第30話
夏祭り当日。十八時半。
駅前。
雲ひとつない茜色の屋根の下。隣町の河川敷で大きな花火大会があるためか、ちらほら浴衣姿の女性の集団やカップルが散見される。
からんからん、という下駄の音によりいつもは気付かない景色に目がいく。
足元にひっそり構えているスナックの看板や黄色いビールケースが夏祭りのムードの邪魔をしないため、しゃがんでいるように見えた。
手入れのされていない、腰ほどの高さがある花壇のそばで、九重は絹衣を待つ。
待ち合わせ時間の一分前。今までは毎回十分前には来ていたので、何かあったのかと心配になる。
もう十数回目のスマホチェック。連絡はなし。画面から顔を上げ、駅前を通る人たちの顔ぶれを執拗に確認する。髪を結っている女性が多く、おそらく絹衣も例外ではないだろうが、黒髪の女性が全員絹衣に見えてしまい、内心が困惑と羞恥に分割される。
何度も書いては消してを繰り返した『今どこにいる?』というメッセージを送ろうと決意した時、「ごめんっ」と、甘酸っぱくて美しい声が九重の耳朶に響いた。
「いや、そんな待ってねえから気にすんな」
そんなラブコメではありふれたセリフが、自分の口をついて出たことに素直におどろく。
急いで来たからか、中腰で、息切れにより背中が上下している。
絹衣を見下げる形になり、九重はまた視線が下に行く。下駄からむき出しになっている、普段は見ない絹衣の裸足が、彼女も普通の女の子であることを意識させた。
徐々に呼吸が整い、彼女が顔を上げることで、九重の視界に彼女の全身が映った。
絹衣の浴衣は
「…………っ」
「……な、何よ」
「いや……あの、あれだな。二島って家から来るならそっちの入り口から来ると思ったんだけどな」
九重は頬を掻いてごまかした。浴衣姿を褒めたいが、下手打って嫌悪されることを避けたい気持ちが勝ってしまったのだ。
浴衣に言及してくれなかったからか、絹衣はむっ、と頬を少しだけ膨らました。
「……ええ、今日は盾鷲さんに着付けてもらってから来たのよ。ゆ・か・た、だから!」
これ見よがしにフリフリと浴衣を振ってアピールする。もちろん九重はその真意に気が付くが、自分でも制御できなくなるくらい照れてしまい、口ごもる。
「それにしてもなぜわたしの家の方向がわかるのよ」
何を言っているか聞き取れなかった絹衣は、小さな口を尖らせて問いを投げかける。
「あーまあ、何度か『調査』の時、駅前でこうやって待ち合わせしてたら大体、二島はそっちの入り口から来てたってのもあるけど、決定打は結愛から聞いたからだな」
「え? 結愛……っ?」
「おう。最近連絡とってたりするな、まあほぼ雑談みたいなものだけど」
「連絡……雑談……」
絹衣は何やらぼそぼそと呟き始める。そのまま券売機の方へ足を運び、今どきの若者らしからず自分の分の切符を買ってきた。
「九重は切符いらないのよね?」
「ああ、俺はいらな……え、九重?」
「さあ、早く行きましょう」
「ちょ、ちょっと待てって、今……名前――」
「も、もうっ。名前呼んだくらいでいちいちつっかからないでよ、アホ」
若干震えた声で静かに言い返す絹衣。動揺しながらも、九重は食い下がった。
「名前、え……なんで急に?」
「べ、別にいいでしょ!? あなた、結愛と名前で呼び合ってるんだから」
「いや、それは向こうがそう言えって……」
「じゃあ言いなさい、わたしのことも……その、下の名前で……」
無言。森閑。
結愛に対してはさほど苦もなく言えた。大学内のサークルとかでは普通に下の名前で呼び合うなんてことも聞いたことはある。
それでも、絹衣を名前で呼ぶのに謎の抵抗感があるのだ。
名前を読んだ瞬間、相手の深い所まで手を伸ばしたみたいな感覚を予想し、ためらう。
だが、それよりも無言の気まずさに耐えかねて、九重は沈黙を破る。
「え、えと……ぬ、……二島」
「わたしのフルネーム、二島二島じゃないんだけど」
さっきまで俯いて縮こまっていた絹衣は、呆れた視線を九重に刺す。
「いいだろ、もう。どっちで呼んでもわかるんだから」
「はあ……もういいわ」
そう言って絹衣はササっと改札口を抜けてしまった。急いで九重も彼女を追う。
なぜ急に名前呼びを要求してきたのか、そのことばかりを九重は考えた。
まさか結愛と下の名前で呼び合っていることに嫉妬した、なんてできすぎた話はありえないだろう。それこそ九重たちは成人済みだ。大人の男女だ。童貞を極めすぎている九重ならともかく、絹衣なら名前ひとつで取り乱すはずがない。
アホな妄想だ、と九重は頭を振って、現実を直視しようとした。しかし、どこを見渡しても、九重には非日常で、特別な景色にしか見えなかった。
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