第38話 戦争のおわらせかた⑥ ネニング平原会戦①
「女王陛下!」
「女王陛下、万歳!」
「エルフィンド万歳!」
ディアネン市中央駅前に、歓呼の声が満ちた。
無秩序に思えるほど詰めかけた兵や市民たちの姿に、軍幹部はともかく、数日前到着したばかりの政府高官たちは、たじろいだほどだ。
この日はエルフィンドの春季にはまだまだ珍しい快晴で、寒さはあったが、長く暗い冬が明けたことを思わせ、またこれがエルフィンド国民に圧し掛かる侵攻からの転換を想起させていた。
既に第三軍の北上が食い止められている旨の発表が大々的にあり、詰めかけた観衆や兵の心境を明るくさせている。
エルフィンド女王エレンミア・アグラレスの乗った御召列車は、そのあと到着した。政府首脳たちも同乗している。
「ようやく、これで―――」
全ての準備が整ったと、サエルウェン・クーランディア元帥は満足気である。
彼女の希望は果たされ、エルフィンド軍ネニング方面軍は女王親率のかたちとなった。
まさか、政府の連中まで着いてくるとは思わなかったが。
女王を握ったクーランディアが何かよからぬことを企まぬように、などと余計な心配をしているらしいのだ。
正直なところ邪魔で仕方なかったが、今はどうでもよい。
攻勢に際し、軍の士気が高まればそれでよかった。
もはやこの国は、いかなるものでも利用しなければならない。女王の名と存在といえども。
―――三日後、星暦八七七年四月九日。
エルフィンド軍ネニング方面軍は、大規模攻勢に出た。
エルフィンド最後にして最大の決戦兵力を指揮するクーランディア元帥が、この時点まで攻勢に出ようとしなかったのには、むろん理由がある。
彼女たちが抱えていた最大の問題は、砲弾の不足だった。
エルフィンドは、オルクセンなど星欧列商諸国と比べれば、もとより工業基盤に乏しい。
軍事面に限ってみても、兵器類の自国生産能力がたいへん低かった。
エルフィンドにおけるただ一個所の兵器工場であるティリオン王立造兵廠は、このベレリアンド戦争開戦時、日産僅か二八〇発の砲弾を製造することしか出来なかった。これは野砲、山砲、騎砲といった各種砲弾を全て合わせての数である。
二八〇発といえば。
砲兵中隊六門が全力射撃すれば、一〇分と経たずに撃ち尽くしてしまう数でしかない。
オルクセン陸軍の野山砲が、前車や弾薬車まで合わせて一門辺り一四四発を定数としていた点を思うなら、あまりにも少ない。
この戦争に入ってからというもの、そのオルクセン軍でさえ一戦闘辺り二〇発という「基数」―――ひとつの戦闘で一門辺りが撃つであろうと想定していた砲弾数を遥かに上回ってしまい、五八発もの砲弾を撃った事例まで存在したから、エルフィンドの砲弾製造能力はまるで近代戦というものに対応できていなかった。
しかも、戦前、エルフィンドの現政権体制は軍事をあまりにも軽視していた。
緒戦における彼女たちの実情、敗退ぶりを眺めれば分かるが、民族としての文化、習慣、気質上まで軍事を軽んじ、軍に平時の予算を十分に与えてこなかった。
一門あたり幾ら、ひとつの戦闘でこれほどは砲弾を撃つだろうという「基数」、その戦闘が重なると想定される一会戦分や幾らかの期間分でまとめた「定数」は、もちろん彼女たちにも存在した。その数は、キャメロット陸軍教令の丸写しに近かったから、オルクセン陸軍とそう変わらない。ところが開戦時、予算不足によりその定数分すら砲弾を満たしていない火砲が大半だった。
慌てて砲弾を作ろうとしても、簡単に出来ることではない。
職工を急速に集めたところで熟練度は満たせないし、その教育や指導体制は事前準備を整えておかなければ行き当たりばったりとなる。旋盤などの機械類、ノギスやゲージといった工具類も沸いて出してくれる魔法の壺など存在しない。砲弾製造に必要な鋼材、火薬といった原材料もいる。
これらの手配を戦前から整えて開戦に踏み切ったオルクセンとは雲泥の差であって、兵器の戦時増産はすっかり泥縄、後手も後手に回ってしまった。
とくに機械類と鋼材料の不足は深刻で、キャメロットに発注したが、これを積載した商船は「グスタフ王の海賊」と呼ばれたオルクセン海軍仮装巡洋艦隊の海上封鎖により、ついに一隻もエルフィンドには到着しなかった。
むろん、エルフィンドの兵器当局とて、ただ手をこまねいていたばかりではない。
新たに信管部を簡略化した砲弾を設計し、これを鋼材ではなく、銑鉄や、鋳物で作った。
造兵廠に隣接する倉庫を改造し、その天井梁近くに機械動力のためのシャフトを無理矢理に通し、民間工場で急造した旋盤を据え付けた。急速教育を施した職工に、熟練の職工を着けて機械の前に立たせた。
そうして、ようやく日産三二〇発ほど作れるようになった。
―――たったの、三二〇発。
この砲弾を、まるでぽつりぽつりとした雨漏りを盥で受け止めるようにして、ネニング方面軍は備蓄に努めている。冬営対峙戦において、例えオルクセン側が牽制のための擾乱射撃をやろうとも、ただの一発も撃ち返してこなかったという、涙ぐましいまでの努力である。
攻勢開始時点で、ネニング方面軍を構成する四つの軍の、それぞれの砲一門辺りで、アルトカレ軍一八〇発、ネニング及びエルドイン軍二〇五発、アシリアンド軍一五七発という具合になった。火砲そのものの数は、軍総計で六七三門。
クーランディア元帥とその幕僚たちは、これでどうにか攻勢に出られると判断した。
砲弾備蓄のみならず、新兵たちの訓練なども含めもっと戦備を整えたかったが、これ以上待っていてはオルクセンの第三軍が北上してくる。
第三軍の北上を阻止する方法、ゲリラ戦術をカランウェン支隊に実施させてはいたが、ゲリラ戦とは本質において陸上戦での勝敗を決することは出来ない代物だ。わかりやすく言えば「嫌がらせ」のようなもの。圧倒的多数の兵力を持つ正規軍に対して、決定的な打撃を与えることは出来ない。つまり、いずれ第三軍はこれを食い破って北上を再開するだろう。
ネニング方面における決戦に出るには、いまをおいてなかった。
しかし―――
彼女たちに、攻勢を仕掛けられるような力は無かったのではないか。
たしかにオルクセン軍総軍司令部は、そのように分析していた。
ところが、これはエルフィンド軍の兵站能力を読み違えていた代物であった。
彼女たちには、鉄道及び馬車輸送以外にもうひとつ、補給手段があったのだ。
ネニング方面軍の背後に存在した、リナイウェン湖水系の河川を利用した内水面輸送だ。
これが馬鹿に出来ない存在であった。
もともと、ネニング平原における収穫期において収穫穀類の輸送に利用されていた川船があり、エルフィンド軍はこれを使って兵站物資の輸送をやっていたのだ。
船は小さく、細々とした輸送だが、数で補い、この内水面輸送が一日辺り一・七個師団分の糧秣を支え得た。
つまりそれだけ兵站輸送上の「余裕」がある。
「オルクセンは、エルフィンドの内水面輸送は内陸に向かうほど役に立たないという事前収集情報を信じすぎていたのだ」
戦後、そのように酷評されたほどの失敗だった。
しかも。
オルクセン軍は何処かで、彼らの悪癖を直しきれていなかった。
自軍の戦術思想はこうなのだから、敵軍もそうに違いないと思い込んでしまう真似。これはオルクセンに限らず、古今東西の軍隊が大なり小なり陥る罠、落とし穴のようなものだが―――
彼らがついに皮膚感覚において理解しきれなかったのは、エルフィンドという軍隊が「現地調達」を重視する組織だったということだ。
しかしこの盲点もまた、疑義を抱かせる。
エルフィンドの食糧生産力は乏しく、長く対峙戦を行っているネニング平原にはもはや現地調達可能な「余裕」など存在しないのではなかったのか。
攻勢に出たところで、調達できる物資など何処にも無いのではないか。
だが。
エルフィンド軍側から眺めた場合、その余裕を唯一携えている連中が、ネニング平原には存在した。
彼女たちの目の前に。
それも、とてつもなく潤沢な量の糧秣を抱えた連中が。
攻勢の発起にあたり、クーランディア元帥の行った訓示の一部にその企図を垣間見ることが出来る。
「糧秣を敵に依って得るは、兵道の常である。即ちオルクセン軍後方兵站は末端に至るまで贅沢を極め、攻勢部隊においてはこれを鹵獲、活用すべし」
―――一方、オルクセン側はどうか。
戦後、おもにアスカニアの兵学界を中心に、オルクセン軍はこのエルフィンド軍の攻勢をまるで予期できていなかったのだという説が流布した。
攻勢後に起こった混乱と合わせ、これは一部でたいへん信じられ、オルクセン内でさえこれを「真実」だと断じた歴史学者、戦史研究家は多い。
実際は異なる。
確かにオルクセン軍は、エルフィンド軍の兵站輸送量を読み違えてはいた。
しかしオルクセン総軍司令部は、エルフィンド軍の攻勢が始まる三日前にあたる四月六日には、その前兆を掴むことに成功していたのだ。
「エルフィンド軍、両三日中に攻勢に転じるものの如し。全線警戒せよ」
彼らがこのような総軍司令部通報を第一軍に発したのは、四月七日のことである。
大鷲軍団による空中偵察で、エルフィンド軍側の動きが活発になっていることを掴んでいたし、エルフィンドの政府発表による女王の親征が外電報となって、外務省経由で総軍司令部に届いていた。
またこの四日前には、第五軍団の方面で敵斥候が捕縛されており、その際の尋問聴取及び鹵獲の軍用地図、書類から、ちかくエルフィンド側が攻勢に出るのだという情報を得てもいた。
軍及び各軍団による魔術通信の傍受、三角測量による偵知も、敵軍の活発化を示していた。
オルクセン軍は、種族としての見た目や歴史的背景が白エルフ族とは違いすぎて、この戦争では軍事諜報員による情報収集が行えなかった。正確にいえば、成し得るべく努力は払われていたが、本格化する前に戦争の終結に至っている。
そこで大鷲による偵察、海外情報の収集、捕虜の獲得、魔術通信による探知といった手法をより重視、鋭敏化せざるを得なかった。これらの手段の数を増やして、蓄積し、情報の確度や精度を上げたのである。
総軍情報部長カール・ローテンベルガー少将がその長となり、同通信部長ヘルムート・シュタウピッツ少将以下通信部の補佐も得て、かなり正確な読みを総軍司令部へと齎すことが出来るようになっていた。
オルクセンが戦後になっても長い間、例えどれほど謗りを受けようとも、攻勢を事前察知できていたことを公表しなかったのは、自らの情報収集能力を隠匿するためであった。
では、その察知したエルフィンド軍の攻勢に上手く対応出来たのかと言えば―――
こちらは難しいところがある。
彼らはこの段階で、後世の目が指摘するところの「失敗」をやった。
前線に警戒令を発した四月七日、エルフィンド軍の攻勢をどのように迎え撃つのか、総軍司令部作戦部は最終検討している。
この作戦部の作戦立案段階になって、エーリッヒ・グレーベン少将率いる同部作戦参謀たちは真っ二つに分かれてしまった。
曰く、積極攻勢移転案。
敵の攻勢を利用して、眼前指呼の距離に出現するであろう敵軍に対し、こちらも自陣から打って出て、エルフィンド軍の最終的な攻撃態勢の整っていないうちに逆攻撃に出ようという、積極論。
また曰く、火力攻勢防禦論。
まさしく敵軍は眼前に出現するであろう。これを引き付け、すっかり万全に整えられた我が陣地から火砲による猛砲撃を加え、大損耗を強いたのちに攻勢に転換、追撃戦のかたちで敵を追い、決戦に追い込もうという意見。
どちらも、敵が堅固な防禦陣地からわざわざ出てきてくれたのだ、奇禍である、これを最大限利用してやろうという底意は一にするものであったから、容易に結論は出なかった。
最終的にはグレーベン少将の決済に依っている。
彼は、自軍が開戦前から準備を整えてきた「火力戦」に自信を深めていた。
アルトリア前哨戦における第二九師団による迎撃戦など、この典型である、と。
対して、積極攻勢案はどうか。
運動戦はオルクセン軍の好むところである。
しかし予想以上に兵の犠牲が出る、危険な代物なのではないか。
底知れぬほどの死がぽっかりと闇深き穴を開けて待ち構えており、これは不老不死にちかいながら出生率の低い魔種族にとって、たいへんな禍根を残すのではないか―――
また外部要因として、このとき、第三軍の戦場到着にまだ望みがあった。この撤退命令を総軍司令部が発するのは一一日のことである。第三軍との協同のためには、敵軍を引きよせたほうが良いのではないか。
いまひとつは、第一軍はこの冬営中その兵站状況の良好さから、結局のところは殆どネニング方面軍と変わらない歩兵戦力を確保できていた事実がある。
総軍予備の肩書きのまま第四軍団に配した後備第一旅団に続いて、本国から第一八擲弾兵師団、後備第五擲弾兵旅団及び後備第一三擲弾兵旅団の動員に成功していて、これを本来行うはずだった攻勢作戦の予備兵力として、総軍司令部が握り、ネブラス及びエヴェンマール郊外に置いていた。伊達に攻勢に出るつもりではなかったのだ。
兵力がほぼ同等なら、砲火力の比較はどうか。
これは、もはやグレーベンなどには比較することも馬鹿らしく思えた。
情報分析によれば、エルフィンド軍ネニング方面軍の火砲は大小全て合わせて七〇〇門弱。
対するオルクセン軍は、九九二門。重砲の比率も高い。防禦火器としてグラックストン機関砲一二〇門もあった。
―――圧倒的ではないか、我が軍は。
「火力で迎え撃とう」
グレーベンは決し、作戦計画案を作り上げ、ゼーベック総参謀長の承諾とグスタフ国王の裁可を受けた。
七日午後九時二五分、総軍司令部より電信にて発信。
オルクセンの野戦軍規模ともなると、電信による軍命令は末端部隊まで瞬時に伝わるというわけにはいかない。約六時間を要した。それでも警戒配置命令を既に発してあったし、各軍団司令部には総軍司令部から作戦参謀が派出されてもいたから―――
翌朝までには、オルクセン第一軍全部隊の作戦配置は完了ししていた。
つまり彼らは、後世巷間語られたようにエルフィンド軍大規模攻勢に対し無防備であったのではなく、それどころか攻勢に対し一日早く迎撃準備を整えることに成功していたのだ。
オルクセン軍が火力による攻勢防禦案に自信を深めていたのには、無理からぬところがある。
彼らの前線陣地を見てみると―――
掩蔽された立射可能な散兵壕、つまり塹壕がまずある。単に直線的に穴を掘ったわけではなく側防部があり、掩体で覆われたグラックストン機関砲がいて。壕の前面には
つまり木枝などの先端を尖らせた生垣状の障碍物や、落とし穴が構築されていたということだ。これは直接的な防禦力を発揮するのみならず、これら障害物の存在によって敵の動きを誘導し、散兵壕からの小銃射撃と側防部に配されたグラックストンとで十字砲火を浴びせてしまおうという、凶悪な代物だった。
塹壕が築かれるのは、ベレリアンド戦争が世界戦史上初めてのことではない。古代から存在する。近代戦下においては星国の南北戦争で用いられ、このような障害物も構築されて、兵に膨大な犠牲を出した。この戦訓を取り入れた工兵作業が施されていた。
そのような前線部隊の司令部本拠地たる村落は、角面堡で囲み、防禦が施してある。前線近くにいくほど深くなる交通壕で、散兵壕とは結ばれている。
そうしてその後方には、やはり掩体で囲まれた野山砲陣地がある―――
あのオルクセンの強大な旅団規模による散兵防禦陣形が、更に狂暴になって半ば地下に潜り込んだような具合である。
グラックストンは直線的に用いるのではなく、十字砲火を形成するように用いよとオルクセン軍に広めたのは、ディネルース・アンダリエル少将率いるアンファウグリア旅団だ。彼女たちはその戦法を、あのファスリン峠における陣地戦で会得していた。
同機関砲の運用に関して一日の長がある彼女たちは、このころまでにその長所と短所とを学び取っていた。
まず根本的にして本質的には、グラックストン機関砲は防禦火器であるということだ。
山砲より軽いといっても、それは比較上の問題であって、おいそれと陣地転換できるほど軽くもなければ、小さな兵器でもなかった。「銃」ではなく「砲」なのだ。
上下に振動させるように発射して散弾効果を狙うことはどうにか出来ても、銃身部が重すぎ、薙ぐように撃つことは殆ど不可能であることもわかった。ならば陣地を構築する際、最初から十字砲火を構築できるように配すること、またこれを可能にするため地形や障害物を利用することが肝要となる。
グラックストンには、致命的ともいえる欠陥もあった。
構造が精緻なため、技術陣の触れ込みはともかく、故障頻度が意外に高いこと。
また発射操作を行う兵の位置が高く、銃撃等に遭って斃れる可能性が大であること。
日頃の整備や、これら被害を防ぐための掩体が重要だった。
このような知恵を、アンファウグリアは全軍に広めた。
実にオルクセン軍という軍隊らしく、組織的な教育に依るものだった。
第一軍の冬営中には、一二〇門のグラックストン機関砲が増援として送り込まれてきたが、これを操る兵は二通り存在した。
本国でグラックストンを所管すべしとされた要塞砲兵の連中がまずひとつ。これはグラックストンそのものと一緒にやってきた。こちらが大半である。
いま一つは、既存の野戦軍から選抜され配置された兵たちだ。
促成的な教育が必要となった後者が中心となり、更には前者も加えて、冬営中に交代でタスレン郊外のアンファウグリア旅団駐屯地を訪れ、総軍命令に依る一週間ほどの教育を受けた。
最新兵器であるからこれを扱う直接的な方法も、また実際にどのように戦場で扱えばいいのかという運用法も、アンファウグリアから学んだ。
何もかもが完璧とはいかず、とくに修理体制には不安を抱えたままだったが、それでも実戦部隊における技能職兵である銃工兵が、軍団後方機関辺りに幾らか用意もされて、彼らは配置についた。
このような陣地が、オルクセン軍の前線には連隊や旅団単位でネニング平原の東部に北から南まで広がっている。
その後方には、師団の火砲、軍団の火砲、軍直轄の火砲。
―――突破できるはずがない。
「火力攻勢防御案で、敵に大損害を負わせることが出来るはずだ」
そのように軍首脳に思わせたのも、無理からぬことだった。
おそらくこのネニング平原の会戦が、オルクセン軍と何処か人間族の軍隊で行われた会戦だったなら、彼らの構想は決して間違っていなかったと思われる。
だがエルフィンド軍の攻勢は、そのような鉄壁とも思える防禦体制の、盲点を突いた。
オルクセン軍側には、想像すらつかなかった方法で。
四月九日、エルフィンド軍ネニング方面軍の中央部より南側、ネニング軍及びエルドイン軍の一部と、アルトカレ軍のほぼ全てが前進を開始した。
オルクセン軍側の配置でいえば、第一軍団、第五軍団の担当区全てと、第六軍団の南側半分に相当する。
互いに配置兵力でいえば、それぞれ一〇万もの兵力になる。
ただこの一局面を以てしても、一大会戦といえた。
このとき、彼我両軍の前縁陣地間距離は約二キロ。場所に依っては一キロを切っている。両軍は冬営中、それほどの至近距離で睨み合っていた。
互いに主要火砲の射程距離圏内であるだけでなく、ときおり両者が派出する斥候や哨兵など、それぞれの姿を視認しあうことも珍しくなく、大声を出せば会話さえ可能だと思えるほどの近距離である。
それでも冬営中の両軍が火砲を本格的に撃ち合ってこなかったのは、そのような一発が相手の全面攻勢を軽率に誘うものと思われていて、糸の張りつめるような緊張感のもと、ただただ睨み合ってきたからだけであるに他ならない。ときおり、おもにオルクセン側から擾乱射撃のようなものがぽつりぽつりと生起していただけだった。
午前六時四八分。
夜明けとともにオルクセン軍前面のエルフィンド軍は、まず広大な魔術通信妨害に出た。
ベラファラス湾海戦やファルマリア戦で偶然起こり、エルフィンド海軍がキーファー岬沖海戦で試し、アルトカレ軍がアルトリア脱出に際し用いたあの戦法が、ついに全面的に採用されたのだ。
そうしてオルクセン軍側の魔術通信及びこれに依る間接射撃を防いでから、攻勢全線で火砲の射撃を始めた。
オルクセン側陣地の頭を上げさせないような具合である。
当然ながら、オルクセン軍側も火砲で撃ち返す―――
この前哨砲撃戦とも言える戦闘、オルクセン軍側のほうが相手を圧倒しているように思えた。
しかし。
弱ったことに、両者とも野山砲級の榴霰弾では、陣地に潜った敵兵に対してはまるで致命傷を与えることが出来なかった。掩体壕とはそれほどの効果を齎した。
短いが激しい砲撃のやり取りのあと、両軍ともに起き上がって、いったいあれほどの砲弾はどこに命中したのだと茫然としたほどだった。
エルフィンド軍側はそれでも前進を行う。
そうして狙った場所こそが、オルクセン軍側の予想の範疇を超えていた。
冬営中の事前偵知及び魔術探知による敵情把握を行っていた彼女たちは、オルクセン側の防禦陣地と防禦陣地の間隙を狙って、前進し始めたのだ。
散開の具合も、オルクセン側には見たこともないものだった。
果たして、従来の散兵隊形と呼べるものかどうかも分からなかった。
この時代、前進躍進は中隊毎纏まって行うのが何処の国でも基本である。戦闘も中隊単位で行う。
ところがエルフィンド軍側はオルクセン側前線に接近すると、小隊単位に散らばり、地形利用もしつつ、前進した。最前端の尖兵たちは、更に魔術探知や逆探知も用いた。
敵のいない場所、いない場所を探るように―――
「あいつら、いったい何を!」
オルクセン軍側の受けた衝撃は大きかった。
当時の兵学上、陣地と陣地の間は、互いの援護射撃や、後方火力によって敵の侵入を防ぐことになっていた。小難しい言葉を使うなら、「火力による閉塞」という。
つまり、戦
エルフィンド軍側は、その陣地と陣地の狭間、火力と火力の間隙、あるいはもしそのような場所に後方から砲火を用いたら自軍陣地を吹き飛ばしかねないと思われるような、配置上及び地形上の死角を動いた。それも銃砲火を浴びにくい、少数単位の集団を次々と連続して繰り出す格好で。
オルクセン軍の陣地構築、とくに冬季におけるそれが村落舎営を基本とする以上、決して各陣地は均一的に配置されているものではない。大縮尺の軍用地図上で眺めれば一直線に並んでいても、前後差も、高低差も、間隙の差も存在する。その狭間を突いたのである。
しかも、素早い。
あっという間にオルクセン軍陣地の側背へと回り込んでしまった。
そんな真似は、オルクセン側から見れば夢想的な行為である。
本来なら、敵の火力を浴びながら斥候を放ち、火力範囲を確かめて、配置具合を知り、そのうえでやれるような運動だった。
「魔術探知と魔術通信か・・・!」
確かに、エルフィンド軍ならそのような真似がやれる。
彼女たちは、兵一名一名に至るまで魔術の使用が可能だ。
しかも彼女たちが、本当にオルクセン軍側陣地に対して指呼の距離にまで迫ってそのような運動をやり始めたときには、全軍規模での魔術通信妨害は停止していた。味方尖兵の通信と探知まで邪魔をしないようにとの配慮らしかった。
それでも最初に放たれた強烈な魔術通信妨害で、オルクセン側各隊のコボルト通信兵の多くは疲労困憊、困惑、混乱し、まるで役に立たなくなっていた。
―――敵のいない方向を、魔術通信や探知で探る。
これはオルクセン側にすれば、根本的に真逆の魔術使用方法である。
彼らは、その運用思想上、どうしても「敵のいる場所を探る」ために魔術探知を使ってきた。ダークエルフ族とてそうだ。彼女たちの魔術使用方法は、狩猟のそれから発展したものである。白エルフ族とて、ロザリンド会戦に代表される過去の使用方法も例外ではなかった。
まるで着眼点が真逆の使用法である。
これはエルフィンド軍側にすれば、この戦争で学んだことだ。
ファルマリア港からの退却軍。
アルトリア要塞からの撤退戦。
前者は失敗し、後者は成功したという違いこそあったが、確かにエルフィンド軍は、この戦争でそのような探知法を習得した。
このような使用法も含め、魔術力を徹底的に利用しろとクーランディア元帥への提言を残したのは、ダリエンド・マルリアン大将である。彼女は、アルトリア撤退戦の発案者そのものであった。焦土戦術やゲリラ戦術の採用と合わせ、この戦争、のちに「オルクセン軍は終始マルリアン大将と戦い続けたようなものだ」と評された所以である。
エルフィンド軍は、ぶっつけ本番でこの戦法に全てを賭けたわけでもなかった。既に、これを試してもいた。
―――リヴィル湖畔の戦いだ。
あのオルクセン軍を局所的に苦しめ、一方でいったいどのような目的があるのかと悩ませた戦闘は、その実験台だったのだ。
エルフィンド軍は、魔術探知を使えばオルクセン軍防禦陣地の側背へと回り込めることを確かめていたのである。
既に兆候はあったのだ。
あの戦闘においてエルフィンド軍は、低地側からは視認などできなかったはずの、
それも視界の悪化した冬季天候のなかで!
後背展開まで、たった二日間で!
そんな真似は、本来なら威力偵察を放ち、実際に戦闘してみて、兵の犠牲を出しながら敵の配陣を確認し、時間をかけ、一歩一歩間合いを詰めるように行われければやれないものだ。
オルクセン軍側から見れば、いや、この当時の世界のありとあらゆる軍隊から見ても、まるで異次元の戦法をエルフィンド軍は採った。
―――魔術力による浸透戦術。
これをオルクセンや人間族の軍隊がやれるようになるのは、いま少し戦術思想が進み、通信手段も発達する、ずっと後年になってからの代物だった。
そのような、異次元のものとも評すべき未知の戦法を大規模にぶつけられたオルクセン軍は、ネニング平原会戦の緒戦において大混乱に陥った。
なかでも、デライウェン・コルトリア将軍率いるアルトカレ軍の猛攻に晒された、第一軍団と第五軍団の損害が酷かった。
第五軍団第五擲弾兵師団第九旅団などは、オルクセン陸軍史上最悪とまで評された大敗走に陥っている。
第九旅団は、精兵だった。
近代オルクセン王国における、最古参の部隊の一つである。
これを率いる旅団長も二名の連隊長も、決して能力の低い指揮官ではなかった。
配置も優れていた。
担当戦場域を俯瞰し得る丘陵上、地元呼称ユーダリル山と呼ばれる高地に布陣していた。ここを確保していれば、第五師団全体が前線に留まれるとされていたほどの要地でもある。
むろん、エルフィンド軍側と対峙していた方向の陣地構築も、高低差まで利用した、非の打ちどころのない入念なものだった。
しかし、この防禦陣地ではなく、司令部や砲兵陣地、連隊補給段列の集積地を攻撃されてしまった。
前線は、動揺した。
旅団を構成する第二〇連隊、第二一連隊ともに壊走して、二〇連隊に至っては連隊本部に砲撃を浴び、連隊長戦死、参謀長戦死、副官重傷という事態に陥った。
当初、撤退はむしろ組織立ったものだった。
山砲隊がまず退き、野山砲隊が撤退、最後に擲弾兵連隊が殿軍となって退くという、これは当時の教令通りの、整然とした退却戦をやろうとした。
ところが第二一連隊側の証言に依れば、北隣に布陣した二〇連隊部隊端側から、
「退却! 退却だ!」
との声が聞こえ始め、これを受けて二一連隊も動揺し、雪崩を打つように両連隊が敗走、混乱した壊走に陥った、という。
旅団に配されていた二個野山砲中隊においては、退却の為に陣地を引き払い、行軍縦列に移ったところを側面からエルフィンド軍の統制小銃射撃を浴びた。
まるで奇襲のように側背を襲撃され、砲を棄てることになった。
本来、火砲を遺棄して退却する場合には、敵をしてこれを利用せしめるようなことがないよう、砲は破壊しなければならない。
オルクセンのヴィッセル式砲の場合、閉鎖機を取り外してしまうこと、とされていた。
この破壊すらやれなかった。
ユーダリル山の戦闘においては、最終的に野山砲一二門、山砲四門が敵の手に落ちた。
火砲の完全なかたちでの敵による鹵獲は、ベレリアンド戦争中のオルクセン軍においてはこのときを唯一のものとする。
戦場は更に混乱し、砲兵も、輜重兵も、殲滅された。
オルクセン軍史上にいう「ユーダリル山事件」で、この責任は長い間、戦死した二〇連隊長に依るものとされていた。
しかし、実際には―――
この退却の混乱、退却から敗走への混乱は、むしろ第九旅団司令部からの伝令が引き起こしたものだという。
旅団司令部が発令した退却命令を携えたこの伝令が、砲弾の直撃により既に戦死していた連隊長以下連隊司令部を見つけることが出来ず、大隊長とも会えず、前線の一中隊長に直接的に伝令し、同中隊長が連接する他の各中隊を取り残すわけにはいかないと命令を伝えたため、まるで統制の効かない敗走に陥ったのだとされる。
ユーダリル山は、要地である。
ついには第五師団全体の退却となった。
第五師団は、四・五キロに渡って後退した。
同様の敗走は第一軍団でもあり、第一軍団は第一七山岳猟兵師団が敗走して、第一師団とともにネニング平原南端の地峡部に押し込められるように後退―――
戦線に巨大な破孔を穿つことに成功したエルフィンド軍は、オルクセン軍が遺棄した補給段列から貴重極まる物資の数々を鹵獲した。
糧秣、医薬品、兵器、弾薬―――
特に前者二つが彼女たちには重要で、これを我が物として自軍の携行糧秣や補給隊に加えた。
そうして日暮れを迎えるまでに、前進を再開。
敵陣深くへ、深くへと更なる浸透拡大を目指した。
―――オルクセン軍は、その幹部の誰しもが予想しなかった、意外な悪戦苦闘に陥り始めていた。
(続)
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