィハネスコウ近くの東の郊外に、おもに密告や讒訴によって秘密警察の手により逮捕された政治犯及び重犯罪者収容所があり、夜のうちにここから模範囚が駆り出されて、馬糞、塵芥、廃棄物といったものを街から清掃してしまうからである。

 偉大なる教義に反したとされる者、氏族社会体制に逆らって秩序を乱したとされる者、急進的な政治体制の変革を説いたとされる者などが街から消え、収容所の仲間入りをすることはあったが、ティリオンの住民にとってそれはのことである。

 ―――望ましいことだ。

 ―――素晴らしいことだ。

 ―――何もおかしいことはない。

 そのティリオンの空気は、戦争が始まり、変わった。

 この御伽の国の都が、重苦しい雰囲気に覆われるようになった。

 緒戦の相次ぐ敗報。

 近づくばかりの戦場。

 食糧が統制され、政府の方針により徴兵可能な者は建前上全て国民義勇兵になり、実際に出征する者も出た。

 贅沢を禁止して戦争に協力しようという呼びかけが銃後からも成され、戦前愛された歌劇や音楽の夜の光は消え、王立兵工廠では昼夜銃弾や砲弾が作られるようになった。

 敗報が重なるにつれ、ついには女王や政府がディアネンで包囲されるに及んで、この国の何かがおかしいと思う者も出たが、それを口にする者はいなかった。市民の受けた衝撃は大きく、嘆き悲しみ、心を痛め、ただただ嘆息した。

 そして奇妙な現象が起きた。

 戦局について話をしたがる者は減り、この安寧を約束されたはずの都に閉じこもり、目を背け、耳を塞いでいればいつか困難は消え去ってくれる、あるいは最初からそのようなものは存在しないというような―――そんな幻想にも似た感情に縋る者が増えたのだ。

 ティリオン市長と、軍後方兵站総監、それに閣僚の移動から残留していた秘密警察長官が治安の維持と防衛体制の構築に努め、市内の情勢はエルフィンドの他都市と比べれば安定していたとも言える。

 だが敗色濃厚となった戦局は、容赦なくティリオンへも迫ってきた。

 まず四月二四日、さきごろ爆破され復旧が急がれていたヴィハネスコウ大鉄橋附近に、オルクセン軍の大部隊が現れた。

 これは第三軍の第二九師団で、あっさりとヴィハネスコウ周辺のエルフィンド軍を蹴散らし、居座った。彼ら自身の手で鉄橋修復も始め、いずれこのティリオンへの進撃路を開くものと感得された。

 対応を協議しているうちに、ディアネン市の政府中枢に対して、オルクセンが降伏勧告を突きつけたことを知った。この第一報は風聞のかたちを取っていたので、確認を急いだ。

 もはや自力でティリオンそのものも防衛しなければならないが、その更に奥地、西方郊外には女王本来の伝統ある邸館とされている館と、王家の根幹たる黄金樹がある。

 何としても、これを守らねばならない―――

 しかし、もはや動員できる頭数はあっても、粗製の小銃と銃弾、軍服、砲もない砲弾くらいしかない。そもそも首都ティリオンの住民の気質は、軍隊にはまるで向いていなかった。

 「兵を以て争ってはいけない」という教義のひとつから端を発した軍への忌避感が、もっとも浸透しているのがティリオンの住民たちと言ってよかった。

 続けて五月一日、ノアトゥン港が「消滅」したという報せが入ってきた。

 これはティリオンに残された通信網を介して、ディアネン市の政府首脳や軍中枢より余程早く、正確に知り得た。生き残ったノアトゥン市庁関係者がまず魔術通信を使って周辺に救助を求め、ノアトゥン周辺の街や、地方行政区分としては隣接地になるエルドインからの電信が続々と受信された。

 オルクセン王の言うところの「壊滅的な破壊」が現実のものとなったのである。

 本来なら、政府が何らかの救援を指示すべきところだ。

 だがその政府とは、連絡の取りようがない。

 ディアネンで包囲下にある政府は、魔術通信で周囲との連絡を試みる、夜半に伝令を放つ、果ては伝書鳩を飛ばしてみるといった手段を試みていたが、いずれも上手く行っていなかった。

 自らの権限を越えることを承知で、ネニング方面軍後方兵站総監ギルリエン中将はノアトゥン周辺地への赴援命令を発した。

 同日、ティリオン市は開戦以来もっとも大きな直接的衝撃を受けることになった。

 四羽の大鷲が現れ、上空を飛翔し、多量の伝単を散布したのだ。

 エルフィンド政府が降伏勧告への回答を拒否したため、エルフィンド各都市に対する無差別攻撃を開始すること、その対象にはティリオンも含まれていることを通告し、避難を促すものであった。

 官憲の手により伝単はただちに回収され、軍の者によってデマや噂の否定が行われたが、肩を寄せ合うように情報を求めあう市民は後を絶たなかった。

 もっとも効果的な対策は、秘密警察長官ブレンウェルの指示による、見せしめのための摘発であった。国家に反する風説を流布したというので、何名かの市民が逮捕されると、他のティリオン市民の多くは自宅に引きこもった。相互監視の目は、市からの脱出も困難にした。

 このような市民の不満と不安、鬱屈は、幹部たちが想像だにしていなかった対象に向かって発露した。

 この日夕刻、公使館を引き払って退去することになったキャメロット公使と職員の馬車に向かって、投石騒ぎが起きたのだ。市民たちは公使らを「裏切り者」と見なしたのである。

 五月四日、再び大鷲が現れ伝単を散布した。

 ノアトゥンが壊滅したこと、ティリオン市民は退避すること―――

 そして、五月五日早朝。

 まだ夜も明けきらぬころ、ずんとした地響きに目を覚ました者たちがいた。

 市中央部から東部の市民たちである。

 ベレリアンド半島に地震はない。

 彼女たちは眠たげな眼をこすり、何事かと窓辺に立ち、驚き、息を飲んだ。

 ―――なんだ、あれは。

 東部郊外の方角が明るかった。

 日の出かと思ったが、そうではない。

 郊外地区が燃えていた。

 断続的に轟音と振動とが続き、その度に地表に巨大な光源が増え、ついには市中心部近くでも頭上から急行列車が通過したかのような凄まじい音響に襲われる者が出た。

「こちら一二区署、オルクセン軍の砲撃が―――」

 懸命に事態を報せようとした警察署があったが、当直者の魔術通信は途切れ、遂に最後まで発せられることはなかった。

 ―――この日。

 オルクセン軍の手により、ヴィハネスコウ大鉄橋近くに計六基据え付けが終わった二八センチ攻城砲から電光弾砲撃が始まり、市東部から中心部までを目標に終日実施された。

 ティリオン市はぎりぎりのところでその全てが射程に入っていたが、大鷲たちの弾着観測が本格化するまで西部域が目標から外されたのは、黄金樹の破壊を避けるためである。その点は厳命されていた。

「まったく。妙なものを作りよって!」

 不満気な顔を見せていたのは、第二九師団長ウィルヘルム・タンツ中将であった。

 眼前で砲撃を繰り返す巨砲の群れ―――正確に言えば陸続と運び込まれる、その砲弾を見つめている。

 本国から届いた、本来なら海軍用のものだ。

 いったい誰だ。二八センチ攻城砲は海軍の主砲を転用したものだから、海軍の砲弾もそのまま撃てるはずだなどと言いだした者は。

 これさえ、これさえなければ。

 我が師団が、首都一番乗りへ最も近い位置に居たはずだったものを。

 こうなっては仕方がない。

 別の名誉を求めるしかない。

「ザンダウアー!」

「はい、閣下」

 タンツは師団参謀長を呼んだ。

「目標全てを必ずを焼き払え。徹底的にだ。多少の誤射は構わん。白銀樹? そちらは保護を指定されておらんよ」



「・・・・・・・」

 首都ティリオンまでもが砲撃に遭っているという事実は、やはりオルクセン軍の手によってディアネン市に喧伝された。

 五月六日、軍幹部たちから詳しい戦況を包み隠さず知らされた女王エレンミア・アグラレスは、顔面蒼白であった。

 女王エレンミアは、白エルフ族としてはまだ若い。

 昨今では詳しい戦況も知らされず、ただ国政機構の一部となって決定事項に事後承諾を与えるだけの存在となっていた。

 そのような女王が、ようやくに祖国の現状を包み隠さず知らされたのである。

 この謁見の手配をしたのは、侍従武官長トゥイリン・ファラサール大将だ。

 彼女は、従来エルフィンドで取られてきた政治形態―――臣下が謁見を願い出てこれを実現させるという形式ではなく、女王自身が臣下からの意見聴取を請うという形をとることを思いつき、この非常措置をとって陸軍大臣ウィンディミア大将、ネニング方面軍司令官クーランディア元帥を招請した。

 もはや戦局はどうにもならないこと。

 ノアトゥン市が灰燼に帰したこと。

 キャメロットによる外交仲介案は潰えたこと。

 そして新たにティリオンが砲撃に遭っていることを知り、全身を震わせていた。

 とくにクーランディア元帥はこれら事実を赤裸々に奏上した。

 国民は戦争に疲れ切り、軍にはこれ以上戦う力はなく、また可能であったとしても戦争を支える国力は最早無い。何よりもこれ以上犠牲を出せば、種族としての根幹が崩壊しかねない。各地から動員された将校、将軍の多くは氏族長たちであり、これを数多く失って戦後の行政すら上手く機能するか分からないところまで来ている。そして、戦争を継続すれば、白エルフ族に待っているのは餓死である―――

 かつて教育係を務めたクーランディアは、奏上に聞き入る女王の様子に心を痛めた。このうら若き女王をディアネンにまで駆り立てたのは己自身である。

 死んでも詫びきれることではない。

 だが、もはや事態打開の方策は、政府にはない。やれるのは女王陛下だけだ。

 詫びは、戦争終結の道筋をつけてからやる・・・

「・・・このような手段まで使われるようになっては―――」

 やがて女王は口を開いた。

「両将軍の申す通り、これ以上の戦争継続は不可能であるように思う。かかる事態に気づけぬままいた私は・・・ 私自身は、どうなっても構わない。オルクセンが我が命を欲するというのであれば、差し出す。私自身が交渉の場に赴けばよいというのならば、そのようにする。だから・・・どうか戦争を終結するよう尽力してもらいたい」

 女王自身はどのように身を処すことになっても構わないという言葉に、クーランディアは落涙した。殆ど号泣の態になった。

「つきましては、陛下。戦争の終結にあたって、非常の措置が必要かと愚考しております―――」

 ウィンディミア大将が続けて奏上した内容は、女王を少し迷わせた。

 本当にそのような措置が必要なのか、あの者は長年我が国に仕えた者であるが、と下問した。

 だが重ねて説得され、ついにはその内容に勅許を与えた。

 退出した両将軍は、ただちに部下を呼び、この日までに手配していた手段の即時実行を命じた。

 このとき―――

 エルフィンド首相ドウラグエル・ダリンウェンは私室で遅い昼食中だった。

 何か、強烈な義憤や義務感のようなものが彼女を突き動かしている。

 連日続く閣議に精力的に参加し、食事も良く摂った。

 雑穀入りのライ麦パン、塩漬けの鯨肉、貯蔵野菜のカブだけが入ったスープといった粗末な料理を文句も言わず平らげ、更には精力を求めて茹で卵を三つも食べた。

「・・・閣下、閣下!」

「なにごとか」

 その私室に、執事を突き飛ばすようにして、白上衣に胸甲を着けた約二〇名の騎兵たちがサーベルを下げ、拳銃を抜き、押し入ったのは、五月六日午後一時三四分のことである。 

 マルローリエン旅団の残存兵力で、解囲作戦の失敗後は女王警護の任についていた者たちだった。

 長年に渡って権力闘争に競り勝ってきたダリンウェン首相は、彼女たちを一目見るなり、事態の全てを察した。

「・・・殺害か。軟禁か。どちらを命じられてきた?」

「後者です、首相閣下。何卒、お従い下さい」

「・・・愚かなことを」

 ダリンウェンには、心底から愚かなことに思えた。

 軍幹部らあたりの首謀であろうが、この後に及んで叛乱蹶起とは。

 例えオルクセンの無条件要求を受け入れたとしても、このような真似が戦後どのように見られると思っているのか。

 ―――白エルフは、窮すれば平気で身内を裏切る種族。

 その補強材料に利用されるに過ぎんではないか。

 あるいは、オルクセン王はこのような結末さえ見越してあの条文を突きつけたのかも知れんが。

 ダリンウェンは立ち上がり、唇の端を歪めた。

 そうして痛烈な皮肉を放った。

「・・・将軍どもの作戦が、この戦争で初めて成功したな」


 

 この日、同時刻。

 オルクセン国王グスタフ・ファルケンハインは、イーダフェルト市庁舎の執務室にいた。

 本国の外務省から届けられた報告書に目を通しているところだった。

 以前から在キャメロット駐箚公使エッカルトシュタインを通じて工作してきた、在キャメロット駐箚エルフィンド公使の亡命が上手く行ったという内容である。

 エルフィンド公使が望む、面目を施せるだけの生活費はオルクセンが負担してやる、ただしオルクセンへ亡命するのではなく、キャメロットへ。そのような条件だ。

 ファーレンス商会の現地法人を通じて、既に手配は終えていた。

 むろん、キャメロットの外務省とも話はつけてある。

 ―――さて、どうなるか。

 チェックメイトだ。

「王、我が王―――」

「おう、ダンヴィッツ。次は農林省技官たちの報告だったな?」

「はい。既占領地の土壌状況について第一次調査が終わった、と」



(続)

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