第12話 戦争のはじめかた⑥


 ―――一〇月二六日、午前四時〇〇分。侵攻開始一四時間前。

 最初に動き始めたのは、海軍だった。

 深夜未明午前二時ごろから、各艦が本格的に罐に火を入れ、汽醸運転というものを行っていた。

 蒸気機関の艦船は、罐に火を入れたからといってすぐには進めない。蒸気圧を高めてやり、これが規定の数値まで達したところで、初めてスクリューを動かすことができる。

 空が白みはじめた、午前七時五〇分。

 各艦抜錨開始。

 揚錨機が唸り、かたんことんと巻き上げられていく錨鎖に付着した海底の泥を、甲板上から乗員たちが機械式ポンプとホースを使って汲み上げた海水により洗浄を施す。

 艦長たちが艦橋見張台から身を乗り出すように確認するなか、

「主錨、立錨」

「副錨、立錨」

「艦首主錨、揚錨よし」

「艦尾副錨、揚錨よし」

 艦首で前部指揮官が、艦尾で後部指揮官が手旗を振った。

 これで艦は完全にいつでも出港出来るようになった。

「旗艦より旗旒信号。全艦、出港。所定の如く我に続航せよ」

「応答旗揚げ」

「了解、応答旗揚げます」

 それは整然とした、乗員と艦とが一体になったかのような作業の連続だった。

 まさしく軍艦とは、そのようになって初めて、自在に動くことが出来る。

 この日ばかりは、上は艦隊司令長官、下は水兵に至るまで、真新しい冬季制服と制帽を被り、機関の焚火兵たちでさえ真っ白で無垢の作業服を着ていた。

「出港準備、艦内警戒閉鎖」

「右舷よし」

「左舷よし」

「両舷よし」

「前進赤黒異常なし」

「出港」

 出港開始を告げる喇叭が鳴り響く。

「出港よーい!」

「前進微速」

「前進びそーく」

 艦尾にあるスクリューが、重々しく海水を攪拌。

 艦へ推進力が与えられ、始めはゆっくりと、だが力強く、確実に前へと進みはじめる。

「面舵一〇度」

「おもかじ一〇度ぉー」

「もどせ」

「もどーせー」


 一等装甲艦レーヴェ、ゲパルト、パンテル

 二等装甲艦ティーゲル、レオパルド

 甲帯巡洋艦グラナート、オーニュクス、ディアマント、スマラクト

      アハート、ザフィーア、トゥールマリン、ペリドート

 水雷巡洋艦ザルディーネ、ロッヘン

 水雷艇母艦アルバトロス

 砲艦   メーヴェ、コルモラン、ファザーン

 艦隊給炭艦ペングィン

 水雷艇  T一型六隻


 総勢二六隻。オルクセン北海沿岸西方の港にもう何隻かの艦がいるがそれらは老朽艦といってもよく、言わばこれがオルクセン海軍の全力だ。

 彼らは隊ごとに整然とした間隔を取り、あのドラッヘクノッヘン港でもっとも危険な本港と支港の合流部で汽笛を鳴らし、湾内航路を北へと向かう。

 巨大極まるアルブレヒト鉄道鉄橋が見えてきた。

 あれを抜ければもう湾口、湾内航路から本航路へと入り、艦は存分に増速もでき、本格的な洋上航行が始まる箇所だ。

 そのとき、

「右舷、海望公園。見送り多数」

 最先頭を行くレーヴェのマスト見張員が声を上げた。

 艦橋上にあった艦隊司令長官マクシミリアン・ロイター大将以下、みなで双眼鏡を向ける。

 確かにその通りだった。

 多くの、といっても一〇〇名ほどだったが、市民たちが詰めかけていた。

 乗員家族。

 退役軍人。

 オルクセンには珍しい、海軍や軍艦が好きでたまらないという、物好きたち。

 殆どがオーク族だが、コボルトも、ドワーフもいる。オルクセン国旗や、海軍旗や、国際信号旗を振っていた。

 彼らは、海軍と接することが余りにも深い生活を送っているだけに、もう全てを察していた。これが通常の出港ではないことを。

 そうして己たちだけで、自発的な緘口を守りつつ、こんな早朝に、そっとアルブレヒト大鉄橋東側袂の、あの港湾監視事務所横にある公園に集まっていた。

「港湾監視事務所より魔術通信。出力を絞っています」

「読め」

「汝のご安航を祈る」

 市民たちが振っている旗のなかで、国際信号旗の意味も同じだった。

 防諜上、褒められた真似ではないことはわかっている。

 だが、これが海側に住まい、海軍の側にいる者たちの流儀というものでもあった。

 安航を願う信号に込められた意味は、単純な出征への激励だけではない。

 ―――帰って来いよ。必ず。

 そう言っているのだ。

 ロイターが命じる前に、艦長が伝声管を開き、もう号令をかけていた。

「手隙の者、上甲板! 総員、右舷帽触れ!」

 艦の側から、わかった、見えたぜ、はっきり見えたぜ、という返答を意味する行為だ。水兵たちが一斉に甲板に溢れ、わぁわぁと歓声を上げながらその帽子を右手で振り、答える。

 信号旗も上がる。

 応答旗と、

「ありがとう」

 その信号だった。

 ここ一〇年ほどで全艦に装備されるようになった発明の実用化品、アーク灯による発光信号機も煌めいた。

 ―――アリガトウ、アリガトウ、アリガトウ。

 とくにロイターが命じずとも、後続する全艦がそのようにした。市民たちのなかには、旗旒信号やモールスまで読める者もいる。それで通じた。

 やがて公園から風に乗り、市民たちの歓声が聞こえてきた。節がついていて、何かの歌のようであった。


 どうしてお腹が減るのかな

 リョースタ スヴァルタでっかいからよ

 叩いて伸ばしてパン粉をつけて 

 こんがり揚げたら 

 何人前になるのかな


 軽妙洒脱。

 エルフィンド海軍があの巨艦二隻を作り上げてからというもの、まず艦隊の水兵たちが歌い始めた戯れ歌だった。

 酒場を経由して、市民たちにまで広がっている。

「ふふふ、ぶははははははは!」

 まずロイターが破顔した。

 それはあっという艦橋へ、そして艦全体へと伝播した。

 不屈の洒落っ気。

 それは、海軍のみならず、それを抱え込む港の者に市民たちにも存在した。彼らは実にオルクセンの国民らしく、鹿爪らしい軍歌ではなく、戯れ歌で艦隊を送ろうとしていた。

 ロイターは自ら巨躯の全身を使って帽を振りながら、兵たちとともに大声で叫んで、それに答えた。

「ありがとう! ありがとうよ! やってくる、やってくるぞ!」

 一路目指すはドラッヘクノッヘン港から見て、約四八・六海里、約九〇キロ西方。

 途上、偽装針路及び速度調整をとりつつ、艦隊全力を挙げて突っ込む、ベラファラス湾。その最奥ファルマリア港だ。


 

 ―――同日、午後一時。侵攻開始五時間前。

 メルトメア州クラインファス。第二軍総司令部。

 同地の市庁舎を接収して設けられたこの司令部会議室で、居並ぶ参謀たちとともに大地図を眺めながら、アウグスト・ツィーテン上級大将はそっと沈思していた。

 軍の作戦行動は、グスタフ王が言った通り、全て参謀たちに任せてある。

 既に最後の準備を整えた一線部隊三個師団が、侵攻開始段階における第二軍唯一の作戦目標といっていい旧ドワーフ領の、エルフィンドによるシルヴァン川南岸植民地、ノグロスト市までのオルクセン側、同市まであと一〇キロという侵攻発起地点まで、前進を開始しようとしていた。

 物理的にも魔術的にも探知不能なその距離で、侵攻部隊は作戦開始を待つことになる。

 若い者たちには、祈るような、焦れるような時間であろうが、流石に歴戦の将たるツィーテンは微動だにしない。

 このとき彼の頭蓋を占めていたのは、グスタフ王とのあの会話だった。

 あのとき彼が尊崇してやまない王は、

「この戦役を、オルクセンにとって最後の戦争にしてみせる」

 そう彼に囁いたのだ。

 非才の我が身には、いったいどのようにすればそのような真似が、この大国同士が互いに笑顔を作りながら背後に剣を隠し持ちあっている時代に実現できるのか、まるで分らなかった。ましてや、人間族の国々に囲まれた、この魔種族の国オルクセンで。

 だが彼はその言葉を信じていた。

 王なら。

 我が王なら、それをやれる、そのために私もここにいる。

 そう念じ続け、開戦の瞬間を待っている。



 ―――午後四時〇〇分。侵攻開始二時間前。

 第三軍司令官アロイジウス・シュヴェーリン上級大将は、この段階になって、少しばかり周囲を困らせている。

「儂も侵攻発起点近くまで総司令部を移す」

 この日の朝になって、そう言い出したのだ。

 これは彼の幕僚たちから見れば、相当に危ない真似だった。

 配下に軍団を四つ持ち、直轄部隊を幾つかまで含み、総勢一六万五〇〇〇にも達する第三軍の司令官たる者が行う真似ではなかった。

 軍司令部を置く位置としては、あまりにも最前線に近すぎる。そこまで出るのは師団司令部か、百歩譲っても軍団司令部のやることだった。

 軍の指揮通信体制の観点から言っても、あまり褒められたものではない。

 前線から約二〇キロ後方にあって、それまで第三軍司令部のあったシュトレッケンで、どっかりと腰を落ち着け、侵攻開始のそのときまで動かぬままでいてもらえるほうが、上部司令部たる国王大本営とも、下部部隊とも指揮通信が保てる。野戦電信網の使用にのみ限定されていた現段階では、なおのことである。

 だがそれは、シュヴェーリンに言わせるなら、この侵攻開始という作戦段階だからこそ、絶対に必要なことだった。

「儂が戦の匂いを感じられるのは、そのあたりまでだ」

 そう言って譲らないのだ。

 またシュヴェーリン曰く、これでも儂はおとなしくなったほうなのだぞ、という。彼は若いころ、「俺を探したければ最前線のそのまた最先頭に来い」が口癖で、実際そのような指揮をロザリンド会戦までやっていたので始末に負えなかった。

 この闘将、一度言い始めたらもう説得は無理だ。

 このため、彼の右腕たる最側近、軍参謀長ギュンター・ブルーメンタール少将はかなりの苦労を重ねて、上官の希望を実現した。

 まず、国王大本営に事前許可は取らなかった。

 このような真似は、ゼーベック上級大将はまだしも、彼から見て義弟にもあたるグレーベン少将あたりが許すはずもない、と思えたからである。

 そうして、まずシュヴェーリンの希望する位置に、工兵隊に命じて野戦炊事車両や給水車両を含む野戦司令部施設を開設した。次に野戦通信網との接続が確認できてから、作戦参謀以下、総司令部要員の半分を先に移動させた。

 軍司令部ともなれば、総員は五〇〇名近い。

 行程の要所要所に、騎兵伝令も配した。

 このように代替手段を設けてから、シュヴェーリン移動中の指揮空白を生じさせないようにした。

 騎行で一時間強ほどの時間になった。

 冬季において早く迎えることになる、日没にぎりぎりのところで間に合った。

 到着寸前、グスタフから贈られたあの防塵眼鏡を略帽に巻き、配下に囲まれて進む馬上のシュヴェーリン上級大将は、彼から見て東方側に広がる光景に目を細めた。

 もう暗くなりかけている険峻な稜線。

 針のように鋭い、黒き樹々。

 太古の昔、氷河が削りとって出来たという、広大な源流谷。

 その狭間に延びる、あまりにも懐かしい渓谷。

 一二〇年という時を経て、かつてエルフ族たちが築き上げた防禦用堡塁は、もう草むして、遺跡のようになっていた。

「・・・・・・」

 無言でそれを眺めたシュヴェーリンの胸中に去来した想いは、複雑だった。

 多くの仲間と部下を喪い、古き王を死なせてしまい、そして新たな王を得た地。

 シュヴェーリンは、こののち彼の伝記や第三軍の戦記を書く者が必ず記すことになる言葉の一つで、その感慨を締めくくった。

 それは彼にしては珍しくその知的な部分を表に出したものだったが、ひじょうに朗らかで、大げさに腕を広げた動作まで芝居がかっていて、彼の心の機微を幾らかまでは察することの出来るブルーメンタールを除く周囲の者たちに、また我らのシュヴェーリン親父が何か言い出したと、破顔や失笑を誘った。

「―――おお、あれに見えるはロザリンド! 我が麗しの、気高き古戦場!」



 ―――午後四時三二分。侵攻開始一時間二八分前。

 総軍司令部日報より抜粋。

「待望の日没を迎えたり」



 ―――午後四時四五分。侵攻開始一時間一五分前。

 海軍第一一戦隊、通称屑鉄戦隊のメーヴェ、コルモラン、ファザーンの三隻は、主力戦隊群の後ろに従い、ベラファラス湾への突入を果たしていた。

 既に海上東方は深闇に近かった。前方にあたる西方も、本来なら水平線上に残照がある時刻だが、巨大極まる半島内山脈が光線を遮り、一気に闇夜の如くなっている。

 遠く北方に、エルフィンドの誇るヴィンヤマル大灯台の明かりが見える。

 艦橋上に外套を着込み、立ち尽くしたままの戦隊司令兼メーヴェ艦長エルンスト・グリンデマン中佐にとってありがたいことに、機関の調子は良好だった。無煙炭の効果も素晴らしかった。

 あのコルモランも。

 ある意味当然だった。

 コルモランはその機関部に、ヴィッセル社の技師たちを乗せたまま出港したのだ。

 どうあっても開戦に間に合わせるために、そんな措置が取られた。

 開戦は極秘中の極秘だったから、技師たちは家族などにも何も告げられないまま、半ば拉致されたように洋上へと出た。

「いまごろ、艦のなかはえらいことになっとるでしょうな」

 砲雷長のドゥリン・バルク中尉が、憐れむような、それでいて面白がるような響きで、そのドワーフ族特有の赤髭をしごきつつ言った。

「ああ。違いない」

 グリンデマンも若干品の悪い喉の慣らし方をしつつ、応じる。

 本当に、いまごろコルモランの機関室内はたいへんな騒ぎだろう。

 周囲の者たちからはまるで意外なことのようだが、造船所の技師がこれ即ち必ずしも海にも強いというわけではなかった。

 むしろ、ふだんは陸の上や、せいぜいのところ試験航海で出る湾口周辺くらいの海域で仕事をしている連中ばかりなので、本物の遠方洋上に出ればたちまち酔うばかりとなる者さえいた。

 ぎりぎり一〇月の海は、厳冬期の北海に比べれば話にならないほど穏やかだったが、それは船乗り基準の話である。コルモラン艦内の技師たちを想像してみるに―――地獄であろうと思えた。

「まあ、よかろうさ。自社製品には責任を持ってもらおう」

「違いありません」

 ついにバルクはくすくすと笑いだした。

 勤務中は真面目極まりないこの砲雷長には、たいへん珍しいことでもある。大事を前に、この牡なりに高揚しているのかもしれなかった。

「我がリントヴルム岬より、魔術誘導波受信!」

 信号長のオスカー・ヴェーヌス曹長が、コボルト族ブルドック種特有の低い声で叫ぶ。

 艦から見て左手に黒々と広がるリントヴルム岬にいる、軍の諜報部員たちが出すと伝達のあった、魔術通信誘導波だ。

 その探知距離を頼りに、艦隊はリントヴルム岬の断崖すれすれを通過し、艦という存在からすれば本当にぎりぎりのところで南岸側を進むことになっている。

 険峻な断崖が影となり、艦隊を幾らか包みかくしてくれるはずである。

 魔術通信波を出してくれるだけでも、本当に助かった。

 あまり陸地へ振りすぎると座礁する。

 どうやらヴェーヌス曹長も興奮しているようだ。

 コボルト族の使うズボンの尻のところには、彼ら種族の尾っぽを出すための穴があるのだが、その尾っぽが、ぶんぶんと左右に揺れていた。

 このとき彼らの頭上、リントヴルム岬では、あの諜報員たちが、眼下を陰影となって通過していく艦隊一隻一隻を見守り、増援として派遣されてきたコボルト族諜報員とともに涙を流して喜び合っていた。

「来た! 本当に来やがった!」

「ああ、ああ・・・ ついに・・・!」

 艦隊の行動は実に上手くいっていた。

 グリンデマンにしてみれば、このまま艦隊にくっついていき、敵本拠地への殴り込みに同行したかった。それは一生の本懐となるであろう。

 前方には主力艦群の黒々とした塊があり、僅かにそれだけが灯された艦尾灯がある。誘っているようにさえ見えた。

 だがそれは叶えられない。

 彼らには、別の重大な任務があったからだ。



 ―――午後五時〇〇分。侵攻開始一時間前。

 メルトメア州アーンバンド郊外。

 第一七山岳猟兵師団の師団司令部駐屯地を利用して設けられた野戦大鷲離着場には、既に篝火が焚かれていた。

 もう陽は完全に落ちている。

 全五〇羽いる大鷲軍団は、その約半数ずつがこのアーンバンドと、半島中央部に近いリヒトゥームにいて、前者が第一軍を、後者が第三軍を空中偵察支援することになっている。

 既にこの日一度、エルフィンドから決して探知されない距離をとりつつ、国境上空ぎりぎりを何度か飛んでいて、どうやらエルフィンド側にはふだん通りの備えしかない、なんらの変わった動きもないようだという情報を総軍司令部たる国王大本営に齎していた。

 ただし、この夜間を飛べる隊は、このアーンバンドにしかいない。

 営庭に集合した、たったの八羽。

 その足元には、同数のコボルト飛行兵。

 全従軍大鷲から選抜し、コボルト族飛行兵たちの力も借り、経験値を重ねてもこれだけの隊しか用意できなかった。大鷲軍団主力が飛び立つのは、明日の朝、日が昇ってからということになる。彼らはその例外だった。

 夜間空中偵察専門部隊、ワシミウーフーミズク中隊・シュタッフェル

 部隊目的から、鳥類にあって自在に夜を飛べるその名を冠した。

 指揮官は、ヴォルフガング・ハインケル少佐。

 駐屯地営庭を利用した発着場脇に集合した彼らは、東西二手に分かれて第一軍と第三軍を支援する。既に新鮮な肉塊をたっぷりと与えられ、大鷲軍団所属の羽付きオーク兵たちから毛並みの手入れや、飛行兵用鞍具、爪の具合などの確認も受けていた。

 彼らを前にしたヴェルナー・ラインダース少将自身も、既に鞍具を取り付けている。

 彼は、隊の編成外で東へ飛ぶ。

 海軍がちょっと一仕事をするというので、そのもとへ向かう予定だ。

 足元には、あのコボルト族のメルヘンナー・バーンスタイン教授がいた。冬季用に、毛皮を裏打ちした飛行服を着こんでいる。

 彼女を戦場にまで連れてくるのはラインダースとしてはまるで気が引けたが、彼女自身の希望と、その適正値の高さ、おまけに魔術を使えたことから、いまではラインダースの首の付け根はすっかりメルヘンナーの指定席のようになっている。

「諸君。大鷲族の同士諸君―――」

 出撃に際し、まったく本意ではなかったが、ラインダースは一席ぶつ必要性に駆られていた。

「我が軍団をここまでの高みに昇らせてくれた、コボルト族の飛行兵諸君に深い感謝をささげつつも、大鷲族同士諸君に告げる。今宵から明日にかけて、我らはいよいよエルフィンドの上空を飛ぶ。ついに我ら種族にとって父祖の地だった上空を飛ぶのだ―――」

 彼はちょっとそこで言葉を切り、全員を見渡した。

 皆、よい表情をしていることに安堵した。

「険峻な山脈。深き樹々。その太き枝。白銀のシルヴァン川。青き湖沼。我ら種族の父祖たちが愛した地だ。その空を飛ぶ。もはや我らはオルクセンの民とはいえ、皆、感慨深きものがあろう。私も同様だ。このような機会を用意してくれた、オルクセンと、グスタフ王には最大の感謝と尊崇を捧げたい。故国と王は、我らに最高の舞台を整えてくれたわけだ。今宵から明日中にかけての一日は、我ら種族にとっても歴史ある一日となろう。諸君! 言ってみればこれは―――」

 狩りをしていた日々が蘇ったが如く、その眼光を鋭く細める。

大鷲の日アドラー・タークである!」



 ―――午後五時一五分。侵攻開始四五分前。

 アーンバンド市中央駅舎。

 第一プラットホーム。

 国王専用列車センチュリースター号と、駅舎とを使って構築された国王大本営にして総軍司令部は、異様なほどの高揚、興奮、熱気に包まれはじめていた。

 既に外務省のビューロー大臣から、無事に宣戦布告文の手交が済んだとのキャメロット外務省電と、ビューロー自身による各国公使への戦争状態宣言と、エルフィンド外交書簡事件の公表も完了した旨、連絡が入っていた。

 そのうえ、どうやらエルフィンド側は何の備えもしていないらしいという事前偵察情報が、大鷲族や、侵攻発起点へと前進した部隊から続々と入りはじめていた。

 もうこの時刻となれば、もはやエルフィンド側にどのような準備のしようのあるはずもなく、少なくとも陸上側における奇襲侵攻の成功は、確実と思われた。

「あいつら、俺たちを舐めてるのか!」

 随員車を利用した総司令部で、エーリッヒ・グレーベン少将が狂喜し叫んでいた。

 この牡、二日ほど前から緊張の極みを脱したのか、今度はまるで躁状態になっている。

 しかし、その言葉にはグスタフなども同意するしかなかった。

 まったく、エルフィンドという国はどうかしていた。

 この情勢に至ってもなお、まともな警戒態勢一つ採っていないとは。

 用意周到にこの日あるを備えてきたオルクセン軍から見れば、怠慢、怠惰、油断の極みといえ、近代における国家や国民というものへの冒涜のようにさえ感じられた。

 世に奇襲を成そうという国家があり、またこれを受ける国家があるというのならば。

 後者は、まったくの怠慢である。

 外交上も、軍事上も、諜報上も、国民意識も、あるいはこれを率い治める軍の幹部や為政者の存在といった、そういった何もかもが怠ってはじめて、そのような事態が起こり得る。

 その結果、自国領土も自国民も財産生命も守れないというのならば、弱肉強食の世ともいえるこんにちにあって、それはもはや滅ぶしかない国家であるといえた。そのようなものを作り上げてしまった為政者には、国を率いる資格すらないように思えた。

 対するオルクセンはどうか。

「王、我が王。いよいよですな」

「ああ、じい。いよいよだ」

 オルクセン国王グスタフ・ファルケンハインと、国軍参謀総長カール・ヘルムート・ゼーベック上級大将はこのとき、プラットホームへと出て、外の空気を吸っていた。

 夜空には、この惑星の周囲をひとつきずつ交代するように接近して巡る衛星のうち、一〇月の葡萄月ヴァインモナトが、その交代直前の残照を放つため姿を見せようとしている。

「ロザリンド会戦から一二〇年・・・ 長うございましたな」

「そのことよ・・・そのことよ・・・」

 この両者、彼らだけで会話をするとき、どうしてもかつてのオーク族本来の、古典的なオルク語が出た。現在の低地オルク語に慣れ親しんだものからすれば、まるで時代がかった響きに聞こえる。約一年前の、あの山荘やその周囲での会話などは、まるでそうであった。

 彼らは、たいへん穿った表現をするなら、一二〇年かかってここに来た。

 兵站、軍備、動員。

 諜報、外交、謀略。

 そんな、この戦争自体への準備もまた膨大なものであったが、それより遥か以前からの、農業に大地の糧を得て、諸種族を纏め、工業を興し、国を富ませ、他国の侵略を押し返し、軍を鍛え―――そのようなこの一二〇年の国家そのものの歴史があってこそ、この場に立っていられたのだという思いは強く、それは紛れもない事実であった。

 またこれは、グスタフにとって彼の治世の全て、いままでの歩み全てともいえた。

 つまり彼のなかでその多くの部分を形成している、別世界の、元人間だった男としても。

 その男の自我としては、かつてディネルースに告げた通り、なぜ己のようなものがこの世界に生まれたのか、本当にいまでも何もわからなかった。

 天候を操るような魔法がどうして使えるのかもわからなければ、人生をどのように終えたのかも記憶にない。

 いまでも何かをきっかけに着想を得たり、思い出すことも多い。

 ただ彼は、どうやら記憶の通りなら、別世界で人間だったころはほんの少しだけ珍しい仕事をしてはいたようだった。

 ある公的で経済的な団体に職員として属し、生まれ育った国の貿易量だとか、流通量であるとか、資源輸入量や鉄鋼生産量であるとか。そういったものを統計として纏める仕事の、ほんの一端を担っていたのだ。

 おかげでそのころは、言ってみれば何も責任を取らなくてよい気軽な身として、港湾施設や、巨大物量拠点、重工業などをほうぼうで視察できた。

 また個人的な趣味としては、首都の郊外に借りた猫の額ほどの土地で家庭菜園をやり、土を弄り、季節の野菜を収穫するのが楽しみであった。通勤のための往復の電車のなかで、歴史書や時代小説を読むことを好んでもいた。

 これは本人に言わせるなら、たったそれだけ、ごくごく平凡な一般人であったのだ。

 そのために、たいへんな苦労をしてこの国の王をやってきた。

 国民たちを導いてやろうにも、未来的な知識としてとてもよい方法や事象があることはわかっていながら、それらの詳細についての専門知識はまるで何も持ち合わせていなかったからだ。

 土を弄ったことはあっても麦など育てたこともなく、歴史上に後装式小銃の誕生というものがあることは知っていても、それがどんな構造をしているのかなどまるで分らなかった。

 鉄鋼の組成を書類で眺めたことはあっても、実際にどれほどの割合で鉱石などを混ぜ、どんな技術を使って造っているかは知らずに仕事はこなせていた。

 人の上に立った経験もそれほどない。

 だから王として崇められると、いまでも消え入りたくなるほど恥かしさや照れくささしかない。

 人間としての記憶を、長い期間をかけ、ひじょうに緩やかに、ほんの少しづつしか思い出せなかった影響もある。

 だから何もかも自ら勉強しながら、一歩一歩やっていくしかなかった。

 農事試験場など、そのような自らの学習のための場でもあったのだ。

 周辺国をひと睨みで屈服させ得るような、周囲隔絶するほど革新的なものは何も生み出してやれなかったし、国民たちを格別に幸せにしてやれたなどとは、いまでも思っていない。

 むしろ腹心たちを始め、彼ら国民の力を借りることばかりだった、そんな後悔ばかりがある。

 ただ己の性格的自負として途中で誰かを見捨てることも責任を放り出すことも出来ず、いまこの瞬間へと繋がる、成せるだけのことは成してきたつもりだ。

 それでも。

 彼のいた世界で多くの作家たちが生み出していた、僅か数年で革新的技術革命を幾つもやれてしまうほど優秀な人間がこの国に来てくれていたなら、どれほどよかっただろう、もっと腹心や国民たちを幸せにしてやれただろうに、なぜ私だったのだ、本気でそう思うことばかりだった。

 だから。

 一二〇年。

 ほんとうに一二〇年かかってしまった。

 オルクセンの歴史。

 グスタフ自身としての、努力。

 この国の、軍備や外交、経済、国民の力。

 それら全ての結果、奇襲開戦が成功したとするならば、エルフィンドや他国といった、事情を知らぬ者たちの目からは、いったいどう見えるだろう―――

 グスタフは喉を鳴らした。

 何か皮肉なものを覚えたかのような、そんな笑いだった。

「我が王?」

「いやなに。事情を知らぬ者、あるいは物事を深く考えないような質の後世の歴史家とやらがこの日を見ればどう捉えるか、そう思ってな。彼らからすれば、ある日突然、まるで奇術や魔術でも用いて―――」

 グスタフは低く笑いつつ、まるで神話伝承上の魔王のように響く声で、告げた。

―――そんな風にしか見えないのではあるまいか。そう思えてならないのだ」



 ―――午後五時五〇分。

「侵攻開始一〇分前・・・!」

 騎乗にあるディネルース・アンダリエルの側に、やはり馬上で控えた旅団最先任曹長が、整合も済ませた懐中時計を確認しつつ静かに告げた。

 既に彼女の部隊の大多数は、侵攻発起点たるシルヴァン川南岸に到達、待機している。

 彼女たち種族にしてみれば、思えばちょうど約一年ぶりの、母なる故郷への帰還となる。

 心に掲げる旗はまるで違ったものになっていたが、もはやかつての故国への憐憫も慈悲も許容もすべてが消え失せており、それに誇りさえ抱くようになっていた。

 既に総員が、あのダークエルフ族特有の、己が氏族に伝わる文様による戦化粧を頬に施している。

 魔術探知の波によれば、エルフィンド側対岸にはまるで気配はない。

 河岸から幾らか行った場所にある国境警備隊哨所に、幾らかの兵がふだん通り常駐しているだけと思われた。

 開戦奇襲成功は、間違いない。

 第二軍や、第三軍の担当地域でも同様らしい。

 まったく、エルフィンドはどうかしていた。彼女たちにもそう思えた。

 ただし、まるで不安がないわけではなかった。

 侵攻開始を迎えれば、アンファウグリア旅団は第一軍最先鋒として、シルヴァン川途渉地を越える。

 だが、部隊の全てが渡れるわけではない。

 いかな途渉地とはいえ、大河のものだ。

 重量のある野山砲で編成された山砲大隊は渡せないと判断されていた。車体ごと沈みこんでしまう可能性が高すぎた。

 輜重馬車も同様。

 これらが渡るのは、アンファウグリアの背後各所に控えて大集合している軍総力の工兵隊が、計四本の大型浮橋を架橋してからになる。

 最低でも彼らが、工兵用の大型渡船ともいえる門橋を使う余裕が出てから。

 そのため、この工兵隊群は、ときには腕力頼みの運搬まで行い、たいへんな努力を重ねて、鉄製浮橋器材舟約三〇〇隻余を持ち込んでいた。その他架橋資材も同様。従来の全木製のものと比べて、耐久性もあれば安定性もある。

 だが、軍は最初の一本目の架橋が終わるまで、約八時間と見ていた。

 オーク族兵の総力を挙げた作業でもっと短くなるだろうとも言われていたが、最大値を見て八時間。

 五七ミリ山砲と、グラックストン機関砲の一部は、架橋舟艇を利用して幾らか渡ることにはなっていた。だが、それだけだ。野砲は渡せない。

 架橋前に渡渉することになる主力も、軍記物のように一気に渡れるわけではない。

 まず少数の猟兵が渡り、警戒をし、その本隊がこれに続き、次に騎馬途渉が得意な者で選ばれた一隊が様子見をしながら渡り、続いて旅団主力が・・・という具合になる。

 そうして渡った旅団主力は、少なくとも架橋の済む八時間後まで、まるで火力と輜重を欠いたまま対岸にあって、橋頭保を確保し続けなければならない。

 もちろん、挙動に不安定が出ている馬も渡れない。

 過去何度も騎乗途渉の訓練も重ねていたが、馬のなかには、例え乗り手のほうが優れていても、水を怖がるものも多いからだ。流水となればなおさら。混乱を避けるため、これらも残置することになる。

 この眼前、川幅七五〇メートルに広がる途渉地はそれなりに幅もあるが、これから一歩離れれば、上流側も下流側もたいへんに深くなる。溺れてしまえば、馬はもちろんのこと、装具をつけた兵も沈み、流されることになる。

 つまり対岸に渡った旅団にとって、もっとも脆弱な八時間となるだろう。

 国軍参謀本部は、重火力に成り代わるいちおうの代替案、支援策を考え出していた。

 ただそれは成功するか確信は持てないもので、最悪の場合、諦めるしかないと言われていたが―――

「侵攻開始五分前!」

 曹長が叫ぶとほぼ同時、下流から何か気配がした。

 低く、重い、規則的な響きがあり、それはだんだんと大きくなる。

 黒々とした何か大きな影が三つ、最初は霞んだ墨のように。そして音の響きとともにその陰影の濃さも大きさもまた拡大していく。

「来た。本当に来やがった・・・」

「信じられん」

「無茶しやがる・・・」

 周囲の兵たちから、口々に低く囁きが漏れる。

 静かにしろと怒鳴りつけたいところだが、ディネルースにも、まったく同感だった。

 計画は事前に知らされていたとはいえ、やや茫然としている。

 幾ら魔術兵を積んでいて障害物の探知も出来るとはいえ、そして水深の深い大河とはいえ、本当に無茶なことをする奴らだ。

 やがて黒々とした三つの影―――大河シルヴァンの河口から縦一列となり八キロに渡って遡上してきた海軍の砲艦三隻は、舌を巻くほど見事に河川の中央よりオルクセン側を進みつつ、アンファウグリア旅団の少しばかり下流側で一斉にがらがらと錨を降ろした。

 海上では確かに小さな部類なのかもしれなかったが、陸の上の者が、しかも河川で見れば、まるで大きな艦たちだった。

 川底にしっかりと錨を噛みこませるための、若干の後進のあと、今度は各艦一隻ずつ、汽艇も降ろしはじめる。

 同時に最先頭の一隻から、ちかちかと発光信号と送られてきた。

「友軍艦艇より信号―――」

 連絡のために海軍から派遣されてきた中尉が、読み上げた。

「我、屑鉄戦隊。御用は無きなりや!」

 屑鉄とはどういう意味だ?

 ディネルースはほんの少しだけ首を傾げた。

 何か聞き間違えたか。第一一戦隊だと知らされていたが。

 まぁいい、海軍には海軍の流儀もあるのだろう。

「ご支援感謝す。そのようにご返信下さい、中尉」

「はっ」

 階級は遥かに違ったが他軍種の者相手とあって丁寧に願い出たディネルースに、そのオーク族の海軍中尉はしゃちこばって敬礼した。彼の周囲には、ルムコルフ式手動発電機つきの携行発光器を持ち込んだ信号兵がいた。既に、かしゃかしゃと返信を始めている。

 これが、国軍参謀本部が、海軍と打ち合わせして決めた代替案だった。

 海軍では豆鉄砲とされる小さな一二センチ砲でも、陸軍の者からすれば重砲に匹敵する。

 しかもこれが三隻で計六門。

 重砲中隊一個に比肩した。

 そのうえ、各艦に一隻積まれている汽艇を使って、架橋作業への支援まで行ってくれる手筈になっている。一刻でも早く架橋を完了させるために。

 本当に無茶なように思える河川遡上だが、新大陸の連中がやった内戦などで十分に先例もあるらしい。夜間の例すらあると。おまけに魔術兵を積んだオルクセン海軍艦なら、どうにかやれると踏んだという。ありがたいことだ。本当にありがたいことだった。

「侵攻開始、二分前!」

 ディネルースは、その肋骨服の胸ポケットから金属水筒を取り出し、一口煽った。

 そのまま隣で騎乗している旅団参謀長にして腹心のイアヴァスリル・アイナリンド中佐に渡してやる。

「ヴァスリー」

「はっ、いただきます」

「ラエルノアにも渡してやれ」

「はい!」

 作戦参謀ラエルノア・ケレブリン大尉を経て戻ってきた水筒を持ったまま、サーベルを引き抜く。

「侵攻開始、一分前!」

 中身の残り全てを使って、サーベルの柄、刃先へと、火酒を滴らせる。

 戦いに際して、己が武器や、あるいは配下に授与する勲章などを火酒で清めるのは、彼女たち種族の伝統ある習慣だった。

 己が臓腑まで清めたのは、まあ、勢いのようなものだった。

「三〇秒前!」

 そうして右肩のところへ、刃の背の、切っ先近くをあてる姿勢で、その瞬間を待ち構えた。

「侵攻開始時刻! 二六日午後六時!」

 曹長の叫びと同時に、砲艦たちが一斉にマストトップへと戦闘旗を掲げた。

 ディネルースはサーベルを振り上げ、これを一気に振り下ろし、対岸へと突き立て、あの低い質の声で喉を枯らさんばかりに下令する。

「アンファウグリア旅団、前へ!」

 ―――オルクセン王国にとってその全力を投入した対外戦争、対エルフィンドベレリアンド戦争が始まった。


 

(第三部「すばらしき戦争」に続く)

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