第30話 おおいなる幻影⑨ ライ麦と兵隊

 ―――オルクセン総軍司令部/在ファルマリア

「弱ったことになったな、これは」

「市民は占領政策上、織り込み済みのつもりだったが。これほど貯蔵食糧が欠乏していたうえに、一挙に俘虜一四万とは。戦史上初なのではないか?」

「古代まではどうかわかりませんが。近代戦史としては稀有でしょうな。下手をすると初かも。この先も、そう破られる記録ではないでしょう」

「名誉なことだなぁ、おい。しかし、勝って苦労するとは。まったくの想定外だ」

「ですが、対処法としては簡潔です。糧食、医薬品、燃料用石炭等の輸送に努める。これしか無いでしょう?」

「だが、当面のあいだ砲弾は補給できないということだ。後回しになるぞ」

「・・・第三軍は、しばらく動かせませんな」

「動かせるようになるまで、どれくらいかかるやら。見当もつかん」

「本当に一〇〇万箱の食糧を送ることになったようなものだからな」

「それも、第三軍の補給と並行して、ですよ」

「その第三軍の攻撃計画にも問題があったのではないか。食糧保管庫を吹き飛ばしてしまうとは。川沿いにあることは想定出来ただろう」

「いやいや、火力主義に間違いはありませんよ。兵の損失を最低限に抑えるためという判断も正しい。それは我ら総軍司令部作戦部も了承したはずです」

「やはり火力。火力は全てを解決する」

「ええ、そのとおりです」

「まあいずれにせよ、カイト少将の働きに期待する他ないのでは?」

「カイトのおっさん、泡吹いてるんじゃないか」

「一四万の捕虜。五七万の市民。計七一万。オーク族換算の糧食定数で一日三五万か。第三軍が更に二つ出来てしまったようなものだからな」

「・・・向こうの死傷者幾らだ? 数字を引かんと」

「集計はまだですが。死傷者一〇万といいますから。うち死者二万五〇〇〇ってところじゃないですか?」

「オーク族換算で一万二五〇〇か。たいしてかわらん引き算だな」

「うちの死傷者は?」

「約一万二〇〇〇だ」

「・・・我ながら嫌になります。これだけの犠牲を数としてみなきゃならん、おまけに大した数に思えなくなるとは」

「この場合、致し方ない。今日生きている者の、明日以降の飯がかかっているんだ」

「第三軍の備蓄食糧は?」

「いつも通り。七日絶えても大丈夫な手持ちが段列から末端駅にある」

「一六万八〇〇〇の七日分だから・・・約一一七万か」

「軍、俘虜、市民。それで二日分と少しになる。たったの」

「きついな、おい。本当に危機だぞ、これは」

「追送到着まで、ぎりぎりなんとかなるか・・・綱渡りだな」

「現地調達できんのか」

「あてにするな。幾らかはやれるが、エルフィンドの連中が周辺地の余裕はあらかた使い尽くしている」

「冬穀も刈り入れはまだまだ先だから、当然計算外、と」

「その・・・あちらの軍馬の生き残りは食わせますよね?」

「ひどい話だがな。背に腹は変えられん。生き残りは全部市民に食わせろ。あちらが作った供給体制に乗っかるんだから話も早い。飼葉消費量も減らせる」

「おい、医薬品や石炭は?」

「そっちも軍在庫から吐き出させるところからやらせろ。同じことだ」

「それと、木箱は全て現地で叩き壊して燃料に変えさせよう。それでだいぶ負担が減る」

「叺も炊きつけにはなりますね」

「あとは鉄道輸送が耐えきれるかどうか、だな」

「やれるのか、これ」

「試算で一日二四編成から二六編成です」

「終着はいまの末端兵站駅だろう?」

「当然だ、市中心部までは改修が間に合わん」

「モーリア北集積駅と、アルトリア市内に直接入れる支線がなければ駄目だったな」

「しかし、どちらもほぼ単線ですよ? 過信はできません」

「本線の重量制限も痛いなぁ・・・」

「鉄道中隊を動員してだ、荷下ろし用ホームと交差用の待機線をもっと作らせろ。増やせ。二〇〇も三〇〇も走るわけじゃない。直線距離でたったの六〇じゃないか」

「それはモーリアからの話だ。この場合、本国から考えんといかんよ」

「モーリアとアルトリア間の河川輸送も使うことになりますね。市中に直接入れます。皮肉な話です、あてにしていなかった手段が頼みの綱になるとは」

「おい、議論が枝葉に入りすぎだ。そのあたりは兵站総監部に考えさせたらどうだ。第三軍への作戦干渉にもなりかねん。細部実行は現地軍に委ねることは作戦指導の根幹だ」

「うちはうちで考えをまとめておいたほうがいいでしょう? そこに立ってこそできる話もある」

「・・・ふむ。それも道理か」

「あちらの頭数も減らしていくしかない。俘虜は全部本国へ移送だ」

「食糧運んで、俘虜は復行で下げることになるわな、当然」

「机上のように同時進行とはいかんぞ。本国の収容所が足らん。これほど一挙に出るとは想定していなかった」

「弱ったな」

「そうでもないんじゃありませんか? 軍法屋が面白い提案をしてきています」

「なんだ?」

「俘虜自身に、俘虜収容所を作らせろと」

「・・・労役か」

「たしかに、戦時国際慣習法上は認められているな」

「働かせろ、働かせろ。食わせるんだから、使えるだけ使え」

「あとはあれか、用地は今年頭のダークエルフ族方式か?」

「演習場を潰して、演習用兵舎に入れたあれですか。迅速さが勝負だ、そうするしかないでしょうな」

「警備は、各地の後備を使うのが手っ取り早いな」

「さしあたって首都演習場に一次完成している、収容所からだな」

「あの、支流沿いに作る予定だった?」

「なんだっけ、あの川の名。いつもA川と呼んでいたから忘れちまった」

「バンドウ川」

「そして同じやり方を、各地で、だな。南部のほうがいいな。北部はいかん。艦砲射撃事件の影響が大きすぎる。うちの国民と揉めるぞ」

「このへんは、カイトのおっさんと、ボーニン大将に丸投げできるな」

「くくく、酷い話だ」

「しかし、これ。市民も馬鹿にできませんよ。今後のこともある。どうしてエルフィンドの都市備蓄糧食が作戦計画の想定以上に低いのか。原因を探っておきませんと」

「確かに。同じことの繰り返しになるな」

「アルトリアはアルトカレ平原の中心地だろ? なんでこんなに少ないんだ?」

「穀倉地なのにな。どんな生活してるんだ、これ」

「まさか作戦計画の見積もり、うちの国の農法や食糧備蓄体制で計算やったんじゃないだろうな?」

「馬鹿な。三圃式と常温保存でやったよ。面積推計式を農林省に組んでもらって。そうでなきゃ、うちも含めて開戦時の現地調達をやれていないだろう」

「すると、アルトリア特有の問題か?」

「・・・そうとも言い切れんな。実際のところ、事前計算の八割から九割だという村落ばかりだ。算出値を過信せんように九掛けしてたんだがな。そのうえで、だぞ?」

「なんでだろうな? 今年は格別天候不順だったわけでもないしな」

「うーん・・・」

「農業学んだやついるか?」

「さすがに。やっておくんでしたな」

「誰かいないか?」

「参謀にはいないよ。実家が農家だったやつはいるが。それに、うちの国とは勝手が違い過ぎる」

「我々が調べていた以上に、北へ行くほど収穫量が少ないから、国土の北側に収穫穀物を送っている。アルトリアやアルトカレ全体で。それにモーリア辺りはその積み出し地だと。どうも入植地は、穀倉地帯を南進させる目的だったんじゃないかと」

「それどこ情報よ?」

「従軍してる商務省物価物流調査課係官の一次報告と、俘虜尋問」

「・・・もしそうだとすると。ダークエルフの駆逐も単純な民族浄化とは言えんのかもしれませんね。元領域に手早く白エルフ入植してますし」

「ドワーフの国を滅ぼしたのも、鉱山目的じゃないかもしれんってことか」

「・・・なるほどな。気候が作付け種類や実成に想定以上の影響を与えてるのか。しかしうちの北部州とおおきく変わらんはずじゃなかったのか?」

「観測値もそうだ。天候の問題じゃないな、これ」

「うーん・・・やはり良くわからんな。農業の専門家を連れてくるしかないぞ。農林省の次官いたよな、大本営に」

「次官は官僚だ、あてにできんよ」

「じゃあ、さしあたっては八掛けで修正値を出すとして、根本的には農学者を本土から呼んで、調査か」

「気長な話だな、おい」

「・・・農学者、農学者。いますね。いや、おられます。お一方、それも凄くちかくに」

「なんだぁ? 誰だ?」

「・・・陛下です」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・盲点だったな」

「お呼びしろ、お呼びしろ。ああ、いや、俺が行く」

「ついでに全員休憩しましょうか。コーヒーも淹れて」

「ああ。自由討議の効率効果時間が切れる。書記、議題を絞って張り出しとけ。明けたら詳細討議に移って、午前中に結論出すぞ」

「そういえば。戦前にこの会議のやり方を生み出されたのも、陛下でしたね」



 オルクセン国有鉄道OB七号型機関車という車両がある。

 あの国王専用列車センチュリースター号を牽引している、八号型ほど速くない。

 最高設計速度、時速五五キロメートル。

 だが八号型は高速客車牽引用に作られた車両で、その性能を発揮するためオルクセンの優れた鉄道車両技術を以てしてもどこかピーキーなところがあり、これと比べると七号型は力強く、粘りがあり、故障も少なく走れる、一種の傑作機だ。

 数のうえでも主力になっていて、都市間一般客車も曳けば、ときには重連になって大編成の貨車も曳いた。

 全長約九・六メートル。

 稼働時の車体重量、五一トン。

 軸式〇―四―〇。

 車輪直径一一五〇ミリ。

 ボイラー内蒸気圧一二キログラムフォース。

 これに、鉄道を知らぬ者には最早いったい何なのかよくわからない、ホイジンガー式弁装置という、だが扱う者たちに言わせるなら信頼のおける駆動用の弁装置が着いている。

 ―――モーリア北兵站拠点駅。

親父さんファーター

 出発時刻が迫り、作業帽にデニム地のオーバーオール姿という若い火夫が、やきもきした様子で、ホーム脇にある鉄道職員用軽食堂に飛び込んできた。

「ああ? もうそんな時間か」

 オーク族のなかでも飛びきり大きな見かけの、仲間内から「親父さん」と呼ばれる熟練機関士ブールが振り向く。

 服装は、若い者と同じだ。

 何年か前、南センチュリースターに輸出機関車の技術指導に赴いた国鉄職員がこれは丈夫で便利だと持ち帰ってきて、デニム地の作業服は一気に国鉄へと採用された。

 それまで軽食堂の、白いジャケットに蝶ネクタイを結んだ主と、己が本土に囲っている若い牝の情婦について、こいつは絵描きたちのモデルをしていて裸に剥いても絵具の良い匂いがするんだのどうのこうのと、いささか品の悪い猥談を交わしていた彼は、手早く主から昼食用の弁当を受け取る。

 紙に包まれた、たっぷりとしたサンドウィッチ。具はハムとチーズ。

 水筒に入れてもらった熱いコーヒーも。

「ほれ、お前のぶんも」 

「またマスタードをうんと効かせてあるのかい?」

「当たり前だ、こいつがいいんだ。目ん玉を見開くことになるからな」

「勘弁してほしいなぁ・・・」

 ぶつくさ言う若い助手を尻目に、ブールは機関席に乗り込む。

 そのとき、ちらりと後方を眺めた。

 オルクセンの軍隊貨物輸送列車は、二二両編成を基本とする。長さは三〇〇メートルほどにもなり、迫力のある光景だ。積載量も三〇〇トンを超える。

 ブールはそれが好きであった。誇りである。これを自在に操れるのだと思うと、己が磨き続けてきた腕の証でもある。眉根に真面目さが宿りつつも、子供のように心も踊る何かが未だにあった。

 既にこの編成と同じものが、アルトリアとは何編成も行き交っていた。

 距離は短く、走行側には問題はない。

 北モーリアには鉄道修理廠が設けられており、オルクセン軍鉄道輸送の大きな支えになっている。

 受け持ち車両の日常整備には、たとえ油一滴さすのだとしても、ブールのような機関士たち自身が丁寧に当たっていた。むしろ若い者などには任せておけない。ブールに言わせるならば、機関車は繊細な牝のように扱わなければならない。

 だから運転側には自信がある。

 問題は、末端兵站駅だ。

 本線側は、一日あたり一二列車強の荷下ろし。これはオルクセン軍規定でも、極めて良好に築かれた兵站駅でしかこなせない真似である。

 この困難な作業を、兵の数を使って無理やり実行することになった。

 大急ぎでホームの増設や、アルトリア市域への軌間改修も始められているが、いったい完成はいつになるやら。本当に苦しいあいだには、間に合わないだろう―――

 基本的には、本線側が軍用、支線側が市中直接荷下ろしということになって、信じられないほどの規模の、ある意味でオルクセンの国力を注ぎ込んだ大輸送は始まっていた。

「俺のはマスタード抜きでって言ったのに・・・」

「贅沢言うな。食えるだけでもありがたいことなんだぞ。兵隊さんたちゃ、いまたいへんなことになってるんだ」

「そりゃあそうですがねぇ・・・」

 ふとホームに目をやると、黄色い腕章を巻いた線区司令官のヴァルトハイム大佐が、ちょっと怖い顔でこちらを見ていた。

 ―――陰気で、いけ好かない牡だ。

 ブールはそう思っている。

 しっかりと時刻合わせをしてある懐中時計を、運転席にある時計置きに入れ込む。

 発車時間だ。

「さて、行くか。大列車作戦だ」

 ブールは盛大に汽笛を鳴らし、弁から蒸気を一吹きし、線区司令官に浴びせてやった。

 あとで管理責任者のラビッシュから何か言われるかもしれないが、くそ忙しいときに、あんなところに立っている奴が悪い。



 オルクセン陸軍進駐時、アルトリア市域は困窮を極めていた。

 パンを焼く麦はなく、牛肉は尽き、医薬品は欠乏し、民心は荒んでいる。

 暴動が起きなかったのは、これに敗北の衝撃が重なり、徒労感と絶望感が回復せぬうちに、続々と進駐してくるオーク族兵への恐怖があったからであろう。

 しかしながら、背に腹は変えられなくなった市民同士による窃盗や乱暴狼藉の類は起きている。

 アルトリア市内の治安維持役とされたのは、第八軍団第二一師団であった。

 第三軍のうち他の師団は、市域に集中するとかえって兵站線へ負担をかけるため、二個師団を市北方に送って警戒にあたらせることとしつつ、殆どの部隊が包囲戦のころのままの舎営地に留まることになった。

 第二一師団では、臨機の処理として、野戦憲兵隊を増やした。

 通常の野戦憲兵に加え、戦闘部隊から兵員を割いてこれを増強することは、オルクセン軍教令上は例外的な処置とされていたから、彼らがどれほどアルトリア市域の治安維持に配慮していたかよくわかる。

 軍団や軍に配されている野戦憲兵隊からも応援が来た。

 オルクセン陸軍野戦憲兵隊は、平時には国家憲兵隊として内務省に所属している。兵役を終えた歩兵科や騎兵科の将兵から成り、志願制。試験は厳しく、合格率もかなり低い。それだけ厳選された者たちだ。

 これが戦時になると組織まるごと軍所属となり、国家憲兵隊のうち約半数を戦地に送る建前となっている。

 開戦時に各軍へと配された野戦憲兵は、一一八個中隊。一個中隊は指揮官一、下士官一、兵六〇。

 ずいぶんと数が多いが、戦前の作戦計画では占領市域への兵の犯罪が懸念されていたから、これを防止するための存在である。

 彼らの見た目は、陸軍の一般的な擲弾兵と変わりがない。ただ、腕に「野戦憲兵」と記された緑の腕章を巻いていて、一目で違いはわかる。

 主たる任務は、軍秩序の維持、要所の交通整理、落伍兵やいわゆる脱走兵の収集及び指導、不当な徴発や掠奪の摘発。住民の保護及び伝染病の防止。

 極めて意外なことのようだが、占領地住民を取り締まることはあくまで副次的であり「住民の監視」に留まっていて、むしろ自国の軍隊の規律維持、摘発、犯罪防止へと主眼が置かれた組織である。

 住民の犯罪については、暫定的に維持されるエルフィンド側の法律に則り、エルフィンド側の官憲がこれにあたる。つまり、占領地における警察や、エルフィンドの場合治安維持にあたることとされている国民義勇兵のうち都市防護隊の一部は残される。彼女たちと共同しつつ、アルトリアの治安を維持していくことになる。

 合計で三個中隊の野戦憲兵隊がまず置かれ、さらにこれに兵二、巨狼三で編成される野戦憲兵巨狼分隊三個が加えられた。

 指揮官はエミール・グラウ少佐。オーク族。

 彼はまず、市内六つの区役所を拠点に置かれることになった、食糧配布所の統制及び整理にあたることとした。むろん、市内の巡邏は別に行う。整理にあたるのは、憲兵隊とエルフィンド官憲の混成隊だ。配布所の実務は、第三軍兵站部と、エルフィンド側官吏が担う。

 これらには臨機の医療所も築かれ、負傷市民の治癒治療にあたることにもなっていた。

「占領地住民への過度の威圧は、厳に戒めること。配給券との引き換えに住民列を如何に効率よく流すか、これを主眼に置く」

「隊長、ずいぶんと地味ですなぁ・・・それに多少は睨みを効かせませんと」

「しかし、これはこれで中々考えられた手なのだぞ、クライネシュタイグン曹長」

 市内の交通整理までエルフィンド側官憲を主体にしようとする少佐に、やや鼻白む憲兵曹長だったが、グラウ少佐は意に介さない。

「食糧の供給。これがまず何よりの秩序回復と治安維持策になるだろう。それにだ―――」

「はい」

「罹災者及び困窮者用の無償配給券もあるが、そちらはスープ提供になる。一方、一般市民用有償配給券の価格は、うちの国の市場価格に基づいている。すっかり高騰した市内物価を半ば強制的に引き下げる効果がある。これは完全配給制から市場経済移行時を楽にする。闇屋の発生も防ぐ」

 市中では―――

 馬肉、驢馬肉、兎肉、鳩肉、鯉、鶏肉、鶏卵、人参、さや豆、バター、塩バター・・・

 ほんの僅かに残った、食物の価格高騰が著しい。それは平常時の二倍から三倍であり、なかには五倍というものまであった。

 それほど食糧は欠乏していた。

 パン屋は、みな軒並み戸を閉じている。

 川魚など、籠城戦中期以降、あまりの食糧欠乏ぶりに、市民たちが網などを用意し、市中を流れる河川から漁労したものである。エルフィンドの河川に住む鯉科の魚は、食べられはするが小骨が多く、本来は食用に適さない。そんなものまで出回っている。

 闇屋の類も既に出現していた。

 兎肉、鶏肉、バターの類などはアルトリア降伏とともに商魂逞しい既占領地の周辺農家などが持ち込んだもので、彼女たちは闇屋と組んでたいへんな暴利を貪っていた。わずか一二個の鶏卵が、高価な金時計と交換されるというようなことも、まま起きている。

 これは何とアルトリア占領の翌日にはもう発生していた現象であり、民衆というものがどれほど逞しく、抜け目ないものかよくわかる。

 本来なら、これらの供給量を増やし、かつそれは既に存在する経済流通網に乗せて行うことで価格を下落させることが望ましいのだが、そこまでやっている余裕はオルクセン軍側にすらもはや無かった。

 有償配給券による強制的な物価引下げという、半ば劇薬のような措置が取られることになった。

「また兵站部曰く、各区役所を配布所にするのはこちら全体の労力を減らすためでもあるのだ。奴らのほうから取りに来させる。持ち帰らせる。これで配布の手間が最小限になる。物流上の観点のみから見ても効果は大きい。そして―――」

「・・・・・・」

「アルトリア住民たちは自覚する間もないうちに、配給券に縛られ、人足役として働かされ、配布役として動かざるを得ず、何よりも命の綱を我らに託すことになる。そうして我らに従うという行動習慣を刷り込まれていく。詐欺のような話だな。まあ、この困難な食糧配給と引き換えなわけだが。命が懸かっているだけに、奴らの選択肢は最初からまるでない」

「・・・こう言っては何ですが。極めて巧妙に仕組まれた、組織犯罪のようですな。いったい誰が思いついたんです?」

「私にもわからんよ。だが、元々の大都市占領計画には一選択肢として既に含まれていたらしい。これほど急を要し、大事になるとは思っていなかっただろうが。本当は鹵獲物資を如何に効率よく配布するためかのものだったそうだ。その場合、物資は本来エルフィンドの民のものなんだから、尚のこと酷い話だ。なんといったかな・・・ずいぶん長い名の政策の、ほんの一部だ。そう、“オルクセン経済への急速かつ効果的編入措置”だったかな」

「食を人質にしいてるようなものですな」

「うむ。考えた奴にとって、食は全ての根幹といったところなのだろうな。さて、仕事にかかろう」



 アルトリア周辺のオルクセン軍舎営地でも、もっとも危機的な「二日間」を迎えていた。

 彼らの後方、末端兵站駅側では、本来は第三軍の物資である糧食の一部がアルトリアへと運び込まれる作業が始まっている。

 つまり事情を知る者にとって、第三軍は残る手持ちが尽き、追送が間に合わなければ軍全体で飢えることを意味した。

 兵站部及び調理隊では、食事量に減量を行うことになった。

 アルトリア市域の物資欠乏が明らかになった降伏当日夕刻には、軍兵站参謀グレーナー大佐と各軍団の兵站参謀とが連絡を取り合い、手早くこの措置の実施を決めている。

 この危機がどれほどの広がりをみせ、どれほど長期化するかはまだ検討もされていなかった時期だったが、彼らは予防的措置としてこれを決めた。オルクセン軍の場合、糧食量の多少は兵の士気に直結するから、かなり思い切った決断だった。

 本来、オルクセン軍に四ランクある糧食給養量では、戦闘地域と分類されたものがいちばん多い。これを一ランク下の、占領地用に引き下げたのだ。

 既占領地における、現地調達をどうにか続ける道も探られている。

 アルトリア攻囲戦の最中から、占領地における農家や農場などと、師団単位で現地調達契約を結んでいたことが幸いした。

 防禦陣地の後方では、兵の一部が契約農場に赴いて穀物、野菜、畜獣、牛乳、酒などの調達を住民たちへと負担をかけぬよう注意を払って行っていたから、これを継続したのだ。

 もっとも大規模に兵がかかわったのは牛乳の調達で、彼らは農家の負担を減らすためにも、小隊や中隊などの部隊単位で赴き、搾乳や飼葉やりといった実作業にまで携わった。そうして牛乳缶に詰めた牛乳を連隊の補給隊へ引渡し、自部隊や同僚部隊の兵食を少しでも豊かにしようとした。

 このようななか、末端の兵や部隊では、個別に軍票や物々交換で食糧を調達する者もでて、これは黙認される傾向にあった。

 例えば補給隊に牛乳を引き渡すとき、

「・・・どうだい、一缶分けてくれないか。皆で一杯ずつ飲みたいんだ」

 などと、実施部隊の中隊長辺りが頭を下げれば、補給隊や農家側としては断りにくい。

「ああ、上には黙っておいてくれよ」

「どうぞ」

 このような些細な「努力」は、すでに日常化していた。

 兵たちがもっとも欲したのは、鶏卵である。

 牛乳はこのように調達され、供給体制に乗ることもあったが、如何なオルクセン陸軍といえども生卵を糧食給養体制に乗せることは不可能にちかく、これはたいへんな御馳走扱いであった。

 農家や、舎営の村落で鶏を飼っている家は多い。

 きちんと代金を払って、あるいは農家側が希望するヴルストなどと交換し、一名一個や二個といった具合で、どこからか調達したフライパンで焼いて食べたり、ときには住民のほうで調理してもらって、仲間と分け合った。

 目玉焼きや炒り卵は、誰もが欲した。彼らはその油までをパンで吸い、愛した。それほど渇望した。

 憲兵隊辺りとしても、これは目くじらを立てるレベルではないと判断され、第三軍担当地区のみならず、第一軍側でももはや当然の行為となっていた。

 つまり兵レベルでは調達をやらせないというオルクセン国軍参謀本部が立てていた戦前計画は、事細かな部分ではとっくの昔に計画倒れになっていたことになる。

 一四万名の俘虜、アルトリア市民、そして第三軍への追送はどうにか間に合った。

 それは血の滲むような努力であったといっていい。

 末端兵站駅では、貨車からほぼ直接的に食糧や飼葉が輜重馬車へと移されるかたちとなり、各部隊へと送られた。膨大な数の兵がこれに携わって、第八師団などはほぼこの専属のようになった。

 輜重輸卒や補助輸卒をもっと北上させようという意見も出たが、これは現地の食糧事情を悪化させるだけだとして、実施されなかった。

 一時的な措置だとして、供給が諦められた物品もある。

 酒類だ。

 酒の運搬は、容量を使う。このため早々に切り捨てられた。

 この措置は兵たちへ与える影響が大きいとして、実行に移すまで伏せられている。

 発表されると、まず各連隊に同行している酒保から、その扱い品目にあった火酒などの酒類が一瞬で枯渇した。兵たちが挙って買い求めたためである。

 各部隊や兵たちが、なんとかして手に入れてやろうという品に、酒が加わった。

 兵たちは、鶏卵のように、地元民からそれを買い付けることが多くなった。

 このようななか―――

 兵たちに供給される毎日のスープに、ちょっとした変化が起きた。

 やたらと、具材にエンドウ豆が出るようになったのだ。

 のちオルクセン軍名物となる、「エンドウ豆スープ」の始まりだった。

 これはそれ以前もメニューにはあったのだが、素材となるエンドウ豆が大きな水煮缶詰で調達及び供給できる、運搬も保存も容易だというので、この兵站危急時期の第三軍にはやたらと出ている。

 メニューは、一種類というわけではなかった。

 一例を挙げると、野戦炊事馬車の巨大な鍋でまずベーコンを炒めて旨味と油を出し、ジャガイモ、人参などの野菜を煮えにくい順から入れる。しばらく煮て、ここに水煮缶詰から開けたエンドウ豆をどっさり。それはもうどっさり。最後に味を調える―――

 嵩増しを図った結果である。

 これがコンソメに入り、塩スープに入り、シチューに入ってきた。

 アルトリア市民を思えば、食えるだけ幸せとも言える状況であるが、兵たちとしては食傷気分に陥ったのもまた、やむを得ない。

「なんだ、またエンドウ豆か・・・」

「この缶詰屋、エンドウ豆しか作ってないのかよ・・・」

「ぶつくさ言うな、食べたくなけりゃ別に俺はいいんだぜ」

「食うよ・・・食うってば・・・」

 配給体制のそこかしこで、そんな恨み節が広がった。

 兵と、調理兵とが掴み合いの大喧嘩になりかけることもあった。

 調理兵たちも懸命である。なんとか目先を変えようと、ベーコンと合わせ、ヴルストと合わせ、味付けも塩やコンソメ、シチューなどと、違いを持たせた。

 オルクセン最大の缶詰メーカーであるブラウフラッゲ社は、このエンドウ豆水煮缶を大量生産し、この戦役でずいぶんと大きな会社になっている。

 毎日、毎日、呆れるほどの量を工場から吐き出し続け、それは本国の集積廠、軍の野戦集積廠、軍団の野戦集積廠、師団補給部、連隊段列と流れ続け、鉄道で運ばれ、輜重馬車で運ばれ、野戦炊事車で煮られ、恨み節とともに兵たちの口へと消えていく。

 軍とすれば、調達物品のひとつに過ぎない。

 だがまさかこれほど多用することになろうとは、計画を立てた当事者たちさえも考えていなかった。

 前線部隊の恨み節を反映し、レンズ豆や、ヒヨコ豆などとバリエーションが増えるのは戦後のことで、この戦役にはとうとう間に合っていない。

 酒が消え、糧食のメニューに不平が出るなか、軍はそのような事態に手をこまねいていたばかりではなかった。

 嗜好品を配布する努力も払われている。

 酒類より、ずっと輸送負担が少ない、煙草類が兵に配られることになった。

 兵一名一日あたり、葉巻二本と、紙巻煙草七本。

 そんな規定が用意されたが、これもすぐには果たせず、紙巻煙草ばかりが前線に届けられた。

 むろん、兵たちから銘柄までは指定できない。

「お、ゴルデンだ!」

「ほんとだ、ゴルデン・フレーダーマウスだ! 吸おう吸おう!」

「ああ、ゴルデン吸わずに死ねるか!」

 本国で人気の銘柄が届いた日には、それだけでもうお祭り騒ぎになり、車座が出来て、皆で競うように吸った。

 喫煙習慣を持っていなかった兵たちでさえ、煙草を嗜むようになった。

 そして煙草は一度覚えると、例えどれほどの聖人賢者の警句であろうが、哲学書の束であろうがもう敵わない、魔性の魅了である。

 オルクセンという国家にとって、紙巻煙草が一挙に普及した背景には、この戦役が果たした役割は大きい。



 綱渡りの供給体制は、ずいぶんと続いた。

 オルクセンほどの補給体制を持つ国でさえ、余裕を生み出すことが出来ず、それは俘虜の後送が本格化するまで一向に収まらなかった。

 膨大な食糧や医薬品、燃料用石炭などが、言ってみれば、ただ軍が停滞するというその一事のために消費されていった。

 事態に最初の大きな変化が訪れたのは、新年が明けてからのことだ。

 アルトリア市民が見守るなか、一団の河川輸送船と艀が、同市に到着した。

 彼らは汽笛を吹き鳴らし、市民の側からは期せずして歓声が起こった。

 それは第二軍の占領地域から、シルヴァン川を遡上し、モーリアから支流に入り、アルトリアへと到着した内水運輸送であった。

「頼りにしていなかった輸送手段が、最後の頼みの綱になった」

 と、参謀たちは評している。

 モーリアからアルトリアへと河川輸送が行われることになった際、

「うちからも送れないのか」

 と、言い出したのは、この局面にはまるで関係がないと思われていたベレリアンド半島西部の、第二軍司令部側だ。

 アウグスト・ツィーテン上級大将の司令部が、元々エルフィンドの入植地域に存在した細々とした河川輸送に目をつけ、自身の軍にある備蓄物資のうち余剰分を第三軍に届けられないかと、兵站総監部に提案したのである。

 第二軍自身は、当面、戦闘に出る予定はない―――

 鹵獲の川蒸気船と艀とが使われることになって、おもに燃料用石炭が第二軍の担当地域からアルトリアへと届けられた。

 石炭の供給をそちらに頼ることが出来るなら、輸送列車の食糧や医薬品積載量を増やすことが可能になる―――

 これが最初の、僅かな、ほんの僅かな余裕を、ようやく生み出すことに成功した。

「ツィーテンの奴に、また背中を助けられたわい・・・」

 第三軍司令官シュヴェーリンは、西の空を眺め感謝した。

 あのロザリンド会戦では、唯一組織的にまとまり続けたツィーテン大将の軍が全軍崩壊をかろうじて防いだし、デュートネ戦争では彼の軍がシュヴェーリンら本隊の背後を守ったのだ。

 猪突猛進するシュヴェーリンを、その盟友がどれだけ救ってきたことか。アウグスト・ツィーテンは、ベレリアンド戦争でも同様の役割を果たしたのである。

 それは公刊戦史においてさえ、ずっと扱いの小さな役割だった。

 このとき第二軍がやったことは、華々しい戦場の勝利でもなければ、どこかの街を落としたのでもない。

 だが第三軍を辛うじて兵站崩壊危機から救う、最初の一働きを担った。

 のちの戦局に与えた影響を思うなら、この戦争いちばんの働きを、ツィーテン大将の第二軍は果たしたと言える。

 第三軍兵站危機の全てが去ったわけではない。

 彼らの末端兵站駅には、大量の砲が並べられていた。小銃の類もある。

 故障兵器である。

 ヴィッセル砲ほど優秀な火砲でも、一度戦場に投入してしまえば、それは必ず何処かで発生した。

 あれほどの大砲撃戦をやったあとだったから、その数は多かった。

 これを集積し、後送し、送り出した砲兵隊は新しい火砲を受け取らなければならない。

 平貨車に積み込み、鉄道で送り出し、また新品や修理品の到着を待ち、部隊が受け取って、などという膨大な作業が待っている。

 その作業は、自軍の傷病兵や、膨大な俘虜を後送する列車が優先されて、この兵站危機が去ろうとする時期まで先送りにされた。

 第三軍が再び備蓄を果たし、弾薬を補給し、前進を再開できるようになるのは、ずっとあとのことだった。

 一方、ツィーテン上級大将に深い感謝をそっと捧げていた、シュヴェーリンはといえば―――

 肩にある階級章が、真新しいものへと変わっていた。

 アルトリア要塞陥落の報が総軍司令部へと伝わった一二月二四日、シュヴェーリンのもとに一通の電報が届いた。

「元帥昇進おめでとう、シュヴェーリン。グスタフ」

 短かな短かな一通だった。

「・・・あ」

 受け取ったシュヴェーリンは、呆けたような顔をした。

 まるで頭になかった、という顔だった。

 ―――オルクセン陸軍における元帥位は、要塞を陥落させた者に与えられる。

 その規定要件を満たしたのである。

「おお・・・おお・・・」

 ブルーメンタール参謀長以下が次々に歓声と祝意を述べるなか、ただただ呻いたアロイジウス・シュヴェーリンが、本当に規定要件について念頭になかったかどうかはわからない。

 彼は本来たいへん知性に優れた牡だったし、また彼の司令部参謀たちには気づいていた者も多いだろう。

 だが少なくとも彼はその場ではそのような反応をし、これが伝わった第三軍の将兵たちは、如何にも我らが親父だと、喜んだ。

 グスタフをも承知したうえでの、一種の腹芸であったのだとされている。



 要塞の陥落に喜び、シュヴェーリンの元帥昇進を祝し、兵站危機に苦闘し、エンドウ豆に悪態をつき、鶏卵に狂喜し、どうにか酒を手に入れてやろうと知恵を凝らし、煙草の煙に咽る兵たちの背後、足元では。

 冬穀のライ麦が徐々に育ち、青々とした姿で、冬枯れしたエルフィンドの大地に逆らうように伸びようとしている。

 まだ、この時点では誰も理由がわからなかったが。

 それは、オルクセン軍の占領地域において例年より発育が良かった。戦場にならなかった地域でさえそれが起きていて、エルフィンドの白エルフ族たちに首を傾げさせていた。



(続)

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