第32話

 河川敷にて。


 花火を観覧するために、場所取りに成功した人は座って、そうでない人は立って、夜空を見上げている。


 雲ひとつ立ち入る隙を与えなかった暗幕のカーテンは、開かれることなくそこにカラフルな花々を咲かせる。色鮮やかな線が描かれた後、遅れて心地よい爆発音が鳴り響く。


 九重と絹衣はふたり隣り合いながら、立って花火を見上げている。


 普段ラブコメを読んでばかりいるからか、ベタな展開が九重の頭をよぎってしまい、なるべく絹衣の横顔を見ないようにしていた。


 絹衣への好意を確立させてしまったら、童貞をやめられない九重にとっては面倒なことになってしまう。


 花火に照らされる横顔がきれいだとか、花火の音が聞こえないだとか、そんなのが間違っていることを、九重は悟った。


 花火はかなり鮮明に目に映るし、音も心臓を震わすほど聞こえる。


 なぜなら、自分の緊張を相手に悟られないよう、必死に花火にすがるからだ。


 心の中でひとり格闘していると、不意に絹衣が話を振ってきた。


「ねえ、九重はどうして童貞を目指そうと思ったの?」


「そんなことが気になんのか?」


「なるから聞いてるのよ。二度手間なのだけれど」


「へいへい。スイヤセンでした」


「つまんねえぞ」と前置きをしてから話し出す。


「親に言われたからだ。『お前には童貞の才能がある』って。才能があるからなるべきだって」


「なるべき?」


「あー、なるべきとは言明されてなかったかなぁ。いや、でも、だいぶ期待はされていたな。幼い頃から『将来、わが息子は立派な童貞になって、社会に貢献するんだ』とか数えきれないほど聞いた気がする。それで、『あぁ、俺は童貞になるべきなんだ』って。それからは至極単純だ。なるべきだから童貞になるための努力を怠らなかった。ただ義務を遂行するように敷かれたレールの上を着実に歩いて、気が付いたら童貞になってた。それだけなのさ、俺ぁ」


「へえ……あなた、努力家なのね。少し見直したわ」


「そりゃどうも」


「でも自分でそれを自慢げに語っちゃうのはちょっとダサいわね」


「……そりゃどうも」


 こめかみをピクつかせながら、九重は返事する。


「にしても幼い頃からあなたの才能を見抜いていたなんて、目利きがいいみたいね。一度お会いしてみたいわ」


「残念ながらもういねえよ」


「え?」


 九重はこれから口にする言葉が、どんな夜空よりも暗いことを知っているから、逡巡した。できるだけ短くわかりやすい言葉を丁寧に選んだ。


「ある事件のいざこざに巻き込まれて、親は両方とも死んじまったってこった」


 静寂が走った。不思議なことに今更、花火の音が聞こえなくなった。


 こんな楽しい日に、瞬間に、よりにもよってこんな話。


 絹衣は怒っただろうか、困惑しただろうか。


 いずれにせよいい思いはしないだろうなと思った九重は懺悔のつもりでこの場を立ち去ろうと決心するが、行動に移す前に、絹衣は持っていたヨーヨーを九重の胸にビヨヨンとぶつけてきた。


「あら、奇遇ね。わたしもよ」


 存外、軽い調子で、絹衣は返した。


「わたしの親もね、今は両方いないわ。不慮の事故で急にわたしの前から消えたの」


 彼女の切なげに語る瞳を花火の色彩が隠した。花火に見入っているようにしか見えない。


「わたしの家族はすごく弱かったから。だからわたしは強くなりたくて無童係を目指したの」


「事故なら弱いとか関係ないんじゃねえの?」


「確かに運のせいにもできるかもしれないわ。けれど強かったら助かってたかもしれない」


 九重はしばらく黙った。というより言葉を紡げなかったと言った方が正しいかもしれない。紡げるほど絹衣のことを理解できていない証明でもあった。それが悲しかった。




「ふーん。九重と共通点があったなんて、意外だわ」




 不意に絹衣はそう呟き、またにへら、と笑った。


 彼女の感情がわからなかった。わかりたいと思ってしまった。


 とりあえずこの心の混乱を花火のせいにしてから、あっけらかんとした語調で言う。


「マジそれな。それそれ。ホント最悪だなぁ」


「それはこっちのセリフよ。あなた、早く両親生き返らせなさいよ」


「早く生き返らせろ、ってドラ○ンボールでしか聞いたことねぇ」


「ふーん」


「スルーすな」


 軽口をたたき合いながら、また花火に視線を戻す。


 それなりの時間を他愛もない会話でつなぎ、ひとしきりしゃべり終えたところで、九重が唐突に、


「そういや、二島。その浴衣、似合ってるな」


「なんで今?」


「いや、まあ最初から思ってたから言っとこうかと」


「そ。ま、悪い気はしないわね」


 ドライだな、と感想を抱いた束の間、絹衣は持っているヨーヨーをビヨンビヨンビヨンビヨンとかなり激しく突いていた。早鐘を打つ九重の心臓とシンクロしていた。


 その行動があまりに可愛くて、これ以上絹衣と一緒にいると、手に負えないほど好きになってしまいそうだったので、九重は早くこの場を離れたくて帰宅を提案した。


「二島。そろそろ帰らないか? 花火が終わってからだとたぶん、人込みで大変だぞ」


 我ながら上手い言い訳を思いついたと、頭の中でほくそ笑んでいると、絹衣は花火を見上げたまま言葉を絞り出した。


「……じゃあ次に緑色のシュワシュワした花火が打ち上がったら帰るわ」


 シュワシュワって主観すぎないか、と疑問符を浮かべるが、それを口に出すのは野暮だと思い、代わりに違う疑問を投げかける。


「もし緑色のシュワシュワした花火が終わりまで打ち上がらなかったらどうすんだよ」


 赤色の花火が打ち上がり、花開き、散って、消えるまで絹衣は考えた。そして――




「その時は、……ずっとここにいたいわ」




 転瞬、緑色のシュワシュワした花火が夜空に咲いた。


「あら、案外早かったわね。なら九重のお望み通り、帰ってあげるわ」


 そそくさと絹衣は九重に背を向けて、帰路に就こうとする。彼女の顔をまともに正面から見ることは叶わなかった。


「物わかりが早くて助かる」という自分でもわけのわからないことを吐いて、九重も踵を返す。


 それから花火会場である河川敷を離れる際、何を考えていて何を話したのかあまり覚えていない。


 わかったのは、絹衣が嬉しいと自分も同じくらい嬉しく思えそうということだけだった。

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