第22話 おおいなる幻影① 非情の海 上編

 一一月も半ばを迎えると、各国からの観戦武官や従軍記者がオルクセンを訪れはじめた。

 星欧にとっては、久方ぶりの近代戦争である。

 彼らの関心は高かった。

 ここ近年のあいだに生まれた新しい兵器、新しい戦術。そういったものが、戦争にどのような影響を及ぼすのか。果たして己たちが採っているものは正しいのか。

 あるいは、知的好奇心、公共性や社会性のための報道希求。

 またこのベレリアンド戦争の場合、魔種族国家同士の戦争であるという、特殊性も存在した。

 周辺国の人間族たちにとって、見識と知識と常識のある者以外には、いまだ魔種族や魔術とはファンタスティックな想像の延長線上にあった。

 彼らは火が吐けるに違いないだとか、一瞬で万物を凍りつかせることが出来るだとか、あるいは酷いものになると空間を転移できるに違いないといった無責任で無邪気な想像が囁かれていた。

 彼らはそれも―――魔術や魔種族という存在が戦争にどのような影響を及ぼすのかも、知りたがった。

 一例を挙げれば、彼らのなかには、開戦と同時にオルクセン軍約五〇万が奇襲的にエルフィンド国境を突破したと知って、あり得ない、そんな馬鹿な、魔術を用いたに違いないなどと、半ば本気で信じる者もいた。

 こういったとき、相互に観戦武官や従軍記者を送り合うのは、もはや星欧世界にとっては当然の習慣で、オルクセン外務省は自国の主張の正しさを広めるためもあり、積極的に受け入れた。

 奇妙なまでの協調といってもいいかもしれない。

 例えばグロワールやアスカニアなどは、オルクセンにとって仮想敵国である。

 そのような国々からの観戦武官、従軍記者もあった。

 彼らも丁重にして慇懃、礼節に則って遇された。

 例え内心どのように思っていようが、背に武器を隠し合っていようが、このような場合は社交性や外交性を優先して握手し合うのが星欧にして近代だ。

 互いに承知のうえでのことである。

 見たいもの、隠しておきたいものもあれば、知りたくもなかったこと、見せつけてやりたいこともある。

 そのような思惑の数々が、何もかも混ざりあい溶けあったような、「協調」。

 エルフィンド側が、キャメロットとしか実質的な外交上の付き合いがなかったという点も、オルクセン側への観戦従軍希望を加速させた。

 幾つかの国は、在キャメロット駐箚のエルフィンド政府公使館を通じて観戦と従軍とを申し込んでみたのだが、まるで返事を得られることはなかった。

 それをエルフィンドの秘密主義と捉え、腹を立てる諸外国政府も多かったが―――

 実際のところ、このとき、そのような余裕がエルフィンド側にはなかったのだというのが真相にちかい。

 彼女たちは突如として、そう、彼女たち自身の感覚としては突如としてオルクセンに戦争を吹っ掛けられ、侵攻され、初戦の国境部における戦闘の数々に敗北し、混乱の極みにあった。

 また、このような場合、エルフィンド政府内において関係官庁との協議と決断を行うはずだった、エルフィンド外務省の幹部たちが一時的に不在になっていたという影響もある。

「構え・・・撃て!」

 外務省幹部たちが外交交渉においても宣戦布告の伝達においても、たいへんな失態をやらかしていた事実が明るみに出ると、国内的にはこれを隠匿しつつ、開戦から一週間ほどのところで政権当局は彼女たちを捕らえ、エルフィンド首都ティリオン郊外の城塞跡を利用した刑場にて銃殺刑に処していた。それぞれの氏族の名誉に配慮して、公式には、事故死、病死などとされた。

 統治者たる女王自身は、この国難に際しそこまでのことが本当に必要なのかと内心思っていたが、かつて自身の希望を貫いた行動が統治上の混乱を引き起こしてしまって以来、政治的には黙していることが多く、周辺の側近たちは国難に際しての引き締めが必要だからこそと、これを断じて強行した。

 いまは有力氏族間において、空席となった政権ポストの後任を何処の氏族から輩出するか、ではそのバランス感覚においてどの氏族から後任幹部を選び出すかという、彼女たちにしてみれば必要不可欠な、抑制の効いた典雅な所作と言葉遊びとで糊塗した、政治的暗闘を繰り広げているところだった。

 ―――我らに間違いなどない。あってはならない。あろうはずがない。世界一優れた、世界一美しい種族だ。かつて我らを導き慈しんでくれた偉大なる指導者は、そう仰ってくれた。何としてもその遺訓伝承を護らねば。これは例え女王といえども例外ではない・・・

 結果として、各国の観戦武官と従軍記者は、オルクセンに集中した。

 戦地において、どの方面でこれを受け持つのか、あるいは彼ら自身の希望を汲んで各所に配するのか、戦局の推移や安全性の問題もあり、彼らは首都ヴィルトシュヴァインの一流ホテルにてしばし待機させられたが―――

 この間、オルクセン国内の報道機関各社は一足先に、記者や、あるいはやっと実用的となってきた写真技師から壮健かつ根性のある者を選んで従軍班に仕立て、陸軍省や海軍省の許可なども得て、戦地へと送り込みはじめていた。

 初動の速さ、移動経路の短さからいって、ベレリアンド半島に入り込む第一陣が彼らとなったのは当然のことである。

 従軍希望先としては、第一軍の担当地域へのものがもっとも多かった。

 王グスタフ・ファルケンハインがこれを率いていたこともあったし、同方面へと従軍すれば、陸軍の新戦場跡を見ることもでき、ファルマリア港の海軍大勝利跡を見ることもできるであろうというのが、その理由だった。なるほど、報道機関の者たちの「鼻」は鋭敏であったと言えよう。

「オストゾンネ紙、フランク・ザウムと申します。本日はよろしくお願い致します」

「ええ、こちらこそ」

 ファルマリア港の宿営地で、アンファウグリア旅団長ディネルース・アンダリエルは、そのオーク族の記者を出迎えていた。

 オーク族らしい巨躯。顎は角張っているようで、丸みもある。目は細いが、目尻が下がっていて童顔のように見えた。声は高い。どこか愛嬌のある牡だった。

 ちかごろ流行りのラウンジ・スーツに、戦地での行動のしやすさを考慮してか、足元にはゲートルを巻いている。

 総軍司令部からは、従軍記者や観戦武官へは礼節を以て接せ、軍機面は保護しつつも出来得る限りの希望は叶えよという布告が出されていたから、ディネルースはこの記者にコーヒーなども出してやり、旅団参謀長イアヴァスリル・アイナリンド中佐とともに応接していた。

 旅団は、第一軍団全てが交代でとっている休養から戦列復帰を目指して、補充兵なども受け入れ、訓練体制へ転換しつつあるところだ。

 アンファウグリア騎兵の兵一名あたり携行小銃弾薬数は、四〇発。山岳猟兵で七〇発。これを旅団の弾薬段列から補填し、更に軍の弾薬詰換所から補給を受けるという作業も当然存在した。砲弾も同様。

 故障や損傷した兵器類があれば、兵器廠に送られる。病傷馬は収容所や集合所を通じて病傷馬廠に後送。代わりに補充馬を受け入れる。もちろん、負傷者の野戦病院における治癒も行われる―――

 軍における兵站とは、後方から一線へと補給や補充を送り届ける作業だけではない。

 後送もまた発生する。

 往路があれば、復路もあるのだ。

 そちらのほうが重要だと捉える者もいるほど。

 オルクセン軍の場合、負傷者はエリクシエル剤で急速に癒すことが出来たし、死者はそのため抑え込むことが出来たので、その点は人間族の軍隊よりは負荷が少なかったものの、戦闘を経た部隊の、休養と補充の必要性は変わらない。

 これを行わなければ、部隊の戦力としての価値、能力、実態といったものは急速に低下していくことになる。この間隔をどれほどしっかりと与えてやれるか、それは戦局の情勢が大きく影響するし、それが軍隊そのもの、あるいは国家そのものの力だとも言える。

 そうして休養による弛緩状態から、徐々に訓練量を増やし、戦線に復帰する―――

 アンファウグリア旅団は、そんな状態の過程にあった。

 一方のザウムは、この戦争の開戦からを第一軍の動きを中心に時系列で追おうとしており、旅団が開戦時に行った迅速な橋頭保拡大について興味を持っていた。

 面白いことをやる牡だなと、ディネルースは感心している。

 例えばベラファラス海戦やファルマリア港の陥落といった、大きな戦闘が既に起きている。アンファウグリア旅団だけを見ても、ファルマリアの追撃戦がいちばん大きな戦果だった。目先にある、受けのよいものを記事にするほうが記事を書く者としても手軽で、やりやすいはずだ。

 そう素直に口にしてやった。

「それになかなか根性もおありだ。ここは最前線に近い」

「えへへ、丁寧な取材に丁寧な記事。それが当紙全国三〇〇〇万読者の求めるものでして」

「殺し文句ですな」

 三〇〇〇万とは大きくでたな。オルクセンの国民数は三五〇〇万だというのに。

 失笑すら誘いかねない、ひとあたりのよい牡であった。

「仲間内からは、スッポンのザウムと呼ばれております」

「・・・スッポン?」

「ええ。スッポンてやつは、食らいつくと離さない生き物でして。まぁ、そんな新聞記者根性を表した綽名といいますか」

「ふふふ。なるほど」

 彼は熱心に初戦の様子について取材したあと、この素晴らしい戦術に何か名のようなものはあるのですかと尋ねてきた。

「名前」

 鸚鵡返しにしてしまうほど、困った。  

 軍事行動としては橋頭堡拡大だし、その後は進撃路の確保を目指したもの。

 確かに、敵の虚を突くほどの急進撃ではあった。

 ただそれも、奇襲効果が大きい。

 現地調達に主眼を置いた身軽な行動が機動性を良好にし、とくに水や飼葉類を現地調達できたことに助けられた。

 騎兵としてあそこまで占領地を拡大できたのは諸兵科連合部隊であったから。密接な連携は、全員が全員、魔術通信をやれたため。支援を行ってくれた、大鷲軍団による空中偵察の効果も大きかった。

 どれもこれも既存の戦術を組み合わせたもので、とくに名など無い。

 魔種族の軍隊で、かつアンファウグリア旅団だからこそやれたと言える部分も多いが、あの局面だったからやれた、まるで幻のようなものだったと思える点もある―――

「そうでしたか。うーむ、何か読者に分かりやすいものがあるといいのですが」

 彼は、新聞記者という生き物らしく、やや不躾なまでに遠慮なくキョロキョロと室内を見渡した。

 その視線が、ディネルースの執務卓にあった、火酒の陶器瓶に目を留める。

 例のグスタフから贈られた、稲妻に猪が打たれている絵柄のあるやつだった。

 しまった、仕舞いそびれていたなと若干の赤面を覚える彼女へと、その銘柄を読み取ったザウムは、

「そうだ、電撃ブリッツ電撃戦ブリッツクリークというのは如何です? ぴったりじゃありませんか。そうしましょう、そうしましょう」

 後世、歴史に残ることとなる命名をした。



 一一月一三日。

「出港。各艦、所定の如く続航せよ」

「前進びそーく」

「旗艦の航跡に続けー」

 オルクセン王国海軍オルクス・マリーネ荒海艦隊ラウゼー・フロッテは、残存エルフィンド海軍艦艇の捜索を開始した。

 ベラファラス湾ファルマリア港からの出発である。

 各艦、艦隊給炭艦と海軍傭船の給炭船が持ち込んでくれた良質な無煙炭、そして給養船が運んだ食糧、甘味などをたっぷりと積み込んでいる。砲弾もやはり補充を受けたし、真水はファルマリア港から補給した。

「こりゃいい水だな」

「うん、美味い水だ」

 ベラファラス湾海戦の直前のことになるが、なにしろまさかあれほどの勝利を収めるとは誰も思っておらず、きっと我が艦隊の大半は沈む、我らは今宵までの命、などと多くの艦がここを先途と思い極めており、艦長以下の機転により、艦内酒保から菓子やラムネリモの類をみな乗員に配ってしまうという措置をとっていた。

 酒保の販売物は、本来は乗員の自弁購入になる。会計を纏めておいて、各自が給与支給時に決済される。しかし沈めば無駄になるだけだというので、海戦前の景気づけもかねて、盛大に無料で振舞う艦ばかりだった。

 おかげで保存菓子や菓子材料類は多くの艦で底をついており、これを補充することは大飯ぐらいのオーク族水兵を主体とするオルクセン海軍にとって、何よりも必要なことでもあった。

 オルクセン海軍艦艇の居住性は、高くない。

 むしろ低い。

 元々は沿岸防備を主眼とした海軍の、その艦艇たちであったし、オーク族の巨体ゆえに居住区や艦内通路、ラッタルなどは体感として狭かった。

 このためオルクセンの艦艇は周辺国の同規模艦艇より、やむを得ず乗員の数を一割から二割ほど少なくしている。あとはオークの強靭な体力で、ひとり二役も三役もこなし、補えというのである。

 結果としてこれが、しばしば将兵への過重労働となって、日常的な航海にさえ顔を出した。

 とくに士官や下士官、コボルト通信兵たちへの負担は大きく、日に五直交代のはずの当直体制は、やれ波が高くなった、風が強まった、訓練だ、何だ、などと急を要するものが生じれば、あっという間に崩れ去ってしまう。

 そのような環境にあって、何よりの楽しみは食事と酒保である。

 海軍の側でも、気を使っていた。

 蜂蜜がたっぷりと入り、香辛料、ナッツ、オレンジの皮などを練り込んだクッキー。

 ドライフルーツそのものや、あるいはこれを混ぜ焼き上げた保存パン。

 やわらかく、岩塩をまぶした棒パン。

 独特のくびれた瓶に入った、ラムネリモ

 兵たちはこれらを挙って食べたし、艦長の許可があり号令がかかると、オルクセンの艦艇では酒類を買うことも出来た。おもに、麦酒と火酒。

 出撃のこの日の前夜には、たっぷりとした小麦のパン、薄く叩いて伸ばしたポークカツレツ、卵のスープ、生野菜のサラダ、牛乳が出た。

 カツレツはオルクセン海軍艦艇の名物料理であり、新鮮な卵料理は給養条件のよいときでしか出せない。生野菜のサラダと牛乳は、船乗りたちにとって何よりのごちそうである。どちらも、航海が始めれば間もなく尽きてしまう。オルクセンの艦艇には冷却系刻印魔術式を施した保管庫があったため、他国よりはずっとマシだったが。

「こりゃ、リョースタ撃沈の前祝いだな!」

「美味い、美味い!」

「よく食うなぁ、お前らは。敵わんよ」

 士気は大いに高まり、出港したのであるが―――

 この探索行、オルクセン海軍は実に恵まれていなかった。

 運に見放されていたといってもいい。

 出撃は、マクシミリアン・ロイター大将直率の旗艦レーヴェ以下、一等装甲艦三隻、二等装甲艦二隻、甲帯巡洋艦四隻、水雷巡洋艦一隻。計一〇隻。

 残りの海軍艦艇たちは、交代でファルマリア港の防護や、海上輸送線の護衛につく。

 隊は単縦陣となって進み、南はファルマリア港、北はベレリアンド半島北端までの東部沿岸約二三四海里、四三三キロを捜索するのである。

 エルフィンド東部沿岸には、ファルマリア港以外の幾つかの港はあったし、深く鋭く入り込んだフィヨルドも多い。

 こちらの位置を暴露してしまうため、魔術通信を思慮分別なく使うことも出来ず、封止した状態でもある。

 一〇隻の艦艇には、あまりにも広かった。

 エルフィンド東部沿岸部には幾らか要塞砲などもある。制海権をほぼ握ったとはいえ敵地である事実に変わりはなく、あまり深入りも出来ない。見張り台から双眼鏡を用い、港やフィヨルドなどを望見するだけになる。

 当直に就く者、とくに各艦のマスト見張り台に立つ者たちは、外套を着込み、マフラーを巻き、それでも合成風力と相まった寒気に震えながら懸命の望見に努めたが、何の成果も上がらない日々が続いた。

 ベラファラス湾からヴィンヤマル大灯台を抜け、北上。ベグラスト湾、ブラバソル湾、ニムラス湾、バラル湾、半島中北部以北のフィヨルドの点在する海岸線―――

 荒海艦隊は、どうしても残存エルフィンド海軍艦艇を捕捉することが出来なかった。

 このとき、オルクセン海軍を苦しめたものが二つある。

 ひとつは、雷だ。

 この天候現象、どういうわけか当時は不明だったが、魔術通信に引っかかった。遠雷が発生すると、これがまるで何処か遠方で魔術通信を交わしているかのような具合で探知に入り、コボルト通信兵たちが実に苦労をした。

 ―――すわ、エルフィンド艦隊発見か!

 通信兵たちの探知報告に全艦色めきたち、その方角へと針路を向けてみれば、何もいない。軍艦はおろか、漁船一隻見つからない。それどころか低気圧帯に自ら突っ込んでいく結果になった。そうなると、波も荒れる。

「どこが敵だ! 敵は敵でも船乗りの敵じゃねぇか!」

 そんなことが二度三度と起きれば、もはや誰も通信兵たちの探知情報を信じなくなってしまう。

 荒海艦隊司令官ロイター大将はこのような空気を諫め、たとえ虚探知といえども胸を張って報告をするよう、コボルト通信兵たちを慰めた。萎縮させてしまえば、もし本物の探知を得たとき、報告が上がらなくなる―――これを懸念したのである。

 いまひとつ彼らを苦しめた存在が、霧だ。

 既に冬季に入っている。

 ベレリアンド半島沿岸部では、霧や霧雨の発生する時間帯が増え、しかもこれは北上すればするほど酷くなった。

 たいへんな濃霧に遭遇することもあり、こうなると視界僅かに一〇〇メートル以下などという事態もあり得た。

 艦隊速度は落ちるばかりとなり、むろん、沿岸の望見など不十分、不可能となる。また、これ以上の続行は航海そのものの危険を招く―――

「うむー・・・参謀長、どうもいかんな・・・」

「はい・・・」

「やむを得ん・・・引き返そう」

 探索開始から七日目、やや薄れた霧の状態を見計らって、ロイター提督は決心した。

「信号。艦隊針路、一五〇度」

「しんごぉぉぉう。艦隊針路、一五〇度!」

 この変針運動を行った直後―――

 オルクセン海軍、開戦以来最大の悲劇が彼らを襲った。

 甲帯巡洋艦スマラクトと、装甲艦パンテルの衝突である。

 艦隊の最後尾近くにいたスマラクトは、旗旒と発光の両方でなされた信号を見落としたものか、直進を続けた。

 そうして前方艦がいないことに気づくと、右側方に煌めく燈火を認め、これぞ前方艦だろうと思い、少しばかり慌てて続航の舵を切った。

 この燈火がどの艦の何であったのかは、どうもよくわからない。

 各艦は魔術通信は封止されていたために、これを使って互いの位置や機微を確認することをやらなかった。またスマラクトでは本来三名以上配置されるべきコボルト通信士が、あのベラファラス湾海戦における魔術通信上の衝撃により一名本国病院送りとなっており、この航海の初っ端から当直体制が崩壊していた。

 コボルト通信兵は艦の貴重な容積の一部を割いて、専用の一室、魔術通信室を与えられているが、過剰勤務体制下による連日の魔術探知により疲労困憊、頭蓋のなかはクラッターがかかったようになっていた。

 そうして、両者の針路が海図上の一点で交差した―――

「取舵だ! 取舵! 避けろぉぉぉぉぉ!!」

 濃霧のなかから左前方に黒々とした艦影が現れ、その相手艦上から絶叫が響いたかと思うと、もういけなかった。

 スマラクト艦長はとっさに取舵一杯、後進全速を発令したが、間に合わない。

 パンテルの艦首が、回頭中のスマラクト左舷側方に衝突、突入した―――

 最悪の結果だった。

 パンテルには、衝角がある。

 よりにもよって、一撃必殺を目指し、敵艦の腹部を貫くために設計された堅固で鋭い衝角が、水線下の防禦など無きに等しい巡洋艦に突き刺されば、その結果は火を見るより明らかである。

 両者の排水量には、差もある。

 装甲艦パンテル、排水量三八〇〇トン。

 巡洋艦スマラクト、排水量二八〇〇トン。

 大きなパンテルが、同艦と比べれば一回り小さなスマラクトに圧し掛かったような格好になった。

 おまけに両艦とも行足がついていたため、パンテルの衝角は、スマラクトの舷側部を切り裂くようなかたちになったうえ、パンテルは被害拡大を防ぐためもあったとはいえ機関後進をかけて離れてしまった。

 出来上がった巨大な破孔から、海水がどっとスマラクト舷側艦内に流入する。

 このとき既に回頭を終え南下しつつあった艦隊の先頭艦たちには、両艦の衝突音が鈍く伝わったものの、詳細まではわからない。

 何事かと騒めく旗艦レーヴェ艦橋に、緊急時ゆえに出力を絞って封止を破ったパンテルの魔術通信が届く。

 ロイター大将はとっさに命令を発した。

「封止解除! パンテル、スマラクト衝突するものの如し。全艦注意せよ!」

 この注意喚起が発せられたときには、もう衝突から約一五分が経過していた。

 各艦では短艇を派出しようとしたが、濃霧のなかのことである。

 躊躇しているうちに、

「我、四区画に浸水。救助を要す」

「我、全区画満水。救助を要す」

 次々とスマラクトの至急報が飛び込んできて、もはや同艦の沈没は必至であると感得された。

 スマラクトでは―――

 艦長ザイフェルト中佐が総員離艦を発令、傾斜した上甲板に集結した乗員たちが短艇や汽艇に乗り移った。

「急げ、急げ! だが慌てるな!」

 下士官たちの叱咤が飛び交う。

 ザイフェルト中佐は副長に対し、

「こんな大事なときに、こんなことで艦を失ってしまって。母なる祖国と、陛下に申し訳が立たん・・・ 俺は残る。行ってくれ」

 握手をして別れると、このころ急速に普及をはじめていた紙煙草を咥え、艦橋に残った。煙草に火は点けたという説と、点けなかったという両方の説がある。

 しかしながら。

 おそらく、そのような余裕もないまま、彼らは最後の瞬間を迎えたのではあるまいか。

 このとき、既に左舷側へ大傾斜を始めていたスマラクトは、艦長も副長も、艦内で脱出困難となった乗員も、その全てを抱え込んだまま一挙に横転をはじめた。艦からは、横転のその瞬間までコボルト通信兵たち必死の救助要請が飛び続けていた。

 短艇や汽艇も、最初に脱出した一艇を除くと、残り全てが沈没するスマラクトが起こした渦巻く海に飲み込まれ、これは決死の覚悟で飛び込んだものの充分な距離を取れなかった水兵たちも同様である。

 霧のため、本格的救助もままならなかった。

 既に海水温が低温となっていた、冬季の北海での事故でもある。

 ゲパルトに救助された者以外、殆ど助からなかった。

 死者一七四名。救助一六名。

 開戦以来の大惨事となった。

「・・・・・・」

「なんてことだ・・・」

 悄然とするロイター提督は言葉もなく、艦隊参謀長もまた二の句を継げなかった。

 しかも―――

 このとき、彼らが反転した地点から僅か六キロ先にあるフィヨルドの奥底に、リョースタ以下敵艦隊が潜んでいたことがわかったのは、戦後になってからのことだ。



 この時期、海軍全体としては更に彼らを懊悩させた事態があった。

 沿岸監視哨群の不手際だ。

 俄に作り上げられた北海沿岸部の監視哨による哨戒体制は、確かに見た目や配員だけは急速に整えられた。

 しかし、この基本計画を立てた作戦の天才エーリッヒ・グレーベンとその部下たちは、言ってみれば陸軍の軍人であり、根本的なところで海軍や海というものに対する想像力を欠いてしまっていた。

 ―――俄仕立ての、とくにおかの者たちには、艦型艦影の見分けはつかない。

 この点である。

 監視体制構築において即時性を重んじたため、艦型識別のための、彼らへの教育もまだ充分に行き届いてなかった。

 結果として各地に作り上げられた監視哨群のうち、地元警察官や陸軍の後備兵、あるいは国民義勇兵を配したものは、次々と誤報や虚報を発した。

「我、リョースタ発見せり」

「エルフィンド艦隊発見」

「敵らしきもの、一〇隻見ゆ」 

 それら殆どは、沿岸を行く徴用輸送船やその護衛の艦を誤認したもの、ひどい例となると漁船、海鳥の群、雲の影、波のうねりといったものの見間違え、あるいは興奮や緊張などが生み出した全くの幻影だった。

 一〇隻などという報告に至っては、もはや残存エルフィンド艦艇の陣容を理解していない。

 彼らには、何もかもが敵艦や敵艦隊に見えた。

「おいおい・・・ これじゃ何か? リョースタが何隻もいることになっちまうぞ」

 情報の集積先となった海軍最高司令部の参謀たちは、困惑し、当惑し、頭を抱えるばかりとなった。

 ブラウヴァルト州ドラッヘクノッヘンに在住するオーク族音楽家ヨハネス・ラームストが、そのような騒動の一端を体験している。

 ラームストは、数々のロマン派音楽を世に送り出したオルクセンの誇る大作曲家であるが、このころ、自然や静かな環境での創作を愛する彼としては、開戦の喧噪と熱狂に包まれる首都ヴィルトシュヴァインの様子に若干の嫌気を覚え、生まれ故郷であるドラッヘクノッヘンにあった別荘に滞在していた。

 そこへ既に顔なじみとなっていた近所の巡査が、黒シャコー帽にダブルブレストの外套という制服姿やってきて、

「先生! 双眼鏡か望遠鏡をお持ちじゃないですか!」

 興奮気味に尋ねてきた。

「あるよ。あるが、どうするのだね、そんなもの」 

「新しく出来る監視哨で、エルフィンドの奴らが来ないか見張るんでさ!」

 巡査は、自宅から持ち出してきたという鳥撃ち銃を携えていた。

 彼の言うところの「エルフィンドの奴ら」が出現すれば、それをぶっ放してやろうと思っているというのである。

 ラームストは、呆気にとられた。

 ―――こんなことで大丈夫なのか。

 そのように思えた。

 巨大な軍艦に鳥撃ち銃など効こうはずもなく、またラームストの所持している双眼鏡は劇場で使うオペラグラスである。

 いったい何ほどの役に立つのかと訝しみつつも、彼はそれを巡査に貸し出し、巡査は喜び勇んで哨戒任務へと向かった―――

 オルクセン北海沿岸部の殆どの監視哨周辺で、こんな光景が繰り広げられていた。

 国の役に立ってやろう、この戦争に寄与、貢献したい。

 そんな情熱ばかりが先だって、空回りしていた。

 ラームストは、そのようなオルクセン国民の姿に危惧を覚えたのだが。

 不幸にもその懸念は、的中してしまう。



 エルフィンド政府は、勝利を欲していた。

 小さなものでもよい。

 開戦以来の混乱と敗北のなかで、例えどのようなものでも構わないから勝利が必要だった。それが国内感情を引き締め、盛り立て、不安を鎮静化し、オルクセンへと対抗する活力となるであろう―――

 陸軍は、まだ無理だった。

 彼女たちは動員と兵力整頓、そしてその投入先の選定に迷っている状態だった。オルクセン第一軍と第三軍のどちらが主攻か判断しかねており、またその両方一度に対応するのは困難である。オルクセン国軍参謀本部が戦前に構築した白銀作戦の思惑通りに陥ってしまっていた。

 白羽の矢を立てられたのが、海軍である。

 残り僅か三隻しか残されていなかったが、これは同時に彼女たちが、国内政治機構のみならず海軍組織内にも存在した、年功序列や権力闘争といった雑事から解放されたことも意味していて、たいへん身軽になっていた。

 こういっては何だが―――

 彼女たちの有能な親玉であり、数々の軍制改革を行ってきたエルフィンド海軍最高司令官にとって邪魔になる対抗派閥の者は、みなベラファラス湾で火達磨になってしまっていた。

 そして生き残ったリョースタの艦長は、その子飼いの部下といってもよい存在だった。

 一挙に年功序列の弊害も無くなった以上、もはや邪魔するものは何もない。

 最高司令官は、リョースタの艦長を少将に昇進させ、副長をその後任とし、残存艦全てを以て一隊と成した。

 海軍には、戦前における最高司令官の尽力により、五等だの二等だのといった面倒な階級体制はなかった。これでエルフィンド海軍実戦部隊―――最後に残された艦隊の指揮命令系統は確立された。 

 一等装甲艦リョースタ。排水量九一三〇トン。主砲三〇センチ砲四門。

 二等装甲艦ヴァナディース。排水量四三〇〇トン。主砲二〇センチ砲四門。

 甲帯巡洋艦アルスヴィズ。二八〇〇トン。一五・二センチ砲六門。

 これに、半島北西部にある商業港から唯一脱出できていた給炭船を合流させて役割を終えさせると、僅かに四・七センチ砲二門装備とはいえ仮装巡洋艦兼輸送船に仕立て、艦隊の一部とした。

 合計四隻。

 指揮官は、前リョースタ艦長ミリエル・カランシア少将。

 エルフィンド海軍最高司令部が、このとき極めて賢明な判断として下したのは、この優秀な新任少将に艦隊指揮裁量の全てを任せたことである。

 ―――全責任は最高司令部が負う。損害に拘らず、積極的に運用せよ。石炭供給は何とかする。

 カランシア少将は、度量あふれる上官に感謝した。

「我の全力を挙げて暴れ回る・・・などと景気よく言いたいところだが、流石にそうもいかん。石炭の残量が足らん。もはや私たちに贅沢な戦は出来んのだ」

 リョースタの公室には、香ばしい匂いが漂っていた。

 艦隊が隠れ潜んだフィヨルドの地元漁民たちが、海軍のためにと籠一杯に幾つも分けてくれたアカザエビ。これを、艦のコックが幹部たちに少しでも滋養をつけてもらおうと大蒜と乾燥葱とで炒めたものが、昼食としてテーブルに並んでいた。

 典雅や礼節を重んじるエルフィンド海軍将校としては手をつけるのを躊躇われたが、

「さあ、こいつを食えれば諸君も英雄だぞ」

 カランシア少将はまるで気にせず取り皿に盛り、冗談の種ともし、ナイフとフォークを使った。

 各艦長たちは失笑しつつ、見習う。

 ベレリアンド半島からオルクセン沿岸部にかけての海図を睨んだカランシア少将は、彼女たちを前に即断した。

「確かに贅沢な戦は出来ん。だが何もしないのは面白くない。まずは巡洋艦を使おう」



(続)

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