第11話 戦争のはじめかた⑤

 ―――「魔の一二日間」。

 オルクセン国軍参謀本部幹部たちは、その期間をそう呼んでいる。

 軍が動員令を発し、予備役兵たちが招集され、戦時体制となった部隊が作戦計画指定の地点へと展開作業を終えるまでの期間だ。

 これは徴兵制による平時体制及び戦時動員制度を採っている軍隊にとって、例え焦れるような、歯噛みをするような、そんな感情を抱いたとしても、どうにもならない必要期間である。

 オルクセンほど練られた戦時動員体制と兵力展開体制を持った国でも、これは例外ではない。

 彼らは仮想敵国ごとに番号を振った作戦計画一号から六号までの戦争計画を持っており、実にオルクセンという国の軍隊らしくそれらを細部まで練りまわしていたが、どの計画を発動させたとしても概ね一二日間程度の動員展開期間が必要だった。

 対エルフィンド戦を想定した六号―――いまや侵攻作戦計画「白銀の場合ケース・ジルバーン」と呼ばれるようになった計画も同様である。

 国内全土から約五〇万の動員兵力をかき集め、エルフィンドとの国境地帯に送り込み、展開する。

 この作業に要する期間が、一二日間。

 ただこれは、周辺諸国の軍幹部たちがもし知ったら唖然、茫然、慄然とするほどの、実に贅沢な悩みであったとも言えた。

 これより一五年ほど前、隣国グロワールが、当時勃発した南星欧の半島国家エトルリアの統一戦争に介入したことがある。

 このときグロワールは、約七〇万という大軍を動員、当時まだ目新しいものだった鉄道による軍隊輸送という新戦術を主体に用い、彼らの南部国境部に軍を集結させたのだが―――これに要した期間は、だったのだ。

 それから一五年という歳月がもたらした技術的進化と熟成、動員体制が異なっていること、兵力数の違い、おもに平時における鉄道の整備にどのような政策を用いていたのかといった国家体制の差異などもあるが、オルクセンの戦時動員期間をグロワール軍幹部がもし知れば、それはあまりにも短かなものだった。

 正気かと問い詰め、夢物語に違いないと喚き、戦慄したに違いない。

 実際のところ彼らは自国の志願義勇制度による国民兵、その常備軍制という体制に自信を持っており、仮にグロワールとオルクセンが戦争になった場合、開戦当初から圧倒的優位に立てると思い込んでいたからだ。

 そんな具合だったから―――

 このときオルクセン軍は、たいへんな野望を抱いている。

 一二日で軍を動員し、展開させ、エルフィンドとの国境に雪崩れ込むただその瞬間まで、当事者たるエルフィンドにはもちろん、周辺国にもこれを悟らせず、開戦を奇襲によって踏み切ろうと目論んでいた。

 彼らはそれを、やれる、と踏んでいた。

 少なくともエルフィンドが直前になって気づいたとしても、白エルフたちの兵力動員が間に合わぬうちに突っ込める、そのように企図してこの作戦計画を発動したのである。

 そのために、この「魔の一二日間」においてさえ、彼らは実に様々な策を打っていた。

 まずオルクセンは、あの開戦の大義名分となるエルフィンドの書簡の件―――のちの世に「エルフィンド外交書簡事件」と呼ばれることになる事態を、すぐには国内外に公表しなかった。

 これを行えば国内世論は沸騰、団結し、義勇兵なども集めることも出来れば、諸外国もまた開戦理由を承知したであろうが、それでは奇襲意図を秘匿できない。

 国王グスタフ・ファルケンハインや、外務省、国軍参謀本部などの協議により、公表は開戦と同時に行うことになった。

 キャメロット外務省など、オルクセンがこれを公表しないので、彼らにはまだ外交的な事態改善の意思があると、意図的にオルクセンにより作り出された誤解に基づいた安堵までした。

 また、兵の動員はあくまで演習とされた。

 オルクセン国軍が演習において予備役動員を行うことは珍しくない。

 少なくとも最大で年二回あった。

 鉄道機動も同様である。

 これが戦時動員であることは、各軍を率いることになる最高幹部たちや、師団長とその司令部要員や、ほんの一握りの将校たちにしか明かされなかった上に、彼らには緘口令が敷かれた。

 動員され、機動展開することになる当事者ともいえる部隊の一般将校や、予備役将校や、兵や、予備役兵たちは、これをまるでふだん通りの演習だと信じ切っていたのだ。

 だからこの戦争では、過去にはオルクセンでさえ一般的だった、出征兵士のパレードや、市民たちによる見送りといった儀式めいたものは、まるで行われずに動員が進行した。

 演習動員だと信じ切っている将兵を送り出す家族や周辺のなかには勘も鋭く察する者もいたが、大半の国民たちは、ああ、また軍の演習かなどと思い、見過ごしてしまっている。

 この動員期間中、予備役の更に予備、後備役兵の動員は故意に行なわない方針にもなった。

 少しややこしい話だが、オルクセンの軍制では、戦時となると出征した師団のあとには、同じ師団番号と名称を使った「留守師団」という組織が出来上がる。

 補充兵を練兵しつつ、この留守師団を構成するのが後備役兵や国民義勇兵で、後備〇〇第〇旅団であるとか、後備〇〇第〇〇連隊といった部隊を作る。

 装備更新により余剰となった保管兵器などを支給され、出征した部隊に代わって国土防衛の任に就く建前になっている。

 オルクセンはこの制度のおかげで、仮に他国から攻め込まれた場合、なりふり構わぬ根こそぎの動員をかければ、最大で約一五〇万の軍隊を作ることができると試算されていて、キャメロットなどに約した「国土防衛に怠りはない」という文言の、裏付けたる根拠にもなっているのだが。

 この後備兵の動員までかけてしまった場合、それはもうどう見ても国内外双方ともからオルクセンが戦時体制に動いたとしか受け止められない。

 国民生活にも多大な影響、支障がでて、そうなると海外の目からも隠匿しきれないであろう。だからこの後備兵動員もまた、開戦のそのときまで行われないことになった。

 例え他国が邪な陰謀を抱いたとしても、そのときには彼らの動員期間もあるから即時性を以てしては実行しえない、そう判断された。そもそもそのような懸念は外交的に封じてもある。

 オルクセンという国家が持つ特有の事情の数々も、この軍事上の秘匿行動を助けた。

 このような軍事行動に際してとくに改めて貯蔵せずとも、普段から国有所蔵庫に保存され、鉄道路線各駅に蓄えられていた食糧。

 国内に滞在や居住する周辺国の在留者が、魔種族の国ゆえに数も地域も非常に限られ、その目が隅々まで届ききっていなかったこと。

 兵力動員及び展開の実務にあたる国内鉄道関係従事者の全てが、オルクセンの場合は国有鉄道社の者で、情報統制が非常に容易であったこと、等々―――

 時代による要因もある。

 電信に加えて、オルクセンには魔術通信も存在したが、その迅速性は後代の目からみればずっと慎ましいものであった。例え軍隊輸送列車の通過を誰かが目撃し、更に不審を抱いたのだとしても、彼らがもたらす情報はうんと狭い範囲で済んだのだ。

 エルフィンドとの関係性もあった。

 元々、あの国とは国交がまるでない。

 個の交流すらなかった。

 国境部から侵攻の直前まで物理的及び魔術的距離をとって部隊を集合させればそれだけでよく、他国との国境だったならありふれた存在だったはずの、商人や、観光客たちの目を心配する必要がまるでなかった。

 種族としての見た目があまりに違い過ぎ、密偵や軍事探偵も存在し得ない―――

 事態は静かに、だが着実に進行していった。

 開戦を奇襲もしくはこれに近いもので成し遂げようとする以上、この期間、軍において事情を知る者のなかには、焦慮し、懊悩し、倦む者も当然存在した。

 やや意外であったのは。

 この兵力動員時期の末ごろまで、あの作戦の天才にして傲慢不遜極まりない国軍参謀本部次長兼作戦局長エーリッヒ・グレーベン少将などは、非常に動揺している。若く、才知に優れていたゆえに、次々と悪い方向へと想像が脳裏を巡ってしまい、終始青い顔をしていた。

 海軍の最高幹部たちも同様だった。彼らは元より、エルフィンド海軍に対し戦力的に劣勢である。これを覆そうと建造していた新造艦の完成はどう見ても開戦には間に合わず、手持ちの戦力でどうにかするしかなかった。ある海軍幹部など、

「いまこの時期にエルフィンドと戦争をやろうとなどと愚かなことを、いったい誰が言い出した!」

 そう叫んだ者までいた。

 海軍はここに至るまでの過程で、何度も陸軍と折衝し、時間にすればほんの僅かな差ではあるものの、開戦の第一手を自らたちが担うべくその希望を叶えていた。

 兵力差がある以上、開戦劈頭にまだ用意の整っていない敵海上兵力へと痛打を与えるべく作戦行動を起こすことは、絶対に必要な自明である。

 陸軍は陸軍で奇襲したい目標があったから、この決定に至るまでにはたいへんな論争があり、ときに互いの幹部同士が掴み合い、罵り合い、文字通り殴り合ってまで、その役目を担うことになった。

 我ら海軍が成功しなければ第一軍の作戦行動は大幅に狂う、強いては第三軍の役目も変じると説得し、陸軍側が折れたのだ。

 であるからには―――

 俄に決定した開戦を前に、僅かな準備期間で、手持ちの乏しい艦艇を整備し、休暇中の乗組員たちなども呼び戻し、給炭、弾薬補充を終え、作戦行動へと入らねばならなくなった。果たして敵海上兵力がこちらの思惑通りにいてくれるのか、という不安も当然存在した。多くの海軍幹部たちは、祈るような気持ちで開戦予定日を迎えようとしていたのだ。

 このように多くの者が不安を禁じ得ないなか、オルクセン国王グスタフ・ファルケンハインはいったいどうしていたのか。

 その様子の一端を、ダークエルフ族戦闘集団アンファウグリア旅団の長にして、もはや心の隅々まで彼の女でもあるディネルース・アンダリエルが目撃している。

 魔の一二日間の半ばごろ、彼女と彼女の率いる部隊の出征が極秘裏のうちに開始された日、ディネルースは国王官邸のグスタフの元に、挨拶に訪れた。

 既にその前夜、ふたりは私的な関係上の挨拶はもう済ませていた。

 それはどこか身も心も情炎で燃やし尽くしてしまうような、尽きるともない渇望を交わしあったもので、ただ言葉は少なく、しかしながら互いに互いを貪り、喰らい尽くさんばかりになった。

 いまさら、行くなだとか、必ず帰ってこいだとか、行ってくるだの、戻ってくるからなどと語り合う必要はなかった。

 グスタフはディネルースがそのような真似を喜ばぬ女だと知っていたし、ディネルースのほうはそれへの感謝を述べなくとも彼は理解してくれていると知っていた。

 ふたりの仲はそれほどまでに至っていた。

 だからこの日、ディネルースがグスタフの元を訪れたのは、完全に臣下としてのもの、アンファウグリア旅団の旅団長としてのものだった。

 彼女の旅団は、第一軍、つまりベレリアンド半島東岸部へと突っ込むことになるグスタフ親率の軍へと、戦闘序列が発令されていた。

 戦闘序列とは、戦時にあってその配下となり命令を受け、兵站及び会計上もまた統制下に入る、という意味である。

 侵攻開始時における配置は第一軍隷下にあって真っ先に国境部を突破する役割―――軍記風にいえば、もっとも役割が大きく、また危険でもある、先鋒ということになる。

 アンファウグリアの機動性と、偵察能力、そして現地の地勢に詳しいこと等を買われての、配置であった。

 挨拶へと訪れたディネルースの栗色の頭には丁寧に手入れも済ませたあの熊毛帽があり、全身を旅団の漆黒に銀絨の騎兵将官服に纏い、サーベルや拳銃、装具の類も既に帯びている。その左腕手首には、ちょっと新規な品物があった。

 懐中時計の周縁を覆い保つように革材が細工され、さらにそこから手首へと巻き付けるかたちで造作された帯で止めたもの―――腕時計だ。

 例によってグスタフがお抱えの職工に作らせたもので、数日前に贈られた。連日連夜出征準備に忙殺され、なかなか会う時間を作り合えず、ようやくそれを果たした日に贈ってくれたものである。

 従軍中の者には、とくに馬上にある騎兵科の者には、なるほど便利極まる発明であった。

 それは、グスタフなりの最終的な意思表示でもあったのだろうと、ディネルースは理解している。

 従軍に要する品物であったのだ、我が牙として最前線に突っ込むことを止めない、という意思だ。

 ディネルースは感謝した。

 心から感謝している。

 己と己が旅団とで、白エルフどもをひとり残らず食らい尽くしてやろうと、意を新たにしていた。

 だからこのとき、それまでに彼から贈られた品々の全てを身に着けるか、すでに部下たちが手筈を整えてくれ軍用列車で同時に送られることになっている行李の中に携えていた。

 あの野戦双眼鏡。

 肋骨服の隠しポケットのなかの銀水筒には、彼が見つけ出してくれた火酒。

 行李のなかには、更にその火酒のボトルが幾つかと、あのアクア・ミラビリスの香油類。グロワールの海藻石鹸。

 ひとつ残らずあった。

 無言の礼のつもりである。思えば、こんなときに必要になるものばかり贈ってくれていたのだなと、今更ながらに気づいていた。

 そのようなことを思慮していたくらいで、彼女自身でも気づかぬうちに、知らぬ間のうちにディネルースはひっそりと感傷的になっていたのかもしれない。

 だから―――

 訪れた国王官邸の執務室にグスタフの姿はなく、彼があの隠れ家ともいうべき図書室の一角でソファに座り、アドヴィンを近くに寝そべらせ、本を読んでいたのには驚いた。 

「おお、ディネルース。来たな。いまから出発か?」

 彼は、まるでふだんと同じ様子だった。

 動揺や、焦燥や、不安といったものとはまるで無縁のように見えた。

「・・・・・・」

「・・・どうした?」

「いや、なに―――」

 ディネルースはついには吹き出してしまった。

「大いに結構・・・! 事態ここに至るも我が王がふだんと変わらぬとは、臣下としてはこれほど頼もしいことはない、と。そう思ってな」

「そうか」

 グスタフもまた、くすくすと笑った。

 その語尾は、まさにその事態とやらだ、事態ここに至って私が焦っても仕方ない、そう告げているように聞こえた。

「ああ、ディネルース」

「うむ?」

「これを持っていけ」

 彼はそう言って、己が読みかけに携えていた、ちょっと分厚い一冊をディネルースへと手渡した。

 表紙を眺めてみると、彼女が好むところの、星欧のふるい奇譚の類を集めたものだった。気になってはいたが、まだ手にとったことない一冊だ。

「・・・読み終わったら。棚に返しておいてくれ。いいな?」

「・・・そうか。わかった。ありがたく」

 ふたりの、互いの存在と覚悟とを認め合う儀式は、それで全てが済んだ。



 ―――星暦八七六年一〇月一四日。侵攻開始より一二日前。

 エルフィンド外交書簡事件の翌日にあたり、既に前夜、陸海軍に対する動員令が発せられていた同日。

 ドラッヘクノッヘン港グロスハーフェンのオルクセン海軍本拠地では、係留浮標に繋がれた荒海艦隊ラウゼー・フロッテ総旗艦レーヴェのメインマスト両側にある信号旗揚降索ヤードに、

「各戦隊司令、艦長、集まれ」

 との信号旗が掲げられた。

 即ちこれは魔術通信は用いるなとの含意でもあり、各隊各艦は何事かと訝しみつつも、ただいまの信号了解を意味する応答旗を出し、艦載汽艇や短艇を操り、旗艦レーヴェ左舷側に降ろされている舷梯へと次々に乗り付けた。

 例え所帯の小さな海軍とはいえ、一度にこれだけの艇が集まると一種の奇観を成した。旗艦の両舷に延ばされて小艇を待機させ得る係船桁では足らず、各艇は自らたちの主が戻ってくるまで待機をするため、まるでミズスマシのように近くを漂い続けたのである。

「・・・・・・開戦」

 レーヴェ艦尾の、艦尾スターンウォーク付きの長官公室へと集められた彼らは、艦隊参謀長より事態を知らされ、揃ってその顔貌を引きつらせた。

 無理もなかった。

 いざこの日のために作戦も練り、そのための装備や、訓練なども成しうる限り整えてきたつもりだが。

 彼らは当事者であるがゆえに、エルフィンドの海軍がどれほど優れているか、即ち己たちオルクセンの海軍とどれほど隔絶しているか、よく理解していた。

 なかでも、エルフィンドの誇る主力艦二隻が最大の脅威だ。

 装甲艦リョースタ、スヴァルタ。

 それぞれ白鳥、黒鳥という意味だといい、優雅ささえ漂わせた艦名だが、その排水量は九一三〇トン。三檣バーク型の汽帆装艦。

 中央構造物と船体付近、舷側に並の砲では打ち抜けないほど分厚い装甲と構造を持ち、そこへ三〇センチの巨砲を連装二基計四門、最新式の砲塔形式で、両舷にも艦首尾方向へも二基同時に向けられるようこれを梯型に配置した、怪物だった。

 対するオルクセンの主力艦は、このレーヴェ以下、同型のゲパルト、パンテルの三隻。排水量六二〇〇トン。主砲は二八センチ。

 しかも舷側の砲郭と呼ばれる装甲構造のなかに片舷二門ずつ固定に収めた、リョースタ型からみれば一世代前の構造をしており、砲塔式のように片舷や艦首尾へ同時に四門も向けられもしない。

 救いがあるとすればオルクセン側主力艦三隻はもう効率の悪い帆装を排して完全な汽装へと改造されて二本のファイティングマストとし、速力においてやや勝っていたことと、リョースタ型はキャメロット式の前装式主砲で、レーヴェ型はヴィッセルの誇る後装式主砲をしていたことだが。

 仮に洋上で会敵した場合、砲戦ではどうにもならないだろうと思われている、峻烈なまでの落差があった。 

「なんじゃ、貴様ら。不満か」

 長官席にどっかりと座り、居並ぶ各官を見渡した荒海艦隊司令長官マクシミリアン・ロイター大将は、揶揄うように言った。

 オルクセン海軍が、ほんの数隻の小舟を沿岸に浮かべていただけのころから海にいる、オーク族叩き上げの提督だ。

 性格や人柄は、陸軍で例えてみればあのシュヴェーリン上級大将にちかいと評することができたが、より抑制があり、最新戦術研究に熱心な、学究的な部分が濃かった。自我の部分が表に出ているシュヴェーリン、といったところか。

「我が海軍最大の宿敵、エルフィンドとの決戦に国王陛下よりご招待頂いたんじゃ。本懐であろうが」

「それは・・・その通りでありますが」 

 誰かが言った。

「それなら、やることは一つじゃろ? 準備せい」

「はっ!」

 最終的な作戦案や、各戦隊各艦の役目役割、出撃日、作戦決行日、緘口令、その解撤日といった詳細について参謀長より通達されたあと、これはオルクセン海軍の習わしで、全員で麦酒の杯を上げ、一気に飲み干し、歓声を上げ、解散した。

 海軍というものは、本当に不屈だ。

 この段階になると。

 各自、異様なまでに陽気になっていた。

 やってやる。

 やってやる。

 きっと、やってやる。

 争うように舷梯へと殺到し、順に出迎えにきた自艦艦載艇へと飛び乗って、汽艇乗員に対し飛ばせ飛ばせと叫ぶ者、あいつに負けるなと煽る者、鼻歌まじりに海を眺める者、歌いだす者、大声で叫びあって今晩は上陸し飲みに行こうと約し合う司令や艦長たちもいた―――

 その様子をレーヴェ艦尾のスターンウォークから眺め、見送ったロイターは、

「参謀長」

「はい、提督」

「儂らみんなで沈んだら。リョースタ、スヴァルタくらい食えるじゃろなぁ」

「・・・はい、きっと」

 彼なりの決意固めをした。

 散開していく各艇のなかでは、一隻ちょっと妙な動きをしたものがいる。自艦へと戻らず、一散に、艦隊泊地とは対岸のヴィッセル社グロスハーフェン造船所へと舳先を向けさせた汽艇がいたのだ。

 あの砲艦メーヴェの、エルンスト・グリンデマン中佐だった。

 彼もまた、同僚たちのように半ば自暴自棄じみた陽気な気分となっていたが、それゆえに急がねばならない理由があった。

 このとき、彼の配下にあってあの屑鉄戦隊を構成する第一一戦隊三隻のうち一隻、鯨を突いて機関故障を起こしたコルモランが、まだ入渠中だったのだ。

 より正確に言えば、修理は既に終え、何度か引渡し前の修理後試験航海をし、最後の仕上げのために整備用岸壁に横着けしている状態である。

 どうもヴィッセル社の連中曰く、修理のしきれない―――というより機関構造そのものに問題があって、丸ごと交換でもしない限り、根本的には解決のしようのない箇所があるらしいと聞いている。

 ともかくこれを引っ張り出させて、出撃準備、海軍風に表現すれば出師準備と呼ばれている作業に入り、出撃日までにやり終えてしまわなければならない。

 ホルマンのやつを見に行かせておいてよかった、そう思っている。

 コルモランの機関長はまだ若く、グリンデマンの目から見てどうもいま一つ頼りなかったので、数日前、自身の信頼するメーヴェ機関長ホルマン機関曹長を様子見に送り込んでいたのだ。

 それはいまから思えば、虫の知らせのようなものだった。

 ふだんならコルモラン側の顔を潰しかねないので、そんな真似はしない。

 だがどうにも世情の空気から何某かのきな臭さをこの年の頭くらいから感じ続けており、そのような処置をとっていたのだ。

 ホルマン曰く―――

 コルモラン型砲艦で初採用された機関形式は、まともに動きさえすればヴィッセル社の謳い文句通り、あるいはそれ以上に素晴らしいものだという。

 従来の、蒸気圧で円筒反復運動器を動かして運動力を取り出すのではなく、蒸気で直接に羽根車機関を動かして回転運動を生じさせる、ホルマンの言うところの「力強い蒸気スターカー・ダンプフ」を効率よく推進器へと伝える構造なのだ、と。

 そして機関の不調を招いているのはその技術的熟成度が足りない点もあるが、海軍がふだん使っている二流三流の石炭もよくないのだ、と。

 確かにホルマンの言う通り、海軍は日常的には二流以下の石炭を使っていた。

 オルクセンではもっと熱効率の良い、海軍艦艇の燃料などには最適な、一級の無煙炭も産出する。

 ところがこれはオルクセン海軍省の目から見ればたいへん高価な代物で、艦艇部隊はおいそれとは使わせて貰えなかった。

 予算に乏しい海軍としてはそのような涙ぐましい節約までやっていたのだが、金銭面で節約は出来ても、これは平時における艦隊運動を大きく阻害していると、ホルマンなど機関科の者たちは罵っている。二流炭や三流炭は熱効率も悪ければ、機関に煤なども溜まりやすいのである。

 いずれにせよ、いまのグリンデマンには些末に過ぎた話であった。

 彼としては、なんとしてもコルモランを引っ張り出し、これが動いてくれるならそれで良かった。

 正直なところ、敵艦に食らいつくその瞬間まで持ってくれたあとでなら、自隊三艦全てぶっ壊れてもらっても構わないとすら思っていた。

 そうとでも思わなければ、エルフィンド相手には戦えない。

 それに。

 ホルマンなどの海軍機関科の者たちの不満は、この翌日には解消された。

 まず大編成の鉄道貨車で、ついで給炭船で、平時の荒海艦隊なら一年は困らないほどの、文句なしに一級等級の無煙炭が続々とグロスハーフェンへと届けられ始めたからである。



 ―――同日。

 陸軍における動員の初動もまた、始まっていた。

 各師団長は、動員令の機密電報「白銀ジルバーン」を受け取った前夜、ただちに司令部要員を参集。状況を説明し動員目的への緘口令を敷きつつ、まず会計担当将校に対し、常に師団に用意されている会計費のなかから一六万四三二三ラング四八レニという、非常に細かな金額の支出を準備させた。

 これは、オルクセンの標準的な擲弾兵師団一個が動員に要する初期費用である。

 各連隊区において帰休兵並びに予備役下士官及び兵の招集令状を発布させ、制度上連絡が必要だった各県知事、検事長、逓信局支局長に対して通知を実施。この会計費の支払いを、翌一五日朝には完了させた。

 連隊区から二日以内に連絡のつく地域に居住している予備役下士官及び兵のもとへ、続々と予備役招集令状が、逓信省郵便局配達員の手により届く。

 予備役将校たちも同様だった。彼らは通達を受けると、将校は基本的に自弁となっている軍服や将校用背嚢類を自宅の衣装箪笥などから引っ張り出し、選び抜いた私物の類を将校行李に収め、出頭した。

 彼らは概ね、初動日から長くとも六日、最短で二日以内に所属連隊へと到着。

 軍服や、背嚢、小銃、装具といったものを再支給され、戦時編制中隊を構成しはじめる。

「今度の演習はえらく急だったな」

「抜き打ち招集訓練ってやつだろ? 女房に店を預ける段取り組むのに、困っちまったぜ」

「おい、そこの貴様ら! なに無駄口叩いてやがる!」

「へいへい、曹長殿」

「はいだろう! それに返事は一度! いまさら初心な新兵のつもりか、貴様らぁ!」

 そんな光景があちこちで繰り広げられた。

 奇妙であったのは、ふだんなら丹念に実施される、予備役兵たちへの勘を取り戻すための初歩的な訓練が殆ど行われなかったことだった。

 分隊や小隊、中隊という単位では行われたものの、機動演習を優先し、より入念なものは機動先で実施するという。

 制帽たる軍用兜も携える必要はなく、略帽でよいとされた。

「すると、鉄道機動か。あれ面白いんだよな、見たこともない街へ行けて」

「そうかぁ? 俺は尻痛くなるから嫌だけど。客車回してくれねぇかなぁ、どうせ貨車だろうなぁ・・・」

「俺たちゃ図体でかいからな・・・」

「あの・・・兵長殿、踏まれそうです・・・」

「おおう、すまねぇ、コボルトの坊主! おいみんな、開けてやれ開けてやれ!」

「ありがとうございます・・・!」

 戦時動員状態となった各師団は、最寄りの国有鉄道社各駅や、支局から派遣されてきた同社社員たちとの入念な打ち合わせのもと、各部隊の指定日時ごとに、最寄り駅や、隣接演習地の軍用引き込み線から特別軍隊輸送列車に乗り込んだ。

 幹部将校たちはともかく、下士兵卒の多くは客車ではなく、貨車であった。

 有蓋貨車ならまだいいほうで、無蓋貨車を割り当てられた隊も多い。

 客車も、作りが簡素なぶん多くが乗れる三等客車である。

 オルクセンの鉄道は他国のものより造りが大きいが、それでも巨躯ばかりのオークたちが詰め込まれれば、たいへんだった。

 通信隊や輜重隊のコボルトたちは必死に己の居場所を確保する。大隊以上に属するコボルト通信兵などは、幹部将校たちとともに客車へ乗せて貰える措置をとられることが多かった。

 罵りや愚痴、不平不満、ついでそれへの叱咤が飛ぶ。

 軍馬、火砲、所有の各車両、行李などは貨車や平貨車に積み込まれる。

 この積込作業は各部隊とその輜重隊が中心になって行われるが、鉄道駅配置となった別部隊の兵たちも動員された。

 携行食糧や携行弾薬の定数分は携えていくが、それ以上の兵站物資は同乗しない。

 ことオルクセン軍の場合、心配などしなくとも、それらは後から必ず追いついてくるか、とっくのむかしに現地展開されているのが常であった。

「ちくしょう、煤だらけになっちまった!」

「北か・・・ 北へ向かってるなぁ・・・」

「そういや冬季装備指定だったな」

「眠れねぇ・・・」

 特別軍隊輸送列車は、極めて正確なダイヤグラムのもと移動を続け、ときおり給水や給炭のために駅に停車して、これを利用して小休止や大休止の機会が設けられた。

 しかし、彼らは急病などといったよほどのことがない限り下車はさせてもらえない。

 ホームに降り立って体伸ばすといったことさえ許されず、車両上のその場で立ち上がり屈伸しろといわれるくらい。

 食事は、停車各駅の食糧貯蔵庫を利用して、既に手早くそれらに専属で配された補給隊から支給される。ライ麦パン、ありとあらゆるものを大鍋で煮込んだゆえに奇妙なほど味わい深く五臓六腑に染みわたる軍隊スープ、寒さ凌ぎの目的もあって供給された酒類。

 軍馬にも飼葉や水が与えられた。もよおすものがあれば、その場で立って尻をまくれ、前をだせと命じられることさえあった。

 非情にも思えるこの光景は、長年にわたって鉄道による軍隊輸送を研究、実施、結果を反映させてきた参謀本部兵站局鉄道部に言わせるなら、絶対に必要な措置だった。

 輸送中の部隊を目的地到着前に一度降ろしてしまうと、収拾がつかなくなるからだ。

 そこでまた乗車や兵員点呼といった作業が生じ、輸送動脈上の血栓となって滞ってしまう。

 だから兵たちは苦労を続ける―――

「なんだこりゃ・・・」

「おい。これって・・・」

「まただ・・・ おいおい、これ師団対抗って数か?」

 北へ―――メルトメア州へ進めば進むほど、兵たちは事態の奇妙さに気づき始めた。

 停車中や走行中の他の軍隊輸送列車に遭遇することが増え、ホームには野戦憲兵隊たちの姿を認めることが多くなり、大量に集められた輜重馬車がある駅、砲や、物資、そういったものが集積され膨大な数の天幕を張られた平野などを見かけるばかりとなり、その頻度は増し続ける一方であった。

 ついにメルトメア州の国境部周辺へと到着したころには、軍隊の姿しか見ないといっていいほど、濃密になった。

 国境部五都市には巨大極まる兵站拠点駅が築かれており、輜重輸卒たちの手も借りながら、軍隊輸送列車が続々と兵や、兵器や、軍馬や、車両や、物品を吐き出し続けていた。

「・・・・・・戦争だ」

 誰かがいった。

「ああ、戦争だ!」

 他の誰かが同意した。

「こいつは戦争だ。本物の戦争だよ!」

「なんてこった!」

「エルフィンドか!」

「ついにあいつらとやり合うのか!」

「ちっきしょうめ!」

 その罵りに込められた感情は、当事者たちでさえひとことでは言い表せない。

 興奮と、発奮と、狂喜と。恐怖と、畏怖と、憂慮と。

 歓呼の雄叫びを上げる多くの者がいて、まだ見ぬ敵の姿を想像する者もいれば、ろくな別れも済ませられなかった家族の顔、声、立ち居振る舞いなどが浮かぶ者もいる。始まったばかりだった新妻との生活や、生まれたばかりの赤ん坊との将来、修められなかった学業を生きて帰り再開できるかどうか心配する者もいた。

 動員部隊の殆どは、ここまで来て初めて、出征を祝う花や歓声、軍楽を贈られた。

 流石にメルトメア州国境部各都市では事態を早々に気づいた市民たちばかりで、軍から布告された緘口令を守りつつ、自発的に、どうにか慎ましくしつつ、野戦憲兵隊の統制もうけながら、そんな動きがあったのだ。

 北部に向け六本も整備されていた複線鉄道網、更に兵站拠点となった各都市間を結ぶ支線を利用し、こうして動員展開されていく軍の総勢は、東西約二六〇キロの半島国境部に対し、オルクセン軍が投入できる一次的な動員兵力としては全力のものとなる約四六万八〇〇〇名。

 数字で書くのは容易い。

 だがそこには、オーク、コボルト、大鷲、ダークエルフ。様々な種族があり、それぞれの生がある。

 軍一筋でやってきた将軍。陸軍大学校を出たばかりの参謀。空に昇り天候をみてきた少佐。郵便局で魔術通信を扱っていた中尉。教師だった将校。軍のなかで努力を重ね兵から上り詰めた軍曹。その下で威張っているが実は心根の優しい伍長。ヴルスト屋の屋台を引いていた兵。博徒として街のちょっとした纏め役だった兵。染物を営んで家庭を支えていた兵。

 兵器や、弾薬、軍馬、輜重馬車にさえ背景がある。

 数年前までは鉄鉱石や木材だった野砲。鉄道職員によって積み込まれた山砲。熟練工によって仕上げられた砲弾。一つ一つ検品された銃弾。職工の手と円鋸により厚さを揃えて切り出された木材により作られた木箱。海を渡ってきて育てられた軍馬。この戦役のあと農家の手に渡って何十年と大事にされた輜重馬車。

 その膨大な何もかもが、統制され、制御され、練りに練られた混乱ともいうべき展開運動のなかで集結していく。

 軍とは。

 軍隊とは。

 ある日突然何処かへと、魔法のように出現するものではない。断じてそうではない。



 ―――一〇月二〇日。侵攻開始六日前。

 オルクセン国王グスタフ・ファルケンハインもまた、移動を始めた。

 既にこの前日、一足先にアンファウグリア旅団は動員移動の出発を終えている。彼女たちはまず夜半も用いて首都演習場へと移駐し、同地の軍用引込線から出征していた。

 それでもこのときなお、国王官邸では毎朝、衛兵交代式は継承されていたし、正面玄関前には一個小隊、裏門には二名のダークエルフ族の兵が立哨を続けている。

 偽装である。

 これは戦時動員されたアンファウグリアの予備兵力から抽出した二個騎兵中隊の手によるものだった。

 グスタフの移動もまた、巧妙に手の込まれたものであった。

 彼はまず官邸裏門から無紋の馬車に巨狼アドヴィンや副官のダンヴィッツ少佐とともに平服で乗り、農林省裏の停車場でどうということのない中級馬車にさっと乗り換え、やはり首都演習場へと向かって、そこの庁舎で軍服に着替え、南側引込線に入った特別編成の専用列車で北へと出発した。

「王。我が王」

「どうした、ダンヴィッツ」

「その、どう考えてみましても。農林省での乗り換えまで必要だったかどうか、私には疑問です・・・」

「ふむ。わからんか?」

「はい?」

「面白いからやったのだ」

 唖然とするダンヴィッツへと、グスタフは片目を瞑ってみせた。

 特別専用列車は八両編成。

 オルクセン国有鉄道オルクス・バーンの、星欧他国より幅の広い一五二四ミリの軌間がもたらす性能を一杯に生かした、グスタフ専用の車両だった。

 展望車、国王寝台車、食堂車、護衛車両、魔術通信車、随行員食堂車、随行員用車両、随行員用寝台車。そんなもので構成されており、これを急行旅客用にモアビト・キルヒ社が製作した、軸配置四-四-二の、OB八号型機関車で牽引する。機関車は同社製造のものなかから技術者たちが選りすぐりにした工作精度のよいもので、倍近く車両を曳いたとしても最高時速九五キロメートル。

 「センチュリースター号」といった。

 なぜそのような、新大陸にあって内戦をきっかけに南北に分かれてしまった国の名をつけたのかは、命名者であるグスタフにしかわからない。

 諸外国の貴賓を乗せる場合もあったので、グスタフの持ち物としては例外的に豪奢であった。

 展望車にはピアノがあり、図書棚があり、寝台車には急カーブでも湯のこぼれぬように設計された大理石作りの浴室がある。

 専属のコックの腕は折り紙つき。

 各車両には蒸気ラジエーターを利用した暖房、刻印式魔術を惜しげもなく使った冷房があった。

 普段は、グスタフが国内各地への行幸を必要とした場合に使用されていた。

 ずっとあとの時代になって、国王専用列車には防弾装甲が施してあったのだという話がまことしやかに流れた。これは編成重量計算が異様に重かったという事実に依るものだが、実は防弾設備などではなく、寝台車にオーク族向けの大きさで設計された大理石作りの浴室が重かったためである。

 出発のとき、警護車には戦役中におけるグスタフ王の護衛となるべく、ディネルース・アンダリエルが手選りに振るいにかけた二六名のダークエルフ兵がいた。

 グスタフが、司令部には哨兵もいるのだから構わん構わん、などと、彼自身の出征に対してまるで護衛を連れていく気がないことを知ったとき、直接諫めても翻意などはしないだろうから、ディネルースが搦め手に国軍参謀本部や国王官邸副官部と謀ってそのように手配した。

 それはアンファウグリア旅団のなかから選抜されたというよりも、あのシルヴァン川脱出行に際して最後まで彼女と一緒に戦った約一二〇〇名のなかから選ばれた、拳銃射撃の腕もよく、魔術通信にも優れた兵たちだ。

 腰に吊った、一〇・六ミリ弾将校用拳銃を使って、二〇歩先のトランプの絵柄さえ撃ちぬけるほど腕が立つ。

 彼女たちはグスタフ王にというより、ディネルースへの忠誠心が厚く、例え邪な意思を持つ者が王に近づくようなことがあれば、躊躇いなくこれを射殺し、また同時にグスタフへと覆いかぶさって盾となる技量も意思もあれば、訓練も済ませていた。

 八名三交代で二四時間絶え間なく護衛につく兵と、下士官、統率の将校一名で構成されている。例えグスタフが宿舎寝室で眠りについている間でさえ、その扉外に最低二名は配置に就くよう、厳命されていた。

 ただ、ディネルースはこれらの兵を着けるよう手配を終え、なにがどうあっても今回ばかりは護衛をつけさせてもらう、そうグスタフに申し渡したとき、やや声を低くし、

「貴方にそのような心配はないと判ってはいるが、一応言っておくことがある―――」

「うん?」

「この者たちは、もし貴方がにまで側におこうとしたら、自ら舌を噛み切るほど私への義理立てや忠誠が厚い。それにもし、そんなをしたら―――」

「・・・・・・」

「誰よりもまず、私が貴方を八つ裂きにして殺す」

「・・・・・・」

「逃げても、地獄の果てまで追い詰める」

「・・・・・・」

「例え便所に隠れていても息の根を止めてやる。いいな?」

「・・・・・・・わかった」

 特別警護班は、言ってみれば、ディネルースとダークエルフ族全体からの、グスタフ王への今までの返礼であり、献上であって、自ら発露する忠誠の現れのようなものだった。ただ、その献上の意味するところを誤解するなと付け加えることを忘れなかったのだ。

 まったく以て今更のことだが、ディネルースにはそんな苛烈極まりないところが多分にあった。

 グスタフのほうでは、うん、世話焼き癇癪持ちの女房の尻に敷かれるのも悪くはないな、そんな自惚れともいうべき感想をひっそりと抱いた。

 センチュリースター号は、意図的に見送りもなく、静かに、極秘のうちに発車した。

 この出発前、グスタフは内務大臣ローンに内政を、外務大臣ビューローに外交を託し、とくに後者とは入念な打ち合わせを済ませている。

 開戦当日の侵攻開始予定時刻二時間前になって、外交上の宣戦布告をエルフィンドへと仲介手交するよう、外務省在キャメロット駐箚公使エッカルトシュタインを働かせることにしたのだ。依頼のためと、間違いの起こらぬよう、キャメロットには特使も送る。

 この処置の決定に至るまでには、やや紆余曲折があった。

 宣戦布告を行いたいというグスタフの意思に対し、当初国軍参謀本部は強く反対した。

 こんにちの戦争においては、まだこれを定めた国際法は無く、宣戦布告の手交は必ずしも必要がないとされていたからだ。

 それはあくまで二星紀ほどの前からの慣例で行われているにすぎず、むしろ国際法学者たちのなかでさえ、戦争の奇襲効果を減じさせる有害なものと見なす者さえいた。

 通常は最後通牒を行っておけばなんの問題もないとされていたうえ、ましてやオルクセンとエルフィンドの場合、元より国交がない。エルフィンド外交書簡事件の外交書簡を、先方の最後通牒的書簡だと主張する手筈にもなっていた。

 参謀本部次長グレーベン少将などは、せっかく奇襲による開戦を準備しながら、なぜそんな真似をするのかと憤慨にちかい感情をぶちまけた。

「いいか、グレーベン」

 そのとき、グスタフは静かに己の考えを開陳した。

「宣戦布告は、言ってみれば決闘の果たし状であり、白手袋を投げつける行為だ。軍や国際法学者たちの意見もあろうが、これを成さずに攻め込むのは騎士道精神に悖るとみる者もまた多いのだ」

「・・・・・・」

「それにだ。これから二星紀、三星紀とたったとき、オルクセンが宣戦布告なくエルフィンドに侵攻したとあっては、その事実のみが歴史書に書かれ続けるのだぞ」

「・・・・・・」

「そのような時代になって、宣戦布告が必須のものとなっていてみろ。後代の者たちは我らをどう思うか」

「・・・・・・」

「いかな仇敵、いかな宿敵といえども。いかなる詳細背景があろうといえども。宣戦布告なく攻め込んだとあっては、我がオルクセンが末世まで恥をさらすことになるのだ。頼む、わかってくれ」

 しかも、だ。

 自ら外交というものに携わっていたグスタフには、ある確信があった。

 例え宣戦布告を手交したとしても、たった二時間ではエルフィンド国内全土には伝わりきるまい、という確信だ。

 確かに、エルフィンドには魔術通信がある。

 だが、外交官が何らかの交渉をするなり、外交文書を手交するといった場を設けた場合、どこの国でも本題以外に情報交換のための雑談というものを行う。

 これがオルクセンの駐箚公使による直接手交なら、ただちにその場から退去、公使館を引き払い、国外退去へ、などという流れになるが、今回の場合手交を行うのはキャメロットの公使だ。

 それもエルフィンドにとって事実上唯一の外交相手である国からのもの。

 エルフィンドの外交当事者は当然ながら情報や助言を欲し、なおのこと雑談を行いたがるだろう。

 通常これは、たっぷり一時間はある。

 宣戦布告に関わるものというなら、もっとかかるかもしれない。

 最大で残り一時間。

 そこからエルフィンド政府が関係各所に至急報を発するには、電信にしろ魔術通信にしろ、暗号文を起草したり送付先を呼び出したりといった必要煩事が絡んでくる。

 つまり、たった一時間で、いったいどのような軍事的準備が行えるというのか。

 オルクセン側としては、例えあとになって相手国がどのように言い募ろうと、手交さえ済ませてしまっていればそれでいい。

「では、二時間前ではなく一時間前の手交では?」

「それはいかん。何らかの手違いにより交付が遅れる場合も考えられるうえに―――」

 雑談が、交渉前に行われることもあるのだ。

 弱ったことに、たいへんによくあることだった。

 時候の挨拶や、ご機嫌伺い。互いの健康への気遣い。そんなものの流れで、そのまま雑談となることはままあることなのだ。

「つまり、二時間でちょうどいい。どうだ? 納得できたか?」

「はい、我が王」

 グレーベンなどは、王の深謀深慮に恐懼した。

 そしてグスタフはさらなる保険もかけておくことにした。

 宣戦布告手交の予定と同時刻、在オルクセンの各国公使をビューローに呼び出させ、オルクセンとエルフィンドが戦争状態に陥ったことを宣言させる。当然、エルフィンド外交書簡事件についても発表する。

 何らかの手違いで宣戦布告手交が遅れた場合や、あるいはキャメロット外務省がそもそも仲介手交を拒絶した場合に備えてのことだった。そうなっては止むを得ない、この戦争状態宣言を以て代用する―――

「お、ダンヴィッツ」

「はい、陛下」

「この先で停車予定の駅で売っている郷土菓子は、なかなかのものらしいぞ。たっぷりと卵を練り込んだチーズケーキアイアーシェッケ。ガイドにそう書いてある」

「買いに行ってまいります」

「うん。護衛の者たちのぶんも忘れずにな」

「・・・王。妙な誤解を受けて、アンダリエル少将の怒りを買いませんか?」

「・・・・・・流石に大丈夫だろう。単なる気遣いだぞ? 大丈夫だと思う。いや・・・確証は持てないが。うん、外交などよりよほどタチが悪いな」


 

 ―――一〇月二二日。侵攻開始四日前。

 メルトメア州ラピアカプツェ。

 既に、平時に軍の管理を行う北部軍司令部は、彼らを中心とした戦時編成の第三軍司令部へと改編され、出発している。

 その跡を譲りうけるかたちで、白銀作戦の後方兵站総監部は築かれていた。

 作戦全般における、本土から前線への補給を統制し、更に前線から後方への負傷者の後送なども統括する、兵站組織上における最高司令部である。

 国軍参謀本部兵站局がそのまま横滑りするかたちで人員が配置されていた。

 つまり兵站総監は、国軍参謀本部兵站局長だったあのドワーフ族のギリム・カイト少将だ。

 こと兵站の実働に関する限り、シュヴェーリン上級大将や、果てはグスタフ国王でさえ、彼の差配統制下にぶら下がることになる。

 表向きはともかく、制度としての実態上はそうなった。

 オルクセン国軍における兵站総監とは、それほどの役割と権限を担う。

 グレーベンなどの言うところの「軍の後ろに兵站があるのではない、兵站の先に軍があるのだ」とは、そういうことなのだ。

 カイト少将は、動員開始初日からここまでの動きに満足していた。

 兵站拠点駅への事前集積も、兵力動員展開も、本土にあって既に準備段階から実働に入りつつある軍需物品の追送も、ひじょうに上手くいっていたからだ。

 元々彼は、軍隊における鉄道利用研究の専門家だった。

 片腕といってもいい存在だった兵站局鉄道部長ヴァレステレーベン大佐が少将へと昇進し、カイトのあとを埋めるため第一軍兵站参謀の肩書で大本営へ取られてしまったのは痛かったが、他の部下たちも充分に信頼を寄せることができた。

 また、カイト自身も、非常に有能な存在だった。

 ディネルース・アンダリエル以下ダークエルフ族などとは多少ぎくしゃくもしていたが、こと兵站に関しては例え相手が誰であろうと万全を期す、そんな牡であった。

 約二〇年前から研究が行われてきたオルクセン軍における鉄道の軍隊輸送において、カイトが果たした役割でもっとも大きいものは、ダイヤグラムの徹底利用だ。

 鉄道の路線別、編成別及び時系列別に記され、文字通りダイヤが多数描かれたように見える図線が引かれ、関係者なら誰が見ても一目で鉄道車両の動きがわかるこの仕組みを生み出したのはオルクセン国有鉄道社だったが、カイトはこれを軍に取り込み、更には規則令下における運用と通信体制の構築による全体共有を組み合わせた。

 前線からの要求等を練り込み、前夜九時までに組み上げられた翌日のダイヤグラムを、電信、魔術通信で兵站総監部と路線全駅が共有。

 車両運行は、この厳密な予定計画に従って進行する。

 区間ごとに統制された信号機や、交換機も同様である。

 実際に動くことになる各編成には、鉄道における通行手形ともいえる通標を利用させる。 

 前線から特別格段の要望があったとしても、対応するのは翌日以降。それまでは末端兵站駅に蓄積した事前集積の食糧、弾薬等から繰り出す。

 やや硬直性のあるようにも思える仕組みだったが―――

 これを守っている限り、おおよそ運航上の事故や不測の事態は激減した。

 下手に前線要望を当日に叶えようと特別編成をねじ込めば、これが兵站動脈上の血栓たり得る。却って効率は落ちてしまう。

 そこまで考えられ、過去検証もされ、実践に移された体制だった。

 もちろん、カイトは兵站総監であったから、鉄道輸送だけを統制しているわけではなかった。

 陸軍省への調達要求、鉄道への積み込み、荷下ろし、兵站拠点駅における管理、輜重馬車への移譲、末端兵站拠点での管理、前線部隊への配送、馬車の復行―――

 兵站全体が彼の統制下にあった。

 これにも、過去積み重ねられてきたオルクセン軍の経験値が物を言った。

 カイトに言わせるなら、最大の要点は「送り込み過ぎないこと」。

 それを考えなしに実行すれば、鉄道から拠点駅、拠点駅から輜重馬車、輜重馬車から末端拠点、末端拠点から前線といった、流れのなかの動作変換点で、あっという間に動脈上の血栓が発生する。

 それらの箇所は、元々その存在自体が、言ってみれば細く括れたように狭くなっているのだ。

 送り込むばかりで動脈が詰まってしまえば、崩壊まっしぐら。

 これを防ぐには、要望要求、在庫管理、繰り出し補充、それが実施されたかどうかといった情報の共有が、例えどれほど煩雑に思えても必要不可欠であった。

 この戦役においては、新たに誕生した技術がこの膨大な作業を大幅に助けてもいた。

 刻印魔術式物品管理法だ。

 あの師団対抗演習直後に、第七擲弾兵師団補給隊の一下士官から提出された提案書により始まったこの仕組みを、今回の戦役に利用するにあたってカイトが成した、たいへん賢明な判断がある。

 煩雑化しなかったのだ。

 単純に、単純に、なるべくそのように組み上げたのである。

 その概要はこうだ。

 オルクセン軍において、もっとも膨大な輸送量であり、もっとも保存性が低いものは何か。

 生鮮食糧品と、軍馬用の飼葉類である。

 この生鮮物の管理がやりやすくなれば、それで良しとしたのだ。

 元々の提案書の内容は、武器弾薬、医療品、飼葉を含む生鮮食糧品、乾燥食糧品、その他軍需品の大別五つに対し、刻印魔術の影響に一定期間下おかれた物品には魔術上の残滓が残るという現象を利用し、なにがしかの区分けのつく刻印魔術を仕掛け、軍の魔術兵と組み合わせ、管理統制してしまおうというものだ。

 なるほど、便利ではある。おそらく実現できれば、社会をまるごと変革してしまうほどの効果があるだろう。

 だがカイトは、現段階で全面的に採用するのは危険だと判断した。

 いきなりその全てを実現するには、事前研究も、経験値の蓄積も、技術的な熟成も足りない。何度か実際の兵站拠点駅で実験をやり、そう判断した。

 だから、生鮮食糧と飼葉類だけ管理できればそれでよい、としたのだ。

 まず、輸送にあたるオルクセン国有鉄道の鉄道貨車車体には元々存在した、行先管理用の金属版とその架枠、そして通風用の小さな格子枠に彼は注目した。

 行先管理版の部材を利用し、その架枠を全車両の通風枠の上から溶接。大きさを同じくして製作した冷却及び送風系の複合刻印魔術式の金属版をはめ込む。

 これは実務上においても車内を冷却してくれる役割も果たす。

 積み込むのは、当然、統一規格木箱に収まった生鮮食糧品か、圧縮して固められた飼葉類だ。これらの物品は、輸送中に魔術残滓を蓄えることにもなる。

 兵站駅に到着すれば、金属版そのものの魔術波放出による感知か、金属版の存在による視認により、輜重輸卒や補助輸卒たちはこれを優先して荷下ろしし、専用倉庫へと運び込む。

 食糧箱と圧縮飼葉類は見た目が完全に違うから、魔術上の区別まで施しておく必要はなかった。そうして兵站倉庫に収められた物品は、保管積み立てによる整理整頓と、魔術残滓量の低下による管理を受け、もちろん消費期限の来る前に、古いものから優先して輜重馬車で送り出される。

 車両に取り付けられた金属版は、車両後送地でそのまま同じ物品類を積み込むのに使うか、別分類の弾薬等を運ぶ場合には回収、付け替える規則にした。

 単純明快。

 ただこれだけだ。

 それでも、いままで木箱そのものに対する書き込みの視認と、管理上の整理整頓と、書類による記録だけで区別をつけてきたことを思うなら、大助かりだった。

 副次効果もあった。

 兵站拠点駅や、あるいは将来的にこれを前進させた場合、荷下ろしが間に合わず、切り離された鉄道貨車が累積していく事態が想定される。

 その場合、車両本体に取り付けられた金属版が、ある程度の期間までなら、食糧や飼葉の腐敗と、これによる投棄を防いでくれることになる。

 ―――既存技術及び経験値と、新技術の組み合わせにとどめ、堅実性を確保する。

 これがカイトのとった方針だった。

 極めて賢明であると言えた。

 彼自身曰く「兵站とは、組織の力による国力の発揮」なのである―――

 


 このような用意周到極まりないオルクセン軍の兵站運用を、歯噛みするほど実感していた部隊がいる。

 アンファウグリア旅団だ。

 第一軍の所属となった彼女たちは、北部メルトメア州の各兵站拠点駅のうち、その最東部にあたるアーバンドに降りたち、侵攻開始直前までの宿営地となる指定地点への前進を始めていたのだが―――

 こと、この兵力展開運動中に限るなら、あの鉄道機動中のように、彼女たちは自身の部隊の補給隊をまるで使う必要がなかった。

 まずその最初端は、軍司令部から指定の行軍路を進む、というかたちで始まった。

 ディネルース・アンダリエル以下旅団幹部は、行軍一覧表と呼ばれる書類を作成し、指揮及び兵站上の差配下に置かれることになった第一軍第一軍団司令部へと提出させられている。

 どのような部隊順序で進み、行軍行程中の目標となる地点の到達予定はいつか、宿泊予定はどの箇所と、非常に細かな点まで軍団参謀と打ち合わせのうえ、その多くを指定されるかたちで取り決めた。

「数縦隊を以てする行軍は、軍隊を愛惜し、その良好準備をたらしめるものとす」

「以て先遣将校をして、これを準備せしめ、軍隊をして十分にこれを利用し得しむるを要す」

 オルクセン国軍参謀本部が過去繰り返した検証によれは、輜重段列追従や大休止地点確保の点から鑑みて、一つの街道を同時に進むことが可能なのは二個師団までが限界である。

 このため、侵攻発起点までの前進運動には、その使用街道を各部隊に指定することは必ず必要な手順だった。

 作戦初動部隊の、アーバンドから国境部最終集結地点約一〇キロへの前進には、二本の街道が使われた。

 そのうち一本を指定されたアンファウグリア旅団は、数々の驚嘆に遭遇している。

 まず、古びたものだったはずのこの地方の街道は、既に先行していた工兵隊により補修を行われていた。狭き箇所は拡幅され、窪んだ地面は均され、小川の橋梁などには補強まで開始されている最中であった。

 平野部などを利用して、拡幅が非常に幅広くなされている箇所があり、これは何かといえば輜重馬車の休憩箇所だった。

 輜重馬車隊は、先を急ぐからといってただ無暗矢鱈に進めばよいというわけではない。

 馭者の集中力。軍馬の体力。兵の行軍と同様に、適時定められた時間的及び距離的間隔で休止をとるほうが効率のよいことは過去の検証でわかっていた。

 だが何らの事前考慮なく各馬車の判断で街道上でこれを行うと、後続車や他部隊の行動を阻害する。

 だから専属の休憩場所が設けられていた。

 このような場所が確保できない場合は、道幅の大きな箇所を指定する。

 これらの地点は同時に、輜重馬車隊が往復運動を行う際、行き違い困難となった場合の交差待機場所でもあった。

 このような場所や交差点には、野戦憲兵隊が配されている。

 彼らは専属的に配置されたもので、仮に上部部隊といえども故なく別任務にこれを動かしてはならないとされている。

 これもまたオルクセン軍に言わせるなら、絶対に必要な措置だった。交通の整理は渋滞を防止し、解消し、つまりは行軍行動も兵站行動も円滑たらしめる重要手段の一つ。そう考えられている。

 むろん、行軍部隊そのものの休止や大休止用箇所もあった。

「大休止の地点は常に、水を得るに便なるを要す」

 これには街道上の村落を中心に指定されていた。

 星欧の村落、都市などは殆どの場合、水源は様々なものの飲用水が確保できる場所に発展している。

 これは考えてみると当然のことで、寄り集まって住まうのに飲料水が確保できそうにない場所に村や町が作られることは、そうせざるを得ない余程の理由がある場合ばかりで例は少なかった。

 多くの村落や街は、中心部や集まりごとに噴水なり水飲み場なり、井戸といったものがある広場になっており、これが同時に馬や馬車のための円周円形路になっている―――そんな作りが多かった。

 行軍中、ここに木樋を使った軍馬用の給水場が既に出来上がっていた。

 飼葉の類の集積も。

 では兵のほうはどうするのかといえば、既に軍輜重隊の野戦調理馬車隊が進出するか、野戦釜が築かれていた。製パン中隊や精肉隊もいる。

 大部隊ばかりが通過するので、そんな休止場所は村外まで広がっていた。

 水源から離れることになるそのような場所で水はどうするのかと思えば、オルクセン軍はこの戦役に際し、国軍規格型二〇リットル汎用輸送缶というものと、一〇リットル飲料水缶と呼ばれるものを投入していた。星欧の各国軍があれほど愛していた、従来使われていた木樽は、酒類の輸送以外にはもうオルクセン軍ではまるで見なくなっていた。

 ともにアルミニウム製。

 前者は横辺が兵の肩幅で持てるくらいの四角い形状をしていて、留め金付きの、完全に取り払えてしまう蓋がある。本体両側面上縁付近に、麻縄の柄つき。汎用というくらいだから、水も運べれば、調理隊が切り分けた調理材料を入れておくといった真似にも使えた。

 後者は、ちょっと酪農業の使う牛乳缶に似ていた。

 あのような形状で、上部には片留め開閉式でやはり留め金つきの蓋がある。ただし円柱ではなく、角だけが丸まった、四角柱にちかい。

 もともとは輜重馬車に備え付けられていた装備を、大量生産に踏み切ったものだった。こちらは基本的には飲料水用だが、液体のものにならなんでも使えたし、密閉性があるので、本来は別容器があるコーヒー豆を保管しておくなどという流用技まであった。

 ともに四角を基本形としていたのは、輜重馬車に大量に積み込んで輸送することを前提にしていたからである。

 木樽のような形状はそれ自体を転がすことができ、容量もあり、便利ではあったが、他方、馬車での運搬は行いにくい。

 形状が形状のうえ、それ自体に重量があるからだ。

 多少分厚く製造しても軽量のアルミニウムで四角くしてしまえば、運搬も必要量計算もたいへん楽であった。

 おもにこの両者を使って、兵馬の飲料水や調理用水が運ばれていた。

 また、まだ数は少なかったが、軽輜重馬車の車体架台を利用して製作された、七五〇リットル水槽車などという代物まであった。

 文字通り、それだけの飲料水を一度に運搬できてしまう車両だ。金属製。腐食を防ぐための加工がしてある。これは非常に精巧にできていて、車体横に手動式の組み上げポンプを収める棚がついていて、車体後部には直接に水を捻りだせる蛇口まであった。

 むろん、輜重馬車による補給隊は食糧や飼葉の輸送にも活躍していた。

 前進運動の終末点となる、宿営地となる、戸数四〇戸、住民数六〇〇名ほどの小さな村に到着したときには、その村外にある平野部に、約三〇〇両ちかくという、膨大な量の輜重馬車が、車体だけになって集められていた。

 それは頭位置などを揃えられた、整然とした横列を成して停車されており、各列と各列の間には車体の縦幅約二台分の間隔が用意されていた。

 初めは予備輜重馬車の集積地かとさえ思った。

 ところがこの車体のなかには、ある列は飼葉、ある列は木箱に収まった食糧といった具合に、補給品が荷台の幌にまもられて積載されたままだった。

 その車列の車列と間を利用して、可搬式の飼葉供台が用意されて、軍馬には餌を与えることが出来る。またある列はそのまま野戦厩の飼葉庫となっている。またある車列のちかくには、兵たちへの配食が行えるよう、天幕を張った野戦調理場があった。

 感服したのは、この輜重馬車体は到着の時系列に並べられており、期限が迫っていく古いものから消費されたことだ。

 そうして中身の空になった車体は、補充のため輸送にきた輜重馬車の輓馬が付け替えられて、復行していく。

 オルクセンの輜重馬車は、最初からこのような、言ってみれば野戦における臨時末端倉庫としての役割を果たすことが出来るよう、輓馬の切り離しと付け替えが容易なように設計されていた。

 車体側の牽引棒と、馬側の頸圏式輓馬具とが、そのように出来ていた。器具と操作方法はどの車体で行っても大丈夫なよう、例えば鎖の大きさなどが統一されている。

 このような真似をして、輜重馬車が足りなくなるのではないかと思ったが、各軍団、各軍はそれぞれ直轄の輜重隊を持っているうえに、なんと兵站拠点駅五カ所には三個軍に対し総じて四〇〇〇両という予備車両まで集積していた。これは戦役が進み不足をきたすような事態あれば、更に本国より補充するつもりだともいう。

 舌を巻くしかない。

 注目すべきは。

 このような行軍及び後方支援を実施するにあたり、オルクセン軍が高級指揮官教令に定めていた次の事項である。

「軍用地図使用を全幅頼りきらず、指揮官将校実際実景の地形をこれよく感得し、以て円滑たらしめんとす」

 あれほど地図や兵要地誌を愛する軍隊が、実際に行軍し、水源を確保し、大休止や休止を行う際には、指揮官たるもの現実の地形を見て対処することを怠るな、というのだ。それが先遣将校の役割だと。

「なんとまぁ・・・」

 旅団参謀長のイアヴァスリル・アイナリンド中佐が、やや呆れ気味に嘆息した。

「わかってはいたつもりなのですが。いったい、なんという軍隊なんですかね、これは」

「お前もそう思うか、ヴァスリー」

 応じるディネルースもまた、感嘆しつつも、笑う気にはなれない。

 旅団司令部はこの村で、軍教令でいうところの舎営というかたちで宿泊することになっている。

 軍が接収した、あるいは協力してくる村民提供の建物のなかで眠る、という意味だ。

 村落露営という分類の連中もいる。村のなかで部隊や個別の天幕を張って寝る。更に村外で完全な露営を行う者が、いちばん頭数が多い。

 付け加えていえば、アンファウグリアは部隊規模が大きいため、後方まで露営箇所は分散、伸びている。旅団はこの位置で待機して、侵攻開始のその日、侵攻発起点まで前進することになっていた。

 旅団司令部総員で野戦厩に馬をつなぎ、軍隊パンを摂り、ヴルストから野菜から何もかもを一緒くたに煮込んだスープを啜る。

 一〇月も下旬のこのあたりとなれば、夜が近づけば気温は一〇度ほどになる。薄寒さがあった。配給に乗っかる食に、質、量ともにやや多さを感じるのは気のせいではなかった。

「冬季にありては豊富なる滋養給養によりて、兵馬ともに抵抗力大ならしめるを要す」

 用意周到。準備万端。遺漏皆無。

 これが本物の軍隊だというのなら、エルフィンドの軍制はいったい何だったのか、そのような、内心奥底の澱のようなものがある。

 むろんエルフィンド軍にもオルクセン軍が行っているような真似の一部はあった。だがそれは彼らのように組織立って系統化されたものではなく、どこか個別の経験値に頼るような、いまでは児戯だったように思える部分を引きずっていた。

 一二〇年前は、少なくともそうとは感じなかった。まるでそうではなかった。

 あの凄惨な虐殺がなく、そのままエルフィンドの民でいて、オルクセンの侵攻その日を迎えていたらと思うと、ぞっとしてしまう。

 ―――まあ、それはいい。

 いまや我らはオルクセンの民。

 頼もしい限りだ。

 部隊に対する特別の配慮もあった。

 アーバンド出発前に、こればかりは樽に詰められて、アンファウグリア旅団にはあるものが届けられていた。

 いったいどうやって製法を調べたというのか、白岩を細かく砕いて更に砂状にふるいにかけ、これへアンゼリカ草などの精油類を混ぜ込んで粘土状にした、顔料が送られてきたのだ。あとは少量の水を入れ伸ばせば使える。

 ―――ダークエルフ族の使う、戦化粧用顔料。

 発送元は グスタフ名になっていた。

 言ってみれば、旅団全てに対する贈答物、下賜品だった。とてもエルフィンドから持ち出す余裕などなく、既に尽きて久しかったから、旅団総員が狂喜したものだ。

 まったくあの王と我が国には参る、ディネルースなどはそのように思っている。

「結局、最終的にはどれくらい届いた、ヴァスリー?」

「リアの報告によれば、輜重馬車二台分に一杯です。まぁ、消費量がたかが知れておりますので―――」

 イアヴァスリルはちょっと考え込み、告げた。

「そう、半年や一年は、存分に暴れて御覧に頂けますな」


(続)

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