第21話 すばらしき戦争⑨ 王であるということ 下編

 ―――第一軍が、その北上を開始しようとしていた。

 一一月七日、ファルマリア港の陥落後、エーリッヒ・グレーベン少将はベラファラス湾内の荒海艦隊旗艦レーヴェを部下の参謀たちと表敬し、艦隊司令官ロイター大将やその幕僚たちと事後の作戦方針について、打ち合わせを行っている。

「では、海軍としてはリョースタ他の捜索と、海上輸送線の防護を行っていただけると?」

「うむ、当然だ」

 たしかに、リョースタ他計三隻の所在不明は、不安材料である。

 しかしながら海軍側がその撃滅を図る、徴用輸送船の警護も行ってくれるというのであれば、陸軍にはもちろん異論はない。

「ただ、万が一ということがある。陸軍にはオルクセン沿岸部の要塞砲による防禦と、監視哨設置による哨戒の手助けをお願いしたい」

「なるほど・・・了解致しました。ただちに本国に打電し、実施にあたらせましょう」

 残存エルフィンド海軍艦艇が、オルクセン沿岸都市の艦砲射撃などを試みるかもしれない。

 また海軍側としては、輸送船舶は極力オルクセンとファルマリア港間の沿岸部を航行させたいところであり、これを補助するものとして、オルクセン北海沿岸各地の要所要所に監視哨を設けてほしい、という要望だった。

 グレーベンはこの件についても即断、了承した。

 東はフェルゼンハント州からヴラウヴァルト州、メルトメア州。

 ベレリアンド半島を挟んで西側にはメルトメア州西部と、ハウプトシュタット州。

 北海沿岸、総延長六一二キロメートル。

 仮に魔術通信傍受及び探知の最大範囲である五キロメートル間隔で設置するとすれば一二二個所となるが、電信線との併用や、要塞砲、元からある沿岸都市村落を利用すれば、新規の設置個所はもう若干は少なく出来るはずである。

 各地八時間交代三直二四時間見張るとして、各直三名配して約一〇〇〇名。地元警官、後備兵、海軍からの派遣水兵等も勘案すれば、こちらも充分手配できる数であった。

 グレーベンは陸上に戻ると早速これらの内容をアーンバンドの総軍司令部へと打電し、本論趣旨としては「第一軍の半島北上決行を是とすべし」と上官ゼーベック総参謀長に伝えた。

「うん、行くか」

 ゼーベックの上奏を受けたグスタフ・ファルケンハインは、これを裁可。

 総軍司令部兼第一軍司令部の、ファルマリア港への移動を命じた。

 総軍司令部は、これ即ち国王大本営でもある。

 国軍参謀本部各局長とその局員が横滑りした軍司令部としての役割の他に、第二軍や第三軍からの連絡将校、海軍の代表者や、官庁各省からの連絡役として派遣された次官もしくは次官補、それぞれの部下などもおり、総勢としては八〇〇名を超えてしまう。

 行軍予定表に準じた旅程を組み、大きく三つの梯団にわかれ、アーンバンドを出発した。

 グスタフ・ファルケンハインは、片腕ともいうべきゼーベックと、いまや総軍情報参謀となっているカール・ローテンベルガー少将、護衛役アドヴィン、副官部将校たち、それにあの国王警護班二六名を伴い、騎乗にて第二陣として出発した。馬のなかには当然というべきか巨狼を怖がるものもいるから、みなそれに慣れたものを選んでいる。

「どえらい眺めだな」

 あの赤襟を見せた大外套に略帽という姿で、火のついていないパイプを咥えたグスタフは、渡渉点の浮橋群を眺めて、少しばかり呆然と呟いた。

 四本の大型架橋。

 渡っていく、歩兵、騎兵、砲兵たち。

 何十輌という輜重馬車。

 復行側ももちろんいる。

 軍が四本も架橋したのは、往路と復路で道を分けるためである。交通の整理整頓は、行軍の根幹だった。

 このとき、流石にもう海軍屑鉄戦隊はいなかった。引き上げ、ベラファラス湾での補給を受けている。

 上空には、念のための空中偵察任務についている大鷲が旋回していた。

 ヴェルナー・ラインダースだ。彼自ら、三羽の部下を引き連れ飛んでいた。

 二頭ずつが組になり、それを更に二つ連携させたような飛び方をしている。彼らに言わせるなら、その飛び方がいちばん相互援助ができて、具合が良いそうだ。むろん、それぞれの首の根辺りにはコボルト飛行兵。いってみれば、空中からの王の警護だ。

 グスタフの解釈によれば―――

 この壮大な光景は、オルクセンという国家の国力が、ベレリアンド半島という一局面に集中して作り出したものである。軍事行動とは即ち、巨大極まる国家事業。

「戦争に比べれば、他の営みなど児戯みたいなものだな」

「まったくです」

 グスタフら一行は、ここでやや足止めをされている。

 規定通りの手順で、野戦憲兵隊の一下士官が王の縦列も制止したのだ。

「む・・・ これは―――」

 副官部長ダンヴィッツ中佐がやや慌て、すぐに渡らせるよう言って参りますとやりかけた。

「構わん、構わん」

 グスタフは笑った。

「それより。あの憲兵、名前を調べて、よくやったと私の名で褒めてやってほしい。出来れば、一階級昇進させてやってくれ。任務に忠実、頼もしい限りだ。たいへん結構」

「はっ」

 旅程において一行は、三本の街道のうち西側を進んだ。

 ファルマリアへの道行きとしては遠回りになるが、すべての報告に接したグスタフがレーラズの森の視察を欲したからである。

「・・・・・・」

 彼は無言でその場に立った。一時間以上はいた。

 幕僚たちもまた、言葉もない。

 その夜は、ヘイズルーンの村に舎営した。

 小さな村ですので大したものは用意できないと恐懼する現地指揮官に、気を使うなとねぎらい、そうして到着するなり、一本の電信文案を起草し、ファルマリアに移設された軍兵站司令部へと打たせた。

 返信は一時間ほどであり、その結果に頷くと、臣下たちが用意してくれた鶏肉の炙り焼きを一羽丸ごと食べ、ワインを飲んで体を温め、翌日に備えて眠った。

 宿舎とした村長宅の寝室扉外や建物周囲では、ダークエルフ族警護兵がしっかりと護衛に立った。気づく者は少なかったが、ふだんの表情一つ変えない鉄仮面の集団ともいうべき警護に、情というべきか、熱というべきか、そんなものがあった。彼女たちは、昼間のグスタフの姿を見ていた。

 ファルマリアには、翌日の昼過ぎに着いた。

 内港を遠目に望見すると、海上輸送第一陣となる輸送船舶が、もう入港していた。

 大仰な出迎えは面倒だったが、市街地の大通り両側にずらりと第一軍団の兵が並び、銃を捧げられるなかを馬上から答礼しつつ、市庁舎を接収して出来上がっていた総軍司令部に入る。

 通りに面した建物にはオルクセンの国旗が飾られていて、王の姿を兵の隙間から見つめる路肩の白エルフ住民たちの姿には、これがオークの王かと、明らかな怯えや、瞠目や、驚嘆の色があったが、これぞ覇者への出迎えとでも思っているように雄々しく受け流した。

 総司令部における彼は、存外に閑である。

 己は軍の作戦のことなど、ましてや有事でのことなど素人だと割り切っていて、たいていのことはゼーベックやグレーベン、他の幕僚に任せていて何も口は挟まない。

 執務室だと定めた部屋で、ほとんどの場合は本を読むか、アドヴィンと戯れるか、連絡役の各省次官たちから急を要する決済について耳を傾けるくらいである。軍の会議には、何かの最終的決断を要する場合にのみ出た。

 つまり、気軽な身である。

 あちこち見て回り、軍の士気を高めてやるのが己の役目であろうと思っている。

 彼はこの日のうちに、まず港湾施設を視察した。副官とアドヴィン、警護の一班だけを伴った。

 岸壁に横づけになっていたのは、奇妙な船影をした船三隻だった。

 帆装を完全に排し、蒸気機関だけで動く。つまりうんと新しく建造された船。

 船橋を極力後ろに配し、貨物室の容積が大きく取られている。前後に二分割された貨物室の船首側と船尾側には、伝説の怪女の怒髪のような構造をした起重機があった。

 ファルマリアの内港最奥にある石積みの岸壁には、鉄道の引き込み線がある。

 起重機を使って、慎重に、その引き込み線へと降ろされようとしているのは、鉄道の機関車だ。

 軌道間隔は、キャメロット規格のものになる。

 オルクセンの鉄道車両メーカー、モアビト・キルヒ社やゲオルグ社が製造し輸出していた、道洋向けの車両、その一部を軍が徴用したものだった。開戦と同時に差し押さえられて、内水面船便と陸路を使ってドラッヘクノッヘンへと集積されていたもの。

 第一軍の軍隊輸送列車に使われる予定だ。

 つまり、第一軍の担当戦区側では、軌道間隔改修は行わない。

 付属する鉄道中隊は補修作業に専念する。

 そうして迅速性を確保して、北上する。

 一編成辺りの輸送能力は落ちてしまうが、やむを得ないと判断されていた。車両の持ち込みと軌道改修、両方やっていたのでは埒が明かないという選択に依る。

 開戦前、ファーレンス商会にグレーベンが追加調査させていたのは、この作業に必須のものとなる引き込み線がファルマリア港に存在するか否か、という点だった。

 またグレーベンが船舶の徴用リストに載せたオルクセン国有汽船社一七隻の商船のうち三隻が、このために要する鉄道車両輸送船だ。何回かの輸送により鉄道車両を運んだのちは、構造が構造なので他の重量物軍需品の海上輸送に用いられることになっている。

 むろん、国有鉄道社から機関士や焚火夫なども到着していた。

 給炭船によって、石炭も来る。

「海上輸送第一陣は、現場の者が機転を利かせて、機関車を多めに運んでくれました。ファルマリア陥落の際に望外にも車両のいくつかを接収できましたので、まずはこれで一編成作れます」

「そうか。連結器は合うのか?」

「ご心配なく、我が王。どちらもキャメロットの規格です」

「そうか」

 現場責任者にして案内役となってくれた、ヘーレンという鉄道中隊の少佐に頷く。

「それと陛下―――」

「うん?」

「ちょっと御覧頂きたいものがありまして」

「うん」

 ヘーレン少佐が案内して見せてくれたのは、引き込み線の先、転車台と車両庫にまずは収められていた鹵獲鉄道車両の一部である。

「おお、寝台車じゃないか」

「はい、この国での一等車だそうです。キャメロット製で、造りもなかなかのものです。他に食堂車などもございましたので、如何でしょう陛下。お気持ちが悪くなければ司令部としてご利用になりませんか?」

「いいな、うん。ありがたくそうさせてもらおう」

 第一軍の鉄道利用方法からして、センチュリースター号は使えない。アーンバンドに残置して来ていた。占領各地で市庁舎などを接収して司令部を開設しようという話になっていたが、総軍司令部の移動、開設には大変な困難が伴う。

 別車両であっても、同様の方法が取れるなら望外のものだった。

 グスタフはこれらの車両で編成された司令部用編成列車に、「メシャム号」と名付けた。

 メシャムというのは、海泡石のことである。

 喫煙パイプの素材に使われるものの、一種。

 パイプを愛飲するなんとも彼らしい命名だ。

 港湾でちょっとした騒ぎがあったのは、このあとのことだった。

 第一次海上輸送で到着した、大勢のオーク族の牡たちがヘーレン少佐の部下と揉めていた。身なりからして、民間の者たち。決して仕立てがよいとはいえない、毛織物の古着を作業着にしたものなどを着ている。

 どうも宿舎や食事の割り当てが整いきっていないところに到着したらしく、責任者を出せなどと喚き散らしていた。

「俺たちゃ港湾労働者組合のモンだ」

 いわゆる、沖仲仕おきなかせの者たちであった。

 港湾施設で荷揚げや荷下ろしを担う。岸壁でもそうだったし、まだまだ港湾荷役の主流である、艀などを使った沖荷役に着く。そのためにファーレンス商会が手配した連中だ。

 第一軍のこれからの荷役量を思うなら、最初に到着して当然の牡たち。

「まあ、待ってくれ。待ってくれ・・・」

「どやかましいわい!寝る場所も、食う物もなく、どうやって働けというんじゃ!」

「責任者を呼べ!責任者!伝令は使ってもよい!」

 過酷な作業をする者たちである。

 戦地へと連れて来られた不安もあってか、言葉使いも態度も荒々しかった。若い将校にくってかかっている。

「私が責任者だよ」

「お、王。お待ちを・・・」

 騒ぎを耳にし、目にしたグスタフは、彼らの前へと歩み寄り、進みでた。

 ―――王だ!我が王だ!我らが王だ・・・!

 労働者たちは困惑しつつも、俄な国王との対面に狂喜した。

「すまないな、不便をかけてしまったようで。すぐに手配をさせる」

 グスタフは彼らにそれを約した。

「と、とんでもございません・・・」

「世話になるよ。我が軍を支えてくれ。君たちがいなれければ、我が軍は戦えない」

 彼らひとりひとりと握手もした。

「ああ、そんな・・・」

 彼らは、己たちの汚れた指先や服装を気にしたが、グスタフはお構い無しだった。

 そうして、宿舎や食事の準備が整うまで、彼らと懇談し、食事も倉庫の一角に設えられた粗末な椅子とテーブルで、彼らと摂った。

 総軍司令部へと戻ってから、もっと滋養のあるものを彼らには優先して与えろと指示をした。負傷や急病に備え医者もつけるようにし、休養をとれる際の娯楽についても配慮するようにと手配をした。

 ―――グスタフが、このとき市街やや郊外寄りに存在した旧エルフィンド軍兵舎を利用して休養に入っていたアンファウグリア旅団を視察したのは、この翌日である。



 翌朝、アンファウグリア旅団の宿営地に、軍の輜重馬車が次々と到着した。

 何事かと目を瞠る兵站参謀のリア・エフィルディスに、特配だという。受領書から中身が何か確認し、

「・・・・・!」

 大急ぎで、調理班のもとへ運ばせた。

 ―――いまからやれば昼には間に合う。皆喜ぶに違いない。

 グスタフ王の視察はそのあと、昼前から始まった。

 営庭に並ぶ部隊をしっかりと観閲し、彼女たちの目や表情をそっと確認し、そのあと旅団長室と定められていた一室の応接でディネルースと相対した。

「・・・・・・」

 コーヒーが運ばれ、従兵が辞しても、グスタフは無言だった。

 沈黙は長かった。

 耐えかねた、ディネルースのほうが折れた。

「・・・・・・何も聞かないんだな」

「聞かずとも、だいたいのところはグレーベンから報告があった」

 カップに目線を落としたまま、グスタフは応える。

 その声音は平坦だった。

「・・・そうか」

「言っておくが、叱責などする気はないぞ」

「・・・どうして」

「戦場跡を見てまわった、グレーベンからの報告書を読んだ。彼は最初から違和感を覚えていた。妙だ、君らしくない、あり得ない、と」

「・・・・・・・」

「君は、何も言わず何も弁解しないことで、部下を庇おうとしているな?」

「・・・・・・・」

「君の直接目が届く場所では、何も疑わしいことは起きちゃいない。一個旅団の追撃戦だぞ? 一個旅団。それもアンファウグリアは師団規模だ。ひとりの指揮官が、展開正面全てを見られるものか。おまけにあの場では魔術通信が使い物にならないほどエルフィンド軍側で飛び交っていたそうだな?」

「・・・・・・・」

「驚いたか? 奴はそこまで頭が回る。そこまでじっくり見る」

「・・・・・・・」

「何かが・・・もし本当に、戦闘行為以上の何かがあったというのなら、それはおそらく騎兵三連隊の担当区だ」

「・・・・・・・」

「それにこれは。この出来事は―――」

「・・・・・・・」

だから、だ」

「・・・・・・・」

 いったい何を、という顔で、それまで目を合せられなかったディネルースは彼を見上げた。

 彼の表情は伝説の魔王のような顔―――ではなかった。

 まるで普段通りの、グスタフだった。

「私が王として、この戦争を自らの意思で起こし、君たちを含む全将兵に出征を命じ、動員させ、戦場に投じた。民間の者たちまで来ている。この半島で起こっていることは全責任が私にある。王であるとは、つまりそういうことだ―――」

「・・・・・・」

「来る途中、レーラズの森を見てきた」

「・・・・・・」

「誰かに罪があるというなら、それは私にしかない。あんな・・・あんなことが・・・あんな場所があり得るのだと、私がもっと考えるべきだったのだ。アンファウグリアは強い。その強さの意味を考えるべきだった。君たちを安易に先鋒に使うべきではなかった」

「・・・・・・」

「あの場所の調査は、私が全責任を負う。何年かかろうが、すべて調べ、埋葬しなおす」

「・・・・・・」

「護符は全て回収させる。君たちは―――」

「・・・・・・」

「君たちは、戦争が終わったら、それをあるべき場所に還してやれ」

「・・・・・・」

「この件は部下たちにも伝えてやるといい」

「・・・・・・」

「君は、牙の研ぎ加減はちゃんと心得た指揮官だと信じている。戦闘と私闘の違いもな。旅団に、二度と同じ轍を踏ませることもあるまい」

「・・・・・・」

「君たちは、種族自身の選択としてこの場にいる。私がそれを選ばせた。いまさら降りることは許さないし、降ろす気もない」

「・・・・・・」

「そしてこれは綺麗事だけではない。オルクセンとしては、例えどのような事情があったにせよ、開戦のこの時期、何かがあったなどとは認めるわけにはいかない」

「・・・・・・」

「だから今回は―――今回だけは、例え本当に戦闘行為以上の何かがあったのだとしても、誰の責任も問わない。責任は私にしかない。もしこの戦に負けたら、敵に私の首を差し出す」

「・・・・・・」

「・・・言いたいことは以上だ」

「・・・・・・貴方。グスタフ。王は。我が王は―――」

 ディネルースは俯き、目頭を揉みながら呟いた。

「恐ろしい王だ・・・」

「ふふ、ふふふ。いまごろ理解したか。私は俗に言う、魔王と呼ばれる存在なんだ」

 ドアのノック音が響いたのは、そのときだ。

「おう」

 それまで外で待機していた、ダンヴィッツ中佐だった。

「我が王、準備が整ったそうです」

「うん。運ばせてくれ」

 ちょうど昼食の時間だ。

 運び込まれたのは旅団調理の昼食だった。材料は、開戦からの労いの意味を込めた特別配給。

「・・・・・・」

 小麦入りのライ麦パン。苔桃のジャムとチーズを添えて。

 ダークエルフ族が好んでやまない杏子茸を、たっぷりと使ったクリームスープ。鶏肉の肉団子入り。ブラックペッパーを少々。

 牛肉の焼き物。潰したジャガイモの付け合わせ。

「これは・・・これは・・・」

 既視感があり、その記憶に気づいたときにはもう駄目だった。

 ちょうど一年ほど前、似たようなメニューを食べ、彼女はそれに全てを救われた。

「すまん。恰好よく華麗に何もかもあのとき通りとはいかなかった。杏子茸は、戦利物資にあった乾燥のものをここで戻して貰ったやつだ。旅団全員に渡るように手配させてある。さあ食え。食は全ての根幹だ」

「・・・ああ。ああ。頂こう」



 ―――キャメロット連合王国。

 首都ログレスから、北西に約八〇キロ。マーシア州。

 広大な庭園に囲まれ、四つの時代様式が溶け合った、煉瓦作り、スレート石屋根、木間に漆喰という造りの、たっぷりと出窓のあるカントリーハウス。

 キャメロット外務省外交官サー・マーティン・ジョージ・アストンは、この自身の領地で休暇を過ごしていた。

 キャメロットの貴族社会では、いまはアストンのみならず休暇期である。この季節になると、みな社交期における滞在場所である首都の邸宅から、領地のある田舎へと帰る。

 ただし、今季のアストンはややそのシーズンより早く休養に入った。

 キャメロット外務省特使として立て続けに二つの国へ赴いたあとで、本省から許可を得て休暇を貰ったのだ。

 少しばかり、疲れたのである。

 それは肉体的疲労というよりも、精神的なものだった。

 世俗的な職務を離れ、彼個人にとって没入できる魔種族史研究へと戻りたかった。

 彼はこのころになると、長年の友誼関係にあったグスタフ王が意図的にエルフィンド外交書簡の文意を捻じ曲げたことに気づいていた。その結果として、エルフィンドという国が滅びようとしていることも。つまり、彼は騙されたのだということも。

 しかしながら―――

 その点について、王を恨もうであるとか、長年の友誼を捨てようであるとか、そんなことは不思議と考えなかった。

 グスタフの立場にたってやり、むしろ同情さえ覚えた。

 だから彼は、宣戦布告仲介手交役として外務省が彼を選んだとき、躊躇いなくこれを引き受けたし、本省の方針に沿ったものとはいえ事後責任への言及を、自分自身でも驚くほどの冷淡さでエルフィンド外務大臣へと伝えたのだ。

 だが、いささか疲れた。

 いまは、愛してやまない魔種族史への研究に没頭したかった。 

 ―――研究というのも、また違うな。

 彼は、ただ蔵書を読むだけにした。

 幼きころ、そのような書に触れ、畏れ、驚き、そしてたまらなく胸が高まったときのままのように、魔種族に関する奇書の類を読んだ。

 癒された。

 ふだんの、研究のためにあちらを繰り、こちらを広げ、見比べて、といった作業とはまるで違っていた。そう、これが本を読むということなのだと、時が経つのも忘れ没入できた。

「旦那様」

「うん? ああ、そこに置いてくれ。それと、誰かに茶を用意させてほしい」

「畏まりました」

 幼きころからこの家に仕えてくれている老執事が銀製の盆にのせて、今朝配達の手紙を届けにきた。

 俗世に引き戻されたようでいやな気分になったが、確認くらいはせねばならない。

 大半は、この時期に貴族間で行われる、互いのカントリーハウスでの食事会だの狩猟会だのといったものの招待状だった。出る気はなかった。

 ただ一通だけは、差出の名を見て固まった。

 ただちに封蝋をペーパーナイフでとき、読み始める。

「・・・・・・・」

 グスタフ王からの私信だった。

 二度読んだ。

 ―――行かねばなるまい。いや、なんとしても赴く。

 アストンを、この戦争における自身の外交顧問にしたい、戦地のことゆえ苦労ばかりかけることになるが、なんとかやってきてくれまいか、という内容だった。 

 彼は、その意味するところも正確に理解した。

 オルクセンはもはや、かつて人間族が夢想した未開の国などではない。

 立派に、他国にも通じる、いやそれ以上の、外交官や国際法学者などもいる。

 そこを敢えて他国から外交顧問を雇い入れたいとは、何を意味するのか。

 ―――人間族であることに意義がある。

 オルクセンは魔族の国とはいえ、立派に国際法規を守っているのだという、周辺国へのアピール。誰かがそれに立ち会ったのだという、証明。

 歓喜に身が震えた。

 外国人を雇い入れるにしても、アストンより経歴の立派な外交官や、あるいはこのような場合にもっと適した、国際法学者は他にいる。そこを敢えて彼に依頼してきたのは、長年の友誼を頼ってのことに違いなかった。

 その点を嬉しく思ったし、個人としての彼にすればこれは得難い機会だった。

 ―――魔種族の歴史の、一端に立ち会える。

 悪魔のような誘いであった。

 いや、紛れもなく魔王からのものなのだが。うん。

 断る理由など何もなかった。

 部屋から飛び出し、妻に、オルクセンへと、正確にいえばエルフィンド領内に攻め込んでいるグスタフ王の大本営のもとへと赴くことを告げた。

「そんな・・・あなた。どうして・・・」

「ああ、お前。どうかわかっておくれ。おそらくこんな機会は、もう二度とないんだ。私はたいへん重大な役に選ばれたのだよ」

 アストンは、この戦争が本当に魔種族たちにとって歴史上の大転換になるだろうと理解している。

 オルクセンという国家が、長年恐れ、憎み、将来の敵になると思ってきたのは誰か。

 みな、誰もかもがエルフィンドだと思っている。

 そうではない。

 決してそうではなかった。

 ―――人間族の周辺諸国。

 アストンに言わせるなら、歴史上、人間族たちは魔種族たちに本当に惨い真似ばかりやってきた。

 この星欧において、なぜ、オルクセンとエルフィンドにしか魔種族がいないのか。

 三〇〇年ほど前、星欧中で魔種族は狩られた。文字通りの意味だ。宗教上、文化上、生物上の異端だとして、大殺戮を行った。とくにアスカニア地方が酷かった。騎行の軍勢で襲い、殺し、捕らえ、火あぶりにした。聖星教教皇領がその後ろ盾にたった。

 例外にされたのは、人間族が清楚な存在だと見なしたエルフィンドのエルフ系種族だけだった。

 残った者たちは、いまのオルクセン地方に寄り集まって生き残りを図った。

 やがてグスタフの治世となり、ようやくエルフ系種族以外の魔種族たちの国に固まりかかったそこへ攻め込んだのが、あのデュートネだ。

 彼らはそれを押し返した。

 むろん、この歴史のあいだ魔種族側とて種族間同士で争い合ったが。

 いまや、あのオルクセンに皆固まって、ひとつの国となって暮らしている。

 これがあの国と周辺国とが、キャメロットとの条約を結ぶまで正式な付き合いがまるでなかった理由だ。

 そのオルクセンが、エルフィンドを倒してしまえば―――

 魔種族の、魔種族たちによる、魔種族のための、本物の単一国家が生まれる。

 「背後」がなくなるといってもいい。

 彼らとしては、次は人間族の国々との戦争になると思っているに違いない。いまのあの国の国力なら、グロワール辺りともう一度戦ってもどうにかなるだろう。

 例えいままでオルクセンが協調外交をやってきたのだとしても、将来までもが同様であるとは限らない。

 牙を剥こうとすれば、いつでも剥ける。

 対エルフィンド戦がそれを証明している。

 だが。

 ―――少なくとも、グスタフ王はその将来戦争を回避しようとしている。そうでなければならないと。

 王が選ぼうとしているのは、人間族諸国家との共存。

 アストンにはそう思えた。

 人間族の己を雇い、こうも周辺への配慮を行うということは、それを意味した。

 そうだとしか思えなかった。

「どうかわかっておくれ。あの方は、素晴らしい王―――素晴らしいひとなのだよ」

 サー・マーティン・ジョージ・アストンは、この日のうちに外務省への辞表を書き上げ、数日のうちに旅装を整え、出発した。

 長年の、友のもとへ。



(第四部「おおいなる幻影」に続く)

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