雲下星団

鯰屋

第1話 鳥と少女

 まだ春分点が牡羊座にあった頃のことである。渡鳥が一羽、群れからはぐれて飛んでいた。潮風を裂き続けたその身体は薄黒く汚れ、かつて群れを率いた清白の面影はどこにもなかった。


 静かに血走る眼下には星一つにも照らされぬ黒い海が伸び広がり、穏やかにうねる波間がわずかな光によって縁取られていた。頭上には分厚い雲、星も月も見えない。当然、北極星は見失った。

 少しずつではあるが、己の体温が下がっていくのが鳥にはわかった。わかっていた。力尽きて落ちるのも遠くないだろう。


「誰も、誰も私には続かなかった」


 若い長となったはずの鳥は、息を吐いて静かに目を細めた。己の傲慢と、それによる無様を思い返す。これが走馬灯だろうか。

 このまま一人で飛び続け、やがて力尽きて誰にも知られず沈むのなら……いっそ、抗い難い大きな力によって終わりにしてほしい。鳥は強くないた。


「…………?」


 どう、とくうが震えた。遅れて重い突風が吹く。

 癖のある気流に煽られまいと翼を畳む。向かい風、逆撫でられる感覚に舌打ちし、身を翻して再び翼を広げる。バタバタと頼りない風切羽を睨み、どうにか風をつかまえた。もう一度脱力し、緩やかな追い風に身を預けた。


「己の終わりを願いながらも咄嗟に我が身を守る、私は無様だ。しかし、それにしても、空気の流れがおかしい……」


 鳥は小さく息を吐いて、止めた。

 あてにならない視界を捨てて、聴覚を嗅覚を浅く広く広げていく。やかましい鼓動と耳鳴りに変わった向かい風の残響、潮の匂い、耳鳴りよりもさらに高い声——

 眼下の黒い海が大きくり立ち、巨大な鯨が天に向けて顔を出した。巨大な柱のように伸びようと、空まで届くはずもない。しかし、獲物を飲み込まんと口を開けるその様は天変地異のそれだ。暴れれば地震でも起こるのではないか。羽毛に包まれた身であれど、鳥は身震いをこらえられなかった。


 こんな時間に食事をする鯨を見るのは初めてだったが、いっそ飲み込まれてやるべきだったのか。どうせ、私には、誰もついてきやしない——そんなことを思いながら、自らへと向けた冷笑とともに鳥は飛んでいた。もはや風に抗う気力もない。ただ翼を広げ、風に煽られるままに滑空とわずかな上昇を繰り返している。


 そもそも、日が落ちるまでに群の仲間全体が羽を休める場所を見つけ、到達していなくてはならなかった。

 おかしいのは日が没して尚、飛んでいる鳥の方だ。やはり、いっそこのまま力尽きて落ちてしまおうかというところ——凝視すればゆっくりと開き、あちらへと吸い込まんとする瞼にも似た黒い海。

 その中に、ひとつの光点を見つけた。星ひとつない空の下だ、見紛うはずもない。それは橙に近い光を放ち、鳥が近づくよりも早く大きくなっているように思われた。


 ——灯台ではない、漁り火だろうか。


 鳥にとっては実に不愉快なことだが、人の言葉の中には『鳥眼』という言葉があるというのだ。暗がりで視界の自由がきかない人間のことを示すらしい。事実として、この暗闇ではただの揺らめく光点としか見えなかった。


 ——何にせよ、実際、有難いことに変わりはない。


 山にて漁師に近づけば撃ち殺されるのが当然だと聞くが、漁師という生き物は間が抜けているのか(あるいは魔が抜けているのか)、船の舳先に降り立とうとも、追い払われたりはしない。

 もし仮に漁船ならば、一匹ほど海魚を頂戴できないか。自分から籠に近づくことはせず、漁師が間抜け面で魚を持ってくるのを待とう——しかし、鳥の目論見は大きく外れた。


 その炎はあまりにも大きすぎた。小舟が、燃えていたのだ。



 ○



「なんということだ……」


 さざなみすら息を潜める夜に、ごうごうと音を立てて舟は燃えていた。舟板の焼けていく匂いが黒煙と共に立ち昇り、月明かりを遮る灰雲へと溶けていく。

 小さな帆に補修の多い簡素な舟だ。漁をするのはおろか、こんな沖まで漕ぎ出すにはあまりに心許ない。大きい人間が二人乗れるかどうか、といったところだろう。鳥は黒煙の塔の周りを、旋回しながら様子を伺っていた。


 鳥眼といえど、この大火の最中——脱いだ衣服で必死に風を起こし、炎を怯ませようとする人影が鳥の目には映った。腰下を隠し揺れる白い布地、それは少女のようにも見える。鳥は目を瞑った。


 ——このまま飛び去ろうと、少女の目に私は入っていない。罪などない。火を消してやりたいとは思ったが、そんな体力はない。第一に、私の白い翼がさらに汚れかねない。海の藻屑と消えるのも輪廻、巨大な循環の内。お前たちは生きる命を狩って生きてきた命だ。海の命の礎となるのが理というものだろう。


 木の燃えた煙は目に染みる、高度も落ちてきた。少女の姿形、表情がはっきりと見える距離まで降りてきてしまった。滑稽なほど必死に扇いでいるが、それではごうごう広がる炎の呼吸を手伝うばかりだ。火は広がる。少女は歯を食いしばって扇ぐ。


 鳥は目を瞑った。それは煙が目に染みたためではない。身を翻し、空へと戻るべく羽を震わせる。幸いにもここでは上昇気流が起きていた。疲れ果てた鳥といえど、気流に乗るのと同じように脱力したまま空まで戻れるだろう。

 鳥は黒煙に身を任せ、強く目を閉じたまま空へと帰っていく。舞い上がる火の粉が少しだけ羽毛の先を焼いた。

 これでいい、これが道理なのだ。鳥は飛び去るべきなのだ。


 しかし、この気流、この黒煙の根本には——


 鳥は空へと投げ出された。海面に対して垂直から水平の姿勢へと立て直さざるを得ない。慌てて翼を広げ直そうにも、いつもの様にはいかなかった。鳥の体力はもう、限界なのだ。飛び去るしかない。

 しかし、この小舟が漂流の真っ最中だとしたら。この舟は群れからはぐれ、流され、迷うことしか出来ないとしたら。鳥と違って、彼女には、帰る場所と帰りを望む家族がいるのだとしたら——


 火は広がる。少女は扇ぐ。鳥は、目を開いた。


「ええい、莫迦な小娘が!」


 鳥は息を止めて旋回し、急降下する。重力に従い、気流に抗う。気圧の変化に表情が歪んだ。熱が近づき、少女の扇ぐ音が間近まで迫る——今だ。

 翼を広げて急停止、取り残された追い風が一斉に吹き荒ぶ。炎が横に潰れ、たじろぐのがわかった。


「もう一度か……」


 黒煙に乗って飛び上がる刹那——のっそり起き上ろうとする炎、火粉の粒を挟んで、上裸の少女と鳥の視線が絡んだ。その瞳には涙が滲んでいるが、輝いてはいない。彼女の足元には木の手桶が転がっていた、何かが不自然だ。


 息を吸い、熱い空気を用いて再び上空へと飛び上がる。少女は歯を食いしばったまま扇ぐ手を止めず、憎らしそうに鳥を見上げた。

 息を吐いて、止める。旋回した鳥は風切羽を畳み、矢の如く小舟へと突撃する。近づく炎熱と少女の荒い息、炎へと飛び込む瞬間に翼を広げ、置き去りに風を巻き起こした。横薙ぎにされた火は虫の息だ。あと少し……。


「邪魔しないで!」


 甲高い叫び声。少女は扇ぐことをやめない。弱まった火が再び燃えあがろうとしている。


「莫迦が、死にたいのか!」


 酸素の尽きた脳味噌で、無意識のうちに鳥は叫び返していた。もう一度飛び上がろうにも、黒煙はか細く熱は弱い。これ以上は飛べない。もう、空には戻れない。


 ——風だけでは、足りないか。


 がちがち、と鳥はくちばしを鳴らす。もはや滑空することしかできず、舟の周囲を飛ぶ鳥には目もくれず、火を鼓舞するように少女は扇ぎ続けた。

 この舟に留まれなければ、鳥は本当に空へ戻れなくなる。先に止めるべきは扇ぐ手だろうが、しかし、この愚かしい少女を説得する時間はない。体力も限界で翼の根の痙攣が止まらない。


 鳥は浅い呼吸を繰り返し、刹那の間だけ目を閉じてから翼をはためかせることなく遠くへと飛び去っていった。

 ようやく諦めたであろう闖入者を、少女は瞳の動きだけで追う。黒ずんだ巨大な羽を散らし、鳥は僅かな炎の明かりさえ届かない闇に消えた。


「なんだったの……」


 あれは、何かしらの救済をもたらそうとしていたのだろうか。

 やがて少女の顔は鳥の飛び去った方角へと向き、扇ぐ動きも緩慢なものとなっていた。あの鳥の目的はなんだったのか。

 ふと少女の視線が下がる。扇ぐ振動は舟底を伝って極彩色の橙の水面を震わせている——が、舟から立つ波紋が打ち消されていることに気付いた。


 どどう、と焦げ臭さをまとった風が流れてくる。鳥の、飛び去った方向だ。

 押し寄せる風は重みを増し、その先頭にはこちらを睨む影があった。


 くちばしを食いしばり、海面に触れる爪先。水と腹の間で圧縮された空気の上を滑り揚力を得てはいるが、風を切る羽たちは少しずつ抜け落ちていく。舌打ちしながら鳥はただ少女を見据えた。

 突風に顔を覆う少女、その指の隙間で一瞬だけ視線が交差する。困惑する無邪気な瞳——鳥は頭上を大波を携え、少女の頭上を飛び抜けていった。


 叩きつけるような水飛沫に目を瞑り、次に開いた時には炎が消えていた。

 宙返りして鳥は舳先へと降り立つ。舞い散る火の粉と炭色の羽、少女は困惑を忘れ、ただ憎らしそうに鳥を見据えていた。



 ○



「あなたは、悪魔か何か?」


 星一つ見えない曇天の下、松明の幽かな明かりに照らされる少女は、扇いでいた服で前を隠しながら舳先で首を回す鳥へと訊ねた。


「無礼な。この純白の翼が目に入らないのか」


 そう言って、舟首に腰を据える渡鳥は自慢げに翼を広げて見せた。しかし羽は長旅のために汚れ、黒煙に染まり、炭のようになっていた。

 鳥の起こした荒波は静まり、焼けて穴だらけの帆だけが無風のなか揺れている。気まずい沈黙、鳥は咳払いして翼をこそこそと畳んだ。


「悪魔じゃないなら、それで、いい」


 頭から服を被り、布の中でもぞもぞ動きながら少女は言う。空気を読んだというよりは、でないなら興味はないということなのだろう。


 鳥は……悩んでいた。当初は漁船であることを期待し、海魚を失敬しようと考えていた鳥にとって、この状況は期待外れに他ならない。少女の病的に白い肌と細い指を見るに、普段から海に出て漁をしているようには見えなかった。ここまで一人で漕ぎ出してきたのかどうかも怪しい。


「お前は、漁師の娘か? この舟はお前のものか?」

「……違う」


 簡潔な返答だった。服を着終えた少女はそっぽを向いて、鳥が立てた波によって流れ込んだ海水を手桶で掬い出している。

 漁師の娘でもなく、この舟が少女のものですらないのなら、この娘は真夜中に海の上で何をしていたのだろうか——鳥は食糧を得られないことに落胆しながら考える。


「それならば、お前は何者だ」

「鳥に話して解りますか?」


 それなりに休んだ、もう飛べるはずだ、いっそこのまま飛び去ってやろうか、鳥は嘴をがちがち鳴らした。

 しかし、相手は人間といえど幼い子供のようである。それならば雛鳥に接する時のように、言葉を柔らかく、畏れを抱かせないように言葉を選んでみるべきだ。それならば……。


「ね、ねえ——」

「食べ物が欲しいの?」


 昏い水底を眺めているのか、茫然と視線を落とす少女。その横顔は深い影を帯びている。揺らめく灯火によるものだけではない、そう鳥には思えた。


「食べ物が欲しいなら……わたしをついばんでゆけば、いい」


 わたしの村には死体を鳥に食べさせて還す風習がある、あなたは食べて空に帰ればいい。少女は海から鳥へと視線を戻し、光のない眼で嘴を見据えた。


「しかし、それは……」


 できないことはない、むしろ鳥にとっては有り難い申し出のように思われた。けれど、鳥の中で絶対的な何かがそれを躊躇わせる。


「でも、あなたは群れからはぐれた、そうでしょう?」

「…………」


 口を噤んだ。その通りだった、何も言い返せない。そしてそれ以上に、いま口を開けば少女を丸呑みにしようとする己に気付いていたからだ。

 少女の背後で揺れる松明の火、それを舟へと放ち、扇ぎ燃やそうとしていた理由が鳥の中で繋がった。


「お前は、死のうとしていたのか?」

「…………」


 今度は少女が口をとざした。憂いを宿して細まる眼に、鳥は何も言葉をかけてやることができなかった。それを肯定することはもちろん、否定することはより難しい。

 自死を選ぶ鳥——生き物は存在しないが、人間はその限りでないと聞く。鳥には理解できずとも、ヒトの世界でそれが正しいのなら、否定することはできない。


「死のうとなんてしない、はずでした」


 それでも、仕方がなかったと少女は吐息のように言葉を漏らしていく。鳥の眼を見ようとしない。数秒の沈黙の末、少女は突然立ち上がり服の中へと手を入れた。

 震えながら取り出したのは黒曜石の短剣。眼を強く瞑ったまま首を反らし、少女は両手で柄を握る。切先は自分自身へと向いていた。震えて曲がる膝と汗の滲む首。犬にも似た呼吸を繰り返し、やがて強く息を吸い——


「ふっ」


 眼前で交差する翼から放たれた突風によって、少女は尻餅をついた。いとも容易く手から離れた短剣は、軽く宙を転がって舟の上に落ちた。

 飛んだ切先によって浅く傷ついた頬から血が垂れる。それを拭うこともせず少女は鳥を睨んだ。


「どうして、どうして——ふざけるな! 二度も邪魔をして、感謝なんてしない!」


 少女は飛び起き、鳥の首へと掴みかかる。が、鳥は咄嗟に後ろへと飛び退き、指先は羽をも掴めなかった。転んで舟板へと伸びる哀れな少女を、鳥は羽ばたきながら見下ろす。


「火をつけたのだって、本当は死にたくてじゃない!」


 指の間をすり抜けていく海水を、少女は空へと投げつける。鳥はただ羽ばたき、空から見下ろしていた。


「生贄の身代わりに海へ飛び込んだ兄を、兄が、戻って来られるように……」


 泣きじゃくり、長い髪を振り乱して水を握っては投げる。投げつける。舟はぐらつき、少女は何度も転んだ。その度に身体を打ち、立ち上がり、叫んではまた転んだ。


 鳥はただ静かに見守った。

 やがて舟板の軋む音が止んで、すすり泣く声だけが響く。波間を結うように冷たい風が吹いて、舟もまた静かに泣いた。

 へたり込んだ少女のそばに鳥は降り立ち、ただ隣に居続けた。厚い羽毛に阻まれて、人と鳥の間に温もりが行き交うことはなかった。しかし、隣に居続けた。


 ——漁り火ではなく、灯台のつもりだったのか。


 ここまで飛ぶ風すがら、鳥は見かけた巨大な鯨を思い出した。

 少女の兄は、喰われたのだろう。


「お前は、あの鯨の生贄だったんだな」

「……うん」


 気の毒、とも違う。憐憫も近いようで違う。何と言葉をかければ善いのか、鳥の頭では分からなかった。村の中で疎外される穢れし一族だったのか、あるいは何らかの『教え』によって神聖視される血族だったのか、鳥には分からなかった。そんなことは。どうでもよかった。


「お兄ちゃん、ཨ་བརྟན།は……わたしが捧げられる前に逃がそうと海へ連れ出してくれました」


 でも、と言い残して少女は口を噤んだ。垂れた髪によってその表情を窺い知ることはできないが、静かに肩が震えている。鳥は半歩だけ少女のそばに寄った。

 長い深呼吸の末、少女は決意したように深く息を吐いて、再び口を開いた。


「いくら村一番の漁師の息子といえど、歳はわたしとそう変わらないから。子供二人で海に出て無事なはずがなくて、それで——」


 それで、二人を乗せた舟は遭難し、漂流を余儀なくされた。最初は兄がもりを持って海に入り、海魚を食べて生き延びていたという。

 しかし、沖深くへと流されるに連れて、食糧を得ることが難しくなった。

 皮肉にも、流れに流れて辿り着いた先は、『神様』と呼ばれる鯨の喰い場だったそうだ。


 兄は少女だけでも無事に帰れるように、と海へ飛び込んだらしい。少女が神に喰われるのではなく、神の加護があるように——と。


「あなただけでも生きてくれ、と彼は遺して帆を張り、自らは聖域へと泳いでいきました。風が吹いて、舟はどんどん離れていって……わたしは、わたしには、何もできなくて……」


 唇を噛んで少女は再び泣き出した。

 彼が再び戻って来られるように火を放った。けれど、戻ってこられないことくらい解っていた。だから、せめて「ここにいる」とだけ伝えようとした。

 出来る限り大きな火を、出来る限り巨大な狼煙を上げて、空を漂う彼からでも見えるように。彼が、迷わず戻って来られるように。

 あるいは、弔砲のように彼への気持ちを込めて。出来る限り大きな炎を起こして、少女は、自らも燃えて還ろうとした。


 還るならば、二人で。



 ★



「……莫迦な、莫迦な子達だ」


 鳥は、焼け焦げて穴だらけの帆を見上げた。これでは風を受けて進むことはできない。しかし、進む方角を選ぶことくらいは出来るだろう。舵も生きている。わずかな、安堵が込み上げてくるのが分かった。

 少女のそばを離れ、少しだけ羽ばたいて舳先へと降り立つ。

 鳥は空を見上げた。灰色の雲は分厚く、星も月もない。これでは向かうべき方角も判らない。


「舵を取れ」

「……え?」

「お前の兄の意志が、燃え尽きぬうちに。お前の起こした火が私を導いたのなら——私が北極星になろう」


 鳥は少女の背後へと移動し、松明へと近づいた。


「この身を焦がしてでも、君を岸まで送り届けよう」


 少女は泣き掠れた声で吐息にもならない叫びを上げて、鳥へと掴みかかろうとした。が、鳥は静かに松明を咥えて後ろへと飛び退き、指先は羽をも掴めなかった。転んで舟板へと伸びる少女を、鳥は羽ばたきながら見下ろす。

 鳥が蹴った舟は揺れ、立つ波紋にプランクトンが蒼く白く騒ぎ出した。


「お別れだ」


 大きく息を吸って、止める。翼を何度もはためかせ、空へと舞い上がった。姿勢を整え、松明を咥えたまま気流をつかまえるよう、鳥は必死に翼を広げた。

 流星のように、赤い炎が空を裂いて飛んでいく。少女は大きく息を吐いて、振り払うように首を降ってから水を掻いた。海水は重く、硬く、冷たい。舟は不規則に揺れるばかりで一向に進んでくれない。


 少女はひたすらに水を掻く。触れた指先から円環状に波が立ち、昼よりも深く蒼く光った。少し先で炎を携えて飛ぶ鳥に向かって、少女はひたすらに水を掻く。

 光る海面を目掛けて、水底から集まり始める小魚たち。少女は構うことなく舟を進め続けた。水面に跳ねる魚を喰らおうと魚たちは更に集まっていく。


 蒼い尾を引いて進む小舟とそれを取り囲む魚たち——巨大な一匹の生き物のようにも見える舟を、鳥は視界に入れながら羽ばたき続けた。

 嘴の先の炎はやがて羽毛へと燃え移り、風切羽もろとも鳥の身体を焼いた。もはや必要ない、と鳥は松明を捨てた。痛みとともに燃えながら落ちる羽と火の粉、真っ赤な尾を引いて飛ぶ鳥に蒼白い光に包まれた舟が続く。


 魚たちによって生み出された波は強く舟を推して、白波を立てて進み始めた。水を掻こうと手を入れた少女の手を跳ねのけるほどに、舟は進み続けた。髪は舞い上がり、頬を風が撫でる。その風は暖かく、潮よりも強く焦げた匂いがした。


 鳥は高く鳴く。激しい熱、狂いそうな痛み、朦朧とする意識にふらつく己の翼を怒鳴るように、鳥は高く鳴いた。炭へと近づいていく翼を動かし、ただ風の中を滑っていく。背後に続くものがいる限り、群れを率いる渡鳥は飛び続けなくてはならない。

 先頭を飛ぶ鳥の後ろに数羽の鳥が続いた。海面を跳ねる魚に誘われた鳥たちが上空の光を目指して群れへと加わる。鳥の数は一羽、また一羽と増えていった。


 夜空には暑い雲がかかり、月も星もない。しかし、ただ一つ、雲の下で燦然と輝く北極星だけが少女には見えている。その炎は後方へと広がり、曇天に乱反射して赤い大三角を浮かべた。

 燃える鳥たちは高く鳴き、羽虫は炎へと飛び入り、魚は跳ねる魚を喰らい、流れを生み出して舟を支えた。

 雨のような火の粉を散らし蒼い光の尾を引いて、翼を広げた巨大な群れは、空と海をどこまでも進んでいった。



 ○



 先頭の鳥は燃え尽き、少女が浜へと辿り着いて尚、その鳥たちは飛び続けたという。


 晴れた青い海の真ん中、浜から海へと還された小舟の中には、黒曜石の短剣と切られた少女の長い髪が残されていた。


 潮の薫りに満ちる朝凪の中、短い髪の少女は頬に残された傷に触れて、浜辺を一人歩いていた。遥か遠く、空と海の間で鯨が鳴いている。


 彼女は二度と——北極星を探すことも、見失うこともなかった。

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雲下星団 鯰屋 @zem

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