第39話 戦争のおわらせかた⑦ ネニング平原会戦②

 ―――四月九日、夜半。

 オルクセン軍総軍司令部は、混乱の渦中にあった。

 あれほど自信を持って敵ネニング方面軍の攻勢を迎え撃ったはずの南翼前線が崩壊し、自陣深く入り込まれたとあっては、その狼狽ぶりは凄まじかった。

 作戦部は一体何が起こっているのかと喚き、通信部は魔術通信及び野戦電信の多くが機能しなくなって右往左往し、情報部は前線状況の把握に努めようと躍起になった。

「落ち着け! 落ち着かんか、貴様ら!」

 大喝一声したのは、総軍総参謀長カール・ヘルムート・ゼーベック上級大将である。

 哲学者的な口数の少なさを常とするこの牡にしては、極めて珍しい真似だった。

 だがこれで、ようやく総司令部の空気は沈静化した。

 第一軍団が南端狭隘部に押し込まれ、第五軍団が大きく後退してしまったのだと判ったのは、日没後になってからのことである。

 なにしろ前線師団における魔術通信及び探知の殆どが使用不能となり、また敵軍は細分化して浸透し、後方の野戦電信まで破壊されたため、実情の把握が極めて困難だった。

 昔ながらの目視に、斥候、大鷲軍団による空中偵察という情報を合わせ、どうにか推測と推量を重ねるしかない。

 最も危急の事態に陥っているのは、両軍団の連繋部分であるように思えた。

「なんてことだ・・・」

 参謀たちは兵棋を並べた大地図を眺め、呻いた。顔面蒼白となった者までいた。

 第五軍団第五師団が大きく退却してしまったため、ぼっかりとした無防備地帯が穿たれていた。連繋すら出来ていない状態になっている。

 両隣の、第一軍団第一師団及び第五軍団第二〇師団が辛うじて踏みとどまっており、このため全面崩壊は防げているが、エルフィンド軍は前線に穿った孔から更に侵攻を続けているようであった。

 ―――どうすればいいのか。

 とは、流石に誰も思わなかった。

 オルクセン軍はそこまで愚かではない。

 敵の目的も朧気ながら理解できた。

 ―――ネブラスであろう。

 ネブラスには、総軍司令部のみならず、元々同地にあったエルフィンド国内にしては施設の整った機関区を利用して、第一軍の兵站拠点が設けられている。

 ネニング平原に展開する第一軍の、ほぼ全てを支える存在だ。

 食糧、弾薬、燃料用石炭のための補給倉庫。

 被服、装具、資材のための資材倉庫。

 兵器、車両のための野戦整備廠。

 軍用列車のための鉄道整備廠。

 予備軍用馬のための軍馬廠。

 一部はエヴェンマール港やタスレン港からも陸揚げされてはいるが、そちらは民需用が主体で、第一軍用のほぼ全てがここにあった。

 軍から軍団、軍団から師団、各師団から連隊という補給体制の根幹にあたる。この戦争では、エルフィンドの貧弱な社会基盤のために、軍団の補給所は作られず、直接的に師団の交付所へ運ばれることが多かったから、その重要さは今更告げるまでもない。

 ネブラスが襲われ、よしんば陥落するようなことがあれば、ネニング平原に展開する第一軍は土崩瓦解してしまう。

 戦争に負けるとまでは言わないが、立て直すためにはどれだけの期間が必要になるか、見当もつかない。

 おそらくその期間中に、講和なり休戦なりを狙っているのだろう。

 国力の差から言ってエルフィンドは最早オルクセンに勝つことなど出来ないし、既占領地を奪還することすら怪しい。

 一時的に有利な状況を作り出して、この戦争を終わらせようとしているのだとすれば、それは極めて現実的な選択であろう。

 ならば―――

 戦線をどうにか支えている各軍団を叱咤激励しつつ、総軍が握る総予備兵力をこの巨大な破孔へと投入するしかない、という方針になった。

 問題は、その規模である。

「後備一個を除いて、残る全力を注ぎこもう」

 グレーベン少将は決断を下した。ネブラス中央駅舎の、作戦部にあてがわれた一室の、彼の近くにある灰皿は葉巻で一杯だった。

 その黒い瞳をはじめ、顔貌には疲れの色があった。

 この牡の偉いところは、エルフィンド軍攻勢による前線後退の衝撃からいち早く立ち直り、その天才的な頭脳をフル回転させたことにある。

「全力ですか?」

「ああ。ネブラスの第一八師団、後備第一〇野砲旅団、エヴェンマールの後備第五擲弾兵旅団。この三つを注ぎ込む」

「し、しかし・・・」

 作戦部の参謀たちは、動揺した。

 それでは予備兵力のほぼ全てを、使い尽くしてしまうではないか。

「乗るか反るか。敵も味方も大博打の一戦だ。戦は気合だぞ。負けると思ったほうが負ける。思い切った策がいるのだ。それに―――」

 グレーベンは少し考え込み、告げた。

「これだけをやるわけではない」



 前線では、必死の抵抗が続けられていた。

 エルフィンド軍、とくにアルトカレ軍は夜間に入っても前進を止めなかったからだ。

 エルフ系種族は、夜目が効く。

 生物学的な夜間視力の高さだけではなく、魔術力を上乗せした場合、オーク族のそれを上回ってしまう。

 種族として対抗できるのは、一部のコボルト族か、ダークエルフ族くらいのものである。

 オルクセン軍の第一軍団及び第五軍団、第六軍団の各担当戦区では、断続的に照明弾が打ち上げられた。

 野砲や重砲による、擾乱射撃も行われた。

 味方の後退援護及び、自陣の維持のためである。

 夜間に入ると、オルクセン軍を更に悩ませる事態が生じた。

 薄い、靄のような霧が各所で出て、有視界が低下したのだ。秋口や春先など、昼夜に寒暖差が起こる季節のエルフィンドにおいて顕著な天候条件だ。

 そのような悪条件のなか―――

 この夜行われたオルクセン軍の防禦戦闘の数々は、筆舌に尽くしがたい。

 規模の点でも広範であったし、その内容もまた決死であり、苦闘であり、凄惨であった。

 第一軍団第一七山岳猟兵師団は、ネニング平原オルクセン軍戦線南端の地峡部に押し込まれた。

 これは彼らが、のちにクーランディア攻勢と呼ばれることになるエルフィンド軍攻勢の最初期に浸透戦術を浴び、第一師団との連繋を断たれてしまい、側背に回り込まれ、師団の補給縦列や砲兵まで襲われてしまった結果に依る。

 しかしながら、この後退が幸いした。南側側面の山麗地側に回り込まれる心配はなくなり、彼らは正面と北側を考えれば良くなった。

 損害の小さかった第三四山岳猟兵旅団の二個連隊を主軸にして防禦線を作り、師団が握っていた予備隊を側面に置いて、必死の抵抗をやっている。

 この内側で攻勢初期に損害を受けた猟兵連隊を集合、再編成して、次々に前線や側面防御部へと送り出した。

 むろん、躊躇った兵士も大勢いた。

 オルクセン軍はエリクシエル剤で傷者の多くを癒し、戦線に復帰させることが出来たが、彼らが心に負った恐怖心や敗北感までは癒すことは出来ない。

 この戦争が終わったあと、多くの兵士が、

「赤い目が来る」

 と、譫言のように当時の戦場を振り返ったものだった。

 これは魔術力まで用いて夜目を効かせたエルフ系種族の瞳に現れる、燐光のように赤く淡い輝きのことで、その赤い瞳がちらちらと戦場に現れると、ほぼ必ず攻撃を浴びたからである。深刻な恐怖の記憶としてオルクセン軍兵士に刻み込まれた。「赤い瞳」や「紅い眼鏡」と彼らは呼んだ。

 第一七師団長ヴァイス中将は、

「昼夜に及ぶ激闘、本当にご苦労である。だがここで我らが再び後退するようなことがあれば、どうなるか。第一師団は両側面から攻撃され、一大危急に陥るであろう。我々にはもう退がる場所はない。あれを見よ。第一師団も盛んに撃っている。どうして戦友たちを裏切れようか。いまから私が諸君らの先頭に立つ。もし私が退がるようなことがあれば、我が背中を撃つのだ」

 悲壮かつ苛烈な訓示をした。

 兵たちは奮起し、そうして本当に先頭に立った彼に従って、防戦に努めた。

 ヴァイス中将は有能な将軍だった。兵たちを奮い立たせるのみならず、南側山麗の一角に観測所を置いて、携行発光信号器やコボルト魔術通信兵を配し、更なる敵の奇襲も防いでいる。

 その隣、第一師団では―――

 この首都ヴィルトシュヴァインを衛戍地とする部隊は比較的組織立った後退をやり、リヴィル湖及びエヴェンマール方面からネニング平原東部の南北を縦断じて存在した丘陵地帯の、最南端に陣取った。

 遠く、リナイウェン湖から流れネニング平原を貫くようにしている河川が、同地では一種の段丘地形を成しており、川、鉄道、街道が集中した隘路となっている。

 この隘路のもっとも狭い部分を背にして、防戦に努めた。

 浸透戦術により戦線を突破したエルフィンド軍だが、このような地形では主力は集まらざるを得ない。そしてその兵力は小出しに成らざるを得なかった。

 東進しようとするアルトカレ軍の主力を、第一師団は食い止め続けた。

「こんなところで、昨年のあの師団対抗演習の経験が役に立つとはな」

 小さな農村の、囲壁を周囲に持つ大農家に師団司令部を置いた第一師団長マントイフェル中将としては、皮肉な心持ちとなり、唇の端を歪め、徴発の粗末なカップでコーヒーを啜った。

 あのときは演習対抗部隊の第七師団に防禦陣地を蹂躙されて、慌てふためいたものだが。

 その経験もあってか、彼の参謀たちは混乱も狼狽もせず、冷静に事態への対処ができている。

 第一師団は隘路利用のお手本のような防禦陣の再構成に成功して、どうにか防支を続けていた。

 その北、約六キロ。

 大敗した第五師団の残存部隊は、丘陵部の東端で辛うじて再編成を行おうとしていた。

 連隊長以下幹部の戦死した第二〇連隊は、どうにもならない状態だった。

 隊の死傷者は、戦闘による直接の損害よりも、まともな退却を出来なかったことに依り生じた。緒戦で繃帯ほうたい所や野戦病院まで吹き飛ばされた彼らは、傷者に対する満足な治療が出来なかった。撤退の渦中にあっては、隊付衛生兵による治癒も難しい。それら負傷者の多くの者が落伍し、俘虜になってしまったのだと推測された。

 散り散りとなって、いったい何処にいったのか分からない中隊や小隊もいて、彼らは行く宛もなく彷徨うように必死の退却を続けていた。小規模村落に集まって、俄な陣地を作った隊もいる。

 無残な姿であったが、このような状況下にあっても中隊単位に纏まっていたという事実は、オルクセン軍の練度の高さを意味する。

 オルクセン軍の制度では、中隊には中隊長以下三名から四名ほどの将校しかいない。これは他国から見るとたいへん少ない。ではその下にある小隊の多くは誰がまとめているのかといえば、曹クラスが小隊長になっている。他国の観戦武官などは「いったいどうやって指揮を執っているのかわからない」と呻いたほどの具合だ。

 オルクセンの下士官は、それほど練度が高い。

 兵卒にしても同様である。

 グスタフ王の改革により、彼らの教育水準や識字率はたいへん高かった。更にこれへ、軍隊における訓令戦術に基づいた教育が施されている。

 このベレリアンド戦役中、捕虜になったオーク族の一兵卒がエルフィンド軍の尋問を受けた際、他国なら士官でなければ供述できないような、立派な戦術論を滔々と語って驚かせたというような出来事があった。しかもそれは自己の任務や軍の配置具合といった捕虜尋問を韜晦するためにやったという念の入りようで、のちのちまで語り草になったものだった。

 この極めて高い下士卒の練度が、オルクセン軍の崩壊をぎりぎりのところで防いでいる。

 しかし―――

 戦線に空いた破孔は、彼ら前線の兵士には如何ともしがたい。

 局所的な地名でいえば、第一師団のいるグリトニルと、第五師団残存部隊が辛うじて立っているフェーデのあいだ。約六キロということになる。

 これを塞ぐ存在が必要だった。



 その存在―――総軍予備兵力の主力、第一八擲弾兵師団は、ネブラス北方の舎営地より一〇日午前二時になって出発した。

 本来の隷下部隊以外に、後備第五擲弾兵旅団と後備第一〇野砲旅団が加えられて、総勢二万名を超える、強力な一個の支隊となっている。

 ただし後備第五旅団は離れたエヴェンマールにいて、そちらから合流することなっていた。

 このとき総軍司令部は未だ手元に後備第一三旅団を握っていて、こちらはネブラスにいる。つまり近い位置にいる第一三旅団ではなく、遠く離れた第五旅団をわざわざ呼び寄せて第一八師団と一緒にしようというのだから、この判断は後世、一部歴史家などから批判されている。

 ただし、その判断の是非は難しいところだ。

 この時点では、敵の狙いはネブラスだろうという推察はできていたが、どこまで浸透されているかは未だ明確ではなかった。手元に纏まった総予備兵力、それも最後の一隊を残置しておきたかったという総軍司令部の判断も、あながち間違いであるとは言えない。

 また、仮に後備第一三旅団を同時に投入していたとしても、ネブラスからの行軍路は第一八師団と重なってしまい、むしろ迅速に現場へと到着できたかどうか怪しい。

 出発に際し、総軍司令部で問題となったのは、この部隊を第一軍団の配下とするか、第五軍団に加えるのか、という点だった。

 ―――第一軍団も第五軍団も防戦に必死で、新規部隊を隷下に加える余裕はあるまい。

 そのように総軍司令部は見た。

 また、増援部隊を投じれば、とくに第五軍団側はこれを喜々として五月雨式に使いかねない。「破孔」を塞ぐためには、総軍司令部が直接的にこれを采配しようと決まった。

 むろん現地指揮は師団長以下、師団の幹部たちに任せるが、総軍司令部からも連絡役に作戦部の参謀を送り込む。

 以上のような経緯を経て出発した第一八師団であるが―――

 師団規模ともなると、一度に全ての部隊がさっと動けるわけではない。

 軍用列車を使って、まずは迅速に一個連隊を進出させることとし、師団隷下の第二三旅団長がこの指揮を執ることになった。旅団の残部隊は、徒歩行軍で続行する―――

 第一八師団先遣隊が送られたのは、丘陵地帯の南方東端に近い場所だ。

 ネブラスからの街道とエヴェンマールからの街道が合流する交差点であり、鉄道からも遠くないという交通の要衝で、現地地名ではギムレーといった。

 旅団長メルツァー少将は、先遣の一個連隊とともにこのギムレーに到着すると、ちょっと周囲が驚くような配兵をやっている。

 ギムレーには、うんと高い丘陵があった。丘というより、山に近い。急勾配であり、険峻だった。樹はなく、丸パンを伏せたような形状をしている。

 この丘の上に、後続の旅団本隊を含め登ってしまおうというのだ。

 それはまだいい。

 高所を制することは、戦術上有効なことである。

 メルツァー少将の発想の奇抜だったところは、旅団隷下諸部隊の所有する重い火砲も全てこの山に上げてしまおうと言い出したことだ。

 参謀たちは、仰天した。

 これが平時の演習なら、実行不可能な愚案だとして零点を貰いかねないような策である。

「・・・奇策ですな」

「ああ、奇策だ。だが敵の奔流を食い止めるには、その奇策がいる。ここへ上がってしまえば―――」

 少将は、部下が掲げるランプの淡い燈明のもと、軍用地図を太い指で示した。

「後方の交差点、南の鉄道線、そしてむろん前面から左右。全て管制できる」

 確かにその通りだった。

 メルツァーは、敵の目的がネブラスだというなら、エルフィンド軍はこのギムレー高地の前面を通って、南側―――第一師団の翼端をすり抜け、鉄道と街道に沿って向かうだろうと推測した。

 浸透戦術は確かに恐ろしい。

 だがエルフィンド軍が前進を続けるには、いつまでも小規模部隊に分かれてはいられない。まとまり、行軍隊形をとって前進するに違いない。

 その集結地付近となるであろう前面を管制できるし、進路は南側になるからこれを終始俯瞰射撃出来る。

 また仮に―――

 北側に向かって、第五師団側との間隔から彼らの担当戦区を突破しようとしても、やはり俯瞰し、長距離砲で射撃できる。

「・・・なるほど。すると丘陵の西側に、まずは弧を描くような陣地を作ることになりますな」

 だが、言うは易しだ。

 本当にそんなことが可能なのだろうか。

「それをやらせるのだ。私も先頭に立つ。かかれ!」

 想像を絶する陣地構築が始まった。

 双子の頂点を持つ高さ三〇〇メートルの丘陵部に、オークの兵士たちは必死に登った。その登攀すら困難に思えるほどの傾斜だった。稜線に沿えばなだらかとなるが、そちらは距離が延びる。

 しかも彼らが防禦陣地を築いたのは、この丘の西側斜面である。つまり頂上へと登るだけでなく、反対斜面へと躍り出て、その中ほどから麓にかけて壕を掘った。

 山砲や野山砲は、信じられないことに、寄って集って担ぐか、索を使って曳き、また後ろから押して頂上へ上げた。こちらはこちらで壕を掘り、反動を吸収できるような形状にして、周囲を管制する砲陣地を作った。

 メルツァー少将の観点の正しさは、陣地を構築している最中にはもう、はっきりとしてきた。

 陣地正面にあたる西方に、エルフィンド軍集結の兆候が見られたのだ。

 南隣では第一師団が、北隣では第五師団が砲火を煌めかせている光景が観測でき、つまりは両者への支援が可能である。メルツァー少将の意図は、当たった。

 彼は、高所に上げた砲で擾乱射撃の実施を命じた。

 エルフィンド軍側は、仰天した。

 あのような場所に陣取られてしまっては、浸透進撃は困難となる。

 第一師団及び第五師団の側面へと回り込もうとしていたエルフィンド軍は、このギムレーの陣地を攻撃せざるを得なくなった。放置して迂回すれば、背後を突かれてしまう。ギムレーはそれほどの緊要地形―――戦闘の局勢に重大な影響を及ぼしかねない場所だったのだ。

 第二三旅団の戦闘は苦しかった。

 本当に持久できるのかと思わせるほどの、猛攻を浴びた。

 午前五時ごろになって、ネブラスからの後続隊が到着し始めた。これを順に丘に上げて、配置につけて、陣地を増強し、拡大し、二重にし、翼を広げる。そんな行動をやっているうちに、夜が明けた。

 最終的には一〇日昼までに旅団四〇〇〇余名の兵と、六門の野山砲、一二門の山砲、四門のグラックストン機関砲がギムレーの丘に上がったが、三々五々到着する彼らを整理整頓して配置につかせるだけでも、これは幹部将校にとってたいへんな作業だった。

 おまけにギムレーの丘に水場はなかったから、麓の村から兵を使って運ばなければならなかった。

 第一八師団にとってはあまりにも急な赴援行動であり、先遣旅団は本格的な給養隊も医療隊も伴って来ていない。

 交代で水筒から水を飲み、携行糧食の乾パンと牛肉缶詰を摂るだけであった。

 オルクセン軍は、現地調達の水は極力、煮沸消毒するよう定めている。ところがそんな真似をやっている余裕は、もう誰にも無かった。井戸から汲みだす清水の美味さに、誰しもが感嘆した。

 メルツァー少将の旅団がもっとも少なかったころ、正面の敵は五倍を超えていたと分かるのは、戦後になってからのことである。

 第一師団方面側へと翼を広げることになる師団主力の到着は、午後遅くになった。

 彼らはそれほどの難戦を行った。

 難戦と言葉で記すことは容易い。このギムレー高地の戦闘が終結したとき、第二三旅団は所属兵士の一割以上を喪っていた―――



 傍目には快進撃を続けているように見えた、エルフィンド軍側も苦しんでいた。

 浸透戦術による攻撃で、オルクセン軍第一軍団及び第五軍団の防禦陣地を食い破り、とくに第五軍団第五師団相手には補給物品交付所を奪うほどの猛攻をし、優位に立っていたが、持久や後退したオルクセン軍はどの部隊も舌を巻くほど優秀だった。

 丘、森林、交差点、隘路、河川や渓谷の利用―――

 後退先でも緊要地形に陣取り、エルフィンド軍の前進を随所で阻んだ。

 また浸透を重ね、迂回する戦術を採ることの出来る場所もあったが、旅団規模以上で固まっている場合は、放置して前進すれば後方との連絡を絶たれるような地点、あるいはそこを突破しなければ前進の継続すら困難であるような地形や要所ばかりである。

 例えば。

 そのような全ての陣地を浸透によって迂回すれば、尖兵や前衛は前進できるだろう。だがそんな真似を重ね過ぎれば、オルクセン軍は要地ばかりに布陣しているから、砲や輜重隊が追従できなくなる。

「なんて連中だ!」

 本当に種族としては魔術力のないオーク兵が主体になっているのかと、疑いたくなったほどだ。

 理由はすぐに分かった。

 捕虜や死体となった将校から鹵獲した軍用地図を眺めて、彼女たちは茫然とした。

 ことオルクセン側占領済の場所に関していえば、略図も詳図も驚くほど精確で詳細だったのだ。

 オルクセン軍は、使用している軍用地図に誤りがあれば、必ず訂正をやる。軍の上部がこれを通知共有して各将校が書き込んでいく上に、定期的に差し替えまで実施していた。

 エルフィンド軍の印刷具合が粗末な軍用地図より、鹵獲したオルクセン軍のそれを使ったほうが楽になるのではないかと思えたほどである。

 この精緻な軍用地図の存在がオルクセンの軍後方においては兵站活動を支えているし、戦闘の助けとなっている。

 指揮通信や連繋が途絶えて戦場に取り残された隊の抵抗も、頑強だった。

 大隊や中隊といった隊が小規模村落などに固まって、エルフィンド軍の後続隊を悩ませた。降伏勧告をして、拒絶をされれば、包囲して殲滅するしかないが、一夜明けてもまだ抵抗している連中がいた。

 このような戦闘の数々でエルフィンド軍を慄かせたのは、戦死傷者の多さだった。

 とくに、オルクセン側が本格的な抵抗陣地を築いた場合が酷かった。

 エルフィンド軍もまたエリクシエル剤で戦傷者の治癒治療を行うことが出来たから、発生数はともかく、本当に死にまで至る者は最小限に出来ていたが。

 この戦争が始まって以来の、これまでの戦例にも増して損害が増大化しているように思われた。

 地形利用、塹壕、障碍物、長射程小銃、火砲、そして曲りなりにも連発速射性を持っていたグラックストン機関砲。

 近代戦においては既に存在していたこれらそれぞれも脅威ではあったが、そのような存在の何もかも組み合わさってしまったことが、近代戦史上におけるあまりにも重大な変化、その端緒を招いていた。

 ―――近代戦における、致死及び到傷性の増大。

 この陰鬱で凄惨な犠牲は、決して塹壕だけが作り出したものではない。

 アルトリア戦で予兆はあったし、これを避ける意味でも採用された浸透戦術だが、まさか、それでも尚これほどの死傷者が出るとはと、エルフィンド軍幹部の心胆を寒からしめた。

 攻勢開始翌日の一〇日になると、オルクセン軍は更に信じられないような戦法を投入して対抗してきた。

「大鷲だ!」

 いつもの空中偵察とは、のっけから様子が違っていた。

 攻勢開始時、第五師団の師団補給段列地だった場所―――いまやエルフィンド軍の鹵獲補給地となった平野部に向けて大鷲が飛来し、二羽が旋回をはじめたと思うと、鋭い鳴き声を上げ八羽の大鷲が急速に突っ込んできて、首根っこに座るコボルト兵が、ぱらぱらと何かを落としはじめた。

 それは地上に着地すると―――

 次々に爆発した。

 轟音、閃光、弾片。

 吹き飛ぶ兵、悲鳴を上げる兵、逃げ惑う兵。

 炎上する飼葉。

 四散する糧食木箱。

 砕け散る医療品。

 襲撃は立て続けに二度あり、二度目には弾薬車群の装薬嚢が誘爆した。

 物資を満載した鹵獲の輜重馬車群の、車軸が折れ、車輪が吹き飛び、荷台が炎上し、擱座する。

 ―――史上初の、本格的な対地爆撃。

 地上のエルフィンド軍の誰しもが、茫然とした。

 実のところ、大鷲軍団による航空攻撃そのもの自体は、それほどの効果を発揮していない。合計で一六発という弾数が弾数であったし、密集した物資及び馬車群相手でも風に流され命中しなかった爆弾もあれば、不発も生じた。

 しかし、その心理的衝撃は凄まじかった。

 空が。空から攻撃をしかけてくるなど、エルフィンド兵には信じられなかった。

 おまけに大鷲軍団が成したのは、いってみれば狼煙のような役目だった。

 オルクセン軍第二一師団の後方で、第五軍団の重砲旅団が発砲を始め、着弾が集中した。

 第五師団からの鹵獲物資を、本当に破壊してしまったのは彼らだ。

 エルフィンド軍は魔術通信妨害を再開したが、あとの祭りだった。

 彼女たちの前進を助けるはずだった貴重な鹵獲物資の数々は、その大半が吹き飛ばされた。

 オルクセン軍は、奪われた物資を敵に活用させるほど、甘くはなかったのだ。

 その光景を眺めるように旋回を続けていた大鷲の一羽は、高らかな笑い声を上げた。

「ふふ、ふふふ。ふはははははは! 痛快ですな! さあ、引き上げましょうか、メルヘンナー!」



 エルフィンド軍には救いもあった。

 本質的にはオルクセン軍は「侵略者」であり、その既占領地にエルフィンド軍が攻勢をしかけた以上、どこの街、どの村落でも、たいへんな歓迎を受けたということだ。

 住民たちは、これで解放されたと歓喜し、涙を流し、諸手を挙げてエルフィンド軍を迎え入れた。進んで舎営場所を提供したし、屋根裏や、地下室などから、オルクセン軍相手に隠し持っていた食糧や酒を自発的に振舞う。

 そのような地で小休止や大休止、宿営をやることは、彼女たちの心身を確実に癒した。

 住民たちを不思議がらせたのは、兵隊たちがすぐに軍用長靴を脱ぎたがることだった。

 更には靴下も脱ぎ去り、暖炉などで乾かそうとする。

 盥に水を所望する兵も多かった。

 不思議に思いつつも快く応じてやる住民らは、兵士たちの足裏を見て仰天した。

 本来ならばエルフ族特有の白く美しかったはずの足は、青白く腫れ、皺だらけになり、湿って、明らかに何らかの病に陥っているようであった。

 ―――塹壕足。

 長い冬営期間中に、エルフィンド軍に蔓延した症状だった。

 エルフィンド軍の塹壕は、オルクセン軍のものほど造りが丁寧ではなかった。この攻勢の緒戦、オルクセン陣地を奪取したエルフィンド軍将兵たちは、排水溝まで用意された構造に驚いたほどだ。

「出入りのための梯子まであるとは・・・」

 などと、ただそれだけに瞠目したほど、エルフィンドの壕は全体的に粗末であった。

 当然ながら、降雨や雪解けがあれば底に水が溜まる。

 それも冬季の、凍えるほど冷え切った排水で。

 しかもエルフィンド軍の軍用長靴もまた粗雑で、とくに戦時に入ってから作られたものはすぐに穴が開いた。

 軍からの、靴下の支給がまるで足りないことも災いした。

 おまけにエルフィンド軍は、この攻勢開始までエリクシエル剤をはじめ医薬品を重傷者用と定めて備蓄に努めたから、軽度の塹壕足などにはおいそれと治療薬を使わせてもらえなかった。

 極力、脱げるときには長靴も靴下も脱ぎ、よく足を洗い、予防や悪化防止のために鯨油を塗れというような指示が出されていたのみである。

 長期の対峙戦は将兵の心身ともに倦ませ、攻勢開始時にはむしろ状況の変化に安堵した兵がいたほどだが、そんな感情は刹那のもので、行軍に継ぐ行軍、戦闘に継ぐ戦闘がまた彼女たちの症状を悪化させた。多くのエルフィンド軍諸部隊は急進撃を行ったから、猶更のことである。

 休止や舎営が済み、行軍を再開するとき、彼女たちはちょっと足を引きずり、踵を引きながら、最初の二歩三歩を踏み出した。それは間もなく訓練された兵隊の歩調になり、前途がどれほどあるのかも知れぬ進撃を続ける―――

 浸透戦術を成功させるには、重大な要素が存在する。

 どれほど迅速に進軍を続け、またどれほど継続的に後続隊を送り込めるか、だ。

 これら要素を成功させなければ、攻勢はやがて先細りとなり、撃退される。

 エルフィンド軍はこれをリヴィル湖畔の戦いで学び、初期戦果を拡大するための後続隊を用意していた。

 なかでも、強力な一隊がいた。

 ―――黄金樹マルローリエン旅団を中心とした、イヴァメネル中将の騎兵支隊である。

 オルクセンの粘り強い陣地抵抗に多くの進撃路を阻まれ、迂回も困難となりかけたエルフィンド軍は、この精鋭の投入を決めた。

 まず彼女たちは、敵の第一七師団―第一師団―第一八師団というラインは抵抗が強固に過ぎ、更なる進撃は不可能であると判断した。

 アルトカレ軍北翼と、ネニング軍南翼の兵力を結集して、まずは敵中にあって最も弱っている第五師団を包囲攻撃。

 これを後退させて、ギムレーとフェーデの間に再び浸透戦術による破孔を穿ち、イヴァメネル支隊を突っ込ませる―――

 オルクセン軍はどうやら予備兵力まで投入しているらしい。ならばもはや彼女たちの行く手を阻む抵抗は、突破にさえ成功すれば紙のように薄く、寡少であると思われた。

 その兵力は、ファスリン峠の戦いで損害を受けていたものの、その後幾らか補充を受け、更には敵アンファウグリア旅団の諸兵科連合戦術に習って猟兵連隊三個を加え、総勢一万を超える。

 クーランディア攻勢の開始前、このエルフィンド最強の機動集団を率いるアノールリアン・イヴァメネル中将は、ディアネン市の総司令部で大地図を覗き込み、

「―――目標はネブラス。確かに承知致しました。敵の糧秣、弾薬。ことごとく焼き払ってみせましょう」

 と、このふだんは寡黙な将をして珍しく断言させ、エルフィンド女王エレンミアやネニング方面軍司令官クーランディア元帥を大いに喜ばせた。

 イヴァメネルは、白エルフ族にあっては稀有なことに、言葉を飾るということをしない将だった。

 騎兵一筋にやってきた将ということもあって、静かな自信と自負の裏付けを感じさせた。

 実際、イヴァメネル中将には自信があった。

 エルフィンド軍冬営陣地から数えても、ネブラスまでは直線距離で三五キロほどでしかない。戦地において敵軍の重なる三五キロとは気の遠くなるような距離である一方、騎兵の集団にとっては僅かな行軍距離でしかないこともまた事実である。敵陣地さえどうにかしてもらえるなら、ネブラスまでは十分に到達できると、確信があったのだ。

 敵軍ことごとく馬蹄で踏みつぶして御覧に入れる―――そのように周囲からは聞こえた。

 そうしてそのあと、イヴァメネル中将はエルフィンド軍幹部たちを驚かせる決断をしている。

「この作戦は、我が隊へのお声掛かりへ如何にして迅速に応えるかが肝要かと思います。私はコルトリア中将の指揮下に入り、アルトカレ軍の背後で控えておりましょう」

 アルトカレ軍司令官コルトリア中将は、同じ中将位でも、イヴァメネル中将よりずっと新参である。古くから軍にいて、ロザンリンド会戦世代であるイヴァメネル中将のほうがはるかに先達だ。

 軍隊には、年功序列の秩序というものがある。同一階級なら、先に任じられた者のほうが偉い。

 とくにエルフィンド軍においてはその傾向が強かった。

 これを自ら願い出て無視しよう、というのである。

 そうして実際、そのように己と己が隊を配置した。

「・・・北方系だからな、あのひとは」

 などと、政権幹部やこれに連なる軍幹部たちは陰口を叩いた。

 白エルフ族と一口にいっても、その内情は複雑である。

 神話伝承の時代に指導者に従って渡海した氏族と、そうではなくベレリアンド半島に残った氏族、あるいは途上で挫折した氏族などには、扱いに差があった。

 半島最北部に住まう氏族の多くはその神話伝承上における「残留組」で、イヴァメネル中将の出身は同地になる。ダークエルフ族ほどではないが、自らを主流とする白エルフ氏族たちから見れば、侮蔑の対象であった。

 ―――本来なら、黄金樹旅団を率いる身にすらない。

 政権幹部や軍主流を自負する氏族の者たちは、密かな誹謗と中傷を重ねた。

 このような様子を知り、エルフィンド女王は静かに心を痛めていた。

 そういった国内の悪しき空気や習慣、慣例を、過去何度か改めようとしたのだが、非力な我が身には如何ともしがたい。

 ただ一度だけ、己が意思でこれと見込んだダークエルフ族の者を側近に任じたところ、これを原因として凄惨な政治権力闘争が起こり、その者は殺害され、ついにはダークエルフ族の駆逐を招いてしまった。女王として、そのような真似は一欠片ですら望んではいなかったというのに。

 以来、クーランディア元帥のネニング方面軍司令官任命まで、政治的には黙し、政府の方針をただただ承認して来た。そのような在り様が、かつて種族を導いた偉大なる指導者の求めるところだとされて。

 その沈黙がまた、こんにちにおける祖国の危急を招いたのではないかと、心痛を重ねるばかりでいる。

 いまは、クーランディアやイヴァメネルを頼るばかりだ―――



 四月一〇日の午後になると、オルクセン軍総司令部ではひとつの草案が持ち上がっていた。

 敵の狙いがネブラスだと明瞭に判り、また戦線で一進一退の攻防が続き、敵攻勢の阻止が可能かどうか見通せない以上、グスタフ王を退避させてはどうか、という案である。

 総軍参謀総長カール・ヘルムート・ゼーベック上級大将及び、作戦部長エーリッヒ・グレーベン少将から避退策を提案されたグスタフは、そのとき、ネニング中央駅に設けられた国王執務室にいて、いつものように本を読んでいた。

 このころ、あの巨狼アドヴィンは彼のもとにいない。

 グスタフが、第三軍の後方で起こった破壊工作に総軍司令部と頭を悩ませていたとき、

「我らを御忘れとは、情けなや」

 そのように舌なめずりするように自ら希望して、敵鉄道破壊工作の掃討に乗り出し、ファルマリア、アーンバンド、シュトレッケン、リヒトゥーム、モーリア、アルトリアと軍の後方を僅か三日で移動して、アルトカレ平原に赴いている。

 グスタフは、ゼーベックらの退避案献策を受け、

「・・・それは、戦術上において必要な判断からのものか?」

 そのように下問した。

「単に私の身を案じてということなら、きっぱりと拒否させてもらう」

 国王が避退したとあっては、軍の士気は下がる。

 また諸外国及びその観戦武官、従軍記者から見た場合、ただその一事を以てオルクセン軍不利と一斉に報じるだろう。

 ネニングの街に住まう、白エルフ族も動揺し、よからぬことを考えないとも限らない。幸いにして、少なくとも現在そのような気配がないのは、オルクセン軍が冷静に事態に対処し、またネニングの港内に海軍の艦艇がどっしりと腰を据えているからだ。

 そこへ王が避難したとあっては、何が起こるか―――

 更に言えば。

 エルフィンド軍が、我が身までを狙うとは到底思えない。エルフィンドが休戦や講和を望んでいるとするならば、その交渉相手が当然必要となる。王を倒してしまえば、オルクセンは混乱はするだろうが、骨肉の争いとなってむしろ収拾がつかなくなるだろう―――

 グスタフは理路整然と、拒絶理由を語った。

 作戦部長グレーベンは、

 ―――そういえば、この方もまた紛れもなくロザリンド会戦世代なのだな。

 今更のように感銘を受けている。

 ロザリンド会戦では一兵士であられた。当時の衛生兵といえば、壮絶なものだっただろう。

 デュートネ戦争でも御親征されている。

 どうにかしてこの戦勢を引っ繰り返そうと策を練っている我らにとって、有難い限りだ。我がオルクセンにとっての幸運は、このような王を得たことであろう。

「では・・・」

「うん。ああ、もうすぐ軽食を用意してくれることになっている。ジャガイモを丁寧にすり潰し、更に裏漉しして、薄い衣でからりと揚げて塩を振った、料理長得意の絶品だ。皆のぶんも用意させてあるから、食え。忙しくても摘まんで食える。塩気で食欲も沸く。兵たちには申し訳がないが、食わんと持たんぞ」

「・・・は。ありがたき幸せ」

 ―――グスタフ王、泰然自若として動ぜず。

 と、のち公刊戦史や歴史書に記されることになるグスタフによる退避拒絶は、以上のような場面で起こった。

 ただし当のグスタフに言わせるなら、これは「作られた伝説」である。

 経緯としては何ら嘘偽りなくとも、実際のところ彼の内心は幾らか動揺していた。決して何もかもが立派な主君であれたという自信はまるで無かった。

 彼は、確かにロザリンド会戦世代だ。

 デュートネ戦争で、親征もした。

 だがその戦場では、たいへん怖い思いをしている。当時の戦争ときたら、互いの息いきれが聞こえるほど指呼の距離でぶつかり合う、地獄のようなものだったのだ。

 こんな場所で冷静な指揮など取れない、私は心底から軍人など無理だと、デュートネ戦争では全てを腹心シュヴェーリンらに任せた。

 そのときと比べれば、まだ砲声も銃声も聞こえなければ、こうして軽食を摂り、本を読んでいられる。

 彼にとって自身の「ロザリンド会戦世代」とは、所詮その程度のものであった。

 自己評価としては、恐怖心の裏返しのようなものに過ぎない―――

「まあ、何とかなるんじゃないか。誰か何とかしてくれるだろうと、あのときは無責任に座ってばかりいた」

 後年になってグスタフは吐露し、告解した相手を唖然とさせている。

 また彼にはこのとき、いま一つ縋っているものがあった。

 ネブラスでの司令部開設以来、寝所にしている国王専用列車の寝台車だ。

 正確に言えば、そこに染みた「匂い」のようなもの。

 第一軍将官会合の日、ほんの僅かな時間を利用して、ディネルース・アンダリエルと逢瀬の時間を持った。

「帰りの汽車の時間まで、四時間ほどあるんだが・・・」

 会合が終わり、将官たちと昼食を共にしたあと、そっとこの執務室を訪れ告げてくれたディネルースの顔が、いまでも忘れられない。

 唖然としつつも、喜び勇み、感謝するように彼女と久方ぶりに肌身を重ねた。

 どうやらツィーテンの死で気落ちした我が身を、心配してくれていたようであった。

 以来、その逢瀬の時間を持った寝台車は、自身でも驚くほど落ち着いて熟睡できる場所になっていた。

 既に日も経って、本当の意味での彼女の匂いなどは消えていたが、気配や記憶といった残滓がそこかしこにあり、まるで母胎に包まれて眠っているような気分になったほどだ。

 ―――まこと、女というものは男にとって偉大な存在だ。

 だからグスタフは、退避しなかった。

 ただし総軍司令部は、それでも密かに王に対しては何も告げず、善後策は用意している。ネブラスの機関区で機関車の一両を用意して罐を炊かせ、いつでも国王専用列車を動かせるようにし、更にはネブラス港の海軍と連絡を取り合って、艦艇へ王を動かせるように手配した。これもまた、公刊戦史には書かれていない。

 ―――同日夜。

 第五師団と第一八師団の間に再び破孔を生じさせたエルフィンド軍は、マルローリエン旅団を主体としたイヴァメネル支隊の浸透突破に成功した。

 オルクセン軍最大の危機が迫っていた。


 

(続)

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